高知城内の板垣退助像〔2026年5月撮影〕。自由民権運動の闘士として
有名な板垣だが、徳川最後の将軍慶喜と同年齢で、明治4年「土佐藩
大参事」として「人民平均の理」を藩内に布告し、人民皆兵、士族の
解職、民政への移管を進めたのが、彼の改革実践の始めとなった。
【7】 前史 ――「政体書」公布と連邦制の試み
1868年 4月に「新政府」軍は江戸城に無血入城します。その翌月(閏4月)に公布したのが、新政府の機構を具体化した「政体書」でした。そこに描かれた政府機構は「アメリカ合州国憲法」に倣った「三権分立」を基調とするもので、次のように図示することができます:
しかしながら、「三権分立」の模倣は表面的なものだったと言えます。
まず、立法府にあたる「議政官」は、「上局」と「下局」に分かれ、「上局」は、「王政復古の大号令」にあった「議定,参与」と似ており、じっさいにも「参与」に拠る岩倉,大久保,西郷らが寡頭独裁権を握ったと思われます。「合州国憲法」に倣って「三権」のあいだの兼職を禁止する原則を置いていましたが、じっさいには例外が多く、兼職が行われ、行政官(のちに「太政官 だじょうかん」と改称)は事実上、「議政官・参与」の下に従属していました。
「議政官・下局」は、各藩の「公議人」からなる議会でしたが、決定権は無く、諮問機関にとどまるものでした。大統領(行政官)と議会が相互に独立して牽制しあう「合州国憲法」とは異なって、最高権力は「議政官」のほうに在って、弱体な議会の上に乗って支配をほしいままにしています。アメリカの憲法体制よりは、ソ連や中国のような社会主義集権体制に似ています。そして、じっさいに政府機構と人民を縛る法令は、立法府ではなく〔寡頭「参与」に支配された〕行政権から、「太政官布告」と天皇「勅令」のかたちで出されたのです。
が、そうは言っても、合州国流の連邦制を取り入れている点では、分権的な性格も見られます。江戸時代の非集権的な幕藩体制から一挙に中央集権に変えることはできなかったわけで、「倒幕」を有利に展開するためにも、「新政府」は旧幕諸藩の意向にも配慮した形の中央・地方関係にせざるをえなかったわけです。この点は、「御誓文」第1条の「万機公論に決すべし」の精神をなお残しているとも言えます。
「政体書」を起草したのは、その公布施行後に「議政官・参与」に就任した・公卿岩倉具視を中心とする薩長土肥越〔越前〕の寡頭支配者たちでしたが、彼らに大きな影響を与えたのは、『万国公法』という翻訳書でした。『万国公法』は、アメリカの法律家・外交官 Henry Wheaton の国際法解説書 "Elements of International Law", 1836. の漢訳ですが、「第1巻で各国の近代的国家制度を説明しており、そのなかでアメリカ合州国憲法によりつつ同国の国家制度を紹介する。」主に参照されたのはその部分で、議会や藩の権限などは『万国公法』を引き写した部分が多く、多くの用語が『万国公法』の漢訳語を使用しています。
ホイートンの解説書を英語から中国語に翻訳したのは、当時中国で布教していたアメリカ人宣教師 William Martin でした。日本では、マーティンの漢訳に訓点〔点,丸,返り点,送り仮名〕をつけたものが、幕府「開成所」から印行されていました。
このように、『万国公法』を通じてアメリカの制度に倣った「政体書」でしたが、中央政府機構に関しては合州国憲法の精神である「三権分立」が十分に理解されることはなく、むしろ、「政体書」を通じて『万国公法』が日本の国家機構に大きな影響を与えたのは、中央と地方の関係、すなわち「明治新政府」と諸藩との関係を規定した部分だったと言えます。「新政府」はこれを通じて、連邦制的な形をとりながら・より中央集権化を進めようとし、諸藩はむしろ「政体書」の規定にも反して「分権」状態の維持をはかろうとしたのです。
たとえば「政体書」では、「藩が太政官〔中央行政府〕に全面的に従属することを」規定し、「府、藩、県」は中央政府の「政令」を施行しなければならない、貨幣の鋳造、爵位の授与、外国人の雇用、隣藩や外国との盟約などを、勝手にしてはならない、「小権をもって大権を犯し、政体を乱」すことがあってはならないと定めていました。しかし、たとえば貨幣の「私鋳禁止」規定などは有名無実で、諸藩は、江戸時代以来の「にせ金造り」〔幕府が発行する銭貨を模造〕を続けていました。「明治新政府」の根幹であるはずの薩摩藩が率先して、最も大胆な「にせ金造り」をしていたほどです。各藩の「にせ金」の流通は経済を混乱させ、そのことが、「維新」以後に農民「一揆」を引き起こす一因ともなっているのです。
Jean-Baptiste-Camille Corot, Stormy Weather, Temps orageux,
Pas-de-Calais, c.1870, Pushkin Museum. ©Wikimedia.
コロー『カレー県の荒天』、1870年頃。プーシキン美術館。
こうして、「政体書」が定めた・中央行政権への権力の「統合」は、さしあたって「空文同然」でした。やがて、「版籍奉還」〔1869年6月〕から「廃藩置県」〔1871年7月〕へと「明治新政府」は集権化の動きを強め、最終的には、諸「藩」と藩を支える秩禄「藩士」は撤廃され、すべての権力が中央政府の下に一元化されることとなります。
『万国公法』では、「バラバラな連合国制」である「北ドイツ連邦」〔1870年ドイツ統一・帝国成立――より以前の諸侯国同盟体制〕と比較して、より中央集権的なアメリカの「合州国」体制の優位を説いているのですが、日本の「明治新政府」は、バラバラな「藩」体制から出発して、アメリカの連邦制をも越えて、「ドイツ帝国」以上に強力な集権体制へと進んでいったと言えます。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.173-177.)
【8】 前史 ――「版籍奉還」体制と農民暴動
「明治政府」の集権化への策動は、「倒幕戦争」終結後 1869年6月の「版籍奉還」発令によって本格化します。まず 69年1月、薩長土肥4藩主から「版籍奉還建白書」が提出されます。これは、木戸と大久保が仕組んで出させたものでした。「藩」の領土と人民を天皇に「返還する」というもので、前書きとして:――我が国は土地も人民もすべて「皇統一系」の所有物であるから、「尺土も私せず」「一民も私せず」の神国思想・王土王民論に基いて土地人民を献上し、もって「徳川支配」の「因習」を改めて集権化し、「万国と並立すべし」――との「開化策」が述べられました。徳川「藩」体制の解体・集権化の主張は、欧米諸国に比肩しようとする「大国主義」と固く結びついていたのです。
1869年3月、佐賀藩出身で「木戸孝允派」の『大隈重信が会計官〔財務省員、「議政官・参与」兼任で実質は財務省を主導――ギトン注〕に就き、全国財務の実権をとる。〔…〕大隈を中心として急進的な開化と集権を進める維新官僚グループ木戸派が形成され、伊藤博文や井上馨らが参加する。
大隈らは、上からの藩の統制を強力に進める。金札を藩に強制的に割り当て〔※〕、通商司を設置して藩営商業を禁止すると、諸藩の反発が起きた。
一方、大久保』利通は、『藩を当分維持する漸進的な開化策を主張した。木戸らと争いつつ、しかし大局的にはともに集権化を進めた。〔…〕国内全体では、幕府時代と同じ分権的な統合の持続が〔…〕実態であった。〔…〕
69年6月〔…〕版籍奉還の布告が出る。知藩事〔旧・藩主大名が、そのまま藩の知事になっていた――ギトン注〕を現状通り再任命する。〔…〕世襲は〔…〕否定された』が、じっさい上、藩主(知藩事)は優遇された。
(「版籍奉還」布告とは、全国土・人民は「藩」のものではなく朝廷のものだ、との原則を確認したうえで、「藩主」「藩士」それぞれの身分〔藩主は公家と同じ「華族」、藩士は「士族」〕と処遇を定めるものだった、と言えます。つまり、この段階ではまだ「藩」の存在が否定されることはなく、半独立性をアイマイに残した形で、中央政府に従属することとなったのです。)
『新政府は、簡明に言えば、藩主を優遇する一方、藩士には冷酷だった。〔…〕新政府は、大名を〔ギトン註――「華族」として〕祭りあげて、しかも支配層の中に取り込んだ。』旧大名を味方につけることで、旧武士階級(士族)の不満を抑え、武士階級の特権を剥奪していった。『こうして、政府の実権は、〔ギトン註――旧武士階級のごく一部にすぎない〕雄藩下級武士出身の「有司」〔政府官僚――ギトン注〕に握られることになる。』
井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.178,180-181. .
註※「金札強制割り当て」: 「金札」とは、明治政府発行の紙幣「太政官札」のこと。ただの紙切れであって、強制通用力が無かったため、政府は各藩に強制的に一定額を引き受けさせ、対価として同額の金貨(純金)を上納させ、これによって政府の財政難を解決した。が、通用しにくい「金札」を押しつけられた諸藩の不満が高まっただけでなく、真似しやすい印刷紙幣であるため「にせ札」の流通が後を絶たず、経済が混乱して「一揆」・暴動を引き起こす一因となった。
Eugène Isabey, After a Storm, 1869, Hermitage Museum.
ウジェーヌ・イザベイ『嵐の後』、1869年。
エルミタージュ美術館。 ©Wikimedia.
「知藩事」の家禄は、「藩」の総収入高(石高)の 10分の1とされ、藩士の家禄もこれに合わせて、従来の石高の 10分の1に切り下げられました。が、藩主にとっては、これは優遇だったのです。というのは、幕末の諸大名の実情では、私用に使える収入は、「藩」の石高の10分の1どころでなくもっと少なかったからです。旧幕諸大名は、明治政府の下で経済的には幕政下よりも余裕を持てるようになりました。これに対して、藩士の「石高」は、もともと私収入そのものなのですから、それを 10分の1に切り下げることは、ほとんど収入を断つに等しい措置だったのです。
大隈重信と「木戸派」のもとで、大蔵省(「会計官」の後身)は、急進的な開化・殖産・近代化政策を推進します。
『大蔵省では、中堅の伊藤博文や井上馨が就任し、実務に詳しい旧幕臣も多数、井上らの下に登用される。大蔵と民部〔省〕の役職を大隈と井上が兼ね、両省が合併され〔…〕、財政と民政を管轄する巨大官庁になった。大隈は、商事会社や為替会社を開港場や三都に設立する一方で、大商人を組織し、全国要地の豪農商も参加させた。
1870年3月に、大蔵省は電信機,蒸気機関車の導入を決定する。灯台や通信,鉄道,鉱山,造幣局の設立をすすめ、新政府の困難な財政事情のなかで、中央の開化事業のための財政を総花的に投入する。〔…〕6月には、〔…〕鉄道公債 100万ポンドの巨額外債を起債する。新政府は、対外債務を増加させることすら意に介さなかった。当時の国家歳入は 1000万円から 1500万円程度だが、内外債を募り、太政官札を乱発し、通常と臨時歳出を合わせた額は 3000万円規模に達した。
新政府は、直轄の府県 800万石からの貢租で、鉄道,電信その他の中央の総花的開化事業投資を行なった。そのために』国家財政が債務超過に陥る事態を食い止めようと、『「府県奉職規則」で、地方官の判断による貢租減額を厳禁した。』折りから『69年は大凶作になった。貢租減免を認めたために免職処分などを受ける地方官があいつぐ。〔…〕
69年の農民暴動の件数は』「世直し一揆」が燃え上がった 68年よりも件数では上回っており、また、関東,北陸,東北のみならず西の兵庫でも起きている。
井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.181-183. .
69年の各地「一揆」の要求事項を見ると、圧倒的に多いのは「年貢半減」要求であり、「にせ金」をめぐる失政批判がこれに次いでいます。
Émile Lévy, Le jugement de Midas, 1870, Musée
Fabre. エミール・レヴィ『ミダスの審判』、
1870年。ファーブル美術館。 ©Wikimedia.
【9】 前史 ―― 非薩長諸藩の〈非・集権〉改革と、
薩長の巻き返し「廃藩」クーデター
中央政府が強力な「集権化」とともに、急激な「開化」・産業振興策を進めていたのと並行して、それと競うかのように、薩長以外の幾つかの「藩」では、ラディカルな「藩政改革」を推進していました。それらは、藩主・藩士の家禄を中央の政策以上に削減して「士族」軍隊を解体し、「四民平等」による「徴兵制」に切り替える改革を主調としていました。また、農商民に対する貢租の軽減を伴うものでした。中央政府の政治改革から「集権化」を除き、――また、「藩」独自の経済政策は中央から禁止されたので――身分制の解体・解放を中心とする政治改革だったと言えます。
『和歌山藩は、藩主の家禄を〔…〕5パーセントとし、上級士族の家禄も〔…〕わずか 25分の1に削減する。士族の軍役負担を免除し、士農工商は四民同権とされ、徴兵制を導入、プロイセン式の軍制改革を実行する。
また、熊本藩では、改革に豪農商が参加し、雑税が廃止され、貢租が大幅に軽減される。士族は事実上解体され、上下2院の議会も設立される。
高知藩では、板垣退助大参事に指導されて、士族に禄券を与え〔て俸禄の支給を廃止し――ギトン注〕、家産化を認めた。一般士族は禄高の3分の1を削減、士族の職を解き、「人民平均」とし、藩庁が「民政司」と位置づけられた。〔…〕
このように、非薩長の和歌山藩,熊本藩,高知藩などの改革は、薩長両藩の改革より〔…〕開明的であった。これら非薩長藩に登場した有司は、大蔵省の木戸派が中央の急進的〔…〕開化事業』を独占し、総花的にあらゆる「開化」に投資するために『農民に高年貢を強いることを批判するのだった。』
木戸,大久保,西郷らは、『薩長をしのぐ開明的改革を実行し軍制改革でも成果をあげる非薩長有力諸藩の動向を警戒し〔…〕、薩摩藩と長州藩に高知藩を加えた3藩の兵を上京させ、中央政府の親兵とする〔…〕
同じころ、名古屋藩や徳島藩,鳥取藩,高知藩は、〔…〕小藩を大藩に合併、知藩事が辞職して、人材を登用し、〔…〕〔ギトン注――連邦制国家となって〕「万国と対峙」することを建言した。このように、非薩長の有力大藩は、いっそうの開明的改革と政治参加を求めた。
これにたいして、〔ギトン注――公家出身で、薩長には利害のない〕岩倉具視や三条実美は、非薩長の改革派大藩の動きを評価し、大藩会議〔…〕の構想〔薩長による中央政府独占を牽制する――ギトン注〕を提言し始める。岩倉と大隈は、〔…〕170ほどの小藩を大藩に合併して、大藩を州と改称〔…〕するなどの、非薩長大藩改革派の動向を受け容れた〔…〕ゆるやかな中央集権策を打ち出すのだった。』
井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.186-187. .
このような改革派諸藩と〈大藩連邦〉派の動きによって、「ゆるやかな集権化」が抬頭することを警戒した「木戸派」等・中央政府の急進「集権」派が、巻き返しのために企てたのが、1871年7月の「廃藩」クーデターだったと言えます。それは、「藩」の合併・統合による「州」制連邦国家の構築という「ゆるやかな近代化」の道を閉ざすために、天皇の・わずか 200字足らずの「詔書」によって、突然に「藩」を消滅させ、「連邦」の根を断つものでした。
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