ぐりーくらぶろぐ -21ページ目

SS『その血脈〜呪われし一族〜』(サクラ大戦5)

 紐育華撃団は新設されて間もない組織だ。
 これが通常の軍隊ならば、いくらでも国内に前例を求められる。だが、魔との戦いに特化したその特殊性ゆえ、アメリカ中どこを探しても的確なノウハウが存在しない。
 霊力によって常識を覆す性能を発揮する超兵器群。
 ごく少数の女性達により構成される実戦部隊。
 霊力に関わったことのない人間には到底理解しがたい、最先端の更に先を行く高度な機械システム。
 ……そして、都市に降り積もる思念の浄化を目的として行われる、力ある少女達による歌劇。
 その運営は、既存の組織とはまったく異なる常識に支配される。

 幸い、魔との戦いには先駆者が存在した。
 欧州は花の都、巴里に設立され、太古の狂える神を退けた巴里華撃団。
 そして、賢人機関により最初の本格的な部隊として設立され、四度にも及ぶ危機から日本の帝都を守り抜いた、帝国華撃団。
 彼らが蓄積してきたデータは質量共に優れており、紐育華撃団の迅速な設立、効率的な運営のためにきわめて有用だった。
 ……が。
 何事も、データだけから判断していくのは危険だ。特に、実戦部隊である星組の運用に関しては。
 これは実際に戦う星組隊員のみの話ではない。霊子甲冑・スターの整備、武装飛行船・エイハブの操船、ついでに単なる劇場を越えた役割を持つリトルリップシアターの経営。
 重要なのは現場を担う者達の感覚である。だが、かつて欧州星組に参加していた二名を除けば、魔と向き合った経験のあるものはほとんどいない。日本にも巴里にも、紐育へ回すだけの予備戦力はないのだった。自前で育て、なんとかやりくりするしかない。
 そんな中、自分達と先駆者の間にある巨大な差を少しでも早く埋めていきたいと考えたラチェット・アルタイルは、彼女が最も信頼する人物の一人と定期的に連絡を取り、彼の助言を受けながら最善の判断を模索し続けた。
 ここ数年の魔との戦いにおいて最も輝かしい業績を残したその男は、現在日本の帝国華撃団において総司令を務めている。日米の距離は、彼の部下である少女が発明した高性能の通信機が埋めてくれた。その連絡は、ラチェットの肩書きが星組隊長から副司令へと変わってからも続けられている。
 かつて自分も通ってきた道だ。『彼』こと大神一郎は、業務に差し支えのない範囲で可能な限り時間を割き、彼女の報告を聞いて相談に乗っていた。
 彼は日本の軍人であり、命じられればアメリカとも、あるいは彼がかつて隊長を務めた巴里華撃団を有するフランスとも戦う立場にある人間だ。しかし、こと魔と戦う場では人々を守るのに国籍など一切考慮しない。
 何の義務もないのにラチェットに付き合うのは、少しでも力になりたいという彼の誠意であり……同時に、ごく短い期間とはいえ帝劇で共に過ごした仲間への、温かい友情でもあった。

 これは、その一幕。
 ラチェット・アルタイルが隊長職を退き副司令に就任した、しばらく後のことである。

   ◇◆◇◆◇◆

「……それと、大河少尉ですが」
「ああ」
 さて、と大神は身構えた。
 以前だまし討ちのように新次郎を送った時は、なぜあなたが来なかったのかとえらい剣幕で抗議されたからだ。彼なりに確信あってのことではあったが、かといってすぐに結果が出るとは限らない。おそらく、また色々と抗議されるのだろう。
 通信機のモニタに映し出された彼女は、とりあえず怒ってはいないように見える。だが、なんといっても彼女は世界最高クラスの女優、感情を隠すのはお手の物。油断は禁物だ。
 新次郎について何か文句を言われても、真摯に受け止めようと覚悟を決めた。
 ……のだが。
「彼はとてもよく頑張ってくれています。
 まだまだ不安定なところも多いですが、彼の成長のスピードには驚かされっぱなしです。
 ……正直なところ、派遣されてきたのがあなたではなく彼であると知った時は、裏切られたと思ったものですけれど。
 まだまだ若い国、発展していく最中の都市であるからこそ、紐育華撃団星組の隊長は、完成品ではなく未熟な、それゆえに共に成長していける者こそが相応しい。
 大神総司令のそのお考えこそが正しかったのだと、今では考えを改めています」
 ラチェットの雰囲気が、どことなく浮き立ったものになった。
 大神への賛意を示す時、彼女は大体こんな感じである。  帝都で過ごした一時が余程強烈だったようで、ラチェットは大神を相当に尊敬しているのだった。
「尊敬? いやいや、あれは崇拝って言うんだよ。ラチェットを陥落させるなんて、君も隅に置けないねえ」
とニヤニヤ笑ったのは、紐育華撃団総司令のマイケル・サニーサイドである。
 いくらなんでもそれはない、と思いつつ、確かに少々行きすぎてるようにも感じる大神であった。さりとて彼女の評価を下げるようなマネをわざわざするというのも何か違う気がして、結局そのままになっているのだ。
 さもありなん。こと華撃団の話をしている時の彼は、間違いなく世界最高クラスの戦士であり指揮官であり、また日本が誇る名将・米田一基の薫陶を間近で受けてきた有能な軍略家である。そんな彼をラチェットがますます尊敬するようになるのも、自然といえば自然な話ではあった。

 ──もっとも、今ラチェットが高揚しているのは必ずしも大神への敬意、あるいは好意だけが理由ではない。
 大神の考えが正しかったことではなく大河新次郎の活躍『それ自体』を、副司令としてではなくラチェット・アルタイル『一個人として』喜んでいた面も多分にあった。しかし、本人すら気づいていないその感情を察知しろというのは、どだい大神一郎には無理な話である。
 能力的にどうこうではなく、なんというか、その……鈍すぎて。

 それにしても、ラチェットの評価は新次郎を送ることを決めた大神自身にとってすら意外なほどに高い。異国にいる彼の甥っ子は、士官学校を出たばかりの身で奮闘しているらしい。
 大神は、自分の顔がほころぶのを感じた。
「そうか。私も彼を推薦した甲斐があったよ。報告ご苦労、アルタイル副司令」
「はい。それでは、定期報告を終わります」
 敬礼を交わす。
 画面の中のラチェットが電源に手を伸ば……しかけて止まった。
「あ……」
「ん? どうかしたのかい、ラチェットくん」
 言葉遣いが元に戻る。
 海軍士官学校でエリート中のエリートとして厳しい教育を受けてきた彼ではあったが、帝撃着任以降、段々と堅苦しい言葉が苦手になってしまっていた。
 軍の施設にいる時や、それ以外の場所でも完全に軍人として振舞っている場合は条件反射的に戻るのだが、こと大帝国劇場にいる時は、たとえ総司令として話していても言葉を整えるのに一苦労である。
 一度通信を終えようとしてからのことだったため、素が出てしまったのであった。
 やたらとざっくばらんだった、かつての上司の薫陶であろう。
「ええと、その。少し相談に乗っていただきたいことが」
 ラチェットはなんだかそわそわしているというか、落ち着きがないというか。いずれにせよ、彼女にしては珍しい。
 そもそも今の今まで相談に乗っていたのだ。とすると……。
「華撃団の運営以外のことで、何かあるのかい?」
「は、はい。いえ、関係がないかというとそうでもないのですが」
「ふうむ……」
 もしプライベートな話なら、相談されてもまともな助言が出来るかどうか怪しい。その程度の自覚は、とうの昔に備えている大神であった。
 なんならかえでや織姫、レニら、欧州星組で彼女と苦楽を共にした仲間達を呼んでこようと思っていたのだが、肝心のラチェットの返事がどうも要領を得ない。
 なおも言いよどんでいたラチェットであったが、大神が促すと思い切って口にした。
 大神にとって、ある意味ひどく衝撃的なことを。

「大河くんが、その……お風呂を覗こうとしたんです」
「……………………へ?」

 思わず漏れてしまった声は、帝撃総司令の肩書きを思いっきり裏切るような間抜けなものだった。
「ですから、お風呂を。星組の隊員の入浴中に」
 何と言ったらいいのか。ぽかんとしていた大神は、とりあえずどうでもいいことを聞いてみた。
「ええと……劇場に、お風呂があるのかい?」
「支配人が趣味で作った露天風呂が、屋上に」
 あ、あの男は……!
 大神は以前一度だけ会ったサニーサイドの顔を思い出し、げんなりした。明らかに間違ったジャパニーズスタイルをこよなく愛するあの男なら、豊富な資産をそんな無駄なことにつぎ込んでもまったく不思議じゃない。
 精神的失調状態に陥った大神。
 それでも、そこまでならよかった。
 だが、次の一言が彼に止めを刺す。

「本人は『体が勝手に……』などと言っていましたけれど」

 大神の体が僅かに、ほんの微かに跳ねた。
 ため息をつきつつ額をもみほぐすラチェットは、それに気づかなかったが。
 仮に見ていたとしても、キネマトロンの映像は実用に耐えうるというだけでまだまだ不鮮明であるから(紅蘭が現在改良に意欲を燃やしている)、どちらにしてもわからなかったかもしれない。
 ラチェットにとって、それは実に幸いだった。
 前述したように、彼女は大神一郎という男を過大に評価している節がある。こと実戦部隊・花組の隊長として、あるいは帝国華撃団総司令としての彼だけを見たならばそうでもないのだが、ラチェットはそれ以外の彼をほとんど知らない。彼女が“大神一郎のいる”帝劇に滞在した期間は、ほんの僅かだった。
 繰り返すが、彼女は幸いだった。
 彼女が最も尊敬する男の一人である大神一郎が、体を硬直させ脂汗を浮かべているのに気づかずに済んだのだから。
「それが言い訳じみた調子ではなくて、本当に申し訳なさそうに言って落ち込んでしまうものですから、私としても毒気を抜かれてしまうと言いますか……。
 男性の、その……そうした心理というのは、知識としてそういうものだとはわかっているつもりです。ただ、彼がそれを自制できず実行に移してしまうというのがどうしてもわからなくて、どのように指導すればいいのか悩んでいるんです。大河くんがそんなことするなんて、思いもしませんでしたから。
 サニーに相談しても、大笑いするだけで真面目に取り合ってくれませんでしたし」
 あまり『その手』の話を口にしたくないのだろうか。ラチェットの話は先ほどまでの明朗さを失い、やたらと指示代名詞が多い。
 ラチェットくんも意外と可愛らしいところがあるんだなあ、やはり女性というものは計り知れない、とか、結構信頼されてるなあ新次郎は、とかそういうどうでもいいことを考えて現実逃避をしていた大神は、助けを求めるように(否、実際に求めているのだろう)彼を見つめるラチェットの視線に、我に返った。
「同じ男性である大神司令は、どうお考えですか?」
「あー……」
 なんとか毅然とした態度を取り戻したいなあと思いつつ、大神は言葉を探した。

   ◇◆◇◆◇◆

 日本には『男女七歳にして席を同じうせず』という伝統があり、都会ではもう大分廃れたが新次郎の故郷は田舎なのでまだそうした習慣が残っていた上、士官学校に入ったことによって女性と縁のない生活を送っていたのであり、たまの休みにも街に出たりすることはほとんどなく修練や学問に励んでいたため、新次郎は女性と接する機会が極端に少なかった、従って普段はともかく女性が入浴していることに気づいてしまうというような非常事態には自分の性的欲求をどうやって抑えこんだものかさっぱりわからないので誘惑にまるで抵抗できずについふらふらと惹かれてしまうのであろう、はっきり言ってどうしようもないのでその都度やりすぎだと思うくらいに罰を与えて刷り込みしてしまってくれて構わないよ……という感じのことをつらつらと説明すると、ラチェットは一応納得してくれたようだった。
 内容が内容なので、晴れやかな笑みを浮かべるとはいかなかったものの、悩みはとりあえず払拭できたらしい。めでたいことだ。
 礼を言うラチェットに、大神は鷹揚に敬礼を返した。少なくとも自分ではそうしたつもりだった。傍からどう見えたかちょっと自信がない。

 プツン、と通信が切れる。
 大神は背もたれに体を預け、はぁとため息をついた。

 ──まったく、頭の痛い。
 あいつも、そうなのか。

「経験者は語る、ってやつですね♪」
 なんだかえらく楽しそうな声だなあと大神は思った。きっとその顔には、もう見慣れたあの笑みが浮かんでいるに違いない。
「それにしても、さすが大神さんの甥子さんですねえ。ヘンな所まで叔父さんにそっくり」
「勘弁してくれよ、由里くん……」
 げんなりして大神は振り返った。チェシャ猫のような笑みがよく似合う彼女、榊原由里が、先ほどからそこに控えていたのだ。
「大神さんもいっつも覗いて怒られてましたよねー。帝都でも巴里でも!」
「い、いっつも、って……あまり人聞きの悪いことを言わないでほしいんだけど。
 というか、なんで巴里のことまで……」
「メルさんやシーさんから聞きましたもん」
「う」
 反論の声が弱々しいのは、彼自身後ろめたさを覚えている証拠だった。

 体が勝手に。
 その言葉は、確かに大神自身にとっても馴染みのあるものだ。無論彼は馴染もうとして馴染んだわけではなく、むしろさっさと縁切りしたいくらいなのだが、まことに残念なことに、今もってなおそれはかなわずにいる。
 ふらふらと浴室に近寄り見つかって、精神的にも肉体的にも手ひどい罰を受けたのが、一度や二度ではきかない。最近ではさすがに自制が効くようになって、脱衣所に入る前くらいの段階で我に返って逃げ出せるようになったのだが。

 でも仕方がないのではなかろうか。若く美しい(あるいは可愛らしい)女性達と一つ屋根の下に暮らしていれば、たまたま誰かが入浴中のところを通りがかってしまうこともある。
 未だに誤解されているのではないかと内心絶望的に思っているのだが、断じて狙って覗いているわけではない。ただ、何かの拍子に風呂に人の気配があることに気づくと、どんなに努力しても理性が体に逆らえなくなってしまうのだ。
 自分が身に付けた、一級品の気配探知能力を恨めしく思うのはそんな時だけである。
 いかな鋼鉄の精神力を持つ大神一郎とて、健康な一青年なのだ。そんな事態でもない限りその種の欲求を完全に抑制しきっていることを、むしろ賞賛して欲しいくらいである……。

 などという言い訳を、大神は口にする事なく抑えこんだ。所詮言い訳にすぎないと、彼自身わかっていたからだ。
「大神家の血筋って、ひょっとすると呪われてるんじゃないだろうか」
「あははははっ」
 大神は結構真剣にそう思ったのだが(あるいはその真剣さ故だろうか)、由里は思いっきり笑い飛ばした。
「そんなに気にしなくても大丈夫ですよ」
「しかしなあ……」
「安心してくださいって」
 ようやく笑いの発作がおさまったらしい由里が、目元に浮かんだ涙を拭った。
 そうして、それまでとはやや種類の違う、温かい笑みを浮かべる。
「新次郎くんは、大神さんのいいところだっていっぱい受け継いでますよ。
 だって、あの子は他の誰でもない、大神さんを目標に頑張ってきたんでしょ?
 彼が帝劇にいたのはほんの数日ですけど、そのことは十分わかりました。
 きっと大丈夫ですよ。ちょっとくらいダメなところまで似てたって、ご愛嬌ご愛嬌♪」
「……だと、いいんだけどね」
 苦笑いを浮かべる大神を見て、由里はまたくすくすと笑った。







 ……その笑みの裏側で。

(こーんなに顔近付けてもひとっつも動揺しなくなっちゃって。つまんないの)

 なんてことを思っていたのは、きっと彼女だけの秘密。

SS『ラチェットの提案(致死量)』(サクラ大戦5)

「信長。僕の心の中で眠れ……」
「是非も、無い……」

 一人の青年の信条が、魔人の執念を霧消させた。
 これが、紐育を震撼させた一連の事件の終わりであり。
 同時に、破綻へ続く道の始まりでもあった。

 大河新次郎。
 彼の内で眠りに着いた織田信長は、しかしその比類なき資質でもって天下布武を唱えた戦国最強の将だ。しかも死を越えて人としての己を捨て去り、第六天魔王を名乗った魔人である。日本史上稀に見るその力は、かの天海大僧正にも匹敵するものがあろう。
 新次郎とは、存在そのものの格が違う。桁違いと表現しても良い。自らのうちに彼を封じるなど、無謀というのも生温い。初めから不可能を決定付けられた挑戦であった。
 これが封印という手段をとっていたのならば、幾らかはマシであったかもしれない。
 しかし新次郎はその手段をとらず、五輪曼荼羅により一時的に力を削られた信長の魂をそのまま内へと招き入れた。
 信長はむしろ積極的にこれに同意し眠りに就いたのだが、彼は第六天魔王を名乗ったほどの男。いくら自ら身を委ねていようが、その強大な力は変わらずそこに存在する。本人の意識は眠りの内にありながら、その荒ぶる力が新次郎の霊体を灼いた。それを予測できなかった新次郎も、迂闊といえば迂闊だったのだ。

 信長の妖力が五輪曼荼羅の影響を脱したのは、戦いの終わりから七日目の夜。以降毎夜、新次郎はこの一時の煉獄に身を置いている。
 妖力の暴走が太陽の及ばない深夜に限られていることが、唯一の救いだった。紐育華撃団の仲間達に、余計な心配をかけずにすむ。
 そうした態度が、むしろ仲間達を傷つけるとわからぬ新次郎ではない。
 だが、これは意地だった。
 海軍少尉とか星組隊長とか、そういうものを全て脱ぎ捨てた、一人の男としての。

 大河新次郎にとっての英雄とは、一も二も無く大神一郎である。
 大日本帝国海軍中尉にして帝国華撃団花組隊長。
 帝都を侵さんとする巨悪を二度に渡り退けた、知られざる英雄。
 その実績を買われ、遥か欧州は花の都にて巴里華撃団花組隊長に着任。僅か半年ほどの間に、未だ組織としての体を為していなかった花組を纏め上げ、古の堕ちた神から巴里を守り抜いた。

 ただ霊力が高いだけでは、駄目だった。
 ただ戦術指揮に長けているだけでは、駄目だった。
 大神一郎は確かに強力な戦士であり、非凡な才を持つ指揮官ではある。
 しかし彼がそれだけの人間だったなら、おそらく二つの都市は既にこの世から姿を消していたことであろう。

 ──すべての人々の幸せを、
        平和を守るために戦う。
             それが、俺の誇りだ──

 それが、彼の信念。

 ──生きて、未来を掴むぞ──

 それが、彼の誓い。

 闘い抜く意志と。
 守り抜く覚悟と。
 故にこそ積み重ねられた、奇跡のような勝利の数々。

 だから、新次郎は彼に憧れた。
 その姿をこそ、己が目指すべき高みと定めたのだ。

 だが。
 いまや新次郎の中で、織田信長という男はその大神に匹敵する位置にいる。

 大神との差を『距離』として表すならば、信長との隔たりは『壁』だ。何故ならば、彼の生き様は新次郎の正義に対する完全なるアンチテーゼ。何としても乗り越えねばならぬという点で、彼はまさしく『壁』であった。
 その全てが噛み合わず、どれをとっても相容れない男。
 だがしかし、彼は断じて悪ではなかった。

 両者の心象(イメージ)が作り上げた炎の海にて相対し、確かにこの男は英雄なのだと心の底から理解した。
 それは、理屈を越えた感応。
 頭の上に置かれた、大きな手。その熱さと力強さは、今でもありありと思い出せる。
 彼に認められた時の誇らしさを、新次郎が忘れることは生涯無いだろう。

 だからこそ、弱音を吐くことはできない。それは、自分を信頼し、あるいは認めてくれた、偉大な男達への裏切りだ。
 でっかい男になるんだと、新次郎は決意した。こんな痛み程度で参っていては、尊敬する男達と肩を並べるなど、夢のまた夢ではないか。

 ──そうして、新次郎は今夜も独り、歯を食いしばって耐え続ける。痛みに朦朧とする意識の中、それでも彼は思った。流石にだんだん慣れてきた、大丈夫だ問題ない、と。

 新次郎は気づかない。痛みへの慣れとは、すなわち麻痺に他ならないという当たり前の事実に。
 何より、彼は一つ、致命的な勘違いをしている。
 信長の魂による侵食は、彼が気づいていないだけで昼もじわじわと進んでいる。それが顕著になるのが夜中であるにすぎない。
 肉体的な負傷ならばいずれは癒える。だが、信長の巨大な妖力は、彼を切り離さない限り永遠に新次郎の霊体を蝕み続けるのだ。
 大神一族の血脈に由来する頑強な肉体と霊体を備え、何より大神一郎と同じ触媒の力──他者の霊力を束ねる奇跡の異能を持つ新次郎だからこそ、ここまで耐えることができた。
 これが他の者、たとえばジェミニやサジータら星組隊員であったなら、荒れ狂う妖力により一夜と保たず命を落としていたことだろう。彼女たちは、元々高いレベルにある自らの霊力をそのままに、他者の霊力を扱う術など知らない。ダイアナが余命一年を宣告されたのも、自らの過剰な霊力をもてあましたからだった。新次郎だからこそ、なんとか制御できているのだ。
 ……あるいは、制御できてしまっている、と言うべきか。なにせ彼自身が意識して行っているわけではないのだから。

 ──だが、それすらもう限界が近づいている。
 触媒としての彼の才は、未だ大神一郎に遠く及ばない。そんな彼が、織田信長ほどの男の魂を抑えきれるはずもない。
 崩壊の時まで、あと僅か。

   ◇◆◇◆◇◆

 いつもの様にロビーに立って、
 いつもの様に笑顔で挨拶し、
 いつもの様にチケットをもぎる。
 そうしていつもの様に全ての客をホールへと案内したところで、新次郎はやはりいつもの様に額の汗を拭い、プラムと杏里に笑顔を向けて、

 ――――――ふと、眩暈を覚えた。

「あ、れ……?」

 目は開いているはずなのにどんどん視界が暗くなる。
 体を支えられない。
 士官学校時代、滅多にひかない風邪で高熱を出した時でさえ、気合一つでしっかりとしていられたのに。
 新次郎の肉体は、全くの突然に本人の意思に応えなくなってしまった。

「タイガーッ!?」
「大河さん!?」

 ワンペアの二人が駆け寄ってくるのを、急速に混濁する意識で捉えた。
 大丈夫ですよ、と反射的に答えようとして──あたかも何かのスイッチが切り替わるように、新次郎は失神した。

   ◇◆◇◆◇◆

「軽率な判断ね、大河くん。耐えていれば済むようなものではないことは、すぐにわかるはずでしょう」
「っ……」
 表情こそ心配そうにしてはいるが、ラチェットの言葉は容赦が無い。
 副指令たる彼女の立場からすれば当然のことだろう。ごく個人的な理由、端的に言えば"男としての意地"などというもののために、心身の異常を誰にも告げずにいた結果がこれなのだ。星組隊長としての自覚を疑われても仕方が無い。
 何も戦闘時に星組の指揮を取るだけが隊長の役割ではない。いや、仮にそれに限定したところで、非常時に備えてコンディションを常に維持しておくのは当然の責務だ。結局のところ、新次郎は己を過信していたということ。
 情けなさのあまり、彼はラチェットの顔を見ていられず、そっと目を伏せた。

   ◇◆◇◆◇◆

 新次郎が意識を取り戻した時、彼の体はベッドの上にあった。リトルリップシアタービル地下にある、集中治療室だろうとあたりをつける。意識のない間に着替えさせられたのか、彼が身に付けているのは着慣れたモギリ服ではなく病人用のローブであった。
 そうしてふと気がついてみると、目の前にはラチェットの美貌があったものだから、驚きのあまり危うくベッドから転がり落ちるところだった。もっとも、疲労が酷すぎたせいかろくに体が動かず、結果として彼は余計な醜態を演じずに済んだのであるが。
 彼女に支えてもらって体を起こし、倒れてからの事を聞かされ、また最近の自分の状態について白状させられた。
 そうして話は冒頭へ戻るのである。
「信長の妖力を受け止めるには、あなたの器では残念ながら足りなかった。あなたの変調はそういうことよね。
 今はミスター・加山が張った妖力封印用の結界があるからだいぶ楽になっていると思うけれど、それもこの部屋だけの話よ。ここから一歩でも外へ出れば、また一気に負荷がかかる」
 注意力が落ちていて気がつかなかったが、そういえば、床や壁に複雑な陣が描かれており、僅かに霊光を発している。
 顔を伏せたまま、新次郎は唇を噛んだ。
 結界を一歩出たら暴走を始めかねない力。彼がただのモギリであるなら、代役を立てることは全く難しくはない。だが、星組隊長としての任務はどうしたらいいのか。
 二人とも、長く口を開かなかった。新次郎にとって居心地の悪い沈黙が、場を覆う。

 ふと、思ってしまったことがあった。
 仮に、大神一郎であったら。
 あの偉大なる叔父であったなら、あるいはこのような醜態を晒すことはなかったのだろうか。
 信長を内に招き入れ、苦もなく抑えてみせるのだろうか。
 いやそもそも、彼だったらあの時どのような選択を……?

 新次郎はそこではっとし、頭を一度、強く振った。これではただの泣き言だ。
 一郎叔父は一郎叔父、自分は自分。当たり前のことを忘れて、一体何を考えようとしていたのか。
 そんな風な思考に囚われていたので、新次郎は不意のラチェットの言葉を危うく聞き逃すところだった。
「……あなたが今まで通りに過ごせる方法が、一つだけあるわ」
「本当ですか!?」
 新次郎はパッと面を上げた。また元通り戦えるようになるのなら、何だってやってみせる。
 そう決意して見上げたラチェットの表情は、

 ……なんだか、妙なことになっていた。

「ええと……その」
「? あの、ラチェットさん? どうかしたんですか?」
 不思議だった。いつも毅然としていてみんなを導いていくラチェットが、今この時に限って妙に歯切れが悪い。
 そう言えば、方法があるならばなぜすぐに告げてくれなかったのだろう。さっきの長い間は、一体なんだったのだろうか。新次郎が首をひねっていると、
「ああもう!
 ……つまりね。多すぎる分の霊力は、私が引き受けようっていうことなのよ」
 新次郎の敬愛する敏腕副指令は、そんな事を口にした。
 副指令としての威厳を保とうというのか、キリっとした真面目な顔つきは変わらない。だが、白皙の肌に差すほのかな赤みがその努力をあっさりと裏切っている。

「……………………………………はい?」

 思わず全身の痛みを忘れる。マジマジと凝視すると、きまりが悪くなったのか、彼女は僅かに目を逸らした。頬を赤くしたラチェットの美貌はあまりにも破壊力がありすぎて、肝心の内容の理解が若干遅れてしまう。

 私が引き受ける、と彼女は言った。
 だが、信長の魂がもたらす力は一時的に発散したところで意味がない。それは新次郎にとって当たり前すぎる前提条件であったし、おそらくはラチェットにとってもそうだ。
 その上でラチェットの真意を想像するなら、つまりこういうことだろう。
 新次郎と自身との間に霊的な道(パス)を作り、信長の霊力を二人で支えればよい、と。

 そうやってようやく理解が及び──タイムラグなしで、頭が爆発した。

 大神一族、と呼ばれる者たちがいる。
 それは、武技と霊術を人の限界まで磨き上げ、魔の者たちと戦い続けてきた戦士の系譜。
 だが、戦国の世が終わり江戸に至って、魔の侵攻は激減した。彼の天海大僧正が作り上げた、優れた結界の賜物である。
 平和な世に、あまりにも巨大な力はかえって害となる。かといって、再び世が乱れた時に力がなくては何もできない。そう考えた彼らは、武技のみを残し、霊術に関しては直系に限り継承してゆくことにした。
 歴史の闇にひっそりと生きる道を選んだはずの彼ら。だが、大神一郎が、己の血の意味を知らぬまま帝国華撃団花組隊長に任ぜられ、魔と戦ったことをきっかけとして、大神一族は再び対魔戦士の一族としての活動を再開していた。
 そのおかげで、新次郎は一族に蓄積された様々な知識を受け継いでいる。大神が霊力に関する何の予備知識もなく帝劇に着任し、戦う事になったのとは対照的だ。

 霊力の恒常的な受け渡しを可能にするための術には、新次郎もいくつか心当たりがあった。だが、そのほとんどが複雑な儀式による契約を必要とする上、時間がかかる。
 何せ人を別の人間と霊的に結合してしまうのだ。調整にかかる時間は双方の相性が最高に良い場合で数日間、下手をすれば数週間に及ぶ。
 今はそんな方法を取る時間的余裕がない。新次郎の消耗は深刻だ。今の彼にとって、信長の魂はいつ炸裂するかわからない爆弾に等しい。
 その点、ラチェットが言わんとする方法に限れば、その心配はない。
 効率を考えるなら、間違いなく最良。
 時間を考えるなら、間違いなく最速。
 ……だが如何せん、その過程に、問題がありすぎた。
 何せ、その方法は……何というか、二人の物理的な結合を伴うものであるからして。

 呆然としている間にも、心なしか早口になったラチェットの声が、新次郎の耳を通り過ぎていく。

「わ、私は、知っての通り霊力が枯渇しているわ。
 けれどこれは、霊力を扱えないということじゃなくて、ただ生み出せなくなっただけ。
 回路は健在なのだから、源泉が私自身でなくても私自身のものと同様に霊力を扱うことはできるわ。それにそうすれば……たとえばの話、緊急の時にスターに乗って戦うことだってできるようになる。
 他の子たちではダメ。あの子たちの器は、自分以外の霊力を受け入れるほどには大きくない。
 ダイアナのように、『過剰霊力症』で命までも危うくなる恐れがある。
 けれど私なら、その心配はないわ。
 ……だから、その。
 霊脈を繋ぐために、私を─―」

 ──よりによって、相手がラチェットさん?

 初めて出会った瞬間からずっと惹かれている女性。
 その立ち振る舞いは、優雅にして毅然。
 『神でなくば生み出せない』とまで称された、至高の美貌。
 ちょっと微笑みを向けられるだけで、心臓がドキドキしだしてしまう。
 未熟な自分を見守って、時にはさりげなくフォローを入れてくれるその気遣いが、いつだって心の支えだった。
 彼女から引き継いだ隊長職、決して汚してはならないと言い聞かせてきたのだ。
 支配人として、副指令として、その有能さを余すところ無く発揮している才媛。
 でもそれだけじゃなく、ちょっとお茶目で可愛らしいところもあって、実は結構不器用で。
 驚くと共にますます好きになった憧れの人。
 それで……そんな彼女と自分が、一体何をするって──?!

「だ、ダメですよそんな!
 だ、だってその、あの、えと、つまり……ゴニョゴニョ……するってことでしょう!?
 そんなこと、女の人が軽々しく言っちゃダメです!!」
 新次郎はパニック状態のまま、反論する。
 どうしてそんな話になるのか。いや、理屈はわかる。わかるが、それはどう考えたっておかしい。紐育華撃団にとって、自分が貴重な戦力なのは確かだろう。だからと言って、ラチェットにそんなことをさせるなんて──!
「……つまり、あなたは私を抱くつもりはないということね」
「と、当然じゃないですか! そういうことは、お互いに愛し合った男女しか、しちゃダメなんです!!」

 新次郎が断言すると、ラチェットが俯き、押し黙る。腰まで伸びた長い髪がサラリと流れ、表情を隠してしまった。
 何か間違ったことを言ってしまったのか。
 またしても沈黙が続きそうになり、新次郎は恐る恐る声をかける。
「あ、あの……ラチェッ──」
「そうね。大河くんはそう言うかもしれないと思ってた」
 顔を上げる。泣き笑いのような表情になって、彼女は言った。
 いぶかしさを覚えつつ、思いとどまってくれたかとほっとしかけて……新次郎は固まった。
 視界に広がるのは豪奢なブロンド。背中に回された繊手の感触が熱い。

 彼は、ラチェットに抱きしめられていた。

「けど、従えないわね。コトはあなたの命に関わる。
 私たちは、あなたを失うわけにはいかない───ううん、違う、そうじゃないわ」

 耳朶にかかる震えた吐息が、新次郎を甘く誘惑する。
 漂白された意識を余所に、衝動的な何かがこみ上げてくるのを、彼は感じた。

「私が、あなたを失いたくない。そんなこと、私には絶対に耐えられない」

 ──それは、強烈な告白だった。
 自分の力を誇りとし、力なき人々を護ることに誰よりもひたむきであり続けてきたラチェットであるからこそ、その言葉は重かった。
 使命感よりも何よりも強くなってしまった、新次郎への恋の発露であった。
 新次郎は呆然とする。この女(ひと)は、こんなにも自分を想ってくれていたのか、と。
 そんな場合ではないと知りつつも、歓喜が湧き上がるのを抑えきれない。

「覚悟して。あなたの気持ちがどうであろうと今だけは考慮しないわ。
 私が相手じゃ嫌かもしれないけど、ムリヤリにでも抱いてもらうわよ。文句は後でいくらでも──」

 ──だから。
 そんな事を言われて腹が立ったとしても、それは当然じゃないだろうか。彼としてはそう思うのだ。

   ◇◆◇◆◇◆

 拒絶は、最初から想定されていたこと。
 予め覚悟していたこと。
 問題は無い。問題なんて無い。
 対象たる彼は経験が無いか、あったとしてもそれほど慣れてはいないだろうと推定。
 ラチェット・アルタイルほどの女に迫られたならば、感情がどうあれ、男としての本能が彼を留めてはおかないだろう。そう考えても間違いではないと判断する程度には、彼女は己の容姿に自信を持っていた。
 戦う事ばかり考えてきて恋愛の一つもしないままだったから、自分の経験も皆無。それが不安と言えば不安だ。だが、今回のコレはあくまでも霊脈を結ぶためのもの。愛を確かめ合うためでも、快楽を得るためでもない。だからノープロブレムだ。
 男性の衝動を高めるための技術なら、ひそかに文献にあたって調べておいた。あとは実践するだけ。
 後で嫌われたっていい。
 軽蔑されても構わない。
 彼を失いたくない。そのためなら、なんだってやってみせる。
 そう自分に言い聞かせていると、不意に、ぐいと肩を押された。
 視線が交錯する。
 ラチェットは、黒曜石のような新次郎の瞳に一瞬意識を奪われ、

 気づけば、唇が重ねられていた。

(え──────?)

 驚きのあまり、目を閉じるという当たり前のマナーすらも忘れる。僅かにカサついた唇の余りにも甘美な感触に、ラチェットはしばし陶然とした。
 新次郎の顔がそっと離れ、意識せずに追ってしまいそうになる。
 思わず漏れたかすれ声が、自分のものか彼のものかすらわからない。
「えへへ。キス、しちゃいましたね」
「大河、くん──?」
 耳まで真っ赤になりながら、それでも真っ直ぐにこちらを見て、新次郎は満面の笑みを浮かべていた。
「僕は、ラチェットさんのこと好きです。
 だから、ラチェットさんが僕の事を好きになってくれたのは本当に嬉しいんですよ。
 夢みたいだ、って思います」
「ほんと──?」
 聞き間違いではないのか。呆然としていると、新次郎は少しだけ顔を歪めた。
「だから、嫌かもしれないとか、ムリヤリとか、そんなこと言わないで下さい。
 僕がラチェットさんのことを嫌がるはずが無いじゃないですか!
 僕が拒絶しようとしたのは、霊脈を繋げるためとか、そういう義務みたいな理由であなたに触れるのが嫌だったからです。ラチェットさんのこと、好きですから。
 あなたを抱くなら、愛し合った上でしたかった」
 夢みたいだ、なんて、こちらのセリフだ。
 かわいそうな位顔を赤くして、それでも決して視線を逸らさずに言い切った新次郎。
 これだけはっきりと言うのは、シャイな日本人である彼らしくもない。相当恥ずかしかったことだろう。
 それでも言ってくれたのだ。

「じゃあ、契約とかそういうことは、あまり考えずに、その……しましょうか」

 だから、勇気を出して言ってみる。
 ラチェット自身にとっても、その方がずっと……そう、何倍も好ましい。

 彼の返事は、二度目のキスだった。

   ◇◆◇◆◇◆

 あの夜から一ヶ月。
 先ほど、ラチェットは常と変わらぬキビキビとした足取りで自機へと向かい、搭乗した。

 シルバースターの起動テスト。
 現在ラチェットは、紐育華撃団副指令の職にある。霊力を得たからといって、よほどのことがない限り彼女が自ら戦場に出る必要はない。だから、本当なら今更スターに乗らなくてもよいのだ。
 ましてや、自らのものでない霊力を受け入れている彼女は、霊的に不安定な状態にある。他者の霊力を受け入れるのは、天才・ラチェットといえど一筋縄ではいかなかった。繋いだパスから霊力が流れ込み始めたのは、新次郎と結ばれた翌日のことだったのだが、以降一週間、彼女はベッドから立ち上がることすら出来ないままだったくらいなのである。
「何もキミが危険を冒してまでスターに乗る必要はない!」
 サニーサイドはそう言ってなんとかラチェットを説得しようとしたが、彼女は了承しなかった。

 ──ゼロではない可能性なら、備えはしておくべきでしょう、サニー?

 心なしか以前よりも柔らかい微笑みと共に言われてしまえば、もう彼に言えることは何もない。
 整備員達が忙しげに動き回り、最終チェックを進める。
 サニーサイドは、自分がいつになく真剣な顔をしていることを自覚していた。
(結局、ボクにできるのは見守ることだけ、ってことか……)
 じっとりと汗ばんだ手を、強く握りこむ。
 人生という舞台において常に観客でいるほど、彼は悟りきった人間ではない。むしろ機があれば積極的に表舞台に飛び出そうとするタイプの人間だ。
 だが非常に残念なことに、今はその時ではなかった。
 果たしてラチェットは成功させることができるのか。ただそれを案じるだけしかできないことが、彼には歯がゆかった。

 若干の迷いをその顔に浮かべ、プラムと杏里がこちらを向く。
 本当に大丈夫なのか。
 数ヶ月のブランク、他人の霊力の受け入れ、それによる霊子甲冑の起動。霊子甲冑の機構の複雑さを考えれば、心配はいくらしてもし足りない。今回の場合、もしラチェットが制御に失敗すれば、霊力の暴走という事態を招く可能性すらあるのだ。
 ……だが、それは裏を返せば、どれだけ気を揉んだところで完全に不安要素が払拭されるなどありえないということでもある。
 覚悟を決め、サニーサイドは指示を下した。
「起動テスト、開始してくれ」
「「起動テスト、開始!」」
『了解。ラチェット・アルタイル、シルバースター、起動します!』
 ワンペアの唱和に、ラチェットが応えた。
 霊力が注がれ浸透し、エンジンが唸りを上げる。
 リバティ島での撤退以来眠り続けていた機体に、今再び、命が宿る──!

 と。
 銀色の風が吹いた。最初は錯覚かと思うほどに微かに、だがすぐに奔流となって溢れ出す。
 搭乗者の気力が最高レベルに達している時のみ観測される、色鮮やかな霊光。
 ラチェットのそれがあまりにも美しく透徹した銀であるからこそ、彼女の乗機はただ一機、その色を名に背負うのだ。

「シルバースター……起動成功!!」

 格納庫が沸いた。ゆっくりと一歩踏み出した銀色の機体に、早くも涙するものまでいる。
 ラチェットのカリスマは、何も一般市民に対してのみ発揮されるわけではない。紐育華撃団内部においても同様に……否、戦士、指揮官としての彼女を知る関係者だからこそより強烈に、彼女に惹きつけられる。
 生きた伝説の復活は、今や誰の目にも明らかであった。
 機械仕掛けの巨人が、生身と変わらぬ優雅さで以って動作確認をこなしていく。
 格納庫内で滑らかに舞うシルバースター。その動きは、隊長職を辞す前となんら遜色ない。
 霊子力計が示す数値は全盛期を僅かに凌駕してさえいた。
 それを確認したサニーサイドはようやく胸を撫で下ろし、強張っていた頬の筋肉を緩める。
「いや、絶好調だねラチェットは。
 これも愛の力ってヤツかな?」
 揶揄するようなその口元は、その実、確かにほころんでいた。

   ◇◆◇◆◇◆

「大河くん、今度はあっちに行ってみましょう! とても楽しそうだわ!!」
「まっ、待ってくださいったらあ!」
 新次郎とラチェットの二人は、ミッドタウンで開催されたフェスティバルに来ていた。
 二人が普段見につけているものといえば、新次郎はモギリ服、ラチェットはオーダーメイドのスーツだが、今日は少々趣が違う。
 紐育の市民は、スター俳優が街を歩いているのを見て騒ぎ立てるほど下世話ではない。ないのだが、それがブロードウェイの女王とまで呼ばれたラチェット・アルタイルとなると多少話が違ってくる。
 ましてや男連れともなれば注目を集めずにはいられない。
 そんなわけで、ラチェットは普段とは違った装い、要するに変装をしている。

 やや高めに結った黄金のポニーテールが、柔らかな日差しに輝きを放つ。また、ちょっと小さめの伊達メガネが、どちらかと言うと近寄りがたい雰囲気を持つ彼女の美貌に、愛嬌を加えている。
 淡い色のシャツにスラックスという地味な組み合わせは、目立つのを避ける意図があるのだろう。着るのがラチェット・アルタイルとあっては、その効果も怪しいところだが。
 一方の新次郎はというと、真新しいポロシャツにジーンズという、若者らしい服装だ。
 これらがラチェットにより贈られたプレゼントであることを、彼女達は知っていた。贈り主とのデートにちゃんと着てくる辺り、抜かりがない。
 まあ、おそらくは天然なのだろうが。

 ……さて、その『彼女達』はと言うと。
 少し離れた物陰から、二人の様子を覗き見していたりする。

   ◇◆◇◆◇◆

「Oh、ジーザス! ありゃ本当にラチェットなのか? まるでローティーンの小娘じゃないか」
「ラチェットさん、可愛い……」
「そう! 可愛いんだよ、あのラチェットが!! おかしいとは思わないのかお前は、って……聞いちゃいないなこれは」
「いいなあ、ラチェットさん。新次郎とらぶらぶ……」
「あらあら、大河さんも大変ですね。うふふ♪」
 サジータが慌てふためき、ジェミニは羨望の視線を向けつつ何やら妄想中。
 その横では、ジェミニの考えを見通しているかのような楽しげな微笑みを浮かべるダイアナが。
 一方、いつもは騒がしいリカリッタは、興味深々といった様子で新次郎たちの方を見つめていた。
「なあなあ昴、あれが『でーと』なのか?」
「ふふ、そうだよリカ」
「しんじろーもラチェットも、楽しそうだな!
 リカも楽しいぞ!! くるくるくるー!!」
 結局踊り出す。だが昴は敢えて止めようとはしなかった。

 ラチェットを見やる。人々を護るということに強烈な自負と使命感を抱き、その誇り高さ故に、欧州星組に下された失格の烙印に耐えられなかった彼女。昴自身も共感していた、かつてのラチェットの効率最優先主義。あれは彼女の高い意識の現われだった。
 ダグラス・スチュワート社と組み、結果的に帝都で大事件を引き起こす手引きをすることになってしまったのも、力なき人々を護るという『正義』を志しながら何一つそのために力を振るえない状態が我慢できなかったからだった。
 昴の知るラチェット・アルタイルという女性は、そうしたストイックな人物だった。

 けれど多分、それは彼女本来の姿ではなかったのだろう。
 力を自覚し受け入れてから、戦うためには不要だと自ら断じたに違いない。
 そうして、一人の少女としてのラチェット・アルタイルは、ずっと閉じこもっていたのだ。

 その扉をノックし、外へと誘ったのが、おそらくは帝都の事件で彼女が出会った大神一郎。
 あの後帰国したラチェットの雰囲気がどことなく変わっていたのは、親しい者が見ればすぐわかった。
 そして──。

 つくづく女泣かせな血筋だな、と昴は笑った。視線の先には、ラチェットに振り回される新次郎の姿がある。
 結局のところ、彼の存在がラチェットを本来の彼女に引き戻したのだろう。星組の隊員たちが、彼との交流によってそうなったように。
 そして、ラチェット・アルタイルに限っては、新次郎以外の人間では多分通じなかった。彼女の築き上げてきた自我は、類を見ないほどに強固だった。
 それはある意味で、昴自身よりも。

 パチリ、と扇子を閉じる。その音で皆の注意を自分に向けることに成功した昴は、楽しげな恋人達の方へチラリと視線をやり、髪をかきあげた。
「ラチェットも、これまで色々あったからね。
 これがおそらく、彼女にとってのRevolution。ああいう風に振舞えるのは、いい傾向だ。
 できれば、見守ってあげてほしい」
「っ! ……ああ、そうだね」
 サジータが、弾かれたように反応する。
 そう言えば、昴自身を除いた星組の面々の中で、彼女だけは欧州星組の歴史を知っているのだったか。
「それじゃあ、そろそろ戻りましょうか。
 あまり長居してお二人のお邪魔をしてしまっては、申し訳ありませんし……」
 ちょうどいいきっかけだと考えたらしいダイアナの提案に、頷きを返す面々。そうして、サジータを先頭に、ぞろぞろとその場を後にする。
 昴も続こうとして、最後にもう一度、二人の方へと視線を向けた。今度は何をしているのかと思えば、二人で大道芸に見入っている。
 さて、こういう場合は何と言ってやればいいのだったか。何かちょうどいい一言があったような気がするが……。
 昴は少しの間思案し、その言葉を思い出す。

「大河、ラチェット。ごちそうさま」

 そっと笑って、昴は仲間達の後を追い始めた。
 空は快晴。絶好のデート日和である。


SS『お嬢様の来訪、姉妹の意味』(マリア様がみてる)

 11月のある日のこと。両親と祐巳が揃って出かけた福沢家で、祐麒は一人留守番をしていた。
 何も疎外されているわけじゃない。祐巳の服を見立てに行くのに祐麒が行く必要はどこにもないというただそれだけのことだ。祐麒自身の服は、十分間に合っているし。
 さっきからずっと、机に向かって勉強しようとしているのだが、どうにも気分が乗らない。少し眠ればすっきりするだろうかとベッドに体を投げ出したその時、インターフォンが鳴った。なんてタイミングだよ、と悪態をつく。
 祐麒はのろのろと受話器へと手を伸ばし、そのまま適当に応答した。どうせ何かの勧誘か訪問販売かだろう。面倒くさいなあと祐麒は思った。
 ──結果的に、その判断は超弩級の大間違いだったわけだけれど。
「はい、どちらさまでしょう」
 少し間が空いた。が、それは一瞬。
 祐麒の想像していたよりもずっと綺麗で落ち着いた声が、受話器から流れ込んでくる。
『リリアン女学園の小笠原です。突然申し訳ありません。祐巳さんはご在宅でしょうか?』
 その丁寧語には淀みというものがまったくない。敬語を使う機会なんてそれほど多くない(あっても使わないことすらあるだろう)ごく一般的な高校生なら、多少のぎこちなさが伴ってしまうものだ。
 だが、この声の主にはそれがなかった。
 そりゃあそうだろう。だってリリアン女学園は全国でも有名な真のお嬢様学校で、しかも小笠原祥子といったら──
 いったら──

 …………はい?
 えっと……なんで?
 祐麒はぼんやりと子機を眺めてしまった。
(って、眺めてる場合かよ!)
 我に返った祐麒は「すぐ行きます!」と叫び、受話器を叩きつけるようにおいて階段を駆け下りる。よりによって彼女相手に無作法の極みだが、今そこに思い至るのは無理だった。
 祐麒が考えていたのはただ一つ。

 ──あの祥子さんが、なんだって祐巳のいないタイミングでうちに来るんだ?

   ◇◆◇◆◇◆

 祐巳の不在を告げると、祥子さんは軽く目を見張った。
「あら、そうなの?」
「ええ。ちょっと買い物に出ていまして。
 ……ええと、祐巳のやつ、何か約束してたんですか?」
 自分で言っておきながら、祐麒はそんなはずはないと思っていた。祐巳が祥子さんとの約束を忘れるものか。
「いいえ、違うの。特にあてもなく移動していたら、なんだか急に祐巳に会いたくなってしまって。
 急に来た私が悪いのだし、何か用事があったわけでもないから、あまり気にしないでください」
 そう言ってほほえんで帰ろうとするので、祐麒は慌てて引き止めた。
 祥子さんが来たのに何のおもてなしもしないまま帰したとあっては何を言われるかわからない。祐巳はもちろん、両親にもだ。
 祐巳の場合、もてなしてもそれはそれで文句を言ってきそうだが。

 それはそれとして、祐麒個人としてもこのまま帰ってもらうのには抵抗があった。
 今日の彼女はなんとなく精彩を欠いている。祐巳の不在を告げた時の彼女の瞳が、不自然なほどに揺れていた。浮かべる笑顔にもどこか無理がある。
 ただなんとなくやってきて、祐巳に会えないことがわかりがっかりした……と解釈するには、その不自然さは少々深刻だった。

   ◇◆◇◆◇◆

 物珍しそうに、しかしあくまで上品さは失わず、祥子さんは福沢家の様子をあれこれと眺めていた。少し、元気を取り戻したように見える。どこからどこまで庶民的な家で、珍しいものなど何もないのだが、それがよかったのだろうか。あるいは、祐巳が暮らす家だから?
 姉妹制度という代物のその辺りの機微は、祐麒にはいまだによくわからないが、気が紛れたなら幸いだと思う。
「紅茶でもいかがですか?」
 祐麒はなるべく不自然にならないように声をかけた。別にやましい所はないけれど、祐巳どころか両親すらいない状況では、相手が祥子さんだというだけで十分すぎるほどに緊張の理由になる。
 山百合会ではごく日常的に紅茶が飲まれるということを、祐巳から聞いている。多分一番無難だろうと思って勧めてみたのだが、
「そうね……ありがとう、いただくわ。
 実は、少し喉が渇いていたところなのよ」
 そう言って祥子さんがほほえんでくれたので、祐麒は少しほっとした。

   ◇◆◇◆◇◆

 冷たい汗がこめかみをつたう。祐麒は非常に焦っていた。
 紅茶を出す。それはいい。ベストとは言わないけれど、グッドなアイディアではあるだろうと思う。
 しかし祐麒は忘れていたのだった。
 つまり、紅茶の淹れ方なんて、知らないのである。そもそも茶葉はどこだとか思っている時点で救いようがない。かといって、舌が肥えていること間違いなしの祥子さんに、ティーバッグの紅茶なんか出していいのだろうか? いや、確かティーバッグで淹れるのにだってそれなりにコツがあったような……。
 結局、恥を忍んで祥子さんに聞いてみることにした。「どうしたの?」と心配されてしまってはそうせざるをえない。
 祥子さんはクスリと笑った。あれこれと説明しながら、滑らかな手つきでカップにお湯を注いでいく。
「男の方は、やっぱり紅茶よりも珈琲の方が馴染みがあるのかしら?」
「そうですね」
 問題はそこではないのだが、祐麒は口に出すのを控えた。
 自分の無作法っぷりをアピールしても、惨めになるだけだろう。

 何でこんな状況になってるんだろうと首を傾げつつ、祐麒はテーブルの向かいに座る祥子さんが優雅な仕草で紅茶を飲むのをこそこそと見ていた。
 祥子さんはお喋りな人ではないし、祐麒も同年代の女性との会話にふさわしいものなんて思いつかないので、沈黙が続く。

 ──やっぱりだ、と祐麒は思った。祥子さんは、なんだか元気がない。自分で気づいているのかいないのか、さっきからため息が多いのだ。そしてこれは、かなりおかしな事態であるはず。
 なんといっても、祐麒はあの柏木先輩と生徒会で付き合ってきたのだ。あの人が人前で自分の動揺を素直に表すところなんて、ほとんど見たことがない。笑みで誤魔化す、というよりも、誤魔化していることにすら気づかせないくらい、感情の制御がうまいのである。
 そして、祥子さんは、柏木先輩と同じ世界の人だ。いくら祐巳の弟とはいえ、それほど親しいわけでもない祐麒に自分の感情を悟られてしまうなんて、普通ならありえないと思う。
 つまり今、祥子さんは普通の心境じゃないのだ。
「どうか、したんですか?」
「……え?」
 祐麒は、自然と祥子さんに問いかけていた。
「ただ祐巳に会いに来たっていうには、ちょっと様子が妙だなと思ったんです。悩んでるっていうか、落ち込んでるっていうか。
 それに、祥子さんがうちに来るのって初めてでしょ? 俺たち花寺の連中ならともかく、祥子さんが、一度も来たことのない家に約束もなしに来るなんて、ちょっと普通じゃない」
「そうね……あらためて謝罪するわ。ごめんなさいね、急にお邪魔してしまって」
「ああいや、そういうことを言いたいわけじゃなくて!
 その、一体どうしたんだろうって心配になったというか……」
 言いながら祐麒は愕然とした。一体何をしゃべっているんだろう。さっき自分で思ったじゃないか。『それほど親しいわけでもない祐麒』って。その自分に、どうして祥子さんの心に踏み込むような真似が許されるだろう。
「す、すいません! 俺、関係もないのに余計なこと……。
 多分そんなに経たないうちに帰ってくると思うんで、あとで祐巳と──」
「いえ、いいのよ。それに、元々祐巳に話してどうにかなる話ではないのだから。いえ、祐巳にだけは話しては駄目なのよ。
 姉としての私の、問題だから。
 心配してくださって、ありがとう」
 ──姉としての。
 思いつめたような表情でこぼしたその言葉が、なんとなくひっかかる。
「そうね……。よかったら、聞いてくれないかしら」

   ◇◆◇◆◇◆

 祥子さんの悩みというのは、自分の進学のことだそうだ。
 元々は外部の大学を受験し、進学するつもりだった。小笠原の家を継ぐものとして、より高いレベルで学ぶのが自然な流れだと考えていた。
 それが、最近揺れているらしい。
 理由は祐巳のこと。
 祐巳を残して外部へ進学してもいいのか。
 側に居続ける道があるのに、それを選ばなくてもいいのか。
「私は、まだ祐巳の側にいてあげたいと思うようになったの。
 あの子には妹がいない。妹になりそうな子はいるけれど、まだどうなるかわからない。ひょっとしたら、私が卒業するまでに姉妹になることはないかもしれない。私がいなくなってしまったら、支えてくれる人がいないのよ。
 もちろん、山百合会の皆は祐巳のことを支えてくれるわ。けれど、姉妹は普通とはちょっと違う、特別な関係だから。
 ……祐巳はね、私の進路をいまだに聞いてこないの。私が卒業して、お別れすることになるんじゃないかって怯えてる。
 だから、もう少し。祐巳と同じ場所にいてあげた方がいいんじゃないか、って。だいぶ気持ちが傾いてるわ。
 でも、外部への進学はずっと前から当たり前だと思っていたことだから、なかなか決心がつかなくて。
 そうしたら、急に祐巳に会いたくなってしまったのよ」
 そんなふうに、祥子さんは話を締めくくった。
 紅茶の湯気が、しばらく前から立ち上るのをやめている。冷めてしまったものらしい。
 カップに手を沿え、少し俯き加減で話し続ける祥子さんを見ていたら、のんきにカップを口に運ぶのははばかられたからだ。

 ──モヤモヤと渦巻いているものがある。
 それは、祥子さんの話を聞いているうちに段々と生まれてきたものだ。
 悩むその気持ちは、わからないでもない。だが、彼女は根本的なところで間違えている。
 なんだって気づかないんだ。

「一つ、いいですか?」
「ええ。何かしら」
「じゃあ、言わせてもらいます」
 祐麒は息を吸い込んだ。
「今のお話を聞いて、祥子さんが祐巳のことを本当に大切に思ってくれてるのはわかりました。でも、祥子さんは肝心なところで間違ってます。
『祐巳の側にいてあげたい』? 何ですかそれは」
「え……?」
 祥子さんは目を見開いたまま、何も言えないでいる。
 当たり前だろう。自分では、祐巳の姉としてごくごく真っ当に悩んでいるつもりなのだろうから。
 だから、今ここで祥子さんには間違いに気づいてもらわなくちゃならない。
 祐巳の姉として。それがそもそもおかしいんだってことに。
「祐巳はそんなに弱くない。弟として、時々本気で妬ましくなるくらいに頼もしくなりました。
 祐巳がそうなったのは、間違いなくあなたのおかげです。あなたの妹として恥ずかしくないようにって、あいつは頑張ってきたんです。
 今の祐巳は強いですよ。たとえあなたが外部進学して距離が離れることになっても、ちゃんと乗り越えていける。そんなことは、俺なんかより祥子さんの方がよっぽどよくわかってるはずでしょう?
 今の祥子さんは、祐巳のためなんて言って自分の気持ちを曖昧にしてるだけです。そんな考え方じゃ、たとえリリアンに残られたって、祐巳のためになるとは思えない」
 祐麒は、思ったことを一息に吐き出した。
「私は……」
 祥子さんは絶句した。ティーカップに指をかけたまま、呆然と固まっている。
 言い過ぎたかもしれない、と祐麒は少し後悔した。きっと、祐麒と過ごすこの奇妙な時間に気が緩んで、ただちょっと聞いてもらうだけのつもりだったのだ。ましてや、こんなことを指摘されるなんて思ってもみなかったに違いない。
 だけど、これは絶対に言うべきことだった。だから、謝るつもりもないのだ。

 祥子さんは『いてあげたい』といった。それはどこまでも祐巳の姉、つまり上の立場からの言葉だ。姉妹の強い絆あっての言葉であるそれには、しかし小笠原祥子という女性の意志があまりにも薄い。
 祥子さんはきっと、『姉として』どうすればいいのかってことを考えすぎてるんだ。
 柏木先輩も祐巳も言っていた。彼女は、人と関わることが少し苦手で慣れていないんだと。だから姉という役割に囚われてしまって、おかしな形で判断を下そうとしている。
 状況もよくなかったのだろう。祐巳に妹がいないということを意識しすぎて、姉としての思考ばかりが先に行ってしまった。
 けれど、それでは駄目だ。だから、気づいてほしい。

 祐麒は最後に、これだけはどうしても聞きたい、聞いておかなければならない事を尋ねた。

「祐巳がどう思うかなんて、二の次なんですよ。大事なのは、祥子さんの気持ちのはずです。
 祥子さん。あなたは、どうしたいんですか?」

 祥子さんの肩がぴくりと揺れた。祐麒の声を聞いて、俯いてしまう。
 祐麒は、我慢強く待った。ここまで言ってわからないほど、祥子さんは愚かな人じゃない。今回は、そう。祐巳のことを大切に思う気持ちが、少しずれた方向に向かってしまっただけ。

 やがて、祥子さんは顔を上げた。その瞳を見て、祐麒は密かに胸を撫で下ろした。
 だって、そこには戻っていたから。祥子さんらしい、強くて真っ直ぐな輝きが。
 答えなんて、聞くまでもなかった。

   ◇◆◇◆◇◆

「ごめんなさいね、お邪魔してしまって」
「いいえ。お話できてよかったです」
 祥子さんはあれからすぐに帰り支度を始めた。ちなみにもちろん、祐麒の言葉に気分を害したということではない。
 祐巳が帰ってくる前に帰らなければ、と彼女は言った。それは逆なんじゃないだろうかと祐麒は思ったが、祥子さんに言わせると、姉として体裁が悪いらしい。いつかちゃんと約束をして、改めて来たいのだという。それまでは今日のことは内緒にしてほしいと頼まれたのだった。
 とんとん、と靴のつま先を軽く地面に打ちつけて、祥子さんはすっかり帰る準備を整えた。玄関まででいいと言われたので、祐麒は床に立ったままだ。
 祥子さんが振り向いた。長くて綺麗な髪が、ふわりと舞い上がる。
「祐麒さん。今日は、私の悩みを聞いてくださってありがとう」
「俺なんかで力になれたんだったら、よかったです」
 すっかり元気を取り戻した祥子さんのほほえみは、とても魅力的で。祐麒は今更のように落ち着かない気分になった。
「姉妹として祐巳と接する中で、色々と誤ったことをしてきたけれど。祐麒さんのおかげで、今度はそんなことにならずに済みそうよ。
 流石は祐巳の弟さんね。優さんが目をかけるわけだわ」
「……どうしてそこで柏木先輩が出てくるんですか……」
 げんなりした祐麒を見て、クスクスと笑い。
 そうして、お嬢様はお帰りあそばしたのであった。

 肌寒い玄関にて一人、祐麒は思う。
 ──流石は祐巳の弟さんね、か。
 祥子さんのその言葉は、ひょっとすると最大級の賛辞なんじゃないだろうか。祐麒は少し誇らしく感じた。

   ◇◆◇◆◇◆

 これは少し後の話になる。
 冬の試験休みのある日のこと。散歩に出かけた祐麒は、近所の柿ノ木さんちの角で一人の少女に出くわした。
 松平瞳子さん。リリアンに通う、一つ年下の女の子。
 夏に会って以来だったが、祐麒はちゃんと覚えていた。別に女の子に飢えているわけではないが、あれだけ印象的な髪型の子を忘れるわけがない。なんとなく可愛かったし。
 こちらに気づいて、松平さんははっとしたようだった。だがそれも一瞬。彼女はにこりとほほえみ、「ごきげんよう」とお決まりの挨拶をしてくれた。
 軽く話してから、祐麒は彼女を家へと誘った。
 なんでも特に行き先を定めず歩いていたらこの近くまで来てしまったらしい。そして、そういえば福沢家の住所がこの辺りだったと思い出し、どの家なのだろうかと行ったり来たりしていたそうだ。
 なら、家に連れて行かなきゃ嘘だろう。

 それに、気になることもある。
 目の錯覚かと、一瞬思った。
 直前まで浮かべていた、迷い悩む不安げな表情は、何かの見間違いかと。

 ──馬鹿な。そんなはずがない。
 彼女が纏う雰囲気は、あの日の祥子さんとどこか似ていた。
 表情を作る技術は祥子さん以上。柏木先輩とタメを張れるかもしれない。
 だけど、一度似たような雰囲気を見て知っている祐麒が、誤魔化されるはずもなかった。その程度には、花寺の生徒会で鍛えられてきたのだ。
 あの日、祥子さんは悩んでいた。以前から決めていたはずの、他大受験という進路。
 祐巳を置いていって大丈夫か、自分がいてあげなければならないのではないか。そんなことを悩んでいた。その悩みが高じるあまり、思わず祐巳に会いたくなって、彼女らしくもなく在宅を確かめることすらせずに福沢家にやってきたのだ。

 今の松平さんは、あの日の祥子さんと重なる。
 彼女もきっと、何か抱えるものがあるのだ。それも、少なくともその一部には、祐巳が何かしら関わっているに違いない。
 どうにもならない気持ちを持てあまし、きっとそれで福沢家へ──

 と、そこまで考えて。祐麒は、何かがすとんと心に落ちてくるのを感じた。
 理解が追いついたのは、その少しだけ後のこと。そう、ちょうど松平さんを祐巳に預けてほっと一息ついてからのことだ。

 松平さんと祥子さん。二人は祐巳からすると、後輩と先輩という対極の立場にいる。
 それでも二人の行動が重なる理由って何だろう。

 ──ああ、なるほど。
 リリアンの姉妹制度って、こういうものなのか。

 それは自分でもうまく説明しにくい、つまりそのくらい自然に湧いてきた認識なのだった。
 きっと松平さんが、祐巳の妹になるのだろう。そして十中八九、相性は抜群だ。
 祥子さんと祐巳が、そうであったように。

 姉妹制度の意味というものが、祐麒はなんとなくわかった気がした。