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Hans Thoma, Wiesenlandschaft, 1871, Neue Pinakothek.©Wikimedia

ハンス・トーマ『まきばの風景』1871年。ミュンヘン新絵画館.

 

 

 

 

 

 

 

 

 【12】 前史 ――「廃藩」「新政」反対一揆の広がり

 

 

 1871年の「廃藩置県」布告は、中国・四国,三重などで、廃藩反対,貢租増徴反対,「神仏分離」「大教宣布〔神道の国教化〕」反対,「賤民解放」反対などの要求を掲げた「一揆」を惹き起こしました。明治政府直轄の府県での酷税を見ていた旧藩民は、「廃藩」によって貢租が増額されることを恐れたのです。「賤民解放令」は、〔たとえ不徹底であっても〕客観的には明らかに進歩的な改革でしたが、民衆から歓迎されるどころか憤激の対象とされ、反対一揆は旧「賤民」部落を襲って焼打ちしたのです。「神仏分離」に民衆が反対したのは、江戸時代までの民衆信仰は神仏習合そのものだったからです。明治政府は、むしろ開明的であればあるほど、そうした土俗的宗教伝統を「陋習」と決めつけ、「尊王」「国学」思想に基いて寺仏僧を排撃し「神道」の純化・至上化をはかったのです。

 

 「留守政府」による一連の急進改革が打ち出されていくと、「一揆」はますます激化し、1873年は「明治初年一揆のひとつのピークとなった。」地域的にはやはり西日本が中心で、福岡県~中国・四国に集中しています。要求項目は、「賤民解放」反対が依然として多く、部落に対する襲撃が続いています。徴兵,地券〔土地所有の確定〕,貢租に対する抗議も多く、とりわけ、それらの「新政」を末端で実施する「戸長」が怨嗟の的となり、「戸長宅」の襲撃が多く見られます。

 

 つまり、この時期以後の「一揆」は、被差別部落や「戸長宅」のような手近な〔半〕弱者を群衆的攻撃の対象とする・新たな傾向を示すようになったのです。

 

 これに相応して‥と言うべきか、「一揆」に対する政府側の処罰のしかたにも変化が見られました。江戸時代の「一揆」の処罰は、もっぱら「一揆」の指揮者である名主層が残酷刑に処せられ、「[付和随行]の一揆参加者は処罰されなかった。」「明治新政府」も、「廃藩」反対一揆までは、この原則を踏襲していましたが、73年以後の「一揆」では、首謀者を斬首刑にするほか単なる随行者にも処罰〔笞刑など〕を加えるようになります。たとえば、「筑前竹槍一揆」では 6万4000名が処罰され「福岡県の総戸数の 71%」に及んでいます。

 

 「一揆」をいわば〈民の声〉として黙認する中世的支配者の態度から、犯罪として処罰する近代法治国家の原則に移行したと言えます。

 

 

 

【13】 前史 ――「内剛外柔」だった明治初年の近隣外交

 

 

 ここで、「明治政府」への政権交替から 1873年頃までの、周辺諸国・諸地域との対外関係を見ておきたいと思います。じつは、この節で「前史」は最後、次節から「自由民権運動」の時代に入ります。

 

 

Anonym, Hong Kong Island and Port, circa 1865.

作者不明『香港島と港』、1865年頃。 ©Wikimedia.

 

 

 1868年12月、「明治政府」は「朝鮮政府に[大政一新]を知らせる外交文書[書契]を送」りましたが、朝鮮王朝政府は、文書中にあった「皇」「奉勅」などの文字が前例に反するとして受け取りを拒否します。

 

 じつは、これは理由のあることでしたが、「明治政府」側は強く反発し、「征韓論」を抬頭させることになります。

 

 豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争〔1592-98. 壬辰倭乱,丁酉再乱〕が秀吉の病没で中断した後、豊臣政権に代わった徳川幕府は、細心の注意を払って対朝鮮外交関係を修復し、朝鮮王朝からの「通信使」、江戸幕府から朝鮮への「答礼使」の往来を実現しました。幕府の意図は、朝鮮を通じて本格的な朱子学・儒教思想を導入し、武士の文化的レベルとヒエラルヒー意識を高めて平和的統治を実現することにあったと思われます。それが成功を見たことは、2世紀半にわたる日本国内の「パクス・トクガワーナ〔徳川の専制平和〕」が証明しています。他方、朝鮮王朝の側でも、再侵略を防ぐことに意を用いたので、善隣友好は歓迎すべきことでした。そして、朝鮮の伝統的な観念では、中国を中心とする「冊封体制」の維持こそが〈平和〉を維持するカナメでしたから、文書の用語から行列,席次に至るまでの格式を重視したのです。ただし、朝鮮側は日本を「華夷」秩序で劣位に見なすようなことはなく、「徳川幕府を朝鮮国王と同格に位置づけ」ており、漢文・儒学の教養レベルには大きな差があったにも拘わらず、あくまでも対等の形式を守っていました。

 

 その後、朝鮮では、「夷狄」である満州族が支配する中国・清王朝はもはや真正の「中華」とは言えない、いまや朝鮮こそが世界の中心であるとの「小中華」思想が抬頭し、他方、日本では「幕府が武威思想を固め」、双方とも武力による「攘夷」政策を強めたので、1811年の第11回〔ただし、対馬まで〕を最後に「通信使」外交は途絶えています。が、その後も、対馬藩に仲介された外交関係は幕末まで続きました。そのなかで、朝鮮側では、「江戸時代の後期には、朝鮮国王より天皇を上位に扱う可能性を危惧する」意見も唱えられるようになりました。従来の交換公文の形式を破った「明治新政府」の書契に、朝鮮王朝が神経質になったのは無理もないことでした。他方、幕府や対馬藩と違って「明治政府」には、朝鮮側の拒否の理由を理解できる人がいなかったのでした。

 

 「書契」の受領を拒否された「明治政府」では、69年には木戸孝允を中心とする対韓強硬論が抬頭し、「外交文書を受け取らないのは[無礼]」であるから、「兵力をもって韓地釜山付港」を開かせようと主張しています。急進派である木戸派は、欧米を手本とした「開化」に熱心であるだけ、東洋の伝統的観念を十把一絡げに「陋習」と見なす傾向があり、加えて、「攘夷」の裏返しとして、武力による開国こそ正義だと見なす傾きがありました。

 

 もっとも、この明治初年の段階では、いかに強硬な外征を唱えようとも、実際にそうするだけの軍備も財政も経済力も政府には無かったのです。「版籍奉還」後の 70年5月には、「対馬宗家の外交権を没収し」、「年末には外務省官吏を釜山に派遣」しますが、朝鮮側に相手にされなかったようで、官吏は帰国早々「出兵による征韓論〔実施不可能な〕を唱える始末であった。」

 

 

金弘道『檀園風俗畵帖』より「무동(舞童)」、1780年頃。

国立中央博物館(ソウル)。 ©Wikimedia.

 

 

 他方、同じころに北方でも動きがありました。69年6月「ロシアがサハリン南部のクシュンコタン(大泊)〔現コルサコフ〕を占拠した。」これに触発されて、対露戦争を辞さない強硬外交を主張したのは大久保利通でしたが、「明治政府」は軍備・財政ともに余裕がなく、立ち消えとなります。イギリスのパークス公使も、「日露の国力の違いを指摘して」明治政府に「慎重論を助言」しています。それでも、当時イギリスはロシアの極東進出を警戒しており、ロシアはサハリンよりも朝鮮に勢力を伸ばすと見ていたので、日本が先に朝鮮に「着手することを助言した。」それでも、じっさいに日本が武力で朝鮮に向かうだけの軍備を持ったのは、「江華島事件」〔1875年〕以後でした。

 

 69年、「明治政府」は蝦夷地に「開拓使」を置き、「北海道」と改称しますが、「廃藩置県〔1871年〕まで、開拓使の施策はごく限られたもので成果も少なかった。」70年には「樺太開拓使」を置いたが、こちらも成果は無かった。(なお、「サハリン」――本来は「サガレン」――は満州語、「からふと」はアイヌ語〔推定〕で、いずれの地名も、日語でも露語でも同島先住民語でもない。)

 

 イギリスに背中を押された「明治政府」は、「朝鮮との外交を有利に進めるために」清国と「対等」の条約を結ぶという手段に出ます。朝鮮王朝は「丙子胡乱」〔1636-37年。清朝が朝鮮に侵攻〕で清国に屈服して以来、冊封体制のもとで清皇帝に臣従する関係にありましたから、「明治政府」が清と対等になれば、朝鮮王室に対して優位を主張できると考えたのです。70年には「予備交渉をまとめ」、本交渉の末、71年7月に「日清修好条規」に調印します。

 

 本交渉に当たって日本側は、「対等〔「比肩同等」〕」と言っていた予備交渉での主張を翻し、日本が欧米から押し付けられたのと同じ「不平等条約」を、清国に押しつけてきました。清国側で交渉を担当したのは「洋務派」李鴻章で、日本よりも早くから西洋の知識技術の導入を進めていたほどですから、「不平等条約」の問題性もよく解っており、これを拒否しました。そして結局は、双方が互いに相手国を「不平等」に扱うという奇妙な約定を結んだのが、「日清修好条規」だったのです。「欧米から押し付けられた領事裁判権と協定関税を」双方が相手国に対して押し付けることとなり、日本側が主張した「最恵国待遇や内地通商権など」は、清国側の反対で設けられず、不満な日本側は「批准を 73年まで延ばしたほどであった。」

 

 「日清修好条規」が調印された 71年の末に、「琉球」と「台湾」にかんして日清のあいだに突発的事件が起きます。「宮古島の島民が難破して台湾に漂着、54人が地元先住民に殺害された。」日本で急進政策を進めていた「留守政府」は、これを〈好機〉とみなし、「琉球」の領有と「台湾」侵攻を実行します。

 

 まず、72年に「琉球王国」の代表として王子と「親方 うぇーかた」を東京に迎え、琉球国王尚泰を「藩王」に「昇格」させて「琉球藩」を設置します。もともと「琉球王国」は清国から冊封を受け、鹿児島藩にも事実上従属するという「二重服属」の状態にありましたが、これによって「明治政府」支配下の「藩」となってしまいます。つまり、「昇格」させると言いながら、国際形式としては独立王国から日本支配下に併呑されてしまった。一種の騙し討ちであったのです。しかもこれは「廃藩置県」の後なのですから、いずれは「県」を置いて日本の一部に吸収するつもりで、形式上まず「藩」としたことが明らかでした。「琉球処分」(琉球併合)の第一歩だと言われるゆえんです。

 

 そのうえで、73年に「明治政府」は、「大国主義外交を唱える副島種臣 そえじま・たねおみ を〔…〕北京に派遣」します。副島は、遅れていた「修好条規」の批准をして清国「総理衙門」の高官を安心させたうえで「おしゃべり」を交わし、台湾の先住民は「化外 けがい」〔文明の外〕の民で、「はなはだ理する〔治まる〕ことをなさざるなり」との発言を引き出して帰国します。そして、清国は台湾人を支配していないと言うのだから、日本には台湾派兵の「義務」がある、と「明治政府」に建議します。この建議は、74年5月の「台湾出兵」となって実施されますが、それは次節に譲りましょう。

 

 

金弘道『檀園風俗畵帖』より「씨름(相撲)」、1780年頃。

国立中央博物館(ソウル)。 ©Wikimedia.

 

 

 この間に「朝鮮」では、釜山に派遣された外務省官吏と朝鮮側官吏の対立が激しくなり、72年5月「倭館欄出」事件が起きます。「倭館」は、朝鮮政府が設けた・日本の長崎「出島」のような外交貿易施設でしたが、日朝間に公式の条約関係は無く、対馬藩が朝鮮側の厚誼に頼って滞在するにすぎませんでしたから、「出島」よりはるかに厳しい規制を受けていました。ところが、「明治政府」の官吏は、対馬藩と朝鮮政府の間の前例を無視して、勝手に「倭館」を飛び出し〔欄出〕て朝鮮官衙に交渉を要求したり、「対馬藩士を一掃して倭館を占拠し」たり、朝鮮側の禁ずる密貿易商人を出入りさせたりしたので、朝鮮王朝当局は「倭館」への必需物資の供給を停止する措置に出ます。これが東京に伝えられると、「明治政府」内で「征韓論」論争が巻き起こるのです。

 

 73年に、「留守政府」では派兵論が大勢を占めます。西郷隆盛のように、自分が非武装の使節として赴き・まず朝鮮政府と交渉し、それが拒否されれば開戦に及ぶとの意見と、板垣のように、まず一大兵力を送って居留民を保護したうえで、使節を派遣し交渉するという意見〔のち、改説して西郷に同調〕に分かれたものの、西郷らも朝鮮政府が交渉に応じるとは思っておらず、使節派遣は武力侵攻の大義名分を作るための手段にすぎませんでした。

 

 しかし、そこへ『岩倉使節団』が帰国し〔73年9月〕、即時派遣を主張する「留守政府」メンバーと、派遣・派兵に反対して「内治優先」を主張する岩倉,大久保,木戸ら帰国メンバーとの対立が激化し、西郷の「使節派遣」も、『遣欧使節団』帰国の直前と直後の2度にわたって決定されながら、実施に至りませんでした。最終的には、弱年〔21歳〕の明治天皇に因果を含めた派遣・派兵反対派が、派遣撤回の裁定を引き出して勝利し、西郷,板垣,副島ら「征韓派」は職を辞して下野します。

 

 『使節団』帰国メンバーが、派兵取りやめに強くこだわったのは、「留守政府」の発令した「徴兵令」〔73年1月〕に対して、徴兵対象となる平民からも、「お役御免」となる士族からも反対が多く、西日本を中心に激しい反対「一揆」が巻き起こっている現状を見たためと思われます。国民の反対のために「常備軍」の創設さえ困難に直面している状況を、海外から帰国して眼にした『使節団』メンバーは、外征など時期尚早の夢物語であって、まずは「内治」を成功させて民心も治安も安定させるのが先決だと考えたのです。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.179,202-203,206-211,216.)

 

 

 

 

 

 

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