Hugh Bolton Jones, Edge of the Moor, Brittany, 1877. ©Wikimedia.
Minneapolis Institute of Arts. ヒュー・ボルトン・ジョーンズ
『ブルターニュの原野の縁』1877年、ミネアポリス美術館。
【19】 北海道「植民」と「土人」アイヌの「囲い込み」
『近代日本の最初の植民地は、長年にわたってアイヌ民族が生活してきた「アイヌモシリ」(人間の静かな大地)〔つまり「北海道」――ギトン注〕だった。江戸時代の松前藩による支配は経済的利益を目的としたものであり、』領土支配や植民統治をめざすものではなかった。『だが、明治政府は、この地を「北海道」と名づけて日本の領土に組み込み〔1869年太政官布告〕、「開拓使」という独立した植民地統治機関を設置した〔同前〕。アイヌ民族の存在を無視した日本政府の政策は、万国公法の「無主地」の論理〔「台湾出兵」の後で清国に主張した論理。⇒:(7)【14】――ギトン注〕と同じだった。〔…〕
開拓使は〔ギトン註――アイヌに対し〕入れ墨〔女性〕,耳輪〔男性〕のような民族固有の信仰・風俗〔ほかに、住人がタヒ亡するとチセ(住居)を焼却する習慣など――ギトン注〕を禁止し和名〔と日本語使用――ギトン注〕を強制したほか、定住〔…〕農業に従事させる政策を推し進めた。その一方で、北海道土地売貸規則・地所規則〔1872年〕や北海道地券発行条例〔1877年〕などによって、アイヌの生活空間である漁猟場や山野を官有地に編入し、和人開拓者に払い下げていった。〔…〕
北海道各地のアイヌ』は、『日本の行商人から酒や煙草を高価に売りつけられたり,騙されたりして借金をかかえ、配分された土地を取られたり、漁業や道路工事などに扱き使われた。また、日本人による乱獲で鮭や鹿が激減し、ときには「資源保護」を理由に捕獲が禁止された。アイヌは主食の確保さえ困難になり、「密漁」』として『処罰されることもあった。
78年、開拓使は「旧蝦夷人」「古民」などの〔ギトン註――アイヌに対する〕呼称を「旧土人」に統一した。〔…〕アイヌは、「日本人」でありながら「本来の日本人」ではな』いとされ、『それでいて固有の文化は否定された〔つまり、固有の民族性を否定したうえ、二級国民として扱った――ギトン注〕。こうした政策の根底には、アイヌが困窮するのは〔…〕「改進活発の精神なく」古い習俗に固執するためであり「みずから招く困苦」である〔根室県令「旧土人救済の儀に付伺」1882年〕、という文明の論理〔近代資本主義システムの論理――ギトン注〕があった。』
牧原憲夫『民権と憲法』,2006,岩波新書,pp.97-102. .
北海道を「植民地」と呼ぶと、現在の日本人は異和感を持つかもしれませんが、第2次大戦まではごくふつうに・そう言い慣わしていました。おそらく、戦後の異和感は、ほかの植民地の大多数が無くなったせいでしょう。たとえば、宮沢賢治が北海道旅行に取材した作品には「植民地」の語が頻出します:
『 旭 川
植民地風のこんな小馬車に
朝はやくひとり乗ることのたのしさ
〔…〕
殖民地風の官舎の一ならびや旭川中学校
〔…〕』
宮沢賢治『春と修羅・補遺』から「旭川」1923年. .
『いま窓の右手にえぞ富士が見える。火山だ。頭が平たい。焼いた枕木でこさえた小さな家がある。熊笹が茂っている。植民地だ。』
宮沢賢治『或る農学生の日誌』1924年. .
北海道は「植民地」です。まして「北方領土」は純然たる旧「植民地」です〔今はロシアの植民地〕。沖縄と先島諸島は「併合領土」です。「ポツダム宣言」が何と言おうと「対日講和条約」がどう決めようと、事実はそうなのです。歴史認識は、まず一切の粉飾を取り払って・事実をありのままに認めることから始めねばなりません。
"An Ainu family", in:John Batchelor, The Ainu of Japan, 1892.
「アイヌの家族」:バチェラー『日本のアイヌ』1892年刊 に掲載
植民地統治の開始とともに「開拓使」がアイヌに行なった政策のうち、経済的に重大なのは、「土地売貸規則」などでアイヌの土地を奪ったことです。農業をほとんど行わないアイヌには、土地所有の観念は稀薄でしたが、彼らはいわば北海道の大地すべてを狩猟・漁撈の場として、生活空間としていました。明治国家は、それらをまるごと所有権法体制のもとに置きましたが、ごくわずかの部分がアイヌの所有地として認められたにすぎませんでした。大部分は国有林野となり、また、日本人に払い下げられて「不在地主」の土地となりました。アイヌの生業は「密猟」となり、取締りの対象となってしまったのです。アイヌ集落での生活は、サーベルを提げた警官がやってくるのを窺いながらの日常的逃亡状態となりました。アイヌの伝統的な猟・漁法も、個別に禁止されていきます。73年には、河川での「ウライ漁,テス網漁,夜間漁が禁止され」、76年には、山野と海浜の毒矢猟が禁止されます。アイヌの毒矢猟は、「北東アジアの少数民族のなかでも〔…〕とくに高度に発達」したものだったにもかかわらず。
1886年「北海道庁」が設置されると、「北海道開拓は、本州の大資本、華族資本や大地主中心」のものとなり、「この頃から急激な開拓、乱開発が始まる。」「現地を実見」したこともない華族,士族,政商に広大な「付与地」が払い下げられる大規模「乱開発」によって、耕地化の可能な原野は「大規模寄生地主」に分割され、本州で食いつぶした多数の貧農小作人による開墾が進んでいきます。が、その過程は後ほどまた見ることになります。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.233-234.)
【20】 「秩禄処分」と士族反乱,「西南戦争」
「地租改正」は、江戸時代の「年貢・俸禄」制を近代国家の「租税・俸給官僚」制へ移行させる改革でした。もっとも、西欧米の近代国家では、国庫歳入の重心は関税収入にあったのにたいし、日本の場合は、「不平等条約」で関税自主権が無かっただけでなく、幕府は「通商条約」以後の「改税約書」〔1866年〕によって、関税率をあえて下げてしまう〔20%→5%〕ミスを犯していました。そこで明治政府は、関税収入には頼れなかったため、封建時代の「年貢」の収奪水準を維持する重い「地租」の創設に向かわざるをえなかったといえます。それでも形式の上では、土地所有者からの金納による合理的な近代的租税システムへの移行が遂行されました。
他方で、「廃藩置県」と「徴兵令」によって、旧武士層は、国家統治を担う支配者としてはもはや不要の存在となりました。こうして、「地租改正」事業が進んだ 1876年、華族・士族の「秩禄処分」が実行されます。
華族・士族の「家禄」は、明治初年になっても江戸時代以来の米穀等現物支給で行われており、政府財政を圧迫していました。1875年に、まず、これを米価で換算した「金禄」(金銭支給)に変え、翌 76年〔8月、「金禄公債証書発行条例」〕には、5年~14年分の「金禄」を額面とする「公債証書」を渡して・以後の「金禄」支給を打ち切る「秩禄処分」を行なっています。「フランス革命」など西洋の近代化改革でいえば「封建的特権の有償廃止」にあたる措置で、世界史のなかでは、日本の封建的支配層は「用済み」にあたっても優遇されたと言えます。〔フランス革命では、最終的に「無償廃止」が断行された。〕
これまで永い時代、華・士族層は、何らの労働ないし職務の対価としてでなく、ただ身分に応じた〈取り分〉として・生活保証を大きく上回る「禄」を与えられていました。その状態からいきなり、「働かざる者食うべからず」の状態に追い落とされたショックは大きかったでしょう。士族一般は、「金禄公債証書」の利子だけでは、下層民なみの生活にも足りませんでした。
最も優遇されたのは、上級公家と旧藩主でした。華・士族の 0.2%, 519人の旧藩主クラスは、1人平均 6万円の「公債証書」を交付されましたが、これは当時の高額所得者 20位内の額です。「83%を占める下士層 26万人への支給」公債額は、「利子換算すると、下層民の家族所得額にもはるかに及ばなかった。」それでも、「秩禄処分」に要した「金禄公債」額の合計は 1億7400万円であり、国家予算の3倍近くに上っています。
Eugène Ernest Hillemacher, Demeter moquée par Abas,
Cérès moquée par Ascalabos, 1877. ©Wikimedia.
ウジェーヌ・イルマシェ『デメテルを嘲笑するアスカラボス』
政府は、華・士族が「金禄公債」をもとでに利殖していけるよう、「国立銀行」の設立条件を緩めました。「士族の金禄公債を資本の一部と」する「銀行設立が急増」します。が、その実態を見ると、「国立銀行」に回ったのは士族公債のわずか 12%で、設立資本金の大部分は、政商や従来からの大商人・金融業者〔無尽会社等〕など商業資本の出資であり、彼らが経営の中心となりました。「士族」の大部分は、資本主義に乗り遅れ、没落していったのです。
もっとも、旧藩主クラスに対しては、ここでも政府は手厚い保護を与えています。「第十五国立銀行が、華族(旧藩主と上級公家)だけの銀行として設立され、政府から格別の保護を受け、」株主である華族に破格の株式配当〔年10-12%〕を実施しています。
「秩禄処分」と並行して 76年3月には「廃刀令」が公布され、士族の帯刀が禁止されます。士族は経済的に追い詰められただけでなく、支配階級としての名誉を剥奪されました。これは「日朝修好条規」締結の翌月であり、もはや士族は不要、対外侵略も、農民の徴兵軍隊で十分に行なえることが証明された結果だったといえます。
「こうして、急激に追い詰められた士族の反乱が」続発します。76年10月に熊本で「神風連の乱」、福岡で「秋月の乱」、山口で「萩の乱」と続きますが、「いずれも小規模の孤立した蜂起」として同月内にすべて鎮圧されています。同時並行して、農民の「地租改正反対一揆」は、茨城,岐阜,愛知,三重,熊本県など全国で3か月以上にわたって燃え上がっています。もはや「士族」は、反乱の主役としても威力を失いつつあったのです。
唯一の例外は、西郷隆盛ら旧薩摩藩士が鹿児島を挙げて蜂起した「西南戦争」です。「征韓論」政変で帰郷した「西郷につづいて、鹿児島県の軍人,文官らも辞職,帰郷する者数百名に及び」、彼らは鹿児島で「私学校」という組織を作り、中央派遣の官吏を排除して「鹿児島の地方行政を握った。」大久保政権が、これに対して密偵を差し向け、弾薬を搬送して鎮圧の準備を進めると、77年「2月、1万3000人の鹿児島士族と熊本などの保守派や民権派士族ら 7000人,徴募兵 1万人が参加して北上」進軍を開始しました。
迎え撃つ政府側は、熊本城に立て籠もる鎮台兵〔農民からの徴兵〕を主力とする 4300名でしたが、陸軍中将山縣有朋らが率いる陸海軍 4万5000名の援軍が加わり、西郷軍は「3月、田原坂の〔…〕敗戦以降〔…〕退却に移った。」
「西南戦争」で、西郷「反乱軍の命運を握」ったのは、「農民一揆」と地域民衆の動向でした。「西南戦争の前年、熊本県城北地域で[民権党]の指導によって」「戸長官撰」「地租改正」に反対する「在地の一揆的な運動」が起きています。「西南戦争の約1か月前、熊本県・西部阿蘇郡で」「地租改正」反対などの「大規模な打ちこわしが起きていた。」が、これらの参加者は西郷軍側には加わらなかったのです。「民権党」の一部は西郷軍に参加したものの、「蜂起した民衆」の大部分は「西郷軍を支持し」ませんでした。
もともと兵器,財政,兵数において劣る西郷軍は、地域民衆の支持・支援も得られなかったことから、まったく勝ち目はなかったのです。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.224-228.)
西郷隆盛軍の「西南戦争」は、旧い思想と古い体制に依拠して、「明治政府」の集権的・急進「開化」政権に対抗する・という歴史的意義を、西郷らの戦略と行動がもっと異なるものだったら、あるいは持ちえたのかもしれません。たしかに、19世紀後半~20世紀初めの各国には、そのような抵抗勢力が局地的な勝利を収めた例があります。清朝に対抗した「太平天国」、朝鮮「衛正斥邪」派の「義兵闘争」などが思いつきます。しかし、抵抗勢力が「開化」政府や外国勢力に対抗できる必要最低限の条件は、在地(地元)民衆に支持されることです。西郷軍は、九州中南部の山岳地帯に根拠地を持って遊撃戦で戦えば、数で倍する政府軍にも対抗しえたでしょうけれども、在地民衆の支持無くしては、それも不可能です。西郷軍の人びとは、「私学校」にしても相変わらずの士族中心の上からの組織で、豪農・中農以下の民衆に支持される改革を打ち出す智恵が乏しかったのではないでしょうか?
Claude Monet, Pond at Montgeron, 1877, Hermitage Museum.
©Wikimedia.
モネ『モンジュロンの池』、1877年。エルミタージュ美術館。
【21】 綿工業の勃興と、「地租改正」反対一揆
『73年の世界恐慌以後も、長い不況下に、製糸業や綿織物業をはじめとする地方産業の発展が始まっていた。設立されたばかりの国立銀行〔※〕が資本を提供していたのである。
幕末の開国以来、イギリス綿布が輸入されて、在来綿工業は打撃を受けたが、輸入の洋糸を使う綿織物工業が先進機業地でさかんになり、綿工業が勃興した。日本独自の簡単な紡績装置ガラ紡〔73年発明――著者注〕は、手紡の 10倍の能率をあげたし、ジョン・ケイの飛び梭 ひ〔★〕を日本で安価に模造した「バッタン」〔74年初使用――著者注〕は、織物業の生産性を 1.5 ~ 2倍に高めた。70年頃からイギリス製綿布は急速に駆逐されはじめ、輸入綿布の国内需要に占める割合は、74年に 40%に』下落する。『80年には 23%になる。
その後 90年代からは、綿糸も国内の機械紡績工場製のものに転換し、資本制生産が勃興する。』
井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.225-226. .
註※「国立銀行」: 「国立銀行」は、明治政府が名づけた制度の名称で、じっさいは資本も経営も民間であり、国の許可を得て設立した。「国立銀行条例」(1872)により、73年に「第一銀行」→ 79年「第百五十三銀行」が設立された。「国立銀行」には、紙幣(銀行券)の発行権限があり(76年条例改正まで、銀正貨との兌換義務あり)、82年に日本銀行が設立されるまで、明治初期には各銀行の発行する紙幣が流通していた。
註★「ジョン・ケイの飛び梭」: 縦糸のあいだへ横糸を通す舟形シャトル。中に、糸を巻いた管が貫通している。イギリス産業革命で、綿工業機械化の嚆矢となった発明。
つまり、「政府の保護も、関税障壁」による保護「もほとんど無いという劣悪な条件」のもとでも、初期資本主義の成長は可能なのです。1876年「開国」後の朝鮮も、明治日本と同じ条件下に置かれたと思われ、遅くとも、日本製の機械綿糸が輸入される 90年代には、輸入綿糸を原料とする国内綿織物手工業の発展が、イギリス産などの輸入綿布を凌駕して国内市場に一定のシェアを占める展開がありました。それが、日露戦争以後になると、輸入品全般の朝鮮国内への圧倒的な流入に圧されて委縮してゆくことになります(⇒:(8)【17】)。同じころ日本では、政府の本格的な産業保護政策のもとで重工業を含む資本主義的機械制工業の発展があり、朝鮮に対しては、日本政府の「乙未保護条約」強要と「統監府」設置による植民地化政策が実施されてゆくのです。
「西南戦争」の直前に関東と西日本を席巻した「地租改正」反対の一揆・打ちこわしは、熊本,大分県から茨城県にまで及びました。なかでも規模が大きかったのは三重県全域と愛知,岐阜県にまたがる「伊勢暴動」〔1876年12月〕で、三重県南部で蜂起した数千人の「一揆勢は、松阪町を打ちこわし、三井銀行や商家に放火した。津の県庁に向かうが士族隊」に阻止されて迂回し、北上して「四日市,桑名へ入り、官と名のつくいっさいの施設、支庁や学校、裁判所、病院、戸長宅など〔…〕に放火し、帳簿を焼き捨て」、懲役場を打ち壊して囚人を解放し、囚人の一部を仲間に加えて、さらに愛知,岐阜県へ向かいます。鎮圧後に処罰されたのは 5万余名、三重県全戸数の3分の1以上に及んだ。一揆勢は、はじめの数千人から、行く手で多くの参加者を巻き込んで大暴動に膨れ上がったことがわかります。
「伊勢暴動」の背景には、このころ米価が急落したために、米を売って地租を金納しなければならない自作農家と小地主は、実質的な貢租引き上げとなって苦しんだ、という事態がありました。「暴動」に衝撃を受けた政府は、翌77年1月に「地租」の税率を引き下げています〔3%→2.5%〕。
「西南戦争」後の 78年7月に公布された「地方三新法」も、「こうした民衆運動によるところが大きい。三新法によって」① 府県に公選制の議会(府県会)が設置され、地方税による府県予算を決定する権限を与えられます。②「大区小区制」による官撰の戸長は、町村住民の公選「戸長」に改められ、これらの住民自治制度は、地方から「民権」運動が勃興する土壌となってゆくのです。「西南戦争のインフレーション,地価の引き下げ,三新法、これらは農村に好況を呼びこみ、たがて自由民権運動を巻き起こす。」(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.229-231.)
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