SS『幻想縛鎖-ego-』(マリア様がみてる)
※この話の着想は、2005年4月頃でした。原作で言う『薔薇のミルフィーユ』以前であるため、以降のストーリーとの若干の矛盾が生じています。ご承知の上お楽しみください。
「幸せにできないんだったら、婚約解消して自由にしてやれよ。かわいそうだろう」
「ふーん。そんなことを言っちゃうわけ。
だったら、その言葉の責任を取って、お前が幸せにしてやれば? 僕は別にかまわないよ。
だって、可愛いユキチが頭を下げて頼んできたのなら、大切なさっちゃんだが譲ってやるしかないだろう」
「ど、どうして、そういう発想が生まれるわけ?」
優は、彼の無茶苦茶な言葉に律儀に慌てふためいてくれる福沢姉弟を見て、微笑ましく思った。実に素直で真っ直ぐな子達だ。自分には、少々眩しい。
すぐに呆れたような顔になったところを見ると、どうやらはぐらかすのには成功したらしかった。我ながら見事な演技力だ。優は自虐的にそう考えた。
事情を説明する気などない。何せ彼らはとても優しい子達だ。話せば自分の事のように悩みだしてしまうに違いないから。
◇◆◇◆◇◆
優が初めて祥子と会ったのはいつなのか。それについて、彼には明確な記憶が無い。
ひょっとしたら、彼女が生まれてすぐ、両親に連れられて顔を合わせたかもしれない。あるいは、彼女の誕生日のいずれかか。もしくは、何も特別な要素など無い普通の日に、偶然お互いを目にしたのか。今となっては定かではない。おそらく、父も母も覚えてはいないだろう。
一つ確かなのは、彼女がリリアンの幼稚舎に入る頃には既に二人は面識があったということだ。
思い返してみると、彼女は当時から同年代の少女たちと比べ決定的に違った存在であった気がする。
勿論、優が幼稚舎以来ずっと通っている花寺は男子のみの学園であり、『同年代の少女たち』を観察する機会は、一般的水準からすると非常に少なかった(家が家なので、同じく花寺に通うほかの子供たちよりは多かっただろうが)。それゆえ、彼の女性観は少々偏ったものになっている可能性があり、また彼自身それを自覚している。
それでも。
そうした要素を割り引いて考えても。
彼女は──妙な表現ではあるが、『彼女の生き様は』と言い換えてもよいだろう──明らかに他とは異なっていた。
彼女は、常に何かと闘い続けていたのだ。
例えば級友たち。
一人高級車で送り迎えされているのを不思議がられれば、次の日からはバス通学に切り替えた。
ナイフとフォークを使いサンドウィッチを食べる姿を見た子に「変なの」を言われれば、以後二度とその習慣を披露することは無かった。
知らないテレビ番組の話をしているのを聞けば、話題についていこうと必ずそのテレビ番組を見るようにした。
彼女は、他人ができることは自分にもできる、と証明し続けていた。
……らしい。そんな話を、優は母から聞いている。
また、例えば上流階級の大人たち。
とかくこの社会の常として、上にいる者は常に妬み嫉みの対象となる。パーティーの場ともなれば、噂話に興じつつさりげなく上位者を貶めようとする輩も多い。そうして、己のくだらない自尊心を満足させるのだ。小笠原家は、その格好の標的だった。
祥子はそのような視線とも、優美に、かつ典雅に───幼い少女を形容する言葉としてあまり一般的とは言えないが──闘っていた。
過剰なまでの賛辞に、そしてその裏に隠された皮肉の棘に、完璧な微笑を以って相対し、全てを受け止めていた彼女の姿を、優は幾度と無く目撃したことがある。
祥子は、ただの一度も隙を見せなかった。“小笠原の娘”を、完璧に勤め上げていた。
そして例えば………家族。
幼稚舎の時は流石に知らなかったし、たとえ知っていたとしてもその意味など理解できなかっただろう。いや、小学生になったとしても、普通ならわかるものではない。
だが優は、両親の想像を遥かに上回る賢さを持った少年であった。「どうせ聞いてもわかるまい」という思い込みの下交わされる両親の会話から彼はそのことを知り、その意味を──具体的な“行為”のイメージは無かったにせよ──悟っていた。
祥子の父と祖父──小笠原の男たちが、妾を囲っているという事実。
従兄とはいえ一応他人であり、しかも小学生である優にすら聞こえてきたことだ。実際に家族として過ごす祥子が気づくのは道理であろう。彼女の感性の鋭さを、優は一度として疑ったことは無かった。
結果として、家庭すら祥子の安らぎの場とはなりえない。
また、父親や祖父と接する中で祥子が時折見せる隔意、あるいは嫌悪に、彼らが気づくことは全く無かった。祥子は絶対に悟られまいと努力していたようだし、おそらく彼らの側でも、知られているなどと考えたこともなかったのだろう。
あるいは、祥子の実の母である清子が、気づいてやるべきだったのだろうか?
優はそうは思わない。祥子の清子に対する時の演技は、父親や祖父に対するそれに輪をかけて完璧であった。祥子は、たとえどれほど嫌な思いをしていても、それを訴えて母の傷を抉るような真似のできる少女ではなかったから。
祥子が幼い子供特有の無邪気さを見せたことなど、優の記憶にある限り、そして大人たちから伝え聞く限り、ほとんど皆無と言ってよい。そして、祥子以外の子供を授かることがなく、比較対象を得られなかった小笠原の人間は、祥子のその態度がどれほど異常なものであるかに遂に気がつかなかった。
祥子は明らかに賢すぎた。
そして、それが彼女にとって幸せなことであるとは、彼はどうしても思えなかった。
そんな祥子ではあったが、唯一優といるときだけは素のままの笑顔を見せてくれた。そう、彼だけに向けられる、心からの笑顔を。
──優さん。
可憐に微笑む祥子にそう呼ばれる度に、何とも言えない誇らしさが湧き上がってきたのを、優はよく覚えている。
僕がさっちゃんを守ってあげるんだ、などと、今となっては気障で知られる彼ですら素では言えないような気恥ずかしい決意を、彼女と会う都度新たにしていた幼き日の優であった。
そう。彼女を守りたかった。
一人闘う彼女の孤独を解決し、癒したかった。
それが、彼の最初の衝動。
では、何が悪いのか。何が彼女に闘いを強いているのか。
──“小笠原”という家そのものである、と優は断じた。
“小笠原”の直系であることが、彼女を苦しめているのだ、と。
故に彼は、自分を高めることをその頃から既に意識していた。
傍流の自分が祥子に代わって“小笠原”を背負うならば、それ相応の力を示さねばならない──!!
今現在、優が様々な方面でずば抜けた才を有しているのは、偏にそのためだ。
与えられること。与えられはしないが、期待されること。期待を上回る、あるいはその外にあること。その全てを優は貪欲に求め、身につけ、磨き続けた。
他の方法などわからなかった。
しかも、わからないからと止まっていられるほど、彼が自らに課したハードルは低くなかった。
彼は己を高め続けた。
そうして知識や技能、経験を得て己を成長させれば、祥子を救うのにきっと役に立つ。そう信じて。
……確信を得ることは、遂に叶わぬままに。
そうして時は流れ、優は花寺学院高校一年を修了。祥子はリリアン女学園中等部を卒業した。
彼が祖父に呼ばれたのは、ちょうどその頃のことだった。
「なっ……!?」
まるで人目をはばかるかのようにこっそりと呼びつけられ、何事かと思っていた優である。ソファに体を沈めた彼は、いきなりの祖父の言葉に思わず跳ね起きた。
祖父はこう言ったのだ。
「祥子が高等部へ進学する前に、お前との婚約を執り行う。そのつもりでいなさい」
と。
冗談にしては笑えない。第一彼の祖父は、こうも悪趣味な冗談を言う人間ではない。
となると、これは本気なのか。
だが、何故だ。優はそう考える。
自分は16、祥子は15。一世紀前ならまだしも、この平成の世にそんな若さで婚約を結ぶ者などほとんどいまい。それを敢えて行うと言う祖父の意図は、一体どのようなところにあるのか。
気持ちが動かないと言えば、嘘になる。
柏木優は、小笠原祥子のことを愛している。多分、初めて会った時からずっと。
誰よりも美しく気高いプリンセス。強くあろうと常に闘い続け、孤独を抱えて生きる幼馴染の女の子。
そんな彼女が何よりも愛しかったから、救いたいと願った。
守るのだと誓った。
だから、ただ自分の気持ちだけを言うのならば、反対すべき要素など何も無いのだ。
しかし、柏木優の頭脳はそう単純にはできていない。自分と祥子のことよりも、何故今なのかということの方が気になった。
今、祖父は祖父としての顔をしていない。
この場にはただの一人の部下もいないが、今の彼はまぎれもなく小笠原グループの総帥。
どうにも表現しがたい、嫌な感覚がする。それを振り払いたくて、優は問うた。
「……何故、とお聞きしても?」
祖父は目を閉じ、呟く。
柏木優という存在にとって、致命的な言葉を。
「儂が説明せずとも、お前なら理解できるはずだ。そうだろう、優よ。
わからぬと言うならば、それは。
──お前が理解を拒んでいる、ただそれだけのことだ」
「っ……」
顔が強張っていることを、優は自覚した。
それに気がついたのだろう。祖父は、一つ頷いて、唐突に語りだした。
「我等が小笠原グループは巨大だ。それゆえ敵も多い。
そして敵とは外部の者のみではない。むしろ内敵の方が深刻と言えるだろう。
我々が一枚岩とは程遠いという事実は、無論理解しているな」
ヤメテ、クレ
ソンナコト、シリタクハナイ
優の中の誰かが叫ぶ。
しかし祖父は説明を止めない。
その口調は鷹揚でありながら優を威圧し、彼が口を挟むことを許さない。
「小笠原の直系たる祥子。
一族中最も将来を期待される男子たるお前。
どちらか片方では足りんのだ。グループ全てを纏め上げるにはな。
二人が共に在って初めて、それが可能になる」
祥子は象徴だ。
小笠原の直系。血筋という、正当性を保障するのにこれ以上無いものを、彼女は生まれながらに持っている。
だが、祥子は女性だ。未だ男系の社会である日本にあって、これは極めて不利に働く。
彼女がグループの頂点に立ったとすれば、心情的に従わない者も出てくるだろう。
造反の可能性は消せない。
優は有能だ。
神童と呼ばれ、天才と呼ばれるその才幹は、未だ高校生でありながら十分にトップを務めるに値すると評価されていた。
だが、如何に会長の孫とはいえ、彼は所詮小笠原の傍流だ。『小笠原』の名すら持っていない。
無駄に数のいる一族の中には、「優が後を継げるなら、自分にもその資格はある」と考える者もいるだろう。
やはり、造反の可能性は消せない。
ああ、確かにそうだ。
二人が結婚すれば、少なくとも表面的には文句のつけようがない。互いの不足を互いが完璧なまでに補えるのだから。
グループはこれからも安泰だ。
だが。
祥子は。
「……儂とて、何も好き好んでこんなことを言っているわけではないのだ。
だがな、優よ。儂の個人的な意思だけで物事を決めるには、小笠原はいささか大きくなりすぎた」
総帥の仮面の下から刹那見えた祖父の苦悩が、優には理解できてしまう。
グループ崩壊などということになったら、最も大きな影響を受けるのは末端で働く者達だ。自らの選択が数万に及ぶ人生を左右するとなれば、私情を消し総帥としての責任を優先せざるを得ない。
次代へ継承するにあたって、僅かな不安要素も残すわけにはいかない。
そして。
「既に祥子の婿争いは、儂すら関与しえぬところで起こり始めているのだ。あの子を縛るような真似はしたくないと先送りにしてきたが、これ以上引き伸ばせば親族共が何を仕出かすかわからん。
祥子とて、相手がお前であるならば拒むことは無かろう。そして儂は、お前が幼い頃からあの子を誰よりも大切に思ってくれていることを知っている。
……なればこそ、これが最善なのだよ、優。
お前ならば、理解できよう?」
小笠原グループ総帥として語っていたはずの老人。だがその声は、今やほとんど吐息と言ってもよいほどに小さかった。
それで。
優は確かに理解した。
どうしようもないのだということを、どうしようもないほどに理解してしまった。
「は……」
嗤いの欠片が、無意識の内に唇から零れ落ちた。
◇◆◇◆◇◆
ふと気がついてみると、優は自室にいた。どうやって帰ってきたのか、さっぱり覚えていない。
不意に、右の拳が痛み出す。
上手く回らない頭でその理由を考えてみて、
「……ああ。壁を殴っちゃったんだっけ」
ようやくぼんやりと、自分の愚行を思い出した。
先ほど祖父の部屋を出た時のことだ。
単なる怒りなどとは違う、自分でも形容しがたい衝動に駆られた優は、自らの拳を手近な壁に思い切り叩きつけたのだった。
音に驚いたらしい使用人がやってきたが、まるで逃げるかのようにその場を離れた。
否、『まるで』ではない。確かに、自分は逃げたのだ、と、優は嘆息した。使用人からではない。彼の瞳に映るであろう、自分自身から。
自分の望みはそもそも初めから意味の無いものだったのだと、思い知らされた優。
使用人の視線から、ではない。彼の表情が映し出すであろう、あまりにも滑稽な自分の姿を見るのが恐ろしくて、優は逃げ出したのだ。
聞きたくなどなかった。知りたくなどなかった。
だが、もう彼は理解していた。
あるいは、とっくの昔にわかっていたのかもしれない。
要するに。
優自身もまた、彼女を縛り付ける鎖の一ピースであり。
それどころか、柏木優こそが、従妹を“小笠原”祥子として完成させる最後の一手だったということ。
己の研鑽は、ただそれを確実にするだけの意味しかなかった。祥子の解放を願って磨いた力は、想いとは完全に逆に作用したのだ──。
そうして彼は、己自身が崩れ落ちていく音を確かに聞いた。
もう何一つ、考えたくなかった。
◇◆◇◆◇◆
祖父の言葉通り、祥子の高等部入学前。三月の終わりに二人の婚約は発表された。
一族の火種を火種のまま封じる、ギリギリのタイミング。
旧家の婚約ともなればそれに見合った盛大な式やパーティーが行われるものだが、大方の予想に反しそれらはなく、小笠原・柏木両家の身内のみの食事会が開かれるにとどまった。
当事者である優と祥子の二人が若すぎる、というのは表向きの理由。
実際のところ、わざわざ不穏分子を刺激するような真似はすべきではないというごく政治的な結論によるところが大きかった。
その席上。
従妹の顔を直視することすらままならない失意の中、優は一つの決心をしていた。
◇◆◇◆◇◆
四月。入学式を終えた祥子の所へ、入学祝を持って訪れた。
どことなく照れくさげに自分を迎える祥子。その笑顔を見て、優の胸はズキリと痛んだ。
これから自分が告げる言葉が、どれだけ彼女を傷つけることか。
──それでも。
このまま彼女を縛り付けるよりは遥かに良いと、そう信じて。
「入学おめでとう、さっちゃん」
「ありがとう、優さん」
花寺もリリアンも幼稚舎から高等部まではエスカレーター式だ。優自身の高等部入学の時も、入学というよりは『進学』という意識の方が強く、祝いの言葉をかけられても特別に思うところはなかった。嬉しそうな表情を作って応対するのに苦労した覚えすらある。
だが祥子にとっては違ったようで、嬉しそうな表情を素直に表している。幼少のころから彼女を見ている優には、それが本物だとすぐにわかった。
さもありなん、と思う。リリアン高等部といえば、紅・白・黄の三薔薇さまや彼女達が率いる山百合会、女子高版徒弟制度と言えなくもない姉妹制度など、他に類を見ない制度がいくつも存在する、まさに聖域だ。中等部在籍中から憧れる者も少なくないと聞く。祥子も例外ではなかったということなのだろう。
──この笑顔を見てしまうと、いきなり本題を切り出すような真似はしにくい。
どうしようかなと思案しつつ、優は切り出した。
「さて……婚約してからは初めて、かな?」
「ええ、そうね。お互い年度の初めで忙しかったから」
……優は己を呪った。なんだってこうもストレートに話を持っていこうとするのか。まだこの部屋に入ってから三分と経っていないというのに。
大人顔負けの会話術は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
だが、決心が鈍ってしまうよりは、あるいは良かったのかもしれない。『婚約者』を前にして微かに頬を赤らめた祥子の笑顔。見飽きることなんてありえないだろう。引き伸ばせば引き伸ばすだけ、未練が募るに違いない。優は、思い切ることにした。
「実は、その婚約のことで話があってね。
入学祝も兼ねて、こうして馳せ参じたわけだ」
「あら?なあに?」
──さあ、気合を入れろ柏木優。
失敗は許されない。何度も練習した、その通りに会話を続けるんだ。
彼女のため自分にできることは、たったこれだけしか残っていない。それすら為せないのなら、最早柏木優という男の存在価値は、塵芥に等しい。
「僕達は似たもの同士だから、結婚しても必ずうまくいく。そう思うだろう? 僕は僕、君は君。互いに自由に生きて、干渉しないようにしよう。
世間一般とはだいぶ違う形の家庭になってしまうと思うけど、きっと二人とも幸せになれるはずさ」
「……え?
どういう、こと?」
祥子の顔が固まる。優の言葉は聞こえていたが理解できない、否、理解したくないというその表情。
……早くも後悔が滲み出してくる。今の言葉を取り消せるなら、この命も差し出せそうなくらいに。彼女のためといくら自分に言い訳してみても、自分の言葉は間違いなく祥子を傷つけるから。
「……悪いけど、男しか恋愛の対象にはならないんだ、僕は」
それでも、告げよう。
敢えて言うなら、傷つけることこそが目的なのだから。
自らを偽り、従妹を欺く。
「だから君も僕なんかに縛られないで自由に恋をして、外に恋人を持ってくれて構わない。君に子供が生まれたら、ゆくゆくはその子を僕達の籍に入れて、小笠原を継いでもらえばいいと思う。
多少なりとも血縁ではあるわけだし、なにより君の子なんだ。可愛がれないはずはない。
僕はそう思っているよ」
──壊れた。
今、二人が築き上げてきた絆を、間違いなく壊してしまった。音が立たなかったのがいっそ不思議なくらい、完全に。
血の気が引いた、祥子の顔。微かに震える唇。
それを直視して尚平静さを装うのは、恐ろしく困難だった。
あとほんの数秒でもこのままならば、おそらく自分は逃げ出してしまう──
「……出て行って」
「ん? 出て行けといわれれば出て行くが、どうして急に──」
「いいから出て行って!!」
怒鳴る祥子。その声は悲鳴に近く、また事実としてそうだった。
──これで、いい。
部屋を出た優は、大きく息を吐き出した。
何もかも、結婚相手すらも己の意思に拠らずに決定されてしまった祥子。ならばせめて、恋愛くらいは自由にさせてやりたいと思った。小笠原の男達も少なからずしていることだ、文句を言われる筋合いはない。
可能な限り軽い口調で、不誠実な提案をした。あまつさえ、自分は男色であるなどと騙った。潔癖症の彼女のことだから、こうでもしないとたとえ優が構わないと言っても外に恋人を持つような真似はできないだろう。
信頼していたのに裏切られた、そう思ってくれればいい。何も出来ない優に、彼女が余計な負い目を持つ必要はないのだから。
“小笠原”に縛られずに好きな人を見つけて、幸せになってほしい。
それだけが、己の存在自体が枷であると知った優の、ただ一つの願いだった。
◇◆◇◆◇◆
「柏木さんじゃ駄目なの!」
何も知らないはずの少女の声が、優を打ちのめす。
柏木優では駄目だなんてこと、祖父との会話のとき思い知っていた。今更誰かに言われたところで何の新鮮味も無い。
だから、彼女の言葉なぞ気にするほどのことでもない。それでもこの身は祥子を追わなければならないのだから。
キスを拒まれ叩かれてしまったのは、この際関係ない。柏木優が男色であるなどという噂があまり広まっては将来的にあまり愉快でない事態を招くことがあるかもしれない、そんなことを考えて慌てたあげく、誤魔化すことを最優先においてしまった自分が悪いのだ。
『あの時』以来悉く自分との接触を避けていた祥子の心情くらい、ほんの少しでも頭が回れば理解できそうなものではないか。誠心誠意、謝らなくてはならないだろう。
……問題はその前。婚約破棄を、それも今になって言い出した彼女の本心を確かめ、翻意を促さなくてはならない。小笠原を背負う者として、彼女が見せた意思はとうてい許容し難いものだった。
それは、『小笠原祥子』が選んで良い道ではない。そんなことは、判りすぎる程に判りきった事実だ。
──では、なぜ。
なぜこの身体は、祥子を追おうとしないのか。
福沢祐巳が駆けてゆく。その後姿を、優は呆としたまま見つめていた。
理由など知らない。ただ、脚が動いてくれない。否、脚のみならずこの身体全てが、自分の理性を裏切っている。
どこにでもいるような平凡な少女、祐巳の言葉。それがなぜ、優をこの場に縫いとめる──?
……深い緑色をした制服が、視界から消えていく。そうしてようやく、優は金縛りにも似た硬直から解放された。
──一体、どうして、僕は。
染み抜きがどうのと言っている麗しの紅薔薇さまの声も、今はほとんど聞こえない。
ただ引き立てられるのに合わせ、条件反射的に歩みを進めるのみ。
不審と敵意を込められるだけ込めた少女達の視線すら、今の彼には届かない。
柏木優をして自失へと至らしめたその言葉が、ただただ耳の奥で繰り返される。
──柏木さんじゃ、駄目なの!
知っている。そんなことはとうの昔に知っている。
血を吐くような憤りと鉛のような無力感に苛まされながら、しかしどうしようもないのだと受け入れた。あれほど苦い経験は後にも先にもありはしない。
だがなぜか、違うと感じた。
彼女が言ったことばには、今まで自分が思っていたのとは全く違う意味があるのではないか、と。
実のところ彼女本人としては、今この場で優が祥子を追いかけてもどうにもならないというような意図しかなかっただろう。
だが無意識に、しかしこの上なく的確に。彼女は優の過ちを指摘していた。
自失してしまったのはおそらくそのせいだ。無意識レベルで、自分は何かに気がついた。
なのにその正体をまるで理解できず、そして今もまた囚われている。
更衣室に辿り着いたところで改めて厳命されたため、安物の操り人形のような動きで衣装を着替える。しかしその間にも、思考はループをやめようとしない。
なぜ。
何が。
どうして……?。
そうして回り続ける疑問の中、ふと。
幼い頃から見てきた従妹の、自らに敗北を許さず高潔なまでに闘い抜くその姿が、脳裏を掠めた。
◇◆◇◆◇◆
「昨日は叩いてごめんなさいね」
昨日の今日だが、祥子は平静だった。それどころか、自らこちらへ歩み寄り、微笑みかける余裕すら見せた。それに比べて我が身はと言えば。
「参ったよ。ギンナンの染みはとれたけど臭いが残っちゃって」
間違いに気づいておきながら、他にどう振舞えばいいのかわからずに。今まで通り、『柏木優』を演じ続けている。
◇◆◇◆◇◆
ワンツースリー、ワンツースリー。
祥子と優を主役に据えた舞踏会は、いよいよクライマックス。
ダンスが始まってからヒールで踏まれた回数は既に二回。彼女の腕前を考えれば故意だとしか考えようがないわけだが、そのくらいは甘んじて耐えよう──
「っ!」
……などと考えているうちに三回目。ハイヒールで、しかも三度続けて寸分の狂いも無く同じ箇所を踏みつけられた。
まさか練習したりしてないよな? と冷や汗をかく。踊る祥子の微笑みは本物で、客どころか部隊袖で出番を待つ他の役者達すら、彼女の華麗なる蹴撃(!)には気づいていないに違いない。
脳天にまで響く激痛を顔に出さぬよう気をつけつつ、優は思った。自分は結局、どこまでもエゴイストだったのだな、と。
一体誰が、助けを求めた?
一体誰が、救いを願った?
小笠原祥子が、そんなことを望んだか?
否、断じて否だ。自分は見ていたはずではないか。闘い続けるその姿を。
“小笠原”であるが故のその姿勢であると思った。“小笠原”さえ背負わずに済むなら、彼女はもっと穏やかに生きられると思った。
なんと無様な思い上がりであることか。
“小笠原”も含めた全てを引き受け、闘いながら生きていく。それこそが、祥子の選んだ道であった。自分が考えていたことは、彼女への侮辱に他ならない。
共に闘うこと。彼女がそれに疲れたとき、そっと支えてあげること。それが、優の選ぶべき在り方だったのだろう。
……そう。それは過去形。今となっては意味を成さない空想に過ぎない。己を偽り祥子を欺いたあの瞬間から、自分は永遠にその資格を失った。
だから、優は彼女に託す。
その子の名前は福沢祐巳。祥子が妹(プティ・スール)にと望んだ少女。
自分のようにくだらないことを考えたりせず、ただ真っ直ぐに祥子を想う彼女なら、決して間違えることはないだろう。
聞けば、祐巳は一度祥子を拒絶しているとか。だが、昨日の二人を見る限り、時間の問題だろうと優は思っていた。
──リリアンの学園祭から数日後。
優は、自分の予想が正しかったことを、風の噂で聞くことになる。
◇◆◇◆◇◆
「そんな目をしたって駄目だよ。これ以上のヒントはあげない」
自分の言葉に不満げな表情をする祐巳。相変わらず表情が豊かで面白い。
本当は、はっきりと言葉にしてしまっても構わないのだし、そうした方が良いのではないかとも思う。が、優はあえてぼかした言い方をした。
こと人間関係についての自分の考察なんて、どうせ間違っているに決まっているのだ。
……まあ、それも所詮は言い訳で。ちょっと意地悪してみたい気持ちがあるのは否定できない。自業自得とはいえ、祥子の隣をあっさりと奪われてしまった悔しさは確かに存在するのだ。この辺り、あの水野蓉子嬢も似たようなことを思っているのではないかと、優は密かに睨んでいる。もっとも、あの学園祭以来、彼女には蛇蝎の如く嫌われているので確認のしようがないのだが。
そんな意地悪が出来るのも、結局のところ祐巳を信頼しているからだ。自分の力で答えを見つけられると、信じているからだ。
(僕にここまで信頼されるっていうのは、結構凄いことなんだよ、祐巳ちゃん)
そうしてクスっと笑いかけ、優は『柏木優』へと立ち戻る。
過ちから被り始めた仮面ではあるが、こうまで続けていれば愛着も出てくる。
祐巳曰く「何も考えてなさそう」な自分を演じるのも、それはそれで楽しいのだ。後数年は、このままでいるのも悪くないと思っている。
この先祥子と祐巳が歩む道がどんなものかなんて、優は知らない。
彼が確信しているのはただ一つ、祥子が幸せになるという結果のみ。そして、それで十分だろう。
柏木優がそのために出来ることなんて、そう多くはない。だが、今の自分にしか出来ないこともある。即ち──
「さて、どうお祖父様を説得したものかな?」
──婚約解消のための根回し。遠からず祥子は自らそれを祖父へと申し出るに違いない。それがスムーズに進むよう、優は己が全知全能を傾けるつもりだ。彼にできる罪滅ぼしなんて、もうそのくらいしか残っていないだろう。
祐巳が祥子の部屋へと去る。
姉の様子に何かを感じたらしい祐麒が問い詰めてくるのを適当にあしらいつつ、優は胸中でそっと呟いた。
頼んだよ、祐巳ちゃん、と。
************
<後書き(2005年公開時のものをそのまま掲載しています)>
私は一巻の頃から、妙に柏木優というキャラに愛着があるんですよ。こういう「デキる」人になりたいなと。
あ、いえ、あんな風に気障ったらしく振舞いたいわけではないんですが(汗)
まあそういうわけで、彼について考察してみたわけです。
その中で思ったのが、「コイツほんとに同性愛者なのか?」ということ。
基本的に作中の彼は祐巳視点によってのみ描写されているわけですが、それを見ていると、どうしても彼の行動が演技にしか見えない。祐巳曰く「何を考えているのか、どういう人なのか、わからない」(『薔薇のミルフィーユ』P.154より)彼の振る舞いは、彼が何らかの意図を以って作り上げた虚構ではないかと思ったのです。
とにかく、彼の言動、そこから受ける『柏木優』の印象と、祐巳によって語られる彼の姿との間には著しいギャップがありました。思い返してみれば、マリみてにはまった当初からそうした思いは漠然と私の中にあったのです。
祐麒に対する態度にしたところで、私には彼一流の冗談に思えました。
ではなぜ彼は自分を偽るような真似をしているのだろうか。よりにもよって男色家を騙るのは、どんな理由があってのことなのか。
そう悩んでいた折、ふと昼寝から目覚めたときに思いついたのがこの話です。
祥子を守りたいという思いが強すぎて、彼女の持つ強さが見えていなかった。それが柏木優の過ちである。
そのコンセプトを元に、話を組み立てていきました。
ので、『薔薇のミルフィーユ』読後は本当に焦りました。
どう誤魔化しても、
>「……そう言って、祥子さまの方から婚約を解消するようにし向けたんだわ」
>「そうか」
> 答えは必要なかった。柏木さんの瞳が「正解」と言っていた。
(『薔薇のミルフィーユ』P.180)
という記述と矛盾してしまうからです。
……仕方ないので無視することにしました(ぇ
この点さえ除けば、後は大体原作準拠のはずです。
表現力の不足からくる執筆意欲の低下に悩むこと半年以上、ようやく完成したわけで、私としても感無量です。それだけあって思い入れが大きく、こうして馬鹿みたいに長いあとがきにお付き合いいただいているわけですが(苦笑)。
最後にもう一つ。
この話の中で、優はある事実に最初から最後まで気がついていません。
すなわち、
>祥子さまは、確かに柏木さんを好きだったんだから。
(無印 P.230)
ということに。
祥子を縛り付けてしまうという絶望で一杯になって、肝心の祥子の気持ちにはまるで目を向けないまま。恋愛くらいは自由に、という彼の願いも、裏を返せば自分の罪悪感を軽減するための行為です。そういう意味でも、彼はエゴイストなのでした。
このSS内でも、優のそうした面を微妙に出してはいるのですが、気がついた方はいらっしゃいますかね?w
「幸せにできないんだったら、婚約解消して自由にしてやれよ。かわいそうだろう」
「ふーん。そんなことを言っちゃうわけ。
だったら、その言葉の責任を取って、お前が幸せにしてやれば? 僕は別にかまわないよ。
だって、可愛いユキチが頭を下げて頼んできたのなら、大切なさっちゃんだが譲ってやるしかないだろう」
「ど、どうして、そういう発想が生まれるわけ?」
優は、彼の無茶苦茶な言葉に律儀に慌てふためいてくれる福沢姉弟を見て、微笑ましく思った。実に素直で真っ直ぐな子達だ。自分には、少々眩しい。
すぐに呆れたような顔になったところを見ると、どうやらはぐらかすのには成功したらしかった。我ながら見事な演技力だ。優は自虐的にそう考えた。
事情を説明する気などない。何せ彼らはとても優しい子達だ。話せば自分の事のように悩みだしてしまうに違いないから。
◇◆◇◆◇◆
優が初めて祥子と会ったのはいつなのか。それについて、彼には明確な記憶が無い。
ひょっとしたら、彼女が生まれてすぐ、両親に連れられて顔を合わせたかもしれない。あるいは、彼女の誕生日のいずれかか。もしくは、何も特別な要素など無い普通の日に、偶然お互いを目にしたのか。今となっては定かではない。おそらく、父も母も覚えてはいないだろう。
一つ確かなのは、彼女がリリアンの幼稚舎に入る頃には既に二人は面識があったということだ。
思い返してみると、彼女は当時から同年代の少女たちと比べ決定的に違った存在であった気がする。
勿論、優が幼稚舎以来ずっと通っている花寺は男子のみの学園であり、『同年代の少女たち』を観察する機会は、一般的水準からすると非常に少なかった(家が家なので、同じく花寺に通うほかの子供たちよりは多かっただろうが)。それゆえ、彼の女性観は少々偏ったものになっている可能性があり、また彼自身それを自覚している。
それでも。
そうした要素を割り引いて考えても。
彼女は──妙な表現ではあるが、『彼女の生き様は』と言い換えてもよいだろう──明らかに他とは異なっていた。
彼女は、常に何かと闘い続けていたのだ。
例えば級友たち。
一人高級車で送り迎えされているのを不思議がられれば、次の日からはバス通学に切り替えた。
ナイフとフォークを使いサンドウィッチを食べる姿を見た子に「変なの」を言われれば、以後二度とその習慣を披露することは無かった。
知らないテレビ番組の話をしているのを聞けば、話題についていこうと必ずそのテレビ番組を見るようにした。
彼女は、他人ができることは自分にもできる、と証明し続けていた。
……らしい。そんな話を、優は母から聞いている。
また、例えば上流階級の大人たち。
とかくこの社会の常として、上にいる者は常に妬み嫉みの対象となる。パーティーの場ともなれば、噂話に興じつつさりげなく上位者を貶めようとする輩も多い。そうして、己のくだらない自尊心を満足させるのだ。小笠原家は、その格好の標的だった。
祥子はそのような視線とも、優美に、かつ典雅に───幼い少女を形容する言葉としてあまり一般的とは言えないが──闘っていた。
過剰なまでの賛辞に、そしてその裏に隠された皮肉の棘に、完璧な微笑を以って相対し、全てを受け止めていた彼女の姿を、優は幾度と無く目撃したことがある。
祥子は、ただの一度も隙を見せなかった。“小笠原の娘”を、完璧に勤め上げていた。
そして例えば………家族。
幼稚舎の時は流石に知らなかったし、たとえ知っていたとしてもその意味など理解できなかっただろう。いや、小学生になったとしても、普通ならわかるものではない。
だが優は、両親の想像を遥かに上回る賢さを持った少年であった。「どうせ聞いてもわかるまい」という思い込みの下交わされる両親の会話から彼はそのことを知り、その意味を──具体的な“行為”のイメージは無かったにせよ──悟っていた。
祥子の父と祖父──小笠原の男たちが、妾を囲っているという事実。
従兄とはいえ一応他人であり、しかも小学生である優にすら聞こえてきたことだ。実際に家族として過ごす祥子が気づくのは道理であろう。彼女の感性の鋭さを、優は一度として疑ったことは無かった。
結果として、家庭すら祥子の安らぎの場とはなりえない。
また、父親や祖父と接する中で祥子が時折見せる隔意、あるいは嫌悪に、彼らが気づくことは全く無かった。祥子は絶対に悟られまいと努力していたようだし、おそらく彼らの側でも、知られているなどと考えたこともなかったのだろう。
あるいは、祥子の実の母である清子が、気づいてやるべきだったのだろうか?
優はそうは思わない。祥子の清子に対する時の演技は、父親や祖父に対するそれに輪をかけて完璧であった。祥子は、たとえどれほど嫌な思いをしていても、それを訴えて母の傷を抉るような真似のできる少女ではなかったから。
祥子が幼い子供特有の無邪気さを見せたことなど、優の記憶にある限り、そして大人たちから伝え聞く限り、ほとんど皆無と言ってよい。そして、祥子以外の子供を授かることがなく、比較対象を得られなかった小笠原の人間は、祥子のその態度がどれほど異常なものであるかに遂に気がつかなかった。
祥子は明らかに賢すぎた。
そして、それが彼女にとって幸せなことであるとは、彼はどうしても思えなかった。
そんな祥子ではあったが、唯一優といるときだけは素のままの笑顔を見せてくれた。そう、彼だけに向けられる、心からの笑顔を。
──優さん。
可憐に微笑む祥子にそう呼ばれる度に、何とも言えない誇らしさが湧き上がってきたのを、優はよく覚えている。
僕がさっちゃんを守ってあげるんだ、などと、今となっては気障で知られる彼ですら素では言えないような気恥ずかしい決意を、彼女と会う都度新たにしていた幼き日の優であった。
そう。彼女を守りたかった。
一人闘う彼女の孤独を解決し、癒したかった。
それが、彼の最初の衝動。
では、何が悪いのか。何が彼女に闘いを強いているのか。
──“小笠原”という家そのものである、と優は断じた。
“小笠原”の直系であることが、彼女を苦しめているのだ、と。
故に彼は、自分を高めることをその頃から既に意識していた。
傍流の自分が祥子に代わって“小笠原”を背負うならば、それ相応の力を示さねばならない──!!
今現在、優が様々な方面でずば抜けた才を有しているのは、偏にそのためだ。
与えられること。与えられはしないが、期待されること。期待を上回る、あるいはその外にあること。その全てを優は貪欲に求め、身につけ、磨き続けた。
他の方法などわからなかった。
しかも、わからないからと止まっていられるほど、彼が自らに課したハードルは低くなかった。
彼は己を高め続けた。
そうして知識や技能、経験を得て己を成長させれば、祥子を救うのにきっと役に立つ。そう信じて。
……確信を得ることは、遂に叶わぬままに。
そうして時は流れ、優は花寺学院高校一年を修了。祥子はリリアン女学園中等部を卒業した。
彼が祖父に呼ばれたのは、ちょうどその頃のことだった。
「なっ……!?」
まるで人目をはばかるかのようにこっそりと呼びつけられ、何事かと思っていた優である。ソファに体を沈めた彼は、いきなりの祖父の言葉に思わず跳ね起きた。
祖父はこう言ったのだ。
「祥子が高等部へ進学する前に、お前との婚約を執り行う。そのつもりでいなさい」
と。
冗談にしては笑えない。第一彼の祖父は、こうも悪趣味な冗談を言う人間ではない。
となると、これは本気なのか。
だが、何故だ。優はそう考える。
自分は16、祥子は15。一世紀前ならまだしも、この平成の世にそんな若さで婚約を結ぶ者などほとんどいまい。それを敢えて行うと言う祖父の意図は、一体どのようなところにあるのか。
気持ちが動かないと言えば、嘘になる。
柏木優は、小笠原祥子のことを愛している。多分、初めて会った時からずっと。
誰よりも美しく気高いプリンセス。強くあろうと常に闘い続け、孤独を抱えて生きる幼馴染の女の子。
そんな彼女が何よりも愛しかったから、救いたいと願った。
守るのだと誓った。
だから、ただ自分の気持ちだけを言うのならば、反対すべき要素など何も無いのだ。
しかし、柏木優の頭脳はそう単純にはできていない。自分と祥子のことよりも、何故今なのかということの方が気になった。
今、祖父は祖父としての顔をしていない。
この場にはただの一人の部下もいないが、今の彼はまぎれもなく小笠原グループの総帥。
どうにも表現しがたい、嫌な感覚がする。それを振り払いたくて、優は問うた。
「……何故、とお聞きしても?」
祖父は目を閉じ、呟く。
柏木優という存在にとって、致命的な言葉を。
「儂が説明せずとも、お前なら理解できるはずだ。そうだろう、優よ。
わからぬと言うならば、それは。
──お前が理解を拒んでいる、ただそれだけのことだ」
「っ……」
顔が強張っていることを、優は自覚した。
それに気がついたのだろう。祖父は、一つ頷いて、唐突に語りだした。
「我等が小笠原グループは巨大だ。それゆえ敵も多い。
そして敵とは外部の者のみではない。むしろ内敵の方が深刻と言えるだろう。
我々が一枚岩とは程遠いという事実は、無論理解しているな」
ヤメテ、クレ
ソンナコト、シリタクハナイ
優の中の誰かが叫ぶ。
しかし祖父は説明を止めない。
その口調は鷹揚でありながら優を威圧し、彼が口を挟むことを許さない。
「小笠原の直系たる祥子。
一族中最も将来を期待される男子たるお前。
どちらか片方では足りんのだ。グループ全てを纏め上げるにはな。
二人が共に在って初めて、それが可能になる」
祥子は象徴だ。
小笠原の直系。血筋という、正当性を保障するのにこれ以上無いものを、彼女は生まれながらに持っている。
だが、祥子は女性だ。未だ男系の社会である日本にあって、これは極めて不利に働く。
彼女がグループの頂点に立ったとすれば、心情的に従わない者も出てくるだろう。
造反の可能性は消せない。
優は有能だ。
神童と呼ばれ、天才と呼ばれるその才幹は、未だ高校生でありながら十分にトップを務めるに値すると評価されていた。
だが、如何に会長の孫とはいえ、彼は所詮小笠原の傍流だ。『小笠原』の名すら持っていない。
無駄に数のいる一族の中には、「優が後を継げるなら、自分にもその資格はある」と考える者もいるだろう。
やはり、造反の可能性は消せない。
ああ、確かにそうだ。
二人が結婚すれば、少なくとも表面的には文句のつけようがない。互いの不足を互いが完璧なまでに補えるのだから。
グループはこれからも安泰だ。
だが。
祥子は。
「……儂とて、何も好き好んでこんなことを言っているわけではないのだ。
だがな、優よ。儂の個人的な意思だけで物事を決めるには、小笠原はいささか大きくなりすぎた」
総帥の仮面の下から刹那見えた祖父の苦悩が、優には理解できてしまう。
グループ崩壊などということになったら、最も大きな影響を受けるのは末端で働く者達だ。自らの選択が数万に及ぶ人生を左右するとなれば、私情を消し総帥としての責任を優先せざるを得ない。
次代へ継承するにあたって、僅かな不安要素も残すわけにはいかない。
そして。
「既に祥子の婿争いは、儂すら関与しえぬところで起こり始めているのだ。あの子を縛るような真似はしたくないと先送りにしてきたが、これ以上引き伸ばせば親族共が何を仕出かすかわからん。
祥子とて、相手がお前であるならば拒むことは無かろう。そして儂は、お前が幼い頃からあの子を誰よりも大切に思ってくれていることを知っている。
……なればこそ、これが最善なのだよ、優。
お前ならば、理解できよう?」
小笠原グループ総帥として語っていたはずの老人。だがその声は、今やほとんど吐息と言ってもよいほどに小さかった。
それで。
優は確かに理解した。
どうしようもないのだということを、どうしようもないほどに理解してしまった。
「は……」
嗤いの欠片が、無意識の内に唇から零れ落ちた。
◇◆◇◆◇◆
ふと気がついてみると、優は自室にいた。どうやって帰ってきたのか、さっぱり覚えていない。
不意に、右の拳が痛み出す。
上手く回らない頭でその理由を考えてみて、
「……ああ。壁を殴っちゃったんだっけ」
ようやくぼんやりと、自分の愚行を思い出した。
先ほど祖父の部屋を出た時のことだ。
単なる怒りなどとは違う、自分でも形容しがたい衝動に駆られた優は、自らの拳を手近な壁に思い切り叩きつけたのだった。
音に驚いたらしい使用人がやってきたが、まるで逃げるかのようにその場を離れた。
否、『まるで』ではない。確かに、自分は逃げたのだ、と、優は嘆息した。使用人からではない。彼の瞳に映るであろう、自分自身から。
自分の望みはそもそも初めから意味の無いものだったのだと、思い知らされた優。
使用人の視線から、ではない。彼の表情が映し出すであろう、あまりにも滑稽な自分の姿を見るのが恐ろしくて、優は逃げ出したのだ。
聞きたくなどなかった。知りたくなどなかった。
だが、もう彼は理解していた。
あるいは、とっくの昔にわかっていたのかもしれない。
要するに。
優自身もまた、彼女を縛り付ける鎖の一ピースであり。
それどころか、柏木優こそが、従妹を“小笠原”祥子として完成させる最後の一手だったということ。
己の研鑽は、ただそれを確実にするだけの意味しかなかった。祥子の解放を願って磨いた力は、想いとは完全に逆に作用したのだ──。
そうして彼は、己自身が崩れ落ちていく音を確かに聞いた。
もう何一つ、考えたくなかった。
◇◆◇◆◇◆
祖父の言葉通り、祥子の高等部入学前。三月の終わりに二人の婚約は発表された。
一族の火種を火種のまま封じる、ギリギリのタイミング。
旧家の婚約ともなればそれに見合った盛大な式やパーティーが行われるものだが、大方の予想に反しそれらはなく、小笠原・柏木両家の身内のみの食事会が開かれるにとどまった。
当事者である優と祥子の二人が若すぎる、というのは表向きの理由。
実際のところ、わざわざ不穏分子を刺激するような真似はすべきではないというごく政治的な結論によるところが大きかった。
その席上。
従妹の顔を直視することすらままならない失意の中、優は一つの決心をしていた。
◇◆◇◆◇◆
四月。入学式を終えた祥子の所へ、入学祝を持って訪れた。
どことなく照れくさげに自分を迎える祥子。その笑顔を見て、優の胸はズキリと痛んだ。
これから自分が告げる言葉が、どれだけ彼女を傷つけることか。
──それでも。
このまま彼女を縛り付けるよりは遥かに良いと、そう信じて。
「入学おめでとう、さっちゃん」
「ありがとう、優さん」
花寺もリリアンも幼稚舎から高等部まではエスカレーター式だ。優自身の高等部入学の時も、入学というよりは『進学』という意識の方が強く、祝いの言葉をかけられても特別に思うところはなかった。嬉しそうな表情を作って応対するのに苦労した覚えすらある。
だが祥子にとっては違ったようで、嬉しそうな表情を素直に表している。幼少のころから彼女を見ている優には、それが本物だとすぐにわかった。
さもありなん、と思う。リリアン高等部といえば、紅・白・黄の三薔薇さまや彼女達が率いる山百合会、女子高版徒弟制度と言えなくもない姉妹制度など、他に類を見ない制度がいくつも存在する、まさに聖域だ。中等部在籍中から憧れる者も少なくないと聞く。祥子も例外ではなかったということなのだろう。
──この笑顔を見てしまうと、いきなり本題を切り出すような真似はしにくい。
どうしようかなと思案しつつ、優は切り出した。
「さて……婚約してからは初めて、かな?」
「ええ、そうね。お互い年度の初めで忙しかったから」
……優は己を呪った。なんだってこうもストレートに話を持っていこうとするのか。まだこの部屋に入ってから三分と経っていないというのに。
大人顔負けの会話術は、一体どこへ行ってしまったのだろう。
だが、決心が鈍ってしまうよりは、あるいは良かったのかもしれない。『婚約者』を前にして微かに頬を赤らめた祥子の笑顔。見飽きることなんてありえないだろう。引き伸ばせば引き伸ばすだけ、未練が募るに違いない。優は、思い切ることにした。
「実は、その婚約のことで話があってね。
入学祝も兼ねて、こうして馳せ参じたわけだ」
「あら?なあに?」
──さあ、気合を入れろ柏木優。
失敗は許されない。何度も練習した、その通りに会話を続けるんだ。
彼女のため自分にできることは、たったこれだけしか残っていない。それすら為せないのなら、最早柏木優という男の存在価値は、塵芥に等しい。
「僕達は似たもの同士だから、結婚しても必ずうまくいく。そう思うだろう? 僕は僕、君は君。互いに自由に生きて、干渉しないようにしよう。
世間一般とはだいぶ違う形の家庭になってしまうと思うけど、きっと二人とも幸せになれるはずさ」
「……え?
どういう、こと?」
祥子の顔が固まる。優の言葉は聞こえていたが理解できない、否、理解したくないというその表情。
……早くも後悔が滲み出してくる。今の言葉を取り消せるなら、この命も差し出せそうなくらいに。彼女のためといくら自分に言い訳してみても、自分の言葉は間違いなく祥子を傷つけるから。
「……悪いけど、男しか恋愛の対象にはならないんだ、僕は」
それでも、告げよう。
敢えて言うなら、傷つけることこそが目的なのだから。
自らを偽り、従妹を欺く。
「だから君も僕なんかに縛られないで自由に恋をして、外に恋人を持ってくれて構わない。君に子供が生まれたら、ゆくゆくはその子を僕達の籍に入れて、小笠原を継いでもらえばいいと思う。
多少なりとも血縁ではあるわけだし、なにより君の子なんだ。可愛がれないはずはない。
僕はそう思っているよ」
──壊れた。
今、二人が築き上げてきた絆を、間違いなく壊してしまった。音が立たなかったのがいっそ不思議なくらい、完全に。
血の気が引いた、祥子の顔。微かに震える唇。
それを直視して尚平静さを装うのは、恐ろしく困難だった。
あとほんの数秒でもこのままならば、おそらく自分は逃げ出してしまう──
「……出て行って」
「ん? 出て行けといわれれば出て行くが、どうして急に──」
「いいから出て行って!!」
怒鳴る祥子。その声は悲鳴に近く、また事実としてそうだった。
──これで、いい。
部屋を出た優は、大きく息を吐き出した。
何もかも、結婚相手すらも己の意思に拠らずに決定されてしまった祥子。ならばせめて、恋愛くらいは自由にさせてやりたいと思った。小笠原の男達も少なからずしていることだ、文句を言われる筋合いはない。
可能な限り軽い口調で、不誠実な提案をした。あまつさえ、自分は男色であるなどと騙った。潔癖症の彼女のことだから、こうでもしないとたとえ優が構わないと言っても外に恋人を持つような真似はできないだろう。
信頼していたのに裏切られた、そう思ってくれればいい。何も出来ない優に、彼女が余計な負い目を持つ必要はないのだから。
“小笠原”に縛られずに好きな人を見つけて、幸せになってほしい。
それだけが、己の存在自体が枷であると知った優の、ただ一つの願いだった。
◇◆◇◆◇◆
「柏木さんじゃ駄目なの!」
何も知らないはずの少女の声が、優を打ちのめす。
柏木優では駄目だなんてこと、祖父との会話のとき思い知っていた。今更誰かに言われたところで何の新鮮味も無い。
だから、彼女の言葉なぞ気にするほどのことでもない。それでもこの身は祥子を追わなければならないのだから。
キスを拒まれ叩かれてしまったのは、この際関係ない。柏木優が男色であるなどという噂があまり広まっては将来的にあまり愉快でない事態を招くことがあるかもしれない、そんなことを考えて慌てたあげく、誤魔化すことを最優先においてしまった自分が悪いのだ。
『あの時』以来悉く自分との接触を避けていた祥子の心情くらい、ほんの少しでも頭が回れば理解できそうなものではないか。誠心誠意、謝らなくてはならないだろう。
……問題はその前。婚約破棄を、それも今になって言い出した彼女の本心を確かめ、翻意を促さなくてはならない。小笠原を背負う者として、彼女が見せた意思はとうてい許容し難いものだった。
それは、『小笠原祥子』が選んで良い道ではない。そんなことは、判りすぎる程に判りきった事実だ。
──では、なぜ。
なぜこの身体は、祥子を追おうとしないのか。
福沢祐巳が駆けてゆく。その後姿を、優は呆としたまま見つめていた。
理由など知らない。ただ、脚が動いてくれない。否、脚のみならずこの身体全てが、自分の理性を裏切っている。
どこにでもいるような平凡な少女、祐巳の言葉。それがなぜ、優をこの場に縫いとめる──?
……深い緑色をした制服が、視界から消えていく。そうしてようやく、優は金縛りにも似た硬直から解放された。
──一体、どうして、僕は。
染み抜きがどうのと言っている麗しの紅薔薇さまの声も、今はほとんど聞こえない。
ただ引き立てられるのに合わせ、条件反射的に歩みを進めるのみ。
不審と敵意を込められるだけ込めた少女達の視線すら、今の彼には届かない。
柏木優をして自失へと至らしめたその言葉が、ただただ耳の奥で繰り返される。
──柏木さんじゃ、駄目なの!
知っている。そんなことはとうの昔に知っている。
血を吐くような憤りと鉛のような無力感に苛まされながら、しかしどうしようもないのだと受け入れた。あれほど苦い経験は後にも先にもありはしない。
だがなぜか、違うと感じた。
彼女が言ったことばには、今まで自分が思っていたのとは全く違う意味があるのではないか、と。
実のところ彼女本人としては、今この場で優が祥子を追いかけてもどうにもならないというような意図しかなかっただろう。
だが無意識に、しかしこの上なく的確に。彼女は優の過ちを指摘していた。
自失してしまったのはおそらくそのせいだ。無意識レベルで、自分は何かに気がついた。
なのにその正体をまるで理解できず、そして今もまた囚われている。
更衣室に辿り着いたところで改めて厳命されたため、安物の操り人形のような動きで衣装を着替える。しかしその間にも、思考はループをやめようとしない。
なぜ。
何が。
どうして……?。
そうして回り続ける疑問の中、ふと。
幼い頃から見てきた従妹の、自らに敗北を許さず高潔なまでに闘い抜くその姿が、脳裏を掠めた。
◇◆◇◆◇◆
「昨日は叩いてごめんなさいね」
昨日の今日だが、祥子は平静だった。それどころか、自らこちらへ歩み寄り、微笑みかける余裕すら見せた。それに比べて我が身はと言えば。
「参ったよ。ギンナンの染みはとれたけど臭いが残っちゃって」
間違いに気づいておきながら、他にどう振舞えばいいのかわからずに。今まで通り、『柏木優』を演じ続けている。
◇◆◇◆◇◆
ワンツースリー、ワンツースリー。
祥子と優を主役に据えた舞踏会は、いよいよクライマックス。
ダンスが始まってからヒールで踏まれた回数は既に二回。彼女の腕前を考えれば故意だとしか考えようがないわけだが、そのくらいは甘んじて耐えよう──
「っ!」
……などと考えているうちに三回目。ハイヒールで、しかも三度続けて寸分の狂いも無く同じ箇所を踏みつけられた。
まさか練習したりしてないよな? と冷や汗をかく。踊る祥子の微笑みは本物で、客どころか部隊袖で出番を待つ他の役者達すら、彼女の華麗なる蹴撃(!)には気づいていないに違いない。
脳天にまで響く激痛を顔に出さぬよう気をつけつつ、優は思った。自分は結局、どこまでもエゴイストだったのだな、と。
一体誰が、助けを求めた?
一体誰が、救いを願った?
小笠原祥子が、そんなことを望んだか?
否、断じて否だ。自分は見ていたはずではないか。闘い続けるその姿を。
“小笠原”であるが故のその姿勢であると思った。“小笠原”さえ背負わずに済むなら、彼女はもっと穏やかに生きられると思った。
なんと無様な思い上がりであることか。
“小笠原”も含めた全てを引き受け、闘いながら生きていく。それこそが、祥子の選んだ道であった。自分が考えていたことは、彼女への侮辱に他ならない。
共に闘うこと。彼女がそれに疲れたとき、そっと支えてあげること。それが、優の選ぶべき在り方だったのだろう。
……そう。それは過去形。今となっては意味を成さない空想に過ぎない。己を偽り祥子を欺いたあの瞬間から、自分は永遠にその資格を失った。
だから、優は彼女に託す。
その子の名前は福沢祐巳。祥子が妹(プティ・スール)にと望んだ少女。
自分のようにくだらないことを考えたりせず、ただ真っ直ぐに祥子を想う彼女なら、決して間違えることはないだろう。
聞けば、祐巳は一度祥子を拒絶しているとか。だが、昨日の二人を見る限り、時間の問題だろうと優は思っていた。
──リリアンの学園祭から数日後。
優は、自分の予想が正しかったことを、風の噂で聞くことになる。
◇◆◇◆◇◆
「そんな目をしたって駄目だよ。これ以上のヒントはあげない」
自分の言葉に不満げな表情をする祐巳。相変わらず表情が豊かで面白い。
本当は、はっきりと言葉にしてしまっても構わないのだし、そうした方が良いのではないかとも思う。が、優はあえてぼかした言い方をした。
こと人間関係についての自分の考察なんて、どうせ間違っているに決まっているのだ。
……まあ、それも所詮は言い訳で。ちょっと意地悪してみたい気持ちがあるのは否定できない。自業自得とはいえ、祥子の隣をあっさりと奪われてしまった悔しさは確かに存在するのだ。この辺り、あの水野蓉子嬢も似たようなことを思っているのではないかと、優は密かに睨んでいる。もっとも、あの学園祭以来、彼女には蛇蝎の如く嫌われているので確認のしようがないのだが。
そんな意地悪が出来るのも、結局のところ祐巳を信頼しているからだ。自分の力で答えを見つけられると、信じているからだ。
(僕にここまで信頼されるっていうのは、結構凄いことなんだよ、祐巳ちゃん)
そうしてクスっと笑いかけ、優は『柏木優』へと立ち戻る。
過ちから被り始めた仮面ではあるが、こうまで続けていれば愛着も出てくる。
祐巳曰く「何も考えてなさそう」な自分を演じるのも、それはそれで楽しいのだ。後数年は、このままでいるのも悪くないと思っている。
この先祥子と祐巳が歩む道がどんなものかなんて、優は知らない。
彼が確信しているのはただ一つ、祥子が幸せになるという結果のみ。そして、それで十分だろう。
柏木優がそのために出来ることなんて、そう多くはない。だが、今の自分にしか出来ないこともある。即ち──
「さて、どうお祖父様を説得したものかな?」
──婚約解消のための根回し。遠からず祥子は自らそれを祖父へと申し出るに違いない。それがスムーズに進むよう、優は己が全知全能を傾けるつもりだ。彼にできる罪滅ぼしなんて、もうそのくらいしか残っていないだろう。
祐巳が祥子の部屋へと去る。
姉の様子に何かを感じたらしい祐麒が問い詰めてくるのを適当にあしらいつつ、優は胸中でそっと呟いた。
頼んだよ、祐巳ちゃん、と。
************
<後書き(2005年公開時のものをそのまま掲載しています)>
私は一巻の頃から、妙に柏木優というキャラに愛着があるんですよ。こういう「デキる」人になりたいなと。
あ、いえ、あんな風に気障ったらしく振舞いたいわけではないんですが(汗)
まあそういうわけで、彼について考察してみたわけです。
その中で思ったのが、「コイツほんとに同性愛者なのか?」ということ。
基本的に作中の彼は祐巳視点によってのみ描写されているわけですが、それを見ていると、どうしても彼の行動が演技にしか見えない。祐巳曰く「何を考えているのか、どういう人なのか、わからない」(『薔薇のミルフィーユ』P.154より)彼の振る舞いは、彼が何らかの意図を以って作り上げた虚構ではないかと思ったのです。
とにかく、彼の言動、そこから受ける『柏木優』の印象と、祐巳によって語られる彼の姿との間には著しいギャップがありました。思い返してみれば、マリみてにはまった当初からそうした思いは漠然と私の中にあったのです。
祐麒に対する態度にしたところで、私には彼一流の冗談に思えました。
ではなぜ彼は自分を偽るような真似をしているのだろうか。よりにもよって男色家を騙るのは、どんな理由があってのことなのか。
そう悩んでいた折、ふと昼寝から目覚めたときに思いついたのがこの話です。
祥子を守りたいという思いが強すぎて、彼女の持つ強さが見えていなかった。それが柏木優の過ちである。
そのコンセプトを元に、話を組み立てていきました。
ので、『薔薇のミルフィーユ』読後は本当に焦りました。
どう誤魔化しても、
>「……そう言って、祥子さまの方から婚約を解消するようにし向けたんだわ」
>「そうか」
> 答えは必要なかった。柏木さんの瞳が「正解」と言っていた。
(『薔薇のミルフィーユ』P.180)
という記述と矛盾してしまうからです。
……仕方ないので無視することにしました(ぇ
この点さえ除けば、後は大体原作準拠のはずです。
表現力の不足からくる執筆意欲の低下に悩むこと半年以上、ようやく完成したわけで、私としても感無量です。それだけあって思い入れが大きく、こうして馬鹿みたいに長いあとがきにお付き合いいただいているわけですが(苦笑)。
最後にもう一つ。
この話の中で、優はある事実に最初から最後まで気がついていません。
すなわち、
>祥子さまは、確かに柏木さんを好きだったんだから。
(無印 P.230)
ということに。
祥子を縛り付けてしまうという絶望で一杯になって、肝心の祥子の気持ちにはまるで目を向けないまま。恋愛くらいは自由に、という彼の願いも、裏を返せば自分の罪悪感を軽減するための行為です。そういう意味でも、彼はエゴイストなのでした。
このSS内でも、優のそうした面を微妙に出してはいるのですが、気がついた方はいらっしゃいますかね?w
SS『truth』(マリア様がみてる)
聖が珍しく真面目に机に向かい、よしっと気合を入れたまさにその時。携帯電話がメロディーをかなで、メールの着信を伝えた。
少々がくっとしつつ見てみると、蓉子からのものだった。なんでも、明日自分達が一年生だった頃の山百合会のメンバーでお茶会をするのだそうだ。
随分突然だなあとは思うが、別に異論はない。むしろ歓迎したい気分だ。
一、二年生の頃は山百合会にそれほど愛着はなかったので、お姉さま以外のメンバーとは、「おばあちゃん」の涼子さまを除けばほとんど会話もしなかったような気もするが、今となってはとても懐かしい。
思えば愛し、とはよく言ったものだ。みんなどうしているだろう。
ただ、一つだけ問題があった。どうしてよりによって明日なのだろうか。明日までに提出しなければならないレポートが白紙のままで、徹夜を覚悟したところだというのに。
考えうる限りで最悪のタイミングだ。
「お姉さま方と会うのに、あくび連発してちゃマズいよね、やっぱし」
聖はぽりぽりと頭を掻いた。
いや、あくびで済めばまだいい方だ。睡眠が足りないときの自分は、まるで猫のように場所を選ばず眠ってしまうということを、聖はよく知っていた。こりゃ即行で終わらせて、少しでも寝ないと、と決意する。
……そこで重要な問題に気がついた。すなわち、自分は起床できるのかどうか。
蓉子にモーニングコールを頼んでおこうかなと考える。
情けないことをかなり真剣に悩んでいると、またメールがきた。やはり蓉子から。
『飛鳥さまからの伝言。「久しぶりに二人で話したいから、少し早めに来なさい」とのことだったわ。確かに伝えたわよ』
「お姉さまがねえ……」
聖は一人ごちた。
◇◆◇◆◇◆
「ごきげんよう、お姉さま。お久しぶりです」
「ごきげんよう、聖。……具合が悪そうだけど、大丈夫?」
「アハハ。まあ、自業自得ですから」
「あら、そうなの」
翌日。
レポート作成に手間取り、結局睡眠時間がほとんど取れなかった聖は、徹夜明け特有の体の芯に重くのしかかってくる疲労をなんとかこらえつつ、大学へ行ってレポートを提出。その足で待ち合わせ場所へと向かった。
電車の中でうっかり眠ってしまい、危うく駅を乗り過ごしてしまうところだったが、間一髪で目を覚ました聖である。
久しぶりに会った飛鳥さまは、ますます美しさに磨きがかかっていて。しかしその一方で、あの頃とまったく同じいたずらっぽい笑みで聖を迎えてくれて、聖はなんだか凄く安心した。
「それにしてもどうしたの?」
「いえ……今日中に提出しなければならないレポートを、徹夜で仕上げていたので」
聖がそう言うと、飛鳥さまは少し顔を曇らせた。聖としては、そんな顔をしてほしくて言ったわけじゃない。
「まあそんなわけで、単に寝不足なだけなんです。病気とかじゃありませんから、ご心配なく。それに、レポートはもう出してきましたし。」
ニヤッと冗談っぽく笑いかけると、飛鳥さまは一瞬目を丸くし、そしてクスリと笑った。
よかった、と聖は思った。卒業してまで心配かけたりしては、あまりにも申し訳なさ過ぎる。
「ごめんなさいね、急に呼び出すようなことになってしまって」
「いえいえ。……ところで」
聖は気になっていたことを言うことにした。
「なあに?」
「二人だけで、ということは、他の皆様のいないところで話したいことがある、ということですよね?」
「ええ。……そうね、立ち話もなんだから、どこか喫茶店でも入りましょうか」
飛鳥さまはそう言って微笑んだ。
◇◆◇◆◇◆
それにしても、と聖は思った。喫茶店のコーヒーは、どうしてこう、馬鹿みたいに高いのだろうか。
いや、別にコーヒーだけではないが。
しかし、家で飲むなら多分二十円や三十円で済むものにその二十倍前後の金額を払うのは、やはり理不尽な気がする。その上、大して美味なわけでもないし。
……というようなことを、注文を済ませた後の待ち時間に率直に言ってみると。飛鳥さまは苦笑した。
「地価も人件費も、東京は高いものね。空調なんかも馬鹿にならないでしょうし税金もかかるんでしょうから、多少高いのは仕方がないわ。
いつのまにかこの値段に慣らされてしまっていると考えると、ちょっと怖い気もするけれど」
でも、と眉をひそめ、飛鳥さまは続けた。
「お店に入って堂々と『美味しくない』なんて言うのはマナー違反よ、聖。気をつけなさい」
「はーい」
どうせ店員はバイトだろうからそんなことはあんまり気にしないだろう、とは思ったが、姉に久しぶりに注意されたのがなんとなく嬉しくて、聖は素直に返事をした。
祥子に小言を言われている時の祐巳ちゃんの気持ちが、ちょっとだけわかった気がする。
(そういえば、この前蓉子とデートした時にも……)
そうそう。あの時は、
「ファミレスのコーヒーは、インスタントコーヒーよりも不味いと思うんだけど、どう?」
と聞いて、ちょっと嫌な顔をされたのだった。
むむ、自分のこういうところは、ひょっとして直した方がいいのだろうか。
……などと考えていると。
「ご注文の品、お持ちしましたあ」
ウェイトレスがやってきてちょっと舌足らずな声でそう言って、二人の前にそれぞれの飲み物を置いた。
聖はコーヒー。飛鳥さまは紅茶。二人で違うものを頼んだけれど、これはリリアンですごしたあの当時と同じ。
ミルクや砂糖を入れずストレートで飲むのを好むのが、姉妹の共通点だった。
カップを取り上げ、飛鳥さまのカップにカチリと合わせてから一口飲む。……ん?これは思ったより……。
「結構美味しいじゃない」
一瞬、無意識のうちに口に出してしまっていたのかと思ったが違った。声の主は飛鳥さまだったのである。
「聖、貴女のコーヒーはどうだった?」
「こっちもなかなかのものでしたよ」
問われて聖は答えた。
「なんだか、ちょっと嬉しいわね」
「確かに」
そうして、二人でクスクスと笑いあう。なんだか懐かしい雰囲気だ。
久しぶりに会うということで正直少し緊張していたのだが、そんな必要はなかった。姉妹は卒業してもやっぱり姉妹。飛鳥さまは聖の姉で、聖は飛鳥さまの妹のままだ。二人は確かな絆でつながっているのである。
……って、なんか思考が祐巳ちゃんになってるような。
(あー、なんか安らぐなあ)
そう思っていたら、不意に眠気が襲ってきた。心が緩みすぎたのかもしれない。
慌ててコーヒーをとり、二口ほど飲んでからふと飛鳥さまの方を見ると、まだクスクス笑っていた。ただし、先程とは違って随分意地の悪い笑みである。
(……見抜かれてる?)
聖は苦笑し、両手を挙げて『降参』の意を示した。
それから、いろいろな話をした。
と言っても、実際は聖が飛鳥さまを質問攻めにしていたのだけど。
なんでも飛鳥さま、大学では随分とおモテになるらしい。さもありなん、と思う。聖が男でも、間違いなく惚れていただろう。
なのに未だに、生まれた時から続く『彼氏いない歴』を更新し続けているのだそうだ。
「この人、って思える人がなかなかいないのよ。女子校育ちで、理想が高くなりすぎたのかもしれないわ」
というのが、飛鳥さまのお言葉だった。その方がなんとなく嬉しかったりするのは、妹としてどうなのだろう。
聖は?と聞かれたので、なんといっても大学部唯一の薔薇さま経験者ですから、と胸を張ると、大爆笑された。
こうまでウケると、言った甲斐があるというものだ。
やがて、二人のカップがほぼ同じくらいに空になる。その時になって、聖はようやくこの喫茶店に来たそもそもの目的を思い出した。
「あの、お姉さま?」
「なあに?」
帰り支度に入っていた姉は、動きを止めて言った。
「結局、お話ってなんだったのでしょうか?」
あんまり楽しかったので忘れていたが、そもそも「話したいことがある」と言われて来たのである。ところが、これまでそれらしい話はまったく出ていない。
「……ああ、そうね」
そうだったわね、と言いながら、飛鳥さまはなぜか苦笑した。
「?」
「こうして話していて、もう改めて聞くまでもないかなと思ったから特に言わなかったのだけれど」
「はあ」
なんのことやらわからないのですが。そう思って、間抜けな返事をしてしまった。
……が。
次の飛鳥さまの言葉で、聖は一瞬、凍りつくことになる。
「二年前のクリスマス・イブ。貴女、私の家に泊まったじゃない?」
二年前の。
クリスマス・イブ。
「───────────っ!!」
それは、“彼女”が聖の元から去った日。
身を切るほどにつらい別れを経験した日。
この心に、癒し難い傷を負った日。
……でも。
「そう、でしたね。お姉さま」
聖はうっすらと笑った。
笑えた。
そう、あの日は、決してつらいだけの日ではなかったから。
姉と親友の優しさに支えられ、自分を愛し見守ってくれる人がいることの幸せを、知ることができた日でもあったから。
飛鳥さまはちょっと微笑んで、言った。
「あの夜、私が言ったことを覚えているかしら?」
聖はコクリとうなずいた。言葉にするまでもない、当然のことだ。
「そう、よかった。
では聖。教えてもらえる?今、貴女の瞳に映る、“真実”を」
聖はそっと目を閉じた。
思い出すのは、あの聖なる夜。
蓉子と、そしてこの姉と過ごした、十七回目のバースデイ。
◇◆◇◆◇◆
[二年前のクリスマス]
飛鳥さまの家に到着すると、飛鳥さまと蓉子は有無を言わせず聖を浴室へと追いやった。
「とにかく早く温まりなさい」
異口同音にそう言われると、もう抵抗する気など欠片も起こらない。なんでも、二人は一度帰宅して入浴も済ませているのだそうだ。
……当たり前か。
「私たちのことは気にしなくていいから、ゆっくりと入っていらっしゃい。
いいわね?」
そう言って飛鳥さまが脱衣所の扉を閉じ、聖は一人になった。
不意に、ブルッと体が震える。一人になった途端、寒さを思い出したかのようだ。脱衣所は電気式のヒーターによってそれなりに暖められてはいたが、真冬の夜に六時間も外にいて芯まで冷え切った身体には、完全に無力だった。
ほとんど無意識のうちに服を脱いでいった聖は、ふと鏡を見た。映っているのは、涙の跡がくっきり残った聖自身の顔。目がまだ赤い。
ヒドい顔、と聖は思った。
お姉さまの家なのだ。お湯にしろシャンプーにしろ、遠慮して使わなくては。普通ならそう考えるところだろう。しかし、今の聖にはそんな当たり前の礼儀すら億劫で仕方がなかった。
壁の金具にシャワーのノズルを引っ掛けて、蛇口を一気にひねる。温かい、と思っていられたのは最初の十秒くらいで、すぐに耐え難いほど熱くなった。
だが、聖はそれを無視しようと努めた。どれほど熱く感じたとしても、火傷をすることなどない。すっかり凍えてしまっている身体は、温度を感じ取る感覚が狂ってしまっているのだと、聖はわかっていた。
だが。そうした理性的な理由とは別に、とにかく自分を痛めつけてしまいたいと言う気持ちも、聖の中にはあるのだった。
飛鳥さまと蓉子の優しさは、聖の心を確かに楽にしてくれた。しかし、それだけで割り切ってしまうには、栞への想いは、そして彼女への罪悪感は、あまりにも強すぎたのだった。
……それでも。身体が温まると、心も少しずつほぐれてくるものらしい。頭も身体も洗い、湯船につかりながら、聖は他人事のようにそう思った。
飛鳥さまも、ある程度はこうした効果を期待していたのだろう。以前、栞との関係、栞への気持ちについて思い悩んだ時に読み漁った本の中にも、こんなシーンがいくつかあったような気がする。
まさか自分がその当事者になろうとは思いもしなかったが。
思考がまたしても自虐的な方向へ向かっているのに気が付き、聖は軽く頭を振った。
自分が一人きりならそれでもいい。己の惨めさをあざ笑い、栞の運命を捻じ曲げてしまったことへの罪の意識にさいなまれ、どこまでも堕ちてゆく。それは、当然の報いとも言える。
だが、聖には姉である飛鳥さまがいた。友人である蓉子がいた。こんな自分であっても、案じてくれる人たちが、今ここに少なくとも二人いる。
今また自分を貶めるのは、彼女たちへの裏切りに等しい。せめて、二人に微笑み返せるくらいには回復しなければ、と思った。
たとえそれが、見せ掛けだけのものだったとしても。
脱衣所へ出てみると、何故か聖がいつも家で着ているパジャマと下着があった。
だが、もう驚きはしなかった。飛鳥さまが気をまわして、家から持ってきてくれたのだろう。あるいは、母が届けてくれたのかもしれない。
衣類を身につけてから、鏡を見る。そうして、無理やり笑顔を作ってみた。
姉が「好きだ」と言ってくれた顔では、おそらくないだろう。それでも、先程と比べれば随分とましなはずだった。
身体が温まったことで、精神も───少なくとも表面は、かなり楽になった。
壁にかかった時計を見ると、すでに午前一時を大きく回っている。待たせてしまったかな、と思い、ちょっと急ぐことにした。
部屋に入ると、飛鳥さまはこちらを向いて唇に人差し指をあて、「静かにね」と言った。
部屋の明かりはテーブルの上のクリスマスキャンドルらしきろうそくの火だけだったので、初めは気が付かなかったのだが、よく見てみれば蓉子がベッドに寄りかかって眠っていた。
「頑張って待っていたのだけれど。やっぱり疲れていたのね」
飛鳥さまは薄く微笑むと、蓉子にそっと毛布をかけてやった。
それほどまでに心配させていたのか。飛鳥さまは言わなかったが、聖はそう思い当たった。蓉子は優等生だから夜更かしに慣れていないのかな、などと、一瞬でも思った自分を、聖は恥じた。
起こしたらいけないと思い、心の中で「ごめんなさい」と謝った。
「いつまで突っ立っているの。こっちへいらっしゃい」
飛鳥さまは蓉子の隣に少し離れて腰をおろすと、さらにその隣を手でぽんぽんと叩き、聖を呼んだ。言われるままに腰を下ろす。
一瞬ちらりとこちらを見てから、飛鳥さまはキャンドルの方へと視線を向けた。そしてその澄んだ瞳で、揺らめく炎をじっと見つめている。
そうしなさい、と言われているような気がして、聖は飛鳥さまの肩にそっと身体を預けた。
見つめることもなく、何か言うでもなく、ただ側にいて支えてくれるこの姉の存在がとても嬉しかった。
無言のままで、しかし同じものを見つめて。そうしていると、飛鳥さまの優しさが、少しずつ伝わってくる気がした。
少しずつ、傷が癒えていくように思った。
やがて、キャンドルの炎が眠たげに二、三度瞬き、フッと消えた。暗闇が部屋を支配する。そこで不意に、飛鳥さまが口を開いた。
「貴女は、真実は一つ、と思い込んじゃうタイプね」
ギリギリ聞こえるかどうか、というくらいの、小さな囁き。
心持ち低めの、かすかに甘いその声の心地よさに、聖の反応は一拍遅れた。
「……よく、わかりません」
正直に答えると、空気が少し揺れた。多分、飛鳥さまが笑ったのだろう。
「貴女はね。多分、普通の人より深く物が見えてしまう人なのよ」
「…………?」
言い直したその言葉も、やはり意味がわからない。と言うより、何か繋がりがあるのだろうか。
それで、黙り込んでいると。
「それがいつのことなのか、私にはわからないけれど。
あなたが初めてこの世界に目を向けた時、貴女はその洞察力で、ものごとの裏にある嫌な部分を見抜いてしまったのだと思うわ。
そして、それを自分の中で“真実”にしてしまって、生きてきた。
栞さんに出会ってからは特にそうだったようだけれど、貴女は自分を取り巻く環境のほとんど全てに嫌気がさしていた。
そうして、そんな自分が何よりも嫌いだった。
違う?」
「…………」
たったの一年。二人の年齢には、たったそれだけの違いしかないはずなのに。
お姉さま、という存在は、これほどまでに妹のことを理解できてしまうものなのか。
聖は否定の言葉を持たなかった。唯の一つも、持ち得なかった。
再び聞こえてきた飛鳥さまの言葉からは、ほんのり含まれていた甘さが消えていて。その代わり、僅かに厳しさが加わっていた。
「だけどね、聖。
いくらそれらしく見えたって、世の中には、特に人間関係には、絶対の真実なんて存在しないの。
貴女は自分で自分を縛っているだけ」
言っている内容そのものは、別に目新しいものではない。要約すれば、“ものごとを前向きに見なさい”という、ただそれだけのこと。自己啓発の本なら大抵は書かれていそうな、むしろ陳腐と言ってもいい内容だ。その手の本を見かける度、それができれば苦労はしないよ、と聖は思ったものだった。
だが、飛鳥さまの言葉は違った。この胸の奥の奥まで、スルリと入り込んでくる。
多分それは、不特定多数へ向けた無責任な言葉ではなく、自分のことを誰よりも理解し見守ってくれる、お姉さまの言葉だからだ。
聖はそう思った。
「私はね、聖。貴女に笑っていてほしい。幸せそうに、笑っていてほしいの。
貴女は、とても素敵な笑顔を持っているじゃない」
「……っ!?」
聖は反射的に飛鳥さまの方へ顔を向けた。姉の言葉にごく微量の、こうして身を寄せ合っていなければきっと気付けなかったであろう程に微量の、負の感情が混じっているのを感じたから。
「……今の貴女にこんな説教じみたことを言いたくはないのだけれど。でも、栞さんが去った今日だからこそ、私は言わなくちゃいけない。
久保栞さんこそが、貴女をもっとも強固に縛り付けていた“真実”だと思うから。
そう。他の誰でもなく、私ですらなく、栞さんが」
「えっ……?」
部屋の明かりは、遠くの街頭の光が遠慮がちに差し込んでいる程度。互いの顔がなんとか判別できる、そのくらいの明るさしかない。この暗い部屋の中で、なぜこうもはっきり見えるのか。聖にはわからない。
だが。
そう言って飛鳥さまが振り向いた時、聖は確かに“見た”。
─────優しい姉の頬を伝う、一筋の涙を。
ふと我に返ってみると、聖は左手を伸ばし、姉の頬に触れていた。
今更引っ込めることもできず、そっと涙をぬぐうと、飛鳥さまは二、三度瞬きをした。
自分が涙を流していたことに、まったく気が付いていなかったように。
「……何故、涙を?」
やっとしぼり出した言葉は、あまりにも直接的に過ぎると思った。舌打ちしそうなのをこらえて、返事を待つ。
すると、飛鳥さまは微笑んだ。どこか無理のある笑顔だった。
「……そうね。多分悔しかったのよ、私は」
「…………」
再び視線を正面へ戻して、飛鳥さまは続けた。
「私が一年間付き合って一度も見ることができなかった笑顔を、栞さんはあっさり引き出した。
私が一年間かけて理解した貴女の心を、栞さんはほんの数回会っただけで、私よりずっと正確に感じ取った。
一年間経っても、私は貴女にとって、精々『晴れた日の日傘』程度の存在でしかなかったのに、栞さんはあっという間に貴女の“全て”になった」
「それは……!!」
「私は、貴女の姉だというのにね」
「っ……」
寂しそうな微笑みは、口を挟むことを許してはくれない。
「そう……。私は、栞さんに嫉妬しているんだわ」
震える声に、聖の心はズキリと痛んだ。
自由に、心の赴くままに振舞うことを許してくれた飛鳥さま。この姉のことを、自分は一度でも省みたことがあっただろうか。
感謝はしていた。だが、ほんの少しでも、姉の心情を思ったことがあっただろうか。
自分の行動がどれだけこの姉を苦しめていたのか、聖は初めて知った。後悔の炎に身を焼かれ、聖はたまらなくなって飛鳥さまに抱きついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉さま……。私が……私が……っ!!」
枯れてしまったに違いないと思っていた涙が、後から後から溢れ出す。姉の身体にすがり付いて、聖はただただ謝り続けた。
やがて、自分のものではない嗚咽がそこに加わって。二人はお互いの身体を抱きしめ、その温かさを感じながら、静かに泣いた。
そして。二人はようやく、本当の意味で姉妹になれたのだと。
聖は、そう思った。
「ねえ、聖」
「はい」
「蓉子ちゃんも、江利子ちゃんもいる。何より私が、貴女の側にいる。
私たちが手伝うから、……必ず、貴女を捕らえている牢獄から抜け出しなさい。
そして、違った“真実”を見つけるの。
これは私からの命令よ。いいわね?」
「……はい、お姉さま」
それは、この世で二人だけしか知らない約束。
聖なる夜に交わされた、大切な誓い。
◇◆◇◆◇◆
聖は瞳を開いた。飛鳥さまが、限りなく優しい微笑みを浮かべて見つめていてくれる。
「では、答えを聞かせてもらいましょうか」
「……少なくとも、悪くはないですよ」
飛鳥さまが卒業してからの日々を思い出す。たくさんの人と出会い、色々な経験をした。
本当に幸せだった。
そして勿論、今も。
万感を込めて、聖は繰り返した。
「本当に……悪くない」
飛鳥さまはコロコロと笑った。
「貴女ったら、前にも増してひねくれ者になったわね。そんなに幸せそうな顔をして、『悪くない』だなんて」
「そりゃ、私は『顔が好き』なんて言ってヒネた下級生を丸め込むような人の妹ですから」
「言ったわね、こら!」
飛鳥さまに軽く小突かれ、聖はわざとらしく悲鳴を上げた。こうしてふざけあえることが、たまらなく嬉しいと思う。
カウンターへ向かう飛鳥さまの後に続きながら、聖は心の中で言った。
(貴女の言葉が、私を救ってくれました。今の私があるのは、あの時貴女がいてくれたから。
本当に、ありがとうございます)
飛鳥さまが振り向き、ちょっとえらそうな顔を作って言う。
「今日はお姉さまのおごりよ。ありがたく思いなさい」
「はい、ごちそうになります」
聖は大仰に頭を下げた。
言葉にはしなかった自分の想いは、しかし確かに伝わったに違いない。
店を出て、先程の場所、皆との待ち合わせ場所へと向かって歩きながら、聖は密かにそう確信していた。
<了>
少々がくっとしつつ見てみると、蓉子からのものだった。なんでも、明日自分達が一年生だった頃の山百合会のメンバーでお茶会をするのだそうだ。
随分突然だなあとは思うが、別に異論はない。むしろ歓迎したい気分だ。
一、二年生の頃は山百合会にそれほど愛着はなかったので、お姉さま以外のメンバーとは、「おばあちゃん」の涼子さまを除けばほとんど会話もしなかったような気もするが、今となってはとても懐かしい。
思えば愛し、とはよく言ったものだ。みんなどうしているだろう。
ただ、一つだけ問題があった。どうしてよりによって明日なのだろうか。明日までに提出しなければならないレポートが白紙のままで、徹夜を覚悟したところだというのに。
考えうる限りで最悪のタイミングだ。
「お姉さま方と会うのに、あくび連発してちゃマズいよね、やっぱし」
聖はぽりぽりと頭を掻いた。
いや、あくびで済めばまだいい方だ。睡眠が足りないときの自分は、まるで猫のように場所を選ばず眠ってしまうということを、聖はよく知っていた。こりゃ即行で終わらせて、少しでも寝ないと、と決意する。
……そこで重要な問題に気がついた。すなわち、自分は起床できるのかどうか。
蓉子にモーニングコールを頼んでおこうかなと考える。
情けないことをかなり真剣に悩んでいると、またメールがきた。やはり蓉子から。
『飛鳥さまからの伝言。「久しぶりに二人で話したいから、少し早めに来なさい」とのことだったわ。確かに伝えたわよ』
「お姉さまがねえ……」
聖は一人ごちた。
◇◆◇◆◇◆
「ごきげんよう、お姉さま。お久しぶりです」
「ごきげんよう、聖。……具合が悪そうだけど、大丈夫?」
「アハハ。まあ、自業自得ですから」
「あら、そうなの」
翌日。
レポート作成に手間取り、結局睡眠時間がほとんど取れなかった聖は、徹夜明け特有の体の芯に重くのしかかってくる疲労をなんとかこらえつつ、大学へ行ってレポートを提出。その足で待ち合わせ場所へと向かった。
電車の中でうっかり眠ってしまい、危うく駅を乗り過ごしてしまうところだったが、間一髪で目を覚ました聖である。
久しぶりに会った飛鳥さまは、ますます美しさに磨きがかかっていて。しかしその一方で、あの頃とまったく同じいたずらっぽい笑みで聖を迎えてくれて、聖はなんだか凄く安心した。
「それにしてもどうしたの?」
「いえ……今日中に提出しなければならないレポートを、徹夜で仕上げていたので」
聖がそう言うと、飛鳥さまは少し顔を曇らせた。聖としては、そんな顔をしてほしくて言ったわけじゃない。
「まあそんなわけで、単に寝不足なだけなんです。病気とかじゃありませんから、ご心配なく。それに、レポートはもう出してきましたし。」
ニヤッと冗談っぽく笑いかけると、飛鳥さまは一瞬目を丸くし、そしてクスリと笑った。
よかった、と聖は思った。卒業してまで心配かけたりしては、あまりにも申し訳なさ過ぎる。
「ごめんなさいね、急に呼び出すようなことになってしまって」
「いえいえ。……ところで」
聖は気になっていたことを言うことにした。
「なあに?」
「二人だけで、ということは、他の皆様のいないところで話したいことがある、ということですよね?」
「ええ。……そうね、立ち話もなんだから、どこか喫茶店でも入りましょうか」
飛鳥さまはそう言って微笑んだ。
◇◆◇◆◇◆
それにしても、と聖は思った。喫茶店のコーヒーは、どうしてこう、馬鹿みたいに高いのだろうか。
いや、別にコーヒーだけではないが。
しかし、家で飲むなら多分二十円や三十円で済むものにその二十倍前後の金額を払うのは、やはり理不尽な気がする。その上、大して美味なわけでもないし。
……というようなことを、注文を済ませた後の待ち時間に率直に言ってみると。飛鳥さまは苦笑した。
「地価も人件費も、東京は高いものね。空調なんかも馬鹿にならないでしょうし税金もかかるんでしょうから、多少高いのは仕方がないわ。
いつのまにかこの値段に慣らされてしまっていると考えると、ちょっと怖い気もするけれど」
でも、と眉をひそめ、飛鳥さまは続けた。
「お店に入って堂々と『美味しくない』なんて言うのはマナー違反よ、聖。気をつけなさい」
「はーい」
どうせ店員はバイトだろうからそんなことはあんまり気にしないだろう、とは思ったが、姉に久しぶりに注意されたのがなんとなく嬉しくて、聖は素直に返事をした。
祥子に小言を言われている時の祐巳ちゃんの気持ちが、ちょっとだけわかった気がする。
(そういえば、この前蓉子とデートした時にも……)
そうそう。あの時は、
「ファミレスのコーヒーは、インスタントコーヒーよりも不味いと思うんだけど、どう?」
と聞いて、ちょっと嫌な顔をされたのだった。
むむ、自分のこういうところは、ひょっとして直した方がいいのだろうか。
……などと考えていると。
「ご注文の品、お持ちしましたあ」
ウェイトレスがやってきてちょっと舌足らずな声でそう言って、二人の前にそれぞれの飲み物を置いた。
聖はコーヒー。飛鳥さまは紅茶。二人で違うものを頼んだけれど、これはリリアンですごしたあの当時と同じ。
ミルクや砂糖を入れずストレートで飲むのを好むのが、姉妹の共通点だった。
カップを取り上げ、飛鳥さまのカップにカチリと合わせてから一口飲む。……ん?これは思ったより……。
「結構美味しいじゃない」
一瞬、無意識のうちに口に出してしまっていたのかと思ったが違った。声の主は飛鳥さまだったのである。
「聖、貴女のコーヒーはどうだった?」
「こっちもなかなかのものでしたよ」
問われて聖は答えた。
「なんだか、ちょっと嬉しいわね」
「確かに」
そうして、二人でクスクスと笑いあう。なんだか懐かしい雰囲気だ。
久しぶりに会うということで正直少し緊張していたのだが、そんな必要はなかった。姉妹は卒業してもやっぱり姉妹。飛鳥さまは聖の姉で、聖は飛鳥さまの妹のままだ。二人は確かな絆でつながっているのである。
……って、なんか思考が祐巳ちゃんになってるような。
(あー、なんか安らぐなあ)
そう思っていたら、不意に眠気が襲ってきた。心が緩みすぎたのかもしれない。
慌ててコーヒーをとり、二口ほど飲んでからふと飛鳥さまの方を見ると、まだクスクス笑っていた。ただし、先程とは違って随分意地の悪い笑みである。
(……見抜かれてる?)
聖は苦笑し、両手を挙げて『降参』の意を示した。
それから、いろいろな話をした。
と言っても、実際は聖が飛鳥さまを質問攻めにしていたのだけど。
なんでも飛鳥さま、大学では随分とおモテになるらしい。さもありなん、と思う。聖が男でも、間違いなく惚れていただろう。
なのに未だに、生まれた時から続く『彼氏いない歴』を更新し続けているのだそうだ。
「この人、って思える人がなかなかいないのよ。女子校育ちで、理想が高くなりすぎたのかもしれないわ」
というのが、飛鳥さまのお言葉だった。その方がなんとなく嬉しかったりするのは、妹としてどうなのだろう。
聖は?と聞かれたので、なんといっても大学部唯一の薔薇さま経験者ですから、と胸を張ると、大爆笑された。
こうまでウケると、言った甲斐があるというものだ。
やがて、二人のカップがほぼ同じくらいに空になる。その時になって、聖はようやくこの喫茶店に来たそもそもの目的を思い出した。
「あの、お姉さま?」
「なあに?」
帰り支度に入っていた姉は、動きを止めて言った。
「結局、お話ってなんだったのでしょうか?」
あんまり楽しかったので忘れていたが、そもそも「話したいことがある」と言われて来たのである。ところが、これまでそれらしい話はまったく出ていない。
「……ああ、そうね」
そうだったわね、と言いながら、飛鳥さまはなぜか苦笑した。
「?」
「こうして話していて、もう改めて聞くまでもないかなと思ったから特に言わなかったのだけれど」
「はあ」
なんのことやらわからないのですが。そう思って、間抜けな返事をしてしまった。
……が。
次の飛鳥さまの言葉で、聖は一瞬、凍りつくことになる。
「二年前のクリスマス・イブ。貴女、私の家に泊まったじゃない?」
二年前の。
クリスマス・イブ。
「───────────っ!!」
それは、“彼女”が聖の元から去った日。
身を切るほどにつらい別れを経験した日。
この心に、癒し難い傷を負った日。
……でも。
「そう、でしたね。お姉さま」
聖はうっすらと笑った。
笑えた。
そう、あの日は、決してつらいだけの日ではなかったから。
姉と親友の優しさに支えられ、自分を愛し見守ってくれる人がいることの幸せを、知ることができた日でもあったから。
飛鳥さまはちょっと微笑んで、言った。
「あの夜、私が言ったことを覚えているかしら?」
聖はコクリとうなずいた。言葉にするまでもない、当然のことだ。
「そう、よかった。
では聖。教えてもらえる?今、貴女の瞳に映る、“真実”を」
聖はそっと目を閉じた。
思い出すのは、あの聖なる夜。
蓉子と、そしてこの姉と過ごした、十七回目のバースデイ。
◇◆◇◆◇◆
[二年前のクリスマス]
飛鳥さまの家に到着すると、飛鳥さまと蓉子は有無を言わせず聖を浴室へと追いやった。
「とにかく早く温まりなさい」
異口同音にそう言われると、もう抵抗する気など欠片も起こらない。なんでも、二人は一度帰宅して入浴も済ませているのだそうだ。
……当たり前か。
「私たちのことは気にしなくていいから、ゆっくりと入っていらっしゃい。
いいわね?」
そう言って飛鳥さまが脱衣所の扉を閉じ、聖は一人になった。
不意に、ブルッと体が震える。一人になった途端、寒さを思い出したかのようだ。脱衣所は電気式のヒーターによってそれなりに暖められてはいたが、真冬の夜に六時間も外にいて芯まで冷え切った身体には、完全に無力だった。
ほとんど無意識のうちに服を脱いでいった聖は、ふと鏡を見た。映っているのは、涙の跡がくっきり残った聖自身の顔。目がまだ赤い。
ヒドい顔、と聖は思った。
お姉さまの家なのだ。お湯にしろシャンプーにしろ、遠慮して使わなくては。普通ならそう考えるところだろう。しかし、今の聖にはそんな当たり前の礼儀すら億劫で仕方がなかった。
壁の金具にシャワーのノズルを引っ掛けて、蛇口を一気にひねる。温かい、と思っていられたのは最初の十秒くらいで、すぐに耐え難いほど熱くなった。
だが、聖はそれを無視しようと努めた。どれほど熱く感じたとしても、火傷をすることなどない。すっかり凍えてしまっている身体は、温度を感じ取る感覚が狂ってしまっているのだと、聖はわかっていた。
だが。そうした理性的な理由とは別に、とにかく自分を痛めつけてしまいたいと言う気持ちも、聖の中にはあるのだった。
飛鳥さまと蓉子の優しさは、聖の心を確かに楽にしてくれた。しかし、それだけで割り切ってしまうには、栞への想いは、そして彼女への罪悪感は、あまりにも強すぎたのだった。
……それでも。身体が温まると、心も少しずつほぐれてくるものらしい。頭も身体も洗い、湯船につかりながら、聖は他人事のようにそう思った。
飛鳥さまも、ある程度はこうした効果を期待していたのだろう。以前、栞との関係、栞への気持ちについて思い悩んだ時に読み漁った本の中にも、こんなシーンがいくつかあったような気がする。
まさか自分がその当事者になろうとは思いもしなかったが。
思考がまたしても自虐的な方向へ向かっているのに気が付き、聖は軽く頭を振った。
自分が一人きりならそれでもいい。己の惨めさをあざ笑い、栞の運命を捻じ曲げてしまったことへの罪の意識にさいなまれ、どこまでも堕ちてゆく。それは、当然の報いとも言える。
だが、聖には姉である飛鳥さまがいた。友人である蓉子がいた。こんな自分であっても、案じてくれる人たちが、今ここに少なくとも二人いる。
今また自分を貶めるのは、彼女たちへの裏切りに等しい。せめて、二人に微笑み返せるくらいには回復しなければ、と思った。
たとえそれが、見せ掛けだけのものだったとしても。
脱衣所へ出てみると、何故か聖がいつも家で着ているパジャマと下着があった。
だが、もう驚きはしなかった。飛鳥さまが気をまわして、家から持ってきてくれたのだろう。あるいは、母が届けてくれたのかもしれない。
衣類を身につけてから、鏡を見る。そうして、無理やり笑顔を作ってみた。
姉が「好きだ」と言ってくれた顔では、おそらくないだろう。それでも、先程と比べれば随分とましなはずだった。
身体が温まったことで、精神も───少なくとも表面は、かなり楽になった。
壁にかかった時計を見ると、すでに午前一時を大きく回っている。待たせてしまったかな、と思い、ちょっと急ぐことにした。
部屋に入ると、飛鳥さまはこちらを向いて唇に人差し指をあて、「静かにね」と言った。
部屋の明かりはテーブルの上のクリスマスキャンドルらしきろうそくの火だけだったので、初めは気が付かなかったのだが、よく見てみれば蓉子がベッドに寄りかかって眠っていた。
「頑張って待っていたのだけれど。やっぱり疲れていたのね」
飛鳥さまは薄く微笑むと、蓉子にそっと毛布をかけてやった。
それほどまでに心配させていたのか。飛鳥さまは言わなかったが、聖はそう思い当たった。蓉子は優等生だから夜更かしに慣れていないのかな、などと、一瞬でも思った自分を、聖は恥じた。
起こしたらいけないと思い、心の中で「ごめんなさい」と謝った。
「いつまで突っ立っているの。こっちへいらっしゃい」
飛鳥さまは蓉子の隣に少し離れて腰をおろすと、さらにその隣を手でぽんぽんと叩き、聖を呼んだ。言われるままに腰を下ろす。
一瞬ちらりとこちらを見てから、飛鳥さまはキャンドルの方へと視線を向けた。そしてその澄んだ瞳で、揺らめく炎をじっと見つめている。
そうしなさい、と言われているような気がして、聖は飛鳥さまの肩にそっと身体を預けた。
見つめることもなく、何か言うでもなく、ただ側にいて支えてくれるこの姉の存在がとても嬉しかった。
無言のままで、しかし同じものを見つめて。そうしていると、飛鳥さまの優しさが、少しずつ伝わってくる気がした。
少しずつ、傷が癒えていくように思った。
やがて、キャンドルの炎が眠たげに二、三度瞬き、フッと消えた。暗闇が部屋を支配する。そこで不意に、飛鳥さまが口を開いた。
「貴女は、真実は一つ、と思い込んじゃうタイプね」
ギリギリ聞こえるかどうか、というくらいの、小さな囁き。
心持ち低めの、かすかに甘いその声の心地よさに、聖の反応は一拍遅れた。
「……よく、わかりません」
正直に答えると、空気が少し揺れた。多分、飛鳥さまが笑ったのだろう。
「貴女はね。多分、普通の人より深く物が見えてしまう人なのよ」
「…………?」
言い直したその言葉も、やはり意味がわからない。と言うより、何か繋がりがあるのだろうか。
それで、黙り込んでいると。
「それがいつのことなのか、私にはわからないけれど。
あなたが初めてこの世界に目を向けた時、貴女はその洞察力で、ものごとの裏にある嫌な部分を見抜いてしまったのだと思うわ。
そして、それを自分の中で“真実”にしてしまって、生きてきた。
栞さんに出会ってからは特にそうだったようだけれど、貴女は自分を取り巻く環境のほとんど全てに嫌気がさしていた。
そうして、そんな自分が何よりも嫌いだった。
違う?」
「…………」
たったの一年。二人の年齢には、たったそれだけの違いしかないはずなのに。
お姉さま、という存在は、これほどまでに妹のことを理解できてしまうものなのか。
聖は否定の言葉を持たなかった。唯の一つも、持ち得なかった。
再び聞こえてきた飛鳥さまの言葉からは、ほんのり含まれていた甘さが消えていて。その代わり、僅かに厳しさが加わっていた。
「だけどね、聖。
いくらそれらしく見えたって、世の中には、特に人間関係には、絶対の真実なんて存在しないの。
貴女は自分で自分を縛っているだけ」
言っている内容そのものは、別に目新しいものではない。要約すれば、“ものごとを前向きに見なさい”という、ただそれだけのこと。自己啓発の本なら大抵は書かれていそうな、むしろ陳腐と言ってもいい内容だ。その手の本を見かける度、それができれば苦労はしないよ、と聖は思ったものだった。
だが、飛鳥さまの言葉は違った。この胸の奥の奥まで、スルリと入り込んでくる。
多分それは、不特定多数へ向けた無責任な言葉ではなく、自分のことを誰よりも理解し見守ってくれる、お姉さまの言葉だからだ。
聖はそう思った。
「私はね、聖。貴女に笑っていてほしい。幸せそうに、笑っていてほしいの。
貴女は、とても素敵な笑顔を持っているじゃない」
「……っ!?」
聖は反射的に飛鳥さまの方へ顔を向けた。姉の言葉にごく微量の、こうして身を寄せ合っていなければきっと気付けなかったであろう程に微量の、負の感情が混じっているのを感じたから。
「……今の貴女にこんな説教じみたことを言いたくはないのだけれど。でも、栞さんが去った今日だからこそ、私は言わなくちゃいけない。
久保栞さんこそが、貴女をもっとも強固に縛り付けていた“真実”だと思うから。
そう。他の誰でもなく、私ですらなく、栞さんが」
「えっ……?」
部屋の明かりは、遠くの街頭の光が遠慮がちに差し込んでいる程度。互いの顔がなんとか判別できる、そのくらいの明るさしかない。この暗い部屋の中で、なぜこうもはっきり見えるのか。聖にはわからない。
だが。
そう言って飛鳥さまが振り向いた時、聖は確かに“見た”。
─────優しい姉の頬を伝う、一筋の涙を。
ふと我に返ってみると、聖は左手を伸ばし、姉の頬に触れていた。
今更引っ込めることもできず、そっと涙をぬぐうと、飛鳥さまは二、三度瞬きをした。
自分が涙を流していたことに、まったく気が付いていなかったように。
「……何故、涙を?」
やっとしぼり出した言葉は、あまりにも直接的に過ぎると思った。舌打ちしそうなのをこらえて、返事を待つ。
すると、飛鳥さまは微笑んだ。どこか無理のある笑顔だった。
「……そうね。多分悔しかったのよ、私は」
「…………」
再び視線を正面へ戻して、飛鳥さまは続けた。
「私が一年間付き合って一度も見ることができなかった笑顔を、栞さんはあっさり引き出した。
私が一年間かけて理解した貴女の心を、栞さんはほんの数回会っただけで、私よりずっと正確に感じ取った。
一年間経っても、私は貴女にとって、精々『晴れた日の日傘』程度の存在でしかなかったのに、栞さんはあっという間に貴女の“全て”になった」
「それは……!!」
「私は、貴女の姉だというのにね」
「っ……」
寂しそうな微笑みは、口を挟むことを許してはくれない。
「そう……。私は、栞さんに嫉妬しているんだわ」
震える声に、聖の心はズキリと痛んだ。
自由に、心の赴くままに振舞うことを許してくれた飛鳥さま。この姉のことを、自分は一度でも省みたことがあっただろうか。
感謝はしていた。だが、ほんの少しでも、姉の心情を思ったことがあっただろうか。
自分の行動がどれだけこの姉を苦しめていたのか、聖は初めて知った。後悔の炎に身を焼かれ、聖はたまらなくなって飛鳥さまに抱きついた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉さま……。私が……私が……っ!!」
枯れてしまったに違いないと思っていた涙が、後から後から溢れ出す。姉の身体にすがり付いて、聖はただただ謝り続けた。
やがて、自分のものではない嗚咽がそこに加わって。二人はお互いの身体を抱きしめ、その温かさを感じながら、静かに泣いた。
そして。二人はようやく、本当の意味で姉妹になれたのだと。
聖は、そう思った。
「ねえ、聖」
「はい」
「蓉子ちゃんも、江利子ちゃんもいる。何より私が、貴女の側にいる。
私たちが手伝うから、……必ず、貴女を捕らえている牢獄から抜け出しなさい。
そして、違った“真実”を見つけるの。
これは私からの命令よ。いいわね?」
「……はい、お姉さま」
それは、この世で二人だけしか知らない約束。
聖なる夜に交わされた、大切な誓い。
◇◆◇◆◇◆
聖は瞳を開いた。飛鳥さまが、限りなく優しい微笑みを浮かべて見つめていてくれる。
「では、答えを聞かせてもらいましょうか」
「……少なくとも、悪くはないですよ」
飛鳥さまが卒業してからの日々を思い出す。たくさんの人と出会い、色々な経験をした。
本当に幸せだった。
そして勿論、今も。
万感を込めて、聖は繰り返した。
「本当に……悪くない」
飛鳥さまはコロコロと笑った。
「貴女ったら、前にも増してひねくれ者になったわね。そんなに幸せそうな顔をして、『悪くない』だなんて」
「そりゃ、私は『顔が好き』なんて言ってヒネた下級生を丸め込むような人の妹ですから」
「言ったわね、こら!」
飛鳥さまに軽く小突かれ、聖はわざとらしく悲鳴を上げた。こうしてふざけあえることが、たまらなく嬉しいと思う。
カウンターへ向かう飛鳥さまの後に続きながら、聖は心の中で言った。
(貴女の言葉が、私を救ってくれました。今の私があるのは、あの時貴女がいてくれたから。
本当に、ありがとうございます)
飛鳥さまが振り向き、ちょっとえらそうな顔を作って言う。
「今日はお姉さまのおごりよ。ありがたく思いなさい」
「はい、ごちそうになります」
聖は大仰に頭を下げた。
言葉にはしなかった自分の想いは、しかし確かに伝わったに違いない。
店を出て、先程の場所、皆との待ち合わせ場所へと向かって歩きながら、聖は密かにそう確信していた。
<了>
SS『求め合う二つの魂・5』(GS美神)
ゆっくり、ゆっくりと覚醒しつつあった意識。
病は癒えた、のだろう。霊基構造を侵されていく耐え難い痛みが、今はない。彼は上手くやったようだ。いつもなら心配なんてしないでもすむが、今度ばかりは不安だった。文珠による時間移動なんていう、トンデモナイ手段。己の回復ではなく、夫の無事に安堵して、彼女はそっと息をついた。
だが、病の間にじわじわと毒に蝕まれていた身体は、いまだ本調子ではない。
重くのしかかってくるような疲労感。
どうにも拭えない気だるさ。
「あれから、もう五年か……」
そんな時、彼の声がした。
聞き間違いであるはずがない。
それは、彼女の耳によく馴染んだ、愛しい男の声だったから。
彼女が多少の努力を伴って目を開くと、日の光が差し込む病室の中、夫がいつのまにかベッドに腰掛けていた。
そして、手の中の写真を、いとおしむように眺めていたのだった。
「それ、何の写真……?」
彼女が声をかけると、夫──横島忠夫は彼女の方へと振り向いた。
どうやら驚かせてしまったようだ。彼の顔に一瞬戸惑いの色が浮かび、すぐに消えて微苦笑へと変わった。
『起こしてしまってすまない』
その表情にはそんな意味が込められているということを、彼女は理解した。
結婚してからもう五年、出会った頃から数えるともう十年以上も一緒にいる。以心伝心というやつだった。
と。彼が、にやりと笑った。
「君と結婚してるってことを十年前の『俺』に納得させるために、証拠として持っていった写真の内の一枚さ」
ホラ、と写真を翻す。
「っ!?」
だるさも眠気も吹っ飛んだ。
そこに写っているのは、ベッドで眠る美しい女性。
肩は剥き出しで、僅かに笑みを浮かべている。
とても幸せそうな……五年前の、彼女自身。
「す、捨てなさいって言ったじゃない!!」
「馬鹿を言うなよ。令子と初めて過ごした夜の記念じゃないか。
捨てられるわけ、ないだろ?」
頬を染めてわめく彼女──横島令子、旧姓美神──に、横島忠夫は飄々と答えた。
五年前の結婚式の夜、美神は初めて横島と夜を共にした。
この写真は、その翌朝に彼が撮影したものだ。
後になって、
「いやもう、なんかめちゃめちゃ可愛かったから……」
などという言葉と共に見せられた時には、顔から火が出るかと思った。
布団の下の身体が何一つ纏っていないということがあからさまにわかってしまう上、写真の中の彼女自身が浮かべる安心しきったような表情がどうにも気恥ずかしかったのだ。
捨ててくれと確かに言った、というか命令したはずなのだが、どうやら夫は見事に無視したらしかった。
「捨てられたらかなわんと思ってずっと仕舞っといたんだ。
過去の『俺』はえらく興奮していたよ。無理もないけどな」
「──っ!」
美神は歯噛みした。
病の後遺症であまり身体の自由が利かない彼女は、いつものように夫をぶん殴ることすらできない。精々瞳に力を込めて睨み付けるくらいしかないのだった。
しかも……おそらく夫は、そんな自分の表情をも楽しんでいるに違いない。
それも含めて、彼女は随分と腹立たしい思いをしていたのだった。
──少なくとも。
本人は、そう思い込んでいた。
◇◆◇◆◇◆
横島忠夫は苦笑した。
彼の妻はどうやら本格的にへそを曲げたらしく、布団に潜り込んでこちらに背を向けてしまったのである。
(もう三十路前だってのに……。小学生じゃないんだぜ?)
だからと言って、やめてほしいなどとは欠片も思っていなかったが。
彼はむしろ、妻をからかってその反応を眺めることに、小さくない喜びを見出しているのだった。
──とは言え。
「なあ、令子。
……本当に、嫌だったか?」
妻の背中は、動かない。
もし彼女が本気で嫌がっているのだとしたら、少し寂しい。
彼はそう思う。
「違うと思って、いいんだよな?」
「……ずるいわよ」
静かに、重ねて問うと。
妻は背を向けたまま、それだけ言って寄こした。
「ん……?」
「そんな言い方されたら、嫌だなんて言えないじゃないの」
聞こえるか聞こえないかという大きさの声。
それは、彼女のプライドが導き出した、ギリギリの妥協点であるようだった。
横島は微苦笑を浮かべ、妻へと注いでいた視線を天井に向けた。
背中合わせのまま、彼は妻に語りかける。
「俺はね。五年前のあの日が、あらゆる意味で新たな出発点だったと思ってる。
初めて会った時からずっと君のことが好きで。
助手として何年も君の側で働いて。
そんな関係が一転した日だ。
初めて、俺たちが結ばれた日」
「…………」
「あの時は、確かに君をからかってやろうという気持ちがあった。
俺も無性に恥ずかしかったから、誤魔化したかったっていうのもある。それは否定しない。
けどな、令子」
背中に感じていた妻の身体が、フッと離れた。次いでカサカサと布団が擦れる音がする。
どうやら彼女は身を起こしてくれたらしい。
じっと見つめる彼女の視線を感じつつ、横島は語り続けた。
「同時にこうも思ったんだよ。
この女(ひと)は俺の横で、こんなにも幸せそうに眠ってる。
俺は、美神さんが安らぐことのできる“場所”になれたんだ、ってね」
そう。
眠る彼女の横顔を目にした時、彼は心臓を鷲掴みにされたような気分になったのだ。
思わず吐息を漏らしてしまうほどに、彼女は美しくて。
可愛くて。
そして何より、見たこともないほど穏やかで。
「そうして、改めて決めたんだ。
君の事は勿論、君の“居場所”である俺自身をも、必ず守り抜こうって。
君の夫になったことを自覚し、その責任を意識したのが、ちょうどこの時なんだ」
横島は振り返り、妻の顔を見つめた。
顔を上気させ、どんな表情を作ればいいのかと苦心しているようで。
それでも、彼のことを真っ直ぐに見つめる、愛しい女性の顔を。
「とまあ、そんなわけなんだけど。
この写真、とっておいてもいいかい?」
ある意味答えを確信した問を投げかけると、彼女は目を伏せ、手を彼のそれと重ねて、
「うん……」
小さな声で、うなずいた。
◇◆◇◆◇◆
長い長い口付けの後。
「……ねえ」
「ん?」
「すっごい今更なことなんだけど。聞いてもいい?」
「何?」
「うん、あのさ。
どうして、私だったのかなって」
「……はあ?」
「だから! あの頃、あんたにホレてた子って結構いたじゃない。
その中から、どうして私を選んでくれたのかなって」
「……いや、本当に今更だな」
「う、うるさいっ!」
呆れたように落とした肩を、美神が叩く。
ふと思っただけ、にしてはやけに真剣だった。未だに不安に思っていたのか。
……仕方ない、と彼は腹をくくった。不意に心に浮かんで以来、あまりのキザっぷりに絶対口外するまいと誓っていた、本心を伝えよう。
彼は妻の体を抱き寄せた。視線は壁に。こんな真昼間に目を合わせて告げるのは、いくらなんでも照れくさすぎた。
「あー、プロポーズした時のことなんだけど。
君は言ってたよな。
偶然出会って、千年も経ってからまたしても偶然に同じ時代、同じ場所に生まれて、出会って……みたいなこと。
あれ、少し違うと思うんだ」
「……どういう意味よ」
「お、おい! 怖い顔しないでくれよ。別に変な意味じゃない!
言い方が悪かったか、と横島は慌てた。……ついでに、折角見ないようにしていたのに、膨れっ面した美神と目を合わせてしまう。
古人曰く、毒喰らわば皿まで。少し深呼吸して、彼は続けた。
「つまり、だな。
……千年前の出会いは、確かに偶然だったかもしれない。けど、今こうして一緒にいるのまでが偶然なんだろうか? 俺は違うと思ってる。
俺達が出会えたのは、きっと俺達の魂が長いことお互いを求め合っていたからだ。
二つの魂が、今度こそ添い遂げたいと願い続けてたからだ。
だからこそこうして結ばれた。俺はそう思ってる。
俺は、君を『選んだ』わけじゃない。
魂の求めるままに、君を『好きになった』んだ。
……理由なんて、それで十分だろ?」
ぽかーんとする美神。その顔が段々と上気していくのを見て、横島は色んな意味で悶死しそうになった。
何てことを言っちまったんだ俺は、とか、三十路数えて何でこんなに可愛いんだとか、そんな色々。
「……は、恥ずかしいヤツ……。そんなキザったらしいこと、よく言えるわね」
「あ、あのなあ! 君が言えっつったんじゃないか!
──とにかく、そういうことだからな!!」
「ん……。
ね、もう一回言ってよ」
「断る!」
「いいじゃない! 私、すっごい嬉しかったんだけど」
「俺は恥ずかしい!!」
ねえお願い、勘弁してくれ。いいじゃないの、嫌だ無理だ許してー!
──そんな幸せなじゃれあいを祝福するように、柔らかい日差しが、二人を包み込んでいた。
突如発生したラブラブ空間に割って入ることもできず、廊下で辛抱強く待っていた医師団に横島夫妻が気づいたのは、その少し後のこと。
病は癒えた、のだろう。霊基構造を侵されていく耐え難い痛みが、今はない。彼は上手くやったようだ。いつもなら心配なんてしないでもすむが、今度ばかりは不安だった。文珠による時間移動なんていう、トンデモナイ手段。己の回復ではなく、夫の無事に安堵して、彼女はそっと息をついた。
だが、病の間にじわじわと毒に蝕まれていた身体は、いまだ本調子ではない。
重くのしかかってくるような疲労感。
どうにも拭えない気だるさ。
「あれから、もう五年か……」
そんな時、彼の声がした。
聞き間違いであるはずがない。
それは、彼女の耳によく馴染んだ、愛しい男の声だったから。
彼女が多少の努力を伴って目を開くと、日の光が差し込む病室の中、夫がいつのまにかベッドに腰掛けていた。
そして、手の中の写真を、いとおしむように眺めていたのだった。
「それ、何の写真……?」
彼女が声をかけると、夫──横島忠夫は彼女の方へと振り向いた。
どうやら驚かせてしまったようだ。彼の顔に一瞬戸惑いの色が浮かび、すぐに消えて微苦笑へと変わった。
『起こしてしまってすまない』
その表情にはそんな意味が込められているということを、彼女は理解した。
結婚してからもう五年、出会った頃から数えるともう十年以上も一緒にいる。以心伝心というやつだった。
と。彼が、にやりと笑った。
「君と結婚してるってことを十年前の『俺』に納得させるために、証拠として持っていった写真の内の一枚さ」
ホラ、と写真を翻す。
「っ!?」
だるさも眠気も吹っ飛んだ。
そこに写っているのは、ベッドで眠る美しい女性。
肩は剥き出しで、僅かに笑みを浮かべている。
とても幸せそうな……五年前の、彼女自身。
「す、捨てなさいって言ったじゃない!!」
「馬鹿を言うなよ。令子と初めて過ごした夜の記念じゃないか。
捨てられるわけ、ないだろ?」
頬を染めてわめく彼女──横島令子、旧姓美神──に、横島忠夫は飄々と答えた。
五年前の結婚式の夜、美神は初めて横島と夜を共にした。
この写真は、その翌朝に彼が撮影したものだ。
後になって、
「いやもう、なんかめちゃめちゃ可愛かったから……」
などという言葉と共に見せられた時には、顔から火が出るかと思った。
布団の下の身体が何一つ纏っていないということがあからさまにわかってしまう上、写真の中の彼女自身が浮かべる安心しきったような表情がどうにも気恥ずかしかったのだ。
捨ててくれと確かに言った、というか命令したはずなのだが、どうやら夫は見事に無視したらしかった。
「捨てられたらかなわんと思ってずっと仕舞っといたんだ。
過去の『俺』はえらく興奮していたよ。無理もないけどな」
「──っ!」
美神は歯噛みした。
病の後遺症であまり身体の自由が利かない彼女は、いつものように夫をぶん殴ることすらできない。精々瞳に力を込めて睨み付けるくらいしかないのだった。
しかも……おそらく夫は、そんな自分の表情をも楽しんでいるに違いない。
それも含めて、彼女は随分と腹立たしい思いをしていたのだった。
──少なくとも。
本人は、そう思い込んでいた。
◇◆◇◆◇◆
横島忠夫は苦笑した。
彼の妻はどうやら本格的にへそを曲げたらしく、布団に潜り込んでこちらに背を向けてしまったのである。
(もう三十路前だってのに……。小学生じゃないんだぜ?)
だからと言って、やめてほしいなどとは欠片も思っていなかったが。
彼はむしろ、妻をからかってその反応を眺めることに、小さくない喜びを見出しているのだった。
──とは言え。
「なあ、令子。
……本当に、嫌だったか?」
妻の背中は、動かない。
もし彼女が本気で嫌がっているのだとしたら、少し寂しい。
彼はそう思う。
「違うと思って、いいんだよな?」
「……ずるいわよ」
静かに、重ねて問うと。
妻は背を向けたまま、それだけ言って寄こした。
「ん……?」
「そんな言い方されたら、嫌だなんて言えないじゃないの」
聞こえるか聞こえないかという大きさの声。
それは、彼女のプライドが導き出した、ギリギリの妥協点であるようだった。
横島は微苦笑を浮かべ、妻へと注いでいた視線を天井に向けた。
背中合わせのまま、彼は妻に語りかける。
「俺はね。五年前のあの日が、あらゆる意味で新たな出発点だったと思ってる。
初めて会った時からずっと君のことが好きで。
助手として何年も君の側で働いて。
そんな関係が一転した日だ。
初めて、俺たちが結ばれた日」
「…………」
「あの時は、確かに君をからかってやろうという気持ちがあった。
俺も無性に恥ずかしかったから、誤魔化したかったっていうのもある。それは否定しない。
けどな、令子」
背中に感じていた妻の身体が、フッと離れた。次いでカサカサと布団が擦れる音がする。
どうやら彼女は身を起こしてくれたらしい。
じっと見つめる彼女の視線を感じつつ、横島は語り続けた。
「同時にこうも思ったんだよ。
この女(ひと)は俺の横で、こんなにも幸せそうに眠ってる。
俺は、美神さんが安らぐことのできる“場所”になれたんだ、ってね」
そう。
眠る彼女の横顔を目にした時、彼は心臓を鷲掴みにされたような気分になったのだ。
思わず吐息を漏らしてしまうほどに、彼女は美しくて。
可愛くて。
そして何より、見たこともないほど穏やかで。
「そうして、改めて決めたんだ。
君の事は勿論、君の“居場所”である俺自身をも、必ず守り抜こうって。
君の夫になったことを自覚し、その責任を意識したのが、ちょうどこの時なんだ」
横島は振り返り、妻の顔を見つめた。
顔を上気させ、どんな表情を作ればいいのかと苦心しているようで。
それでも、彼のことを真っ直ぐに見つめる、愛しい女性の顔を。
「とまあ、そんなわけなんだけど。
この写真、とっておいてもいいかい?」
ある意味答えを確信した問を投げかけると、彼女は目を伏せ、手を彼のそれと重ねて、
「うん……」
小さな声で、うなずいた。
◇◆◇◆◇◆
長い長い口付けの後。
「……ねえ」
「ん?」
「すっごい今更なことなんだけど。聞いてもいい?」
「何?」
「うん、あのさ。
どうして、私だったのかなって」
「……はあ?」
「だから! あの頃、あんたにホレてた子って結構いたじゃない。
その中から、どうして私を選んでくれたのかなって」
「……いや、本当に今更だな」
「う、うるさいっ!」
呆れたように落とした肩を、美神が叩く。
ふと思っただけ、にしてはやけに真剣だった。未だに不安に思っていたのか。
……仕方ない、と彼は腹をくくった。不意に心に浮かんで以来、あまりのキザっぷりに絶対口外するまいと誓っていた、本心を伝えよう。
彼は妻の体を抱き寄せた。視線は壁に。こんな真昼間に目を合わせて告げるのは、いくらなんでも照れくさすぎた。
「あー、プロポーズした時のことなんだけど。
君は言ってたよな。
偶然出会って、千年も経ってからまたしても偶然に同じ時代、同じ場所に生まれて、出会って……みたいなこと。
あれ、少し違うと思うんだ」
「……どういう意味よ」
「お、おい! 怖い顔しないでくれよ。別に変な意味じゃない!
言い方が悪かったか、と横島は慌てた。……ついでに、折角見ないようにしていたのに、膨れっ面した美神と目を合わせてしまう。
古人曰く、毒喰らわば皿まで。少し深呼吸して、彼は続けた。
「つまり、だな。
……千年前の出会いは、確かに偶然だったかもしれない。けど、今こうして一緒にいるのまでが偶然なんだろうか? 俺は違うと思ってる。
俺達が出会えたのは、きっと俺達の魂が長いことお互いを求め合っていたからだ。
二つの魂が、今度こそ添い遂げたいと願い続けてたからだ。
だからこそこうして結ばれた。俺はそう思ってる。
俺は、君を『選んだ』わけじゃない。
魂の求めるままに、君を『好きになった』んだ。
……理由なんて、それで十分だろ?」
ぽかーんとする美神。その顔が段々と上気していくのを見て、横島は色んな意味で悶死しそうになった。
何てことを言っちまったんだ俺は、とか、三十路数えて何でこんなに可愛いんだとか、そんな色々。
「……は、恥ずかしいヤツ……。そんなキザったらしいこと、よく言えるわね」
「あ、あのなあ! 君が言えっつったんじゃないか!
──とにかく、そういうことだからな!!」
「ん……。
ね、もう一回言ってよ」
「断る!」
「いいじゃない! 私、すっごい嬉しかったんだけど」
「俺は恥ずかしい!!」
ねえお願い、勘弁してくれ。いいじゃないの、嫌だ無理だ許してー!
──そんな幸せなじゃれあいを祝福するように、柔らかい日差しが、二人を包み込んでいた。
突如発生したラブラブ空間に割って入ることもできず、廊下で辛抱強く待っていた医師団に横島夫妻が気づいたのは、その少し後のこと。