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T. Taylor, Formosan types and costumes – Butan captives in Japan, 

牡丹社戰爭中遭日軍擄獲的原住民族人, 1884. ©Wikimedia.

『台湾の種族と衣装――牡丹族の日本軍捕虜』。「牡丹社」は、台湾

先住民の一村落の名。取材時期は 1874年。この銅版画は数種の

書に掲載され、日本軍を訪問した先住民、と説明する本もある。

 

 

 

 

 

 

 

 

【14】 「自由民権」は、対外侵略と手を携えて

――「民撰議院設立建白」と「台湾出兵」

 

 

 前の節で「前史」を終え、ここでようやく本題に入ります。板垣退助らによる「民撰議院設立建白書」の提出〔1874年〕は、「自由民権運動」の開始とは言わないまでも、その起源となったできごとと言ってよいからです。それを起源と見るのは、たんに議会の開設を提起しているだけでなく、それを「天賦人権論」に基いて求めているからです。

 

 他方、この 1874年には、日本の近代国家最初の対外派兵が実行されています〔72年の「琉球処分」では派兵は無く、73年の「征韓論」は実行されなかった〕。いわゆる「台湾出兵」であり、「宮古島民殺害事件」〔71年〕の捜査を口実に台湾の征服・領有を意図した武力侵攻でした。清国の抗議と欧米列強の批判にも拘わらず上陸を強行した日本軍は、予想外に強い先住民の抵抗に遭遇し、先住民の村落「牡丹社〔…〕を焼き払」ったうえ、半年にわたって占領しました。が、最終的には、日本将兵に 12名の戦タヒ者と 561名のマラリヤ病タヒ者を出して、戦果なく撤退しています。

 

 「自由民権運動」の発端と、近代日本最初の武力侵略が、ほぼ同時に起きているのは、はたして偶然なのでしょうか? ……両者のあいだに、一方が他方を意図したとか、歴史的因果関係があるといった主張をするのは、たいへんに無理があると思われます。しかし、無関係だとも言い切れない。「天賦人権論」と「アジア人蔑視」「アジア侵略論」とのあいだに思想的ないし国民思潮的関連を見るべきか、あるいは、「国会開設」「立憲政治」の主張と「対外膨張」との「大国主義」に基づく必然的連関を探るべきなのか、――アプローチのしかたは様々ありましょうけれども、それが、日本近代国家ないし近代社会の両側面であることを、私たちは忘れてはならない。

 

 「民撰議院設立建白書」は、73年の「征韓論」政変で下野した「征韓派」参議のうち西郷隆盛〔薩摩〕を除く板垣退助,後藤象二郎〔以上、土佐〕,江藤新平,副島種臣〔以上、佐賀〕の4名が、ほか4名の士族を加えて「愛国公党」を結成し〔74年1月〕、政府に提出した・納税者の選挙による国民議会設立の建議です。ここでも、のちに「西南戦争」〔77年〕を起こす旧薩摩藩士・西郷とは異なって、旧土佐藩士らは平和的手段での反政府運動に向かったと言えます。なお、旧佐賀藩士の江藤は、「設立建白」の翌2月「佐賀の乱」に蜂起し処刑されています。

 

 「愛国公党」は、その立党宣言「愛国公党本誓」のなかで、「天賦人権論」に基いて人民の「通義権理」を保護するとし、「天皇と臣民が一体となる政体」を主張した。「設立建白書」では、それにもかかわらず現状は、天皇でも人民でもなく「有司」が政治権力を握る「有司専制」であると批判する。この現状を改める道はただ一つ、「民撰議院」を設立して「天下ノ公議」を張り、もって「有司専制」を抑えることにあるとするのです。そして、納税者は、当然の「権理」として参政権を持つとしました。

 

 「愛国公党」の主張は、「天賦人権論」に基く――したがって身分差別を排した国民議会を主張する――ものの、天皇権力の実質化をめざした〈君民同治〉であり、そこには「士族」の政治観念が色濃く残っていると言えます。党員たちが、「征韓論」に固執して下野したことに、結党と「議会設立」要求のきっかけがあったことも見逃せません。

 

 しかし、「設立建白書」の内容は新聞などで広く流布し、たとえば、豊前〔大分県〕の農民出身・大井憲太郎は、「民撰議院」は時期尚早だとする「明六社」の加藤弘之〔賤民解放令を建議した啓蒙思想家。のち東京大学初代総理〕に対し、「建白書」の主張を擁護して論争しています。こうして「愛国公党」の士族らの主張は国民各層に浸透して、より広い観点から把え返され、「自由民権運動」を準備することとなります。その過程で板垣らも、自己の思想を、より自由主義的な方向へ変容させていったと言えるでしょう。

 

 

Armand Guillaumin, Soleil Couchant A Ivry, Sunset at Ivry, 1873, 

Musée d'Orsay. ©Wikimedia.

アルマン・ギヨーマン『イヴリーの日没』1873年。オルセー美術館

 

 

 つぎに、「台湾出兵」にかんしては、これをめぐる清国との交渉過程を補っておいたほうがよいでしょう。侵攻に先立って、清国「総理衙門」の高官から、台湾は「化外の地」〔施政権外〕だと自認するかの不用意な発言を引き出し、これを東京で歪めて報告し、出兵の決定を出させたのは副島種臣でした。西郷隆盛らの「征韓論」を、政変まで引き起こしてようやく抑えたばかりの大久保と大隈は、膨張主義者副島の強硬動議にまんまと乗ってしまったのです。

 

 大久保と大隈の決定は、欧米列強による国際法秩序の威力を甘く見ていました。日本の出兵は、台湾を領有する清国の意向を無視した独断と言わざるをえず、国際法から見れば、「日清修好条規」の「領土保全,相互援助」条項に明らかに反していました。「山縣,伊藤らは出兵に消極的であり、木戸も参議を辞任」して抗議します。イギリス駐日公使パークスとアメリカの駐日公使は、中国・台湾との「貿易が妨げられるのを恐れて〔…〕強く反対」します。こうして一斉に向けられた反対に逢着した大久保は、出兵中止を決めますが、長崎に集結していた陸海軍計 3000名は、強硬論者の指揮官西郷従道 つぐみち〔隆盛の弟〕に率いられて台湾に出動・上陸してしまいます。

 

 そこで、出兵の実行は、西郷の勝手な行動だったと書いている文献が多いのですが、国立公文書館所蔵の公式文書によると、74年4月7日に陸軍省と海軍省から出兵命令が出ており(⇒:wiki)、そのまま上陸・戦闘に至っています。侵略は、日本政府の公式決定だったのです。ひいき目に見れば、上下不一致で互いに責任を押し付け合う「日本帝国」の無責任体質が、すでにこの段階で現れていたと見ることもできますが、それはそれで大問題です。

 

 清国および列国から抗議が寄せられると、日本政府はようやく 7月になって「清国との戦争も辞さない方針」を閣議決定し、大久保が全権代表となって北京での交渉に向かいます。大久保は、清国が「化外の地」だと言ったから、代わりに懲らしめに行ってやった、などとはさすがに言えず、台湾は「無主の地」だから初めて「先占」した日本の領土になる〔かつて西欧諸国が、アフリカなどの植民地領有を正当化した論理。19世紀後半の国際法ではもはや通用せず――ギトン注〕、との主張をしました。もちろん、清国からも列強からも相手にされません。

 

 ただ、日本にとっては幸いなことに、当時清国はまだ、李鴻章 リー・ホンチャン ら「洋務派による洋式軍制改革が進んでおらず、日本と戦う能力は無いと〔清国みずから〕判断していた。」日本側でも、長期戦になれば財政負担に耐えられず、国内の士族反乱を抑えられなくなるという判断がありました。そこで、「イギリス駐清公使が仲介に乗り出し〔…〕イギリスの圧力で」、「日清両国互換条款」〔74年10月〕を締結して妥結します。清国が日本に「償金50万両」を支払い〔※〕、日本の出兵を「保民の義挙」として承認し、日本は 12月20日までに撤退する、という内容です。

 註※「償金50万両」: 公式には、宮古島民への遭難見舞金10万両、台湾の諸設備費40万両とされ、後者40万両は清国の国内支出(のはず)であり、日本に支払うのは辻褄が合わないが、大久保は、受け取ったうえで返すつもりだったとも述べている〔じつに意味不明〕。なお、「50万両」という金額は、日本が費やした出兵費用の10分の1にもならないとの批判が、妥結後に日本国内で炎上した。

 

 侵略された側が、した側に「償金〔賠償金〕」を支払うなど、一方的に日本に有利なようにも見えますが、清国は〈名を捨てて実を取った〉とも言えるでしょう。少なくとも、日本の台湾占領〔ごく一部なりとも〕をこの段階では完全に阻止しました。また、イギリスの意向が強く働いたこともたしかです。英国は、清国と日本が組むことを何よりも怖れていたので、清国に不満を残す解決が良策でした。他方で、ロシアの朝鮮半島進出を警戒する英国は、この時点ですでに、日本を〈対ロシアの尖兵〉として朝鮮に進出させるべく仕掛けていたのです。

 

 

Guan Lianchang(关联昌, active 1840–1870s), River Scene with Tea 

House, Near Guangzhou. Hong Kong M.o.A. ©artsofasia.com.

関聯昌『広州近郊の河岸情景と茶館』、1840-70年代。香港美術館

 


 この「出兵」で、政商として軍事輸送を担当した「三菱商会」は、輸送に使用した「官船の無償下付を受け」、出兵後は「上海航路」に進出する。その「運航には助成金が交付された。」他方、「大倉組商会」も、「台湾出兵」以来「陸軍の御用商人として発展」した。大久保政権は、「海運保護政策を決定し、三菱に特権的保護を与えることを決め」る〔1875年9月〕が、同政権が「朝鮮で江華島事件を起こ」して朝鮮の軍事侵略を開始するのは「その 5日後である。」(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.213-216.)

 

 

 

 【15】 「北方」での日露談合――「千島・樺太交換条約」

 


 北海道とサハリンは、もともと「オホーツク文化人」がまばらに居住している地域だったと思われます。本州・東北地方から北海道南部に「縄文人」が移住を開始したのは、おそらく紀元前のことでしょう。紀元後は、「弥生人」のちには「大和朝廷」の東北進出に押されて、移住の速度は速まったと思われます。東北地方の「縄文」文化は、しだいに「弥生」文化と混合していき、他方、津軽海峡以北の「縄文」文化は比較的原型を保って続くので〔それでも、石狩平野に古墳が築造されるなどしている〕、これ以後の北海道は「続縄文」文化と呼ばれます。「大和朝廷」は、東北地方の縄文文化人と北海道の続縄文文化人を漠然と指して「エゾ」「エミシ」と呼んでいました。そのなかには、関東以西から移住した「ヤマト」人の一部も含まれています。

 

 当時、北海道東部は「オホーツク文化人」の居住域であり、「オホーツク文化人」と「続縄文」文化人の混血と文化的混淆により、独自の文化を持つ「アイヌ」が誕生したと考えられています。たとえば、「アイヌ」の行事「イヨマンテ」〔熊祭り〕は、イノシシによる「縄文人」の供犠儀礼が、イノシシの生息しない北海道でクマ供犠に変化したものと考えられます。

 

 「ヤマト」の飛鳥時代にあたる 7世紀中頃、北陸~東北の日本海沿岸で活動した朝臣阿倍比羅夫 あべのひらふ は、660年頃、「渡島のエゾ」とともに石狩川畔で「粛慎」を相手に交戦しています。「粛慎」は、「オホーツク文化人」の末裔と考えられます。おそらくこの頃以後と思われますが、北海道の「アイヌ」は漁業資源を求めてサハリンに進出し、一部は千島にも移住します。北海道、サハリン、千島の「アイヌ」は、それぞれ言語を多少異にする地域集団を形成していきます。一方、「オホーツク文化人」は、道東に「アイヌ」と混住した遺跡を残していますが、しだいに「アイヌ」に同化していったと思われます。サハリンの先住民「ニヴヒ」〔ロシア語でギリヤーク〕は、「オホーツク文化人」の末裔と考えられます。サハリンの・もう1系統の先住民「ウィルタ」は、沿海州に本拠があり、大陸側からの移住民と思われます。

 

 江戸時代以後は、日本人が道南,釧路などに移住し、サハリンにも漁港を築いて進出しますが、日本人がいるのは春~秋の三季だけで・冬は道南などへ戻るので、サハリンはもっぱら、「ニヴヒ」「ウィルタ」の土地に、「アイヌ」が進出しつつある状況だったと言えます。樺太「アイヌ」と同島先住民との関係は必ずしも平和的ではなく、移入してくる「アイヌ」との抗争や、「アイヌ」部落を全滅させた戦いの伝承が、「ニヴヒ」の民話のなかに残っています。

 

 ロシア人のシベリア進出も 17世紀から顕著になり〔1581-82年 コサック首長イェルマークのシベリア遠征〕、1860年「北京条約」で、ロシア帝国が清英間「アロー号戦争」の和平を仲介した見返りとして「沿海州」を獲得する〔太平洋につながるウラジオストック港を確保〕と、ロシア帝国は「樺太経営」に乗り出します。「警備兵と多数の囚人を送り込み」、流刑地として開発を始めるのです。刑期を終えた囚人〔政治犯が多く、経済的・知的水準は高かった〕で、島に残留して開発に従事する者も多かったので、サハリンのロシア化は急速に進み、三季の「出稼ぎ」に限られていた日本漁民の勢力を圧倒してしまいます。

 

 

ニヴヒ族の「夏住居」。これは夏季の住居で、冬季は地面に竪穴を掘っ

て屋根を葺き、半地下の住居に住んで寒気を避ける。ソ連崩壊期には

労働者アパートの集中暖房システムが停止したので、先住民もロシア

人も、庭にニヴヒ式住居を設けて越冬したほどであり、鉄筋コンク

リートの文明住居と比べて「遅れている」とは決して言えない。

 

 

 もっとも、ロシアのサハリン領有が進んでいく一方で、江戸時代の幕府政権はそれを拱手傍観していたわけではありません。幕府が北方に派遣したのは、先住民から何も学ぼうとしない頭の固い役人ばかりではありませんでした。たとえば、間宮林蔵〔1780 - 1844年〕のような人がいました。間宮は、当時の日本漁民とも、明治政府の「開明派」官僚とも異なり、沿海州・サハリンの先住民と、現地で共に暮らして彼らの生活様式を学び取ったのです。それによって彼は、西洋の知識と艦船を装備するロシア人よりも深く北方の環境に馴れ、長期にわたる探検行を成し遂げることができたのです。

 

 このような江戸時代の事績と比較すると、「維新」以後の日本の北方観念には明らかに退歩が見られます。

 

 「明治政府」は 1870年に「樺太開拓使」を設けたものの成果はなく、英米両国の駐日公使も、「ロシアの南下を警戒して、北海道開拓への専念を助言していた。」そこで 1874年「明治政府」は「樺太放棄の方針を決めて、榎本武揚全権公使を」サンクトペテルブルクに派遣し、翌 1875年、「千島樺太交換条約」を締結します。これによって日本はサハリン島を放棄し、領有と植民地化の対象から外したのです。

 

 もっとも、これはすべて日本,ロシア,欧米諸国等、“文明国” の意向だけで決められたことであり、アイヌ,ニヴヒ,ウィルタら先住民,北方少数民族の権利はまったく無視されました。彼らの意向は、調査されることさえありませんでした。


 75年冬、「樺太アイヌのうち 841名は、開拓使によって北海道石狩川沿いの内陸部〔…〕(江別市)に強制移住させられて農業民化を強いられ、天然痘などで約400人がタヒ亡する。」原住地で、狩猟・漁労を中心とする生活を営んでいた樺太アイヌに農耕を強いることは、食料を奪うに等しいだけでなく、未開社会の人びとは、文明社会の疫病に対して免疫がない点を、「明治政府」はまったく考慮していなかったのです。しかも、なぜ移住させたのか、理由さえ不明です。強制移住者の約半数のタヒ亡という惨事は、「明治政府」の勝手な「開化至上・未開人蔑視」「ロシア人嫌い」が引き起こしたジェノサイドであったと言えます。

 

 

 

 

 

 

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