谷村由美子 塩見亮 京都公演 ドビュッシー 「忘れられたアリエッタ」 「抒情的散文」 ほか | 音と言葉と音楽家  ~クラシック音楽コンサート鑑賞記 in 関西~

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クラシック音楽の鑑賞日記や雑記です。
“たまにしか書かないけど日記”というタイトルでしたが、最近毎日のように書いているので変更しました。
敬愛する音楽評論家ロベルト・シューマン、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、吉田秀和の著作や翻訳に因んで名付けています。

「C.ドビュッシー」

 

【日時】

2017年2月25日(土) 20:00 開演

 

【会場】

カフェ・モンタージュ (京都)

 

【演奏】

ソプラノ:谷村由美子 (*)
ピアノ:塩見亮

 

【プログラム】

ドビュッシー:歌曲集「忘れられたアリエッタ」 (1887) (*)

 (1. やるせなく夢見る思い 2. わたしの心に涙が降る 3. 露つつむ河面の木々の影 4. 木馬 5. グリーン 6. 憂鬱)

リスト:夜想曲 S.207 (1885)
リスト:忘れられたワルツ 第4番 S.215/4 (1884)

ドビュッシー:歌曲集「抒情的散文」 (1893) (*)

 (1. 夢の 2. 砂浜の 3. 花の 4. 夕暮れの)

 

 

 

 

 

今回は、ドビュッシーの歌曲のリサイタルに行った。

ドビュッシーの初期の傑作「忘れられたアリエッタ」、これとほぼ同時期に書かれたリストのピアノ小品2曲、そしてこれらより少し後に書かれたドビュッシーの歌曲集「抒情的散文」というプログラムである。

19世紀も終わり頃のヨーロッパの風景を、音で追うことのできるプログラミングである。

 

ドビュッシーの歌曲が、同時期のピアノ曲に比べ格段に進んだ書法で書かれているというのは、よく言われることである。

「忘れられたアリエッタ」は、「2つのアラベスク」よりも前に書かれているし、「抒情的散文」は、「ベルガマスク組曲」と「ピアノのために」の間に書かれている。

「忘れられたアリエッタ」は、アラベスクはおろか、約10年後に書かれた「ピアノのために」にも匹敵する書法で書かれているといっていいのではないか。

そして「抒情的散文」に至っては、その少し前に書かれた「艶なる宴」第1集とともに、これらの約10年後に完成された彼の畢生の大作「ペレアスとメリザンド」の世界を完全に先取りしている。

しかし、ピアノ曲においては、やっとドビュッシーらしさが確立したとされる「版画」ですら、「ペレアス」よりも後に書かれているのである!

ドビュッシーにおいては、少なくとも彼の40歳頃までの間は、ピアノ曲は完全に歌曲に後れを取っていると言わざるを得ない。

歌曲を書くときは、ヴァーグナーを脱却すべく新しい書法を模索して霊感を集中させ、来るべき「ペレアス」へと備えていった一方、ピアノ曲を書くときには、気負いのない、よりくつろいだ状態で書いていた…そういうことだろうか。

今回取り上げられた曲のほかにも、「ビリティスの3つの歌」や「艶なる宴」第2集など、傑作が目白押しであり、ドビュッシーを考える際には、歌曲は避けては通れぬ分野であろう。

 

そして、今回のように「忘れられたアリエッタ」と「抒情的散文」を並べると、このたった数年間でドビュッシーがいかに大きな飛躍を遂げたかがよく分かる。

まだロマン派の影響の強い「忘れられたアリエッタ」に比べ、「抒情的散文」ではもう完全にドビュッシーにして初めてなしえた世界に到達している。

ヴァーグナーのように叫ぶことのない、茫々たる静寂の世界は、この後「牧神の午後への前奏曲」や「夜想曲」、いくつかの歌曲を経て、「ペレアス」でその頂点を迎えたのち、その後の「海」からは少し方向転換を図っていくことになるのだが、それは後年の話である。

 

今回の演奏では、「忘れられたアリエッタ」もさることながら、「抒情的散文」の素晴らしさを再確認させられた。

作曲時期の近い「艶なる宴」第1集に比し、「抒情的散文」は取り上げられる機会が少ないといえるだろうし、私もあまり頻繁には聴いてこなかった。

しかし、今回改めて聴いてみると、なんと美しい曲だろう!

全音音階が巧みに織り交ぜられ、何とも不思議な色合いを醸し出している。

「ペレアス」の世界に通じる幻想が、ここにはある。

ソプラノの谷村由美子は、オペラのように声を張り上げたりヴィブラートをとことんかけたりすることなく、すっきりした歌唱で、かつ広がりも感じさせる歌声で、とても良かった。

クリスティーネ・シェーファーやヴェロニク・ディエッチの録音に聴かれるような、極めつけの声とまでは、言えないかもしれない。

しかし、生演奏ならではの感興もあり、私たち聴き手を感動させるには十分な歌唱であった。

ピアノの塩見亮も素晴らしかった。

前述のシェーファーの盤など、ドイツ・グラモフォンらしい残響の多い録音で、美しくはあるがピアノの響きなどやや過剰な印象があるのに対し、やはり生演奏は過不足ない響きで、自然に聴くことができる。

そして、塩見亮は音の響きへの感性が鋭敏のようで、絶妙なペダルさばきでいくつかの和声を濁りすぎない程度にブレンドさせ、ドビュッシー特有の響きを生み出していた。

また、カフェ・モンタージュの、まるで古いアンティークのような鄙びた音色がするスタインウェイのピアノが、これらの曲によく合っていた。

まるで、ドビュッシーの時代のピアノを聴いているような錯覚さえ覚えた。

 

ドビュッシーの2つの曲集に挟まれる形で演奏された、リストの2つのピアノ小品では、ドビュッシーとはまた違った、独特の響きが聴かれた。

2曲目の「忘れられたワルツ」第4番の最後の音など、トニカ(主和音)とドミナント(属和音)とが同時に鳴らされるような不思議な響きで、晩年のリストが追求していた独自の和声への拘りを垣間見たような気がした。

こういった曲が、ドビュッシーやラヴェルに影響を与えなかったとは、言い切れない。

 

それにしても、やはり歌は生演奏が断然素晴らしい(もちろん、器楽もそうなのだが)。

ドビュッシーの醍醐味を十分に堪能することができた。

いつか、大好きな「ペレアス」の実演に接する機会が持てないものだろうか。

 

 


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