(恩田陸 「蜜蜂と遠雷」 を読んで) | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

今日は、コンサートの鑑賞記でなく、本の感想を。

過去の記事(こちらこちら)のコメント欄でご紹介いただいた、直木賞受賞作の恩田陸「蜜蜂と遠雷」を読んだ。

とても面白く、読み始めたら止まらずに最後まで読んでしまった。

以下、その感想を書くが、ネタバレを含むため、未読の方はご注意いただきたい。

 

まず、題材が素晴らしい。

この小説には、「芳ヶ江国際ピアノコンクール」というコンクールが出てくるが、これは実際に存在するコンクール「浜松国際ピアノコンクール」(通称「浜コン」)がモデルになっている。

浜コンのファンとしては、嬉しい限りである。

クラシック音楽を題材にした物語は、「のだめカンタービレ」のように、主人公を時系列で追ってその成長を描くものが多いと思われるが、「蜜蜂と遠雷」のように、一つのコンクールに焦点を当て、それにまつわる多くの人間模様を描くというのは、新しい視点だと思う。

しかも、コンクールの出場者は、10代や20代の若者たちであり、青春ドラマ風の要素を盛り込むことも可能である。

実際、著者の恩田陸はそのような要素を効果的に用いており、若い読者も興味を持ちやすいさわやかなタッチの話に仕上がっている。

漫画化やドラマ化、映画化なども、そのうちに検討されるのではないだろうか。

ただ、そういった要素のみを前面に押し出すのではなく、コンクールの緊張感や、下される結果判定の残酷さ、それでも挑戦せずにはいられない舞台、そしてどこまでも果てしなく続く音楽の追求、こういったことがリアルな描写のもと描かれているのが、この作品の持ち味だと思う。

演奏される音楽の表現も、演奏のイメージを喚起するような「空気がぴんと張り詰めた朝のようなバルトーク」といった文学的・詩的な表現と、「ストイックで硬質な響き」「どの音も均等な和音」「正確なアルペジオ」といった具体的な音の描写とを、うまく使い分けている(やや前者のウェイトが大きすぎる印象は受けたが、文学作品である以上仕方ないかもしれない)。

また、蜜蜂の羽音や雨の音など、自然のさまざまな響きに耳を傾ける美しい描写。

そして、若いコンテスタントたちがそれぞれに抱く大きな夢と、彼ら同士のふれあいによる相乗効果でその夢が実現へと確かに向かっていくさま。

こういったものが、この作品を魅力的にしているのだと思う。

 

細かいところで、気になる箇所はいくつかある。

例えば、モーツァルトのピアノ・ソナタ第12番K.332は「有名曲」であるため、コンクールでこれを選ぶのは「とんでもない天才かとんでもない阿呆かのどちらか」と書かれているが、そうとは私にはとても思えない(それほど有名でもないし、普通に選ばれる曲だと思う)。

また、「二次予選も、拍手は禁じられている」と書かれたのちに、「二次予選からは曲ごとに演奏者が挨拶し、拍手をしてもよいことになっている」と矛盾したことが書かれている場合もある。

しかし、このような枝葉末節がどうでもいいと思えるような、読者を惹きつける魅力がこの作品にはある。

 

この作品を読みながら、私も個人的に色々なイメージを膨らませた。

16歳の天才少年で、飄々としたところのある風間塵は、もしかしたら、チョ・ソンジンのような演奏をするのかもしれない(チョ・ソンジンは、弱冠15歳で浜コンに出場し、余裕のあるみずみずしい名演を次々と繰り広げ、見事優勝している)。

風間塵の演奏した上述のモーツァルトのピアノ・ソナタ第12番K.332は、チョ・ソンジンも浜コンで弾いている。

しかし、チョ・ソンジンが正統的な演奏をするのに対し、風間塵は審査員が当初は拒否感を覚えて思わず×をつけるような、トリッキーなところのある演奏をするようなので、もしかしたらイーヴォ・ポゴレリチのような要素もあるのかもしれない。

また、風間塵の4歳年上である栄伝亜夜は、即興的な味わいのある演奏をするとのことであり(特に「春と修羅」のカデンツァ)、もしかするとクレア・フアンチのような演奏なのかもしれない(フアンチは、チョ・ソンジンの4歳年上だし、亜夜と同じくリストの「鬼火」を浜コンで弾いている)。

フアンチが栄伝亜夜のように子供の頃にカーネギーホールでコンチェルトを弾いたかどうかは分からないが、少なくとも10歳でビル・クリントン大統領のために演奏を披露した「神童」だったらしいことは確かである(フアンチには、亜夜のようなキャリアのブランクはないけれども)。

実際には、フアンチとチョ・ソンジンは別の回のコンクールに出場しているため、同時には弾いていない。

しかし、恩田陸は第6~9回の浜コンを聴いたとのことであり、第6回のフアンチと第7回のチョ・ソンジンをともに聴いているはずである。

そして、Sコンクールにも優勝したという前回の優勝者は、第5回浜コン最高位・第15回ショパンコンクール優勝のラファウ・ブレハッチのような人なのかもしれない。

マサルや高島明石は、いったい誰に似た演奏をするのだろうか。

そういったようなことを考えながら、チョ・ソンジンやフアンチの演奏を思い浮かべつつ、読んでいた。

第7回の浜コンに出場していた、キム・ヒョンジョンやアン・スジョンによく似た名前のコンテスタントも出てきて、何となく懐かしかった。

 

そんな素晴らしい作品だが、私としてはさらに強調してほしかった要素もいくつかある。

これは、文学的な観点からの意見ではなく、音楽コンクールの一ファンとしての意見である。

 

一つ目は、「コンクールは決してスターのためだけにあるのではない」ということである。

もちろん、スター発掘はコンクールの最も重要な意義ではある。

しかし、音楽には様々な要素がある。

一口に「才能」といっても、指回りの良さなど狭義の「テクニック」のみならず、音色の使い分け(深々とした音や軽やかな音、硬質な音や柔らかな音など)、音楽的センス(メロディの歌わせ方、間の取り方、テンポの揺らし方など)等々、身体能力だけではない種々の能力が求められる。

また、「解釈」も音楽の重要な側面である(その時代の様式、声部の弾き分けや強調、アーティキュレーション、テンポ、情感の込め方、クライマックスへの持っていき方、など)。

こういった要素を全てハイレベルでこなすことのできるチョ・ソンジンのようなスターはもちろんすごいのだが、それほど名の知れていない一音大生だって、これらの要素のうちいくつかに長けていることは、実はよくある。

課題曲にじっくりと真剣に向き合い勉強し、自分の持ち味を存分に発揮することで、その曲において超一流のスターピアニストにだって負けない名演を繰り広げることは、決して不可能ではないのである。

過去の記事(こちら)のコメント欄で挙げた、リード希亜奈のベートーヴェンや天川真奈のラヴェルはその良い例だが、その他にも同様の例はいくつも挙げることができる。

たとえ予選で落ちたとしても、こういった「曲に向き合う」経験は、コンテスタントにとって非常に良い経験になるだろうし、魅力的な演奏をすればファンを獲得する機会にもなりうる。

自身の努力の結晶を多数の人の前で披露する機会は、ほとんどのコンテスタントにとってはそれほど多くないだろう。

結果云々だけではない、いやもしかしたらそれ以上に大事かもしれない、コンクールの意義がここにあるのである。

この作品では、高島明石という「社会人ピアニスト」を通して似たようなことが描かれるが、これはやや特殊な設定である。

もっと一般的な音大生や音大卒業生において、このようなコンクールの意義をぜひ強調してほしかった。

 

二つ目は、「コンクールには、不本意な結果がつきものだ」ということである。

緊張のあまり、思ったような演奏ができないということは、コンクールにおいては日常茶飯事である。

また、思った通りの演奏ができたのに、予選で落とされてしまうこともよくある。

それも、絶対通ると思われるような見事な演奏をしたコンテスタントが落ちて、そうでもなかったコンテスタントが通過するという、いわゆる「理不尽な結果」が、必ずと言っていいほど頻繁に生じる。

この作品では、審査に関しては肯定的に描かれており、「観客が聴き流しているだけでは気付かぬ…(中略)…「個性」を確かにすくいあげている」と書かれている。

もちろん、これは正しいことであり、審査員の慧眼(慧耳?)に感心することはままある。

ただ、審査というものはいつも完全とは限らず、偏りは存在するし(ショパンコンクールでフィリップ・アントルモンがチョ・ソンジンに最低点を付けたのは有名である)、政治的な裏事情が働くことだってある(ポゴレリチに関する衝撃的な事実が焦元溥のインタビュー本「ピアニストが語る! 現代の世界的ピアニストたちとの対話」にて本人の口から語られている)。

ここまでいかなくとも、審査員だって好みを持つ一人の人間だから、審査員によって全く違った評価を下すことも多く、コンテスタントと審査員との「相性」というものは確かに存在する。

そのため、不本意な結果に終わることはよくある。

しかし、それ自体が究極の目標であるオリンピックとは違い、音楽コンクールは単なるきっかけであり、長い音楽人生におけるスタート地点に過ぎない。

不本意な結果に終わっても、また受けるべきコンクールはいくらでも存在するし、数年待てば(浜コンの場合は3年)同じコンクールも再度受けることができる。

そうやって何度か受けているうちに、自分の持ち味を分かってくれる審査員が多い回に巡りあえば、良い結果を得ることができるのだ。

むしろ、コンクールとは不本意な結果の連続だ、といっても過言ではないかもしれない。

一つの結果に拘泥しすぎる必要はないと思う。

この作品においても、アレクセイ・ザカーエフ、ジェニファ・チャンといった人物において、不本意な結果に終わる描写がなされているが、彼らは脇役であり、そのことについてはあまり深く言及されない。

ザカーエフは他のコンクールでは緊張しすぎず、高い順位を獲得するかもしれないし、「女ランラン」の異名を持つジェニファ・チャンの演奏は、確かに深みには欠けるのかもしれないが、それも一つのスタイルではあり、その方向性で完成されているならば、高く評価される機会だってあるはずなのである。

逆に、風間塵や栄伝亜夜らが低く評価されることだってありうる。

コンクールのこう言った不完全な点については、ぜひ強調してほしかった。

この作品では、一つのコンクールがあまりにも大きな、絶対的な存在として描かれすぎているような印象を覚えた。

とはいっても、実際に読んでいる最中は、曲を勝手にリピートした風間塵が失格にならずに済んだり、予選落ちした高島明石が奨励賞・作曲家賞を受賞したりしたシーンでは、心の底から嬉しい気持ちになったのも、また事実なのではあった。

 

あとは、ちょっとさすがに無理があるのでは、と思うシーンも、ないではなかった。

栄伝亜夜が、たった数日のコンクール期間で、ひどく深遠な境地にまで達したり。

風間塵など、あれほど素晴らしい演奏を披露するのに、家にピアノすらないのである。

ただ、よく考えてみると、かのスヴャトスラフ・リヒテルのように、ユウジ・フォン=ホフマンのような指導者もいずに独学でピアノを練習し、名教師ネイガウスをして「教えることは何もない」と言わしめるまでの域に達したという、奇跡のような信じられないケースもあるのだった。

「のだめカンタービレ」のことも思い出す。

あれを観たときは、千秋真一があまりに楽々と才能を発揮して、コンクールで賞を取ったり、オーケストラの音楽監督に就任したりするストーリーに、「現実はこんなものではないのでは」と感じたものだった。

しかし、こちらもよく考えてみると、小澤征爾というさらに劇的なシンデレラボーイの実例があるのだった(「ボクの音楽武者修行」を初めて読んだときの驚きといったらなかった)。

事実は小説より奇なり、とはよく言ったものである!

 

とにかく、面白い小説だった。

これを機に、浜コンやその他のコンクールが、オリンピックやワールドカップの何十分の一でも注目を集めるならば、これほど嬉しいことはない。

 

 


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