Arnold Böcklin, Kentaur und Nymphe, 1855, Alte Nationalgalerie. アルノルト・
ベックリン『ケンタウルとニンフ』、1855年、ベルリン旧美術館。 ©Wikimedia.
【3】 前史 ――「天皇制」を盗み取った薩摩・長州
前節で私は、徳川(一橋)慶喜の巧妙な〈後退戦術〉に焦点を当てて叙述しました。それは、「天皇」という存在が持った意味について示唆をあたえるものだからです。
幕末時代の体制においても、「天皇」は一定の政治的権威を保持していました。かんたんに言えば、「朝敵」「賊軍」と「錦の御旗」「官軍」とを決定する権限を有していたことです。「天皇」という権威者が無ければ、国政の帰趨は力と力のぶつかり合いのみによって決まることになる。しかし、「天皇」という、競合する勢力の一方に〈正統性〉を与える・いわば〈権威ある裁判官〉が存在することによって、政治闘争は〈力〉だけのゲームではなくなります。もちろん、〈裁判官〉といっても実際には形式的な存在で、幕府の延命を図る将軍慶喜も、倒幕をもくろむ薩長も、それぞれの私的利害に「天皇」の権威を利用しただけ、とも言えなくはないでしょう。が、それにしても「天皇」が最終的な「正統化」の権威を持していたからこそ、慶喜はこれを利用して〈巻き返し〉をはかったし、逆に木戸・西郷らは「天皇」を担いでクーデターを起こすことができたのです。
つまり、幕府や、土佐藩等「公儀政体」派の側から言えば、「天皇」をクッションとして過激な政体変更を和らげ、より連合的・分権的な体制下での〈ゆるやかな近代化〉をめざす余地があった。しかし、実際の歴史的帰趨は、「天皇」を薩摩・長州の急進派が抱え込むことによって、「開化」と「大国化」をめざす急進的体制への移行を強行し、「明治新政府」が成立した後も、「集権化」「専制国家化」の方向が一層進むことになります。
なるほど、「進歩⇔反動」を価値軸とする〈進化論的〉歴史観で見れば、薩長⇒明治新政府は「進歩」であり、幕府と「公儀政体」派は「反動」であって敗北して当然、ということになるのでしょう。しかし、「進歩」のみが価値ではない。「集権⇔分権」「専制⇔民主」という価値軸において後者に価値を置く場合、倒幕のみが正当だとは必ずしも言えなくなります。たとえ、〈ゆるやかな変化〉のコースが、当面においては幕府の強権体制の温存につながる面があるとしても、それを補ってあまりある〈分権〉〈民主〉が、やや長期的な将来には実現されうるのだとしたら、どうでしょうか?
薩摩・長州が「天皇」に神国思想の幻影を重ねて「集権・専制国家」の構築に利用した現実の日本近代史は、唯一可能な選択肢というわけではなかった。むしろ、〈権威ある裁判官〉として諸勢力間のバランスと統合をはかる「天皇」、そうした権威に後見された「連合国家」的な緩やかな政治体制のほうが、幕末の延長としては自然だったのではないか? …そうした非政治的な君主制は、当時の世界に例がないわけではありませんでした。たとえば、イギリスの王権と貴族院(最高裁)です。
Heinrich Louis Gurlitt, Albaner Berge, Landesmuseum Hannover, c.1850. ルイス
・グルリット『アルバーニ山地』1850年頃、ハノーファ州立美術館。 ©Wikimedia.
たしかに、長州藩は、幕府に先駆けて早くから「藩政改革」「軍制改革」を進めていました。長州藩は、「安政の藩政改革」〔1858年〕で洋式軍制と洋式銃器を導入し、「武士と庶民混成の[奇兵隊]」を創設していました。幕長戦争後は、内戦遂行に備えて下級武士はライフル銃隊と歩兵「大隊」に編成替えされ、「上級藩士たちは従卒をつれることを禁じられ」、一兵卒の「散兵」として補助軍の役割に落とされた。「こうして、藩の秩序が逆転した。」「藩政の大改革」も進み、「[有司]の実務役人に実権が集中し」、政務,財務2系統の「全体を〔…〕木戸孝允が支配し」た。
これに対して、薩摩藩では、「維新」後の「1869年から〔…〕西郷隆盛が主導して藩政を改革した」ものの、「下級武士は優遇され〔…〕大部隊が温存されていた。」薩摩藩は、「明治新政府」の中枢に有力者を送り込んでいたにも拘わらず、古い「藩士」体制からの改革が遅れていたわけで、「西南戦争」〔1877年〕を引き起こすことになる一つの要因は、そこにあったのかもしれません。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.96-97,151-152,185.)
【4】 前史 ―― 倒幕戦争と「草莽」
「王政復古の大号令」クーデター〔1867年12月〕で「討幕派」が勝利したことは、「公儀政体」派と幕府派を結束させることになりました。多数派である彼らは、慶喜を〈臨時革命政府〉「三職」のうち「議定」に任命して、「討幕派」が朝廷で主導権を握るのを防ごうとします。同時に、幕府側は武力による防戦を開始し、江戸では庄内藩兵が薩摩藩邸を焼き討ち、京・大阪では、慶喜が大阪城に立て籠もって指揮するなか、幕府兵と会津・桑名藩兵が「京都伏見口と鳥羽口に進軍」、薩長軍との間で「鳥羽伏見戦争」の戦端が開かれました。
この推移は、しかし、「討幕派」の大久保利通らには、むしろ思う壺でした。なぜなら、「戦争を待望」していたのは彼らのほうだからです。藩の数では圧倒的に少数であっても、戦争となれば、少なくとも西国では勝算があったのです。
68年「1月3日、新政府は徳川軍を[朝敵]と宣言し、迎え討つ薩長軍に錦の御旗を授ける。」しかし、この決定は正式の「三職」会議で決められたのではなく、大久保,岩倉,西郷,三条らの非公式の談合」で「決められた討幕派の専断であった。」「鳥羽伏見戦争」の結果は、「木戸孝允が[意外千万]と言うほど薩長軍の完勝だった。」幕府軍は、幕臣の軍役金で雇った農民・町民の常備歩兵軍だったが、訓練が行き届いておらず、指揮系統も未完成だったのです。
この「鳥羽伏見戦争」に始まる「倒幕戦争」全体の推移を概観しますと、西日本では倒幕・新政府軍の勝利は容易で、1か月足らずで勝負がついたと言えます。しかし、江戸・関東とそれ以北の制圧は容易でなく、関東の制圧には半年近くを要し、その後に、北越〔越後〕,会津,箱館〔函館〕の旧幕勢力の抵抗が続き、箱館が降伏したのは翌 69年3月でした。
「鳥羽伏見戦争」後、慶喜は「大阪城をひそかに脱出」して江戸へ逃走したので、残された近畿の「幕府軍は四散してしまった。」こうして遂に、朝廷の「主導権を握った討幕派は、あらためて公然と慶喜追討令を出」します。
「2月初旬、薩長土の3藩を中心とする東征軍1万余が江戸をめざして出軍する。」迎える江戸の「慶喜は降伏方針をと」り、「西郷隆盛と勝海舟の会談を経て、新政府は慶喜のタヒ罪〔追討〕を撤回、江戸城総攻撃を中止して、徳川宗家の存続を認める。〔…〕4月、東征軍は」江戸城に「無血入城する。」このように、討幕派新政府が幕府側と妥協したのは、東征軍1万余の兵力が幕府方諸藩と比べて、数では圧倒的に劣勢だったからです。
大坂城東外堀。この石垣は、1620年徳川幕府の命令で再建された
もの。〔2020年3月撮影〕
江戸城入城は果たしたものの、新政府軍は、すぐには関東を制圧できませんでした。慶喜の「降伏」で、幕府軍は公式には新政府側に附いたことになりますが、じっさいには多くの「旧幕脱走兵部隊,幕臣,旗本,譜代藩士らが東征軍に抗戦した。」「彰義隊」は、本来は、慶喜の一橋家に近い幕臣が組織した治安警備隊でしたが、東征軍入城以後は、これに反攻して反政府化し、上野・寛永寺に立て籠もって脱走兵部隊と連絡して蜂起、さらに関東の農民や商人が竹槍などを持って加わりました。東征軍・新政府は、「兵力不足のため江戸市中警備も旧幕府に依頼するほど」でしたから、「彰義隊」の鎮圧に手こずり、「上野戦争」は、5月中旬まで続きました。その間、2月~4月にかけて、武州,上州を中心とする関東一円で「世直し一揆」が起こり、これに、旧幕部隊の宇都宮城占領が重なっています。
ここで、民衆〔非権力者,武士よりも下層〕側の動きに眼を転じてみましょう。「倒幕戦争」には、民衆の動きも大きく関わっていました。全体として英国の「ピューリタン革命」や「フランス大革命」にも比較できるような、社会階層を変転させる・流動的な〈革命〉状態があったと言うことができます。ただし、精神面では、17-18世紀のヨーロッパとは大きな相違がありました。日本の場合には、「イデオロギー」〔〈革命〉思想〕の十分な供給が無かったのです。「啓蒙思想」は〔福沢諭吉のような実用的・功利的なものを除いて〕未だ十分に理解されておらず、「宗教改革思想」「千年王国思想」に当たるものは無かった。儒教と神国思想,そこから発する「尊王攘夷」思想はありましたが、社会変革を正統化するような面は弱かったと言えます。〔同時期の中国・朝鮮のような「儒教」思想の転回が、日本では無かった〕
民衆側の動きは、「草莽 そうもう」「世直し一揆」という2通りの形態で進行します。権力者側〔幕府,朝廷,薩長テロリスト集団〕の政治過程と比べて、この領域の研究は現在でも十分ではなく、解明の途上にあると言うべきですが、『新書』から拾って要約すると、次のようになるでしょう。
「草莽」とは、開国〔1858年〕以後の「政治の亀裂の増幅」のなかで、さまざまな志向をもった「脱藩した藩士や浪人、豪農、豪商出身者」が相互に連絡し形成した「幕政反対派」のことです。「草莽」の政治志向はひと通りではなく、「尊王攘夷派」がいれば「開国派」もおり、それでも、幕政に異を唱え、勤王〔朝廷を尊崇する〕を旗印として、根底的な政治改革を唱える点は共通していました。たとえば、高知城下の豪商家の次男で土佐藩から脱藩した「郷士 ごうし」坂本龍馬 りょうま は、「開国派・草莽」のひとりでした。長州藩の攘夷派久坂玄瑞 くさか・げんずい の影響を受けつつも倒幕武装蜂起には加わらず、江戸へ向かい、勝海舟のもとで「洋式海軍設立計画に参加」する一方、土佐藩の援助のもとで貿易・開発事業体「海援隊」の経営を手がけていましたが、志半ばで暗殺に倒れます〔犯人は諸説あって不明〕。また、島崎藤村の小説『夜明け前』の主人公である藤村の父正樹は、中仙道馬籠宿の本陣庄屋でしたが、戊辰倒幕戦争に参加した「草莽隊」に金20両を拠出して支援しています。
1862年頃から、京・大坂で「草莽」による「公武合体派」の暗殺や脅迫事件が頻発し、「天誅」と呼ばれて怖れられましたが、その多くは長州藩久坂玄瑞,木戸孝允ら攘夷派が〈演出〉したテロリズムだったことが明らかにされています。彼ら攘夷派武士は、自らは姿を隠して、あたかも民衆が「開国」政治,「開国」商業に反対しているかの動きをでっちあげることで、倒幕・攘夷に向けた政治謀略をはかったのです。
「戊辰戦争〔1868年1-5月〕には、浪士や豪農商が」多数の「草莽隊を組織して」倒幕側に「参加し」ました。そのうち、近江で結成された「赤報隊」は、新政府(薩長討幕軍)によって「関東進軍の先鋒に任命され、民心を得るため幕府領の[年貢軽減]」を布告するよう提案します。新政府軍はこの建白を容れて、旧幕領に「年貢半減令」を布告しました。「年貢半減令」は、近畿・中国をはじめ西日本の多くの地域で布告されたと思われます。東へ向っても、「赤報隊」が「年貢半減」を布告しながら進軍しました。
ところが、68年1月下旬には、西日本を十分に制圧しえたと見た新政府は「[年貢半減令]を撤回、赤報隊に帰還を命」じます。「赤報隊」の相楽総三隊は、これに従わず、なおも「年貢半減」を布告しつつ下諏訪まで進軍しますが、新政府は 3月初め、相楽らを「偽官軍」として逮捕し梟首刑〔さらし首〕に処しています。島崎藤村の父が支援した「草莽」は、中仙道を進軍中のこの相楽隊でした。
高知城。大手門と天守。〔2026年5月撮影〕
他方、東征軍の江戸武力侵攻を容易ならしめるため、西郷隆盛らは「江戸・薩摩藩邸の浪士,草莽を使って関東一帯の攪乱工作を進める。」つまり、幕府体制下の社会秩序を破壊する「打ちこわし」騒擾を煽動して、新政府軍を有利にしようと画策したのです。
ところが、慶喜の「降伏」方針のもとで江戸・無血開城〔68年4月〕が果たされると、多くの「草莽」は旧幕脱走兵と合流して、江戸・上野の「彰義隊」の抵抗に参加し、或いは各地で武装抵抗を展り広げたのです。これは、西郷ら討幕派の煽動意図とは正反対の結果でした。
このように、「草莽」は、「攘夷」から「開国」まで、さまざまな志向性をもった〈上層民衆〉の政治的動きでしたが、多くの局面で討幕派武士勢力に唆 そそのか され、利用され、あるいは切り捨てられたのです。とはいえ、そのこと自体が、彼らは武士・新政府の指令に忠実に従う配下などではなく、独自の意志と展望を持って行動した〈民衆〉勢力であったことを証していると言えます。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.80-81,88-89,157-161,163-164.)
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