Paul Thumann, Italienischer Musikantenknabe bettelt, 1872.
パウル・トゥーマン『物乞いするイタリアの少年楽士』
1872年。 ©Wikimedia.
【10】 前史 ――「廃藩」クーデターと
「岩倉使節団」;「留守政府」の急進改革
大蔵・民部省を中心とする鉄道・電信・金融などの急激な中央の「開化」政策のもとで、「新政府の貢租増徴にさらされた府県〔政府直轄地。旧幕府「天領」や、倒幕戦争で没収された幕府方藩領に置かれた。〕の農民は、打ちこわし〔…〕焼打ちを展り広げ、県庁」を襲い「官員を刹害するなど、府県支配を揺るがしていた。」「非薩長有力大藩」で、中央への集権にブレーキをかけながら・より開明的な改革を成功させていた地方の進歩派は、「民衆を犠牲にして」急激な「開化事業を進める」中央政府・木戸派の寡頭支配を批判し、諸藩の代表など地方からの政府参加の途を開くよう、強く求めました。木戸らの・民衆を犠牲にした独裁的「開化」路線は頓挫の危機に陥り、より分権的な〈連邦〉国家体制への転換を見据えた・非薩長からの「州」制構想が現実味を帯びてきたのです。
1871年7月の「廃藩」クーデターは、薩長寡頭派の木戸孝允,西郷隆盛,大久保利通が、兵部省中堅の山縣 やまがた 有朋〔長州閥〕らと計って、非薩長諸藩の息の根を止め、分権・〈連邦〉構想を一気に握りつぶすべく仕掛けた奇襲攻撃にほかなりませんでした。彼ら薩長寡頭派は、いわば分権の砦であった「藩」を一挙に廃止して中央政府直属の「県」とする改変を、突然の天皇の「詔書」発布によって敢行しました。反対派との武力衝突こそ無かったものの、首都に呼び寄せられた薩長の大兵団が警護するなか、兵部省の支持のもとに行われた・この政変は、クーデターというべきものでした。そして、実際上の効果においても、「明治政府」の権力構造は、これによって決定的に「集権化」へと向う・後戻りできない分岐点を越えたのです。
「廃藩置県」の「詔書」によれば、このクーデターによる「専制的中央集権」の強化は、「内もって億兆を保安し、外もって万国と対峙」する必要から行われるとの名目でした。たしかに、薩長寡頭派にとって、国内における〈民衆〉および分権的勢力を抑圧する必要性は大きかったでしょう。しかし、国外において、欧米諸国と「対峙」しなければ国の独立が危うくなるほどの危機があったかどうかは、たいへんに疑問だったと言わなければなりません。
「廃藩」後の中央機構改革で、「立法,行政,司法の三権を統轄する」正院・太政大臣には三条実美、右大臣に岩倉、正院・参議に木戸,西郷,板垣退助,大隈重信が就任した。「外務,大蔵,工部,兵部,司法,文部,神祇,宮内の八省が設置され、薩長土肥出身の有司が中枢を占めた。」「旧公家や大名のほとんどが退陣させられ」た。こうして、中央政府の要職は薩長等の閥族で占められ、集権化はいっそう強められました。
「廃藩置県詔書」4か月後の 71年11月、岩倉,木戸,大久保,伊藤博文らは、総勢 107名の『岩倉使節団』を組んで横浜を出港し、73年 9月まで欧米各国の実情を視察します。『使節団』の目的は、「開化」の課題のうちでも「切実な〔…〕法律,財政,外交という」国家制度3点について「欧米の景況を実見」し、「日本に採用する」ことにありました。が、それが可能だったのは、「政府要人がいっせいに長期外遊できるほど」安定した「列強との関係」に支えられていればこそでした。
あたかも 1872年5月は、「欧米と結んだ条約の改定期限」にあたっていました。日本政府として、欧米列国に対して「不平等」条約の改正を求めたい気持ちがあったことは事実ですが、訪問先のイギリスでヴィクトリア女王から、日本国内で凄惨な「キリシタン迫害」〔まさに「不平等」な野蛮国!〕がいまだ行われている点を問詰され、あわてて「留守政府」に通牒して「キリシタン禁令の廃止」を指示するなど、とても「条約改正」どころではない実態を自己認識する旅であったのです。〔明治時代にも、流刑や磔刑などのキリシタン迫害が行われていた――と言うと、そんなバカな!と剥きになって怒る日本人がいまだに多いことには、正直驚いてしまいますが。。。。〕
Claude Monet, The Goods Train, 1872, Pola Museum of Art.
クロード・モネ『貨物列車』、1872年。ポーラ美術館。©Wikimedia.
中央政府の主だった人物が、まる2年にわたって日本を留守にしたわけです。その影響は‥‥:開化・集権化が減速するどころか、まさに〈改革のラッシュ〉でした。
「留守政府」を預かった「木戸側近の大蔵大輔 たゆう 井上馨」らには、留守中の改革実施に「一定の枠」をはめる「約定書」が指示されていました。が、井上らは急進「木戸派」の面々であり、指示を大きく踏み越えて、「鬼の居ぬまの洗濯」と評されたほど矢継ぎ早に各種急進改革を「次々に実施した。」「華族や士族と平民の間の」婚姻の解禁、華族,士族が農工商の職業に就く自由、「賤民解放令」〔以上は、『使節団』出航前の 71年8月〕、 「土地永代売買」解禁〔72年2月〕、「大区小区制」,「庄屋」廃止,「官撰戸長」制〔72年4月〕、「地券」発行〔72年7月。「地租改正」の下準備〕、「学制」〔72年8月〕、太陽暦の採用,「国立銀行条例」〔72年11月〕、「徴兵令」〔73年1月〕、「地租改正」条令〔73年7月〕、等々。
もっとも、幕末以来争われてきた政治変革の方向性は、「廃藩」までに決着していましたから、「留守政府」は、すでに確定した「集権」「開化」を前提に、個別具体的な制度改革を行なったと言えます。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.192-200.)
【11】 前史 ―― 反対一揆の嵐の中で、改革のラッシュ
「賤民解放令」は、「穢多、非人などの称」を廃止し、「身分,職業とも平民同様たるべき事」を宣言したものですが、実際上、民衆の間にある差別の実態を変える効果はなく、むしろそれまで「賤民」に認められていた下級刑吏職,牛馬屍体処理などの職業独占と年貢免除の特権を廃止することで、経済的には旧「賤民」を不利にするものでした。また、政府が「解放令」に踏み切ったきっかけは人権思想などではなく、「地租改正」の前提条件を整えることにあったのです。旧制度では、「賤民」の居住地・耕作地は特定の場所〔未解放部落〕に制限されていたかわり、そこは「無租地」とされ、売買・質入れが禁止されていました。「新政府」は、「地租改正」をおこなうために全国のすべての土地売買を自由にし、土地の「地価」に応じて「地租」〔土地税〕を徴収できるようにする必要があったのです。
「地租改正」は、その前提として、まず幕政下の「土地永代売買禁止」〔「永代売買」の禁止。質入れや買戻し売買は許容されていた〕が廃止され、近代的「排他的私的土地所有権」が、政府によって法的に強制されることとなり、「地券」〔土地所有権証書〕が発行されます。それまでの幕藩体制下の農村では、最終的な「土地所有は、村共同体に帰属するところが多かった。」「質流れ地」も、元金を返せばいつでも取り戻すことができる「無年季取り戻し」慣行が行われていました。村による村民耕作地の「割り替え」慣行〔一定期間ごとに、耕作地をいっせいに交換して肥瘠の不公平をなくす〕が、全国の農地の1割で行われていました。これらの共同体的な制度はすべて廃止され、一律に絶対的な・個人の「私的所有」が強制されたのです。
「排他的土地私有」制度の導入を歓迎したのは、「大豪農商・大地主層」でした。彼らは江戸時代後期から、「土地永代売買禁止」のタテマエを掻いくぐって質取り・買取りによって農地を集積し、村落支配を強めつつありました。そのため、村共同体の旧慣に依拠した「一揆」「打ちこわし」の標的にもされていたのです。彼らは何よりも、自らの築き上げた財産が、不可侵の権利として「明治国家」に認められることを望んでいました。中央政府によって村の「官撰戸長」に任命された者の多くは、この階層に属していたのです。
Johann Sperl, Kartoffelernte, um 1872. ©Wikimedia
ヨハン・シュペルル『じゃがいもの収穫』、1872年頃
「地租改正」条令は、土地の収穫高から経費を差し引いた価値を調査し、その「土地価格の 100分の3の定率地租を課す」と定めていました。が、じっさいには、「肥料代などの必要経費は低く計算」し「人件費分」を無視する等の技法によって、「地租」を、江戸時代の重い年貢と同じ水準に維持することがめざされたのです。
「地租改正」事業は、「留守政府」による条令発令以来・『使節団』帰国後にかけて、はじめは徐々に進められていきました。ところが、 1875年に内務省が「特権的政商」中心の「民間企業保護」・殖産興業政策を推進するようになると、〔「地税」によって「政商」優遇資金を賄うために〕急激に「本格化し、政府が府県の地租予定額を設定し、それを順次、一筆の田畑まで下ろす[押しつけ地価]で決められてゆく。」
絶対的「土地私有」制度とあいまって、「地租改正」以後の「税の未納は、ただちに」農地の差押え・喪失や破産宣告をもたらします。「多くの農民が破産する一方で、少数の大地主が土地を集積した。」
「大区小区制」は、全国の地方行政組織を一挙に中央集権化しようとするもので、「郡」を「大区」とし、「大区」をいくつかの「小区」に機械的に分け、「〇〇県第4大区第2小区」というように通し番号で呼び、村や町の伝統をぶちこわして上意下達の組織とする。「大区」には「区長」、「小区」には「戸長」を置き、いずれも官撰〔中央政府が任命。しばしば他府県人を任命〕で、江戸時代以来の「寄り合い」「惣代」といった住民自治・住民参加の慣行は完全に否定されました。「戸長は、中央の忠実な末端にされ」、「戸長を通じて徴兵制や学制,地租改正が強権的に実施され」た。
さすがにこれは、住民の憤激を呼び、「1873年は、明治初年一揆の一つのピークとなった。」多くの地方の「一揆」は、「戸長」を標的とし、戸長宅の焼き打ちが盛行したのです。住民の抵抗によって「大区小区制」の完全実施は困難となり、地方ごとさまざまな形で従来の町村制との妥協が行われ、最終的には 1878年に「大区小区制」を廃止して「郡・町・村」制に戻しています。
「徴兵令」は、「武士と称し、厚顔自食し、〔…〕人を殺し、官その罪を問わざる」と激しい調子で旧「士族」を糾弾しつつ、「[四民]は[自由]の権利を得たのだから[国家の災害を防ぐ]ために尽くすべし、と国民皆兵を宣言した。」「20歳の男子を徴兵検査と抽選で選んで、3年間」の入営訓練を受けさせ「常備軍」(現役兵)を編成しました。現役除隊後は「予備役」「後備役」として臨時の召集に備え、さらに、その他の 17歳~40歳の男子全員を「国民軍」に編成しました。これが、山縣有朋がプロイセン(ドイツ帝国)から学んで導入した国民皆兵制でした。こうして、訓練された兵員の数によって戦場を圧倒する陸軍中心の日本帝国軍隊の基礎が築かれたのです。
もっとも、この初期の段階では、抽選〔くじびき〕を取り入れていることから判るように、入営させて「常備軍」とするのは、徴兵検査合格者のうちの一部であり、その数は 4万6000名にすぎませんでした。おそらく、訓練に必要な士官の数も、常備兵を養う予算も足りなかったのでしょう。国外での警備の必要、武力衝突の恐れ、といった需要もまだそれほどありませんでした。徴兵される〈民衆〉にとっても、この段階では、各種の手練手管での「徴兵逃れ」は比較的容易で、「徴兵逃れ」の「指南書」まで大っぴらに売られていました。
対外「危機」意識と「進出」熱が高まり、軍事予算が急速に増額されて「常備軍」が拡充されるのは 1880年代、とりわけ「朝鮮・壬午軍乱」〔1882年〕以後のことでした。さしあたって「明治政府」は「富国開化」に力を入れ、「強兵」はその後でやってきたのです。
Charles Gleyre, Le retour de l'enfant prodigue, 1873,
Musée cantonal des Beaux-Arts. ©Wikimedia.
シャルル・グレール 『放蕩息子の帰還』、1873年。
ローザンヌ州立美術館。
「学制」は、学校教育制度を制定するもので、全国を「大中小の学区に分割し、大学、中学、小学校を設けるとした。〔…〕フランスの学制に倣」った「画一的な国民皆学制構想で、」全国に 5万校あまりの小学校を一挙に開学しようとしました。たいへん急進的な構想でしたが、各地には江戸時代以来の寺子屋が多数あったので、寺子屋を学校に転用することにより、4年後の 1876年までに目標の約半数:2万6000校あまりが開校し、就学率は 41.3%に達したと推定されています。
近代公教育制度を一気に創設する無謀さのわりには、まずまずの成果があったと言えます。が、その反面、政府は制度の形を与えるだけで、何らの財源も用意しなかったのであり、高額授業料などの「民衆負担に頼」って遂行されたのが、「学制」施行の実態でした。
以上のように、「留守政府」の急進諸施策から始まった制度改革・建設は、いくつかの特徴を浮かび上がらせています。ひとつは、伝統的・在地的な民主的自治慣行を「陋習」と決めつけて全否定する集権強行・上意下達の「機械的」性格です。「大区小区制」に典型的に現れていますが、その行き過ぎは是正を余儀なくされました。
もう一つは、「政商」優遇の殖産政策に国家財政を傾け、その財源を確保するために「地租」を、事実上の「強制割り当て」によって重税化し、その一方で、教育制度の建設はもっぱら民衆負担に頼って行わざるをえないという、「富国」優先の極端な偏頗性でした。「地租」の算定は、その構想においては合理的で公平なものとなるはずでしたが、じっさいには「強制割り当て」などにより、政府の財政の都合で大きく歪められたと言えます。
ほかにも、詳細に観察すればさまざまな特徴を発見できると思われます。これらの特質の多くは、日本の政府政策と官僚の性癖となって、現在までも永く受け継がれてきているのです。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.195-200,222-224.)
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Frédéric Bazille, Jeune homme nu couché sur l'herbe, 1870, Musée Fabre.







