「ピアノ三重奏」
― シューマン&ブラームス ―
【日時】
2017年2月20日(月) 20:00開演
【会場】
カフェ・モンタージュ (京都)
【演奏】
ヴァイオリン:上里はな子
チェロ:向井航
ピアノ:松本和将
【プログラム】
シューマン:ピアノ三重奏曲第3番 ト短調 作品110 (1851)
ブラームス:ピアノ三重奏曲第1番 ロ長調 作品8 (1854/1891)
今日は、ピアノ三重奏の夕べだった。
シューマンの第3番と、ブラームスの第1番。
こうして並べてみると、書かれた時期はたった3年しか離れていないことに気づく。
ブラームスのほうは、晩年になって大幅に改訂されてはいるけれども。
作曲時期のほぼ同じこの2曲、しかし、似ているようで、やっぱり違う。
シューマンのほうは、晩年の彼ならではの晦渋さはあるけれども、やっぱり彼特有のロマンとファンタジーが感じられる。
短調の曲ではあるが、終楽章が長調になっているのも、彼らしい。
古典的な形式を用いてはいるけれども、がっちりと緊密に書かれた曲というよりは、「歌」がメインになっているような気がする。
かつて若い頃、ロマン派の仲間たちの間でも最先鋭の作曲家として、半ば意識的に「形式」から遠ざかり、心ゆくまで自分の中のファンタジーを音楽に飛翔させたシューマンだったが、壮年期になった彼には、別の問題が迫ってきた。
ベートーヴェンがとことんまで展開したソナタ形式、そしてそれを用いた交響曲、弦楽四重奏曲、ピアノ三重奏曲、こういったかっちりとした形式の大曲は、ベートーヴェンの死後数十年の間、色々な作曲家たちによって書かれたけれども、真の意味でベートーヴェンの仕事を引き継ぐような曲は、長いこと出現していなかった。
当時、押しも押されもせぬ著名な作曲家となっていたシューマンにその期待が集まったのは、当然といえよう。
それに応えるかのように、初期の頃には専ら幻想的なピアノ小曲集を書いていた彼は、シューベルトなどを参考に、交響曲や室内楽を書くようになった。
しかし、彼がこういった、大曲にふさわしい堅固な形式を、完全に自家薬籠中に収めたかどうかについては、今でも議論の分かれるところではないだろうか。
彼の手になると、ソナタ形式の展開部において、いきなり盛り上がって急に頂点を迎えたと思ったら、すぐにまた一から再スタート、というような独特な流れになることがある(例えば、交響曲第1番の第1楽章や、ピアノ・ソナタ第1番の第1楽章など)。
また、シューベルトの影響によるものと思われるが、ソナタ形式の展開部において、かなり長い一部分を、移調したうえでまったく同様に繰り返すという、これまた独特な流れになることもある(例えば、ピアノ五重奏曲の第1楽章など)。
彼は、本質としてはやはり「主題の展開」「動機労作」の人というよりは、ファンタジーの人なのだろう。
それに対し、ブラームスは、ごく若い頃に書かれたこのピアノ三重奏曲第1番でさえ、緊密な動機労作、重厚な曲調、そして大きなスパンでの起承転結(ドラマといっても良いかもしれない)があり、まさにこうした形式を使いこなしている感がある。
やっと20歳を過ぎたくらいの青年がこのような作品を書くのを見て、シューマンはいったいどう感じただろうか。
讃嘆するとともに、もしかしたら羨望の気持ちもあったかもしれない。
このロマン派の時代で、ベートーヴェンを真の意味で引き継ぐことになるのは、私でなくこの青年かもしれない、といったような…。
もちろん、シューマンにはシューマンの持ち味があり、彼の交響曲や室内楽にはブラームスとはまた別の魅力がある。
しかし、当時としては、ロマン派の時代にいかにベートーヴェンを引き継ぐかというのは、ドイツの作曲家にとってはきっと大きな命題だっただろう。
一方では、「交響曲はベートーヴェンで終わりを迎えた」とソナタ形式を捨て去り、ドラマ・悲劇へと完全にシフトしたヴァーグナーらの一派が、勢いをつけてきた時代でもあったのだ。
前置きが長くなったが、こんなことをつい妄想してしまうような、この2曲。
そんな2曲を今回演奏したのは、上里はな子、向井航、そして松本和将である。
上里はな子というヴァイオリニストは、大変失礼ながら私は今まで知らなかったのだが、今回聴いてみて驚いた。
音程がとても安定しており、うまいのである。
私の好きな細身の音ではなく、しっかりとヴィブラートのかかった分厚めの音だが、音程をごまかすことなく、安定感がある。
情熱的な演奏だが、音は決して粗くならない。
その音色は、きらびやかというよりは、ずっしりとした重心の低い重厚なもので、「ドイツ」を思わせる。
そして、しっかりとした音量があり、音に華がある。
これまでにカフェ・モンタージュで聴いた(モダン・)ヴァイオリニストの中では、一番うまいと思う。
シューマンの第3番は、私の中では上述のように、シューマンには自由なファンタジーが重要な要素であり、そういった味わいを感じさせてくれる演奏が、本来好きである(例えば、テツラフ兄妹&アンスネス盤など)。
今回の演奏では、3人のうち上里はな子が特に、情熱あるファンタジーを感じさせてくれた。
しかし、演奏の全体的な印象としては、重厚で堅固なものであった。
もともとの私のイメージとは少し異なるものの、上述のような、ドイツ・ロマン派を背負って立ったシューマンの苦悩に思いを馳せると、感慨深いものがあった。
今回の演奏をシューマンが聴いたら、「なかなかどうして、私だってベートーヴェンを受け継いで、いいところまでいっているではないか」と溜飲を下げるかもしれない、いやきっとそうに違いない、そんなことを考えた。
そして、後半のブラームスの第1番。
こちらは彼女の演奏の重厚さが、さらに曲によく合っていた。
チェロの向井航も、同様に重厚なスタイルだった。
ピアノの松本和将も、昨年ベートーヴェンのピアノ・ソナタの演奏会を聴いたときに感じたことだが(「月光」「悲愴」「熱情」の演奏会や、「ハンマークラヴィーア」の演奏会)、重厚なパワーが持ち味となっている。
ブラームスもきっとよく合うだろうと思っていたが、実際聴いてみるとその通りだった。
シューマンではあまり目立たなかった彼だが、ブラームスになると途端に存在感が増して、第1楽章の冒頭から朴訥ながら絶妙な歌い口が聴かれたし、第2、4楽章など分厚い和音を圧倒的な迫力で奏していた。
特に、第4楽章の第2主題。
これは、もともとは抒情的なメロディだったにもかかわらず、ブラームス晩年の改訂時に、ゴツゴツした旋律に差し替えられてしまった部分である。
もったいない、とこれまで思っていたのだが、このゴツゴツした第2主題、松本和将の演奏で聴くと、スケールの大きい実に広々とした感動的な主題となっており、大いに驚かされた。
チェロによる重音のオブリガートが、感動にさらに輪をかける。
この、改訂後の第2主題の真価を、今回の演奏会で初めて知ることができた、といっても過言ではない。
そして、この第4楽章の、3人で一気に緊張を高めていく終結部も、実に感動的だった。
この3人、音楽の方向性が非常に似通っている。
室内楽において、これほど統一感のある演奏を聴くことができたのは、私にはほとんど経験がなく、その統一感がシューマンにおいては上述のような感慨を引き起こしたし、ブラームスにおいては理想的と言っていい演奏を実現していた。
私はこれまでこのカフェ・モンタージュでの演奏会に何度か通ったが、今回はその中でも最も素晴らしいものだったと思う。
特にブラームスのほうは類まれな完成度で、私の好きなカーリヒシュタイン=ラレード=ロビンソン・トリオの録音に劣らないし(これもまた重厚な名演)、有名な百万ドル・トリオの録音よりも素晴らしかったと思う。
彼らはこのカフェ・モンタージュで、シューマンとブラームスのピアノ三重奏曲を今後シリーズとして全曲演奏する予定らしい。
非常に楽しみである。
そして、このまま定期的にこのトリオを継続してくれるならば、大変ありがたい。
私の個人的な三大ピアノ三重奏曲である、ベートーヴェンの第7番「大公」、メンデルスゾーンの第1番、ショスタコーヴィチの第2番を、いつか取り上げてほしいものである。
なお、終演後には短いトークがあったが、向井航はノリのいい軽妙なトーク、松本和将は落ち着いた喋り、そして上里はな子は一言も発さず恥ずかしそうにヴァイオリンで顔を隠してしまう、といった三者三様の対応で、面白かった。
―追記(2017/02/23)―
彼らによるブラームスのピアノ三重奏曲第1番の動画がアップされているのに気が付いた(松本和将自身がアップしているようである)。
2013年5月12日 児島市民交流センター(倉敷)でのライブ録音、との記載がある。
ここに引用させていただく。
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