函館、五稜郭。フランス式築城術を学んだ幕臣武田斐三郎の設計図を
基に 1857年起工 66年完工し、幕府「箱館奉行所」が置かれた。68年
10月、榎本武揚率いる旧幕府軍が占領して明治政府への抵抗拠点とし
た。69年5月榎本降伏後、明治政府が接収したが官庁は置かれず、陸
軍練兵場となり、1913年~公園として一般開放。〔2017年9月撮影〕
【5】 前史 ―― 倒幕戦争と「世直し一揆」
〈民衆〉の動きの第2形態「世直し一揆」は、戊辰倒幕戦争の 2年前、1866年「幕長戦争」のさいに、最初の高揚を迎えました。「戦乱に凶作が重なり、百姓一揆や村方騒動などを併せると、実に 185件、江戸時代最多の一揆件数に達する。〔…〕67年には[ええじゃないか]の民衆運動が起きた。〔…〕68年戊辰戦争の際には、戦場になった地域を中心に〔…〕141件の一揆や騒動が起こる。」件数は 66年を下回るものの、個々の一揆の規模,激しさ,短い期間に集中した密度は、前々年の比ではなく大きかったのです。
「世直し一揆」とは、「[窮民]を自称する百姓たちが、不正の村役人や富民に対して[打ちこわし]へと立ち上がるものである。」ここで、「自称する」という点が重要です。ほんとうに貧乏な弱者は「立ち上がる」力など無いのがふつうだからです。
「一揆」に限らず、この種の民衆変革運動を担うのは、ある程度余裕のある階層であり、多くの場合には、経済的に上昇しつつある人びとが、飢饉や不況などで窮地に陥った時に、減税や徳政〔借金の棒引き〕を求めて抵抗運動に向かうことが多いのです。これは、世界中に見られる傾向で、「フランス大革命」を導いた民衆動向でも指摘されています。日本の「世直し一揆」の場合は、「開国」後の産業隆盛〔生糸生産など〕で致富した農民中・上層と都市民が、戦乱と凶作による困難に遭って「一揆」と「打ちこわし」〔米の施しや安売りを要求して商家を襲った〕に活路を求めたと考えられます。
まず、66年の「一揆」は江戸と大坂で始まり、前年の米穀が底を突く 5~6月に、町ごとに旗を立て、米の安売りと「救助米金」の施しを要求して商家を襲い、1000軒以上が打ち壊されました。6月下旬には農村部に広がり、「武州世直し一揆」では、「諸国太平」「万民安穏」「平均世直し将軍」などの幟や旗を押し立てて商家に米の施しと質物返還を求め、「参加者は十数万人、打ち壊された家は 200か村 520軒におよんだ。」武州の一揆に特徴的なのは、「質地の返還」〔借金のかたに取られた農地の返還〕を要求したことで、これは江戸時代の「取り戻し慣行」の復活を求めたものです。土地所有権が未確立の時代にあっては、たとえ借金のかたに取られた土地であっても、農民は元金を返しさえすれば、いつでも取り戻すことができたのです。
陸奥國信夫郡・伊達郡では、生糸に課された「冥加金」(新税)に反対する「一揆」が 180軒あまりを打ち壊しています。これなど、「開国」後の生糸生産で致富した農民が「一揆」の主体ではなかったかと想像させます。九州の豊前・小倉藩では、家屋焼き討ち・公用帳簿の焼却を含む「打ちこわし一揆」が起きています。
68年の「世直し一揆」は、新政府軍の江戸到着〔勝・西郷会談の前であり、江戸城総攻撃が予想されていた〕を間近にした 2月下旬に「上州世直し一揆」によって開始されます。「66年の一揆よりもはるかに激しく、村役人や商人の家を焼き打ちし、不正村役人の罷免,公選を要求、質地の無償返還を求めた。[世直し大明神]の旗を掲げて上州ほぼ全域をおおい、4月まで続く。〔…〕少し遅れて 3月中旬から始まった武州世直し一揆も、やはり[世直し大明神]の旗のもと 4月中旬まで展開した。」
慶喜「降伏」後の・幕府残党と新政府軍の戦闘が行われた越後〔北越戦争〕と会津〔会津戦争〕でも、「世直し一揆」が起きています。越後「下田郷」では、「8月下旬から村役人公選を要求して打ちこわし一揆が起こる。10月上旬には〔…〕会津6郡の会津ヤーヤー一揆が〔…〕村役人の罷免を求めて蜂起〔…〕、村役人の家屋などを焼き打ちし、公用帳簿を焼却し、世直しの綱領を作成した。」
「武州世直し一揆」の展開図(1866年6月13-20日)。
森安彦『幕藩制国家の基礎構造』より。引用元
このように、68年の「世直し一揆」は〈村役人の公選〉を求め、村役人が保管する「公用帳簿」を焼き捨てる点に大きな特徴があったようです。〈村役人の罷免・公選〉は、「質地の返還」などと同様に、かつては村の慣行として行われていたものでした。「一揆」農民は、旧い慣行の復活を要求したのでして、いわば伝統的な「草の根」の民主主義に基く要求だったと言えます。一揆勢は、集団の力で「村役人や富民の、領主〔大名・小名・代官〕との結託や米穀の買占めなど[不正]を糾弾し、[施行]〔ほどこし〕を求めた。」これに対して豪農たちは、「一揆様、一揆様、さあさあ御酒をあがりなされ、握り飯をおあがりなされ」と叫んで歓迎し、自らが標的となることを免れようとした。こうして「一揆勢が特別の権威を持ち、地域社会の秩序が転倒する。」一揆勢は「強い平等思想」に貫かれており、「武士に向き合う場面で[御百姓]と自称、自負してやまなかった。」
非日常的な混乱による「地域社会の秩序の転倒」という点は、あいだの 67年に起きた「ええじゃないか」にも共通するものがありました。「ええじゃないか」の場合は、暴力的な「打ちこわし」の形ではなく、おおぜいの群衆が「世直り」「ええじゃないか」と囃しながら富民に施行を求め、「異装して踊り狂う」祝祭的な騒擾でした。その広がった範囲は「一揆」よりはるかに広く、東は江戸、横浜から西は広島、北は丹後、南は土佐までを席巻しています。また、男女を問わず多くの庶民が参加しました。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.164-169.)
ところで、「世直し一揆」と言うと、純粋に民衆による・民衆の運動だと考えがちですが、はたして本当にそうだろうか? 鎮圧には、幕府の「農民兵」も参加し、じっさいに「農民兵」によって制圧された「一揆」の隊もありました。たとえば、薩摩藩などの意向を受けた「草莽」が、「一揆」を煽動してはいなかったか? そういう憶測を裏書きするように、68年の上州・武州の「世直し一揆」は、倒幕東征軍が江戸に迫った時点で開始され、「江戸無血入城」の前後に終息しています。
とは言っても、まだまだ〈謎〉の部分が多いのが「世直し一揆」の実態です。「一揆」の主力となった社会層についても、↑上で紹介した『新書』の見解は〈富農蜂起説〉といわれるものですが、リンク先の『鶴ヶ島町史』などは、むしろ、幕藩体制下で最も抑圧された貧農や小作人を「一揆」の主体と把える見解に拠っています。
ただ、はっきりしていることが一つあります。それは、関東には弱小藩が多く、諸藩は独力で「一揆」を鎮圧することができず、「新政府」軍の応援を受けざるをえなかった、ということです。そのため、関東では、北越・奥羽のように旧幕諸藩が頑強に抵抗することはなく、比較的早く「新政府」に帰順したのでした。結果的には、それが「世直し一揆」のもたらした政治的効果だったと言えるのかもしれません。
Jean-François Millet, Buckwheat Harvest, Summer; 1868-74.
Museum of Fine Arts, Boston. ©Wikimedia.
ミレー『ソバの収穫、夏』、1868-74年。ボストン美術館。
【6】 前史 ―― 倒幕戦争、並行する「新政府」体制整備
この間、68-69年には、新政府軍と、なお抵抗する越後~東北~道南の諸勢力との間で「北越戦争」「会津戦争」「箱館戦争」が戦われ、最終的には、69年5月の箱館・榎本武揚の降伏をもって「倒幕戦争」は終結します。
その詳しい経緯は省略しますが、特筆しておきたいのは、旧幕側が掲げた抵抗の名目です。「新政府」側が「東北諸藩に、会津藩征討を強硬に命令した」のに対し、東北 25藩は「会津藩の寛大処分を求め」て 68年5月中旬に「奥羽列藩同盟を結」び、「仙台藩内の白石に公儀府を置」く。これに北陸諸藩が加わって「奥羽越列藩同盟を結成」し、主な戦闘は北越〔長岡城ほか〕と会津で行われます。北越が「新政府」軍に制圧され、会津と奥羽諸藩も不利に転じた 8月下旬、江戸・品川沖にいた旧幕府艦隊が「新政府」に離反し、旧幕脱走兵などを加えて北航、蝦夷地を占領して、士官の投票で榎本武揚を総裁に選び、箱館に本拠を構えて「五稜郭」の武備を整え、「新政府に、旧幕臣救済の領地を確保するための蝦夷地開拓経営を嘆願する」のです。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.162-163.)
つまり、事実としては、「列藩同盟」「榎本軍」ともに、「明治新政府」とは独立した別政府を樹立する勢いなのですが、抵抗の名目は控えめで、あくまでも「新政府」の下での政策的異論の体裁を保っています。逆に言えば、「新政府」が専断・専制をめざして強硬路線を独走したからこそ起きた内乱戦闘であったとも言えます。対する旧幕抵抗軍側は、「公儀政体」派の延長線上で「連合国家」的な体制をめざしていたと言えるのかもしれません。
「倒幕戦争」の遂行と並行して、「新政府」は、理念的・機構的な新体制の整備を進めています。まず、68年3月中旬の「五箇条の御誓文」は、天皇が諸侯と向かい合って誓約する形から、天皇が諸侯に背を向け「百官・諸侯を率いて」「皇祖皇宗」に向かって誓う形に改めた上で実施されています。つまり、「公儀政体」を排除して神権的な専制国家をめざす薩長「討幕派」の意向は、セレモニーの形にも表れているのです。
もっとも、「御誓文」の内容には、なお「公儀〔会議〕」重視の建て前が残されていました。「広く会議を興し、万機公論に決すべし」との第1条は、あくまでも旧諸藩主との協議を意味するにすぎないとしても、「倒幕戦争」後じっさいに現出した天皇側近の独裁体制・とは異なっていました。第2,3条では、「官武一途、庶民に至るまで」「上下、心を一に」することが誓われ、藩主より下の全臣民は完全に一致して従うことが命じられたのです。
第5条「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」は、〈開化方針〉を明示したものと評価することができます。第4条でも、「旧来の陋習を破」るとされ、江戸時代の「陋習」すなわち「未開社会」と決別し、欧米の差別思想に同調することが宣言されています。「旧幕府は、そうした未開観を受け容れなかったが、新政府は、欧米中心の[文明と未開]の見方にみずから同調」したのです。第4,5条のほうは第1条とは対照的に、「新政府」によって「誓文」どおりに実行されたと言うことができます。
Gustave Brion, Exterior of a Church, 1864, Walters Art Museum.
ギュスターヴ・ブリオン『教会の外観』1864年。©Wikimedia.
「新政府」の組織機構の建設は、68年1月に公布された「三職七科の制」に始まります。「神祇、内国、外国、海陸軍務、会計、刑法、制度」の〈専門部局システム〉を最初に発足させたことは、近代国家としての先見の明を示すものです。「専門部局システムは、ヨーロッパの近代政府組織ではじめて登場し、中国で漢訳された欧米書籍に記され、坂本龍馬が『船中八策』で示し」たものでした。
「もともとヨーロッパでは、前近代の〔領地ごと,家臣ごと,縄張りごとに〕細分化され複雑に入り組んだ行政から、シンプルな一元化された専門部局制が生れるには数世紀を要した。〔…〕専門部局制」は「官僚群を養成しながら形成された。」会計官,軍務官,外交官,司法官といった専門官僚群の形成とともに進んだのです。つまり〈専門部局システム〉は、ヨーロッパ式の「官僚制」を導入するには無くてはならぬ基礎であったと言えます。〈専門部局システム〉を土台とする近代的「官僚制」は、簡単明瞭で理解しやすい「支配の装置」であり、「ひとたび取り入れられると、国内行政の一元的統轄という、最高に強力な[権力]を生み出す。」
しかも、その反面で注意を向けておきたいのは、「専門官僚」とは言っても、この時期――「産業革命期」までの時期――の官僚に必要な素養はシンプルなもので、特別の専門教育を要しなかったことです。「イギリスの歴史家ホブズボームが言うように、産業革命期の技術革新のすべては、高等教育を必要としない簡単明瞭なものであった。〔…〕後発国に或る程度の行政近代化の条件があれば、この専門部局システムの[知]は、じつは容易に導入される。」「幕府」はすでにその導入を開始していたのであり、幕末の日本は、十分に条件を具えていました。そして、このことこそが、かつては単なる〈尊王テロリスト〉にすぎなかった薩長の寡頭集団が、わずか数名で、「新政府」という全国的支配機構を専制的に操縦しえた秘密であったのです。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.169-172.)
『西郷隆盛や岩倉具視,小松〔清廉〕,大久保〔利通〕,木戸〔孝允〕らは、「支配の装置」専門部局制を導入することで、後発国日本の政府の行政権力を〔…〕いっきに握ったのである。〔…〕権力の中心になるのはせいぜい 10名ほどで、そして権力の本当の頂点にいたと言えるのは、岩倉,三条〔実美〕,西郷,大久保,木戸と小松〔明治3年病死――著者註〕の、公家と薩長出身の6名である。』
井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,p.172. .
よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記
My sweethert Jom.







