詳細が長くなりそうなので続編に移しました。
共同石炭鉱業(株)の歴史、
明治32年10月、
入交、安井、岡崎、の三人は、宇島の船問屋の
「将来は、若松りも宇島が発展する」
との意見を用いた桜屋の使用人の勧めで共同買い付けの機関としての共同石炭商会を宇島に設立した。
明治38年11月28日、
商会に新たに鉱業部を設置する事になった
この時、
炭鉱名に小字名をとって、島廻と初めて命名し鉱業権者 原六郎の斥先掘として無煙炭の採掘を始めたのである
大正7、8年、
未曾有の第一次大戦の景気により、石炭業界も潤い、需要の激増にともなう炭価は、高騰し、好況の絶頂であった。
共同石炭商会は この機会に組織を変更し、
大正7、8年、
未曾有の第一次大戦の景気により、石炭業界も潤い、需要の激増にともなう炭価は、高騰し、好況の絶頂であった。
共同石炭商会は この機会に組織を変更し、
大正8年3月31日、
共同 石炭株式会社の設立総会を宇島
で開催した。
大正10年4月、
大任根床の島廻1坑の採掘を終了して休止。
藤岡 熊弥の請負掘の第2坑を第1坑と改称。
同年4月、
川崎町川崎に田川三尺層及び四尺層の坑道の開削をはじめ、
10月、
共同 石炭株式会社の設立総会を宇島
で開催した。
大正10年4月、
大任根床の島廻1坑の採掘を終了して休止。
藤岡 熊弥の請負掘の第2坑を第1坑と改称。
同年4月、
川崎町川崎に田川三尺層及び四尺層の坑道の開削をはじめ、
10月、
途中で掘進を中止(第3坑)
昭和4年11月、
再び掘進をはじめ無煙炭及び煽石、六五八七トンを出炭したが、昭和6年10月、再びこれを中止する。
一方、
昭和4年11月、
再び掘進をはじめ無煙炭及び煽石、六五八七トンを出炭したが、昭和6年10月、再びこれを中止する。
一方、
同年同月島廻第1坑の五尺層の埋蔵炭が終了したので同所より切り下がり坑道を開削し、下層の尺無層の採掘をはじめた。
この、
この、
第1坑よりの尺無採炭採掘により、
昭和6年12月、
鹿毛谷坑尺無層の採掘中止する事になった。
昭和7年10月、
奥谷に第2坑を開坑した。
昭和8年、
大任村福田に椎ノ木坑を開坑。
昭和18年6月30日、
臨時株主総会を開き社名を共同 石炭鉱業株式会社とした、
昭和42年2月17日、
昭和7年10月、
奥谷に第2坑を開坑した。
昭和8年、
大任村福田に椎ノ木坑を開坑。
昭和18年6月30日、
臨時株主総会を開き社名を共同 石炭鉱業株式会社とした、
昭和42年2月17日、
廃坑。
(川崎町史から)
途中 省略部分があります申し訳ありません。
追記、
昔、島廻 炭鉱は 「オコリの島廻」
「家庭的な炭鉱」と言われていたとの事です。
オコリとは、
上等な無煙炭の事で筑豊のオコリは 全国でも珍しかったと記載があります。