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京都御所、蛤御門。2021年4月撮影。

 

 

 

 


 

 

 

 【1】 前史 ―― 開国から薩長同盟まで

 


 ペリー艦隊の来航〔1853年〕以後、幕府は、大老井伊直弼の専断で「日米修好通商条約」に調印し〔1858年〕、「尊王攘夷」を唱える反対論を、大名,幕臣,浪士,公家に対する大量処罰によって弾圧しました〔安政の大獄〕。勅許を得ずになされた条約締結に激怒した孝明天皇は「戊午の密勅」を下して幕府を非難し、ここに、朝廷と幕府のあいだで激しい不和・闘争が表面化したのです。

 

 この事態を収拾すべく、幕臣と有力大名の一部が画策したのが「公武合体」運動でした。ところが、この「公武合体」運動じたいが、〈位階序列の形式では幕府は朝廷に従い、実質的には幕府の意向が朝廷を支配する〉というそれまでの〈朝幕関係〉から大きくはみ出る〔幕府・朝廷の対等ないし朝廷優位とする〕ものでしたし、「幕府」内部の意思決定プロセスをも大きく変えてしまうものでした。

 

 「公武合体」運動の内容として、幕府内の老中安藤信正らは「和宮降嫁」〔孝明天皇の妹と将軍家茂の結婚〕を画策し、他方、長州・薩摩・土佐藩では、「幕府専制政治を改革」して日本の「中央政府としての幕府へ転換させようとする」主張が抬頭しました。それまで、幕府の政権運営は「将軍を頂点とし譜代大名と幕臣」上層のみが意志決定に関与する「幕府専権政治」によって行われていたが、それを、朝廷と幕府の「合体」のもとで「有力大名が政治参加するものに」すること、実質的には「将軍家と雄藩」の連合政府に転換することをめざすものでした。

 

 長州・薩摩・土佐藩いずれでも「開国」容認を掲げる「公武合体」派が「攘夷破約〔欧米との通商条約の破棄〕」派を抑えて、朝廷と幕府への働きかけを強めていきます。孝明天皇は内心では「破約」と「鎖国」復活を望んでいましたが、〈将来的には条約を破棄する〉との「公武」派による説得に折れていました。

 

 1862年には、将軍家茂による「文久の幕政改革」が行われましたが、その実態は、勅使の伝える天皇の指示に沿って幕臣人事を刷新し、「今後はひたすら天皇の命令や指示を奉じて政治を行なう」と表明するなど、「朝廷の幕政干渉による改革」にほかなりませんでした。参勤交代〔藩主の1年ごと往復,正室・世子の江戸常住〕は3年ごとに緩和され、妻子は江戸住まいから解放された。幕府には、「歩兵・騎兵・砲兵〔…〕からなる西洋式陸軍」が創設された。「幕府歩兵」は農民から徴発されて「身分は百姓のまま武家奉公人の扱い」を受け、「洋式銃を装備」、攘夷派の反乱の鎮圧や幕長戦争〔幕府の「長州征伐」〕で活躍しました。

 

 その後、長州藩と朝廷を中心に、「攘夷」派が一時優勢になり、62年「生麦事件」、63年「薩英戦争」、63-64年「下関砲撃事件」で列強と衝突したが、結果はむしろ彼我の力の差を思い知って開国容認派が増えることとなった。

 

 この一連の幕末「攘夷」武力攻撃事件を「反植民地闘争」と評価することができるだろうか? 否である。第1に、当時列強は、日本に対しては「植民地化」を意図してはいなかった。極東はヨーロッパから遠すぎる上、この頃イギリスは「インド大反乱」〔1857-59 セポイの乱〕の処理に忙殺され、アメリカは南北戦争〔1861-65〕、ヨーロッパ大陸はドイツ統一戦争〔1864-66〕・普仏戦争〔1870-71〕で外征どころではなかった。そもそも「植民地支配」は莫大なコストを要求するという認識が列強には浸透しはじめていたのです。第2に、「経済的侵入にとどまるか、軍事的侵略を受けているか」は大きな違いで、当時の日本は純粋に前者であった。「欧米には〔…〕日本[属国]化の計画など全く無かった」。たとえば、英国公使パークスは、「日本の政争への不介入を本国外務省との間で確認し」、それを日本側にも「くりかえし表明していた。」日本のいかなる勢力にも、「武力反植民地戦争に踏み切る」必然性などは無かったのです。むしろ、「現実に切迫していない対外的危機を誇大に強調する手法は、国内の武力専制支配の強化をもくろむものである。「攘夷」武力事件を引き起こした薩摩,長州ともに、幕府からの政権交代を視野に入れながら、より強力で集権的な「専制支配」をめざしていたと言えるのです。

 

 

Eugène Delacroix(attr), Gladiatoren im Kolosseum, by 1863,  

伝ドラクロワ『コロセウムの剣奴たち』、1863年頃。 ©Wikimedia. 

 

 

 京都の「池田屋事件」と「蛤御門の変」〔64年〕で長州藩などの「攘夷」派が打撃を受けたあと、幕府は勅命を取り付けて2度の「長州征討戦争〔幕長戦争 1864,66年〕」を戦う。幕府の意図は、開国/攘夷の動向いかんに拘りなく幕府が政治の主導権を回復することにありましたが、はたせるかな第2次「幕長戦争」で敗北してしまったのです。これにより、「幕府」「孝明天皇」いずれもが著しく権威を失墜することとなります。有力大名・藩士・公家の発言権が増大し、「明治」少年天皇のもとで「公儀政体」論から「倒幕」へと進む環境が整えられたと言えます。

 

 「幕長戦争」のあいだに、幕府との対立を強めていた薩摩藩が長州藩に接近し「薩長盟約」〔1866年〕が成立します。盟約は、薩摩が「長州征討」の出兵命令を拒否すること、京・大阪に出兵して布陣すること、そして薩長協力して「天皇のもとで雄藩大名が合議する公儀政体の樹立をめざすこと」を約していました。


 1866-67年に、将軍は家茂から一橋慶喜に、天皇は孝明から明治に、相次いで交替しました。この機会に西郷隆盛,大久保利通ら薩長の有力者は「公儀政体論」を唱え、京都で有力藩主の会合を行なって一気に幕府から朝廷への権力移動を実現しようとしました。諸藩会合の議題は、「幕長戦争」の戦後処理に加え,開港場の増設と外交案件を処理するとともに、幕府から朝廷への「大政返還」を決議し、「天皇のもとで諸大名の合議によ」る「公儀政体」を樹立することをもくろんでいました。ところが、新将軍慶喜はこれに先手を打って、禁裏御所で、天皇,将軍と少数の側近だけで、「大政返還」と「公儀政体」以外は薩長の計画通りの決定を下して巻き返したのです。つまり、巧妙な〈肩透かし〉戦術によって、薩長が諸藩のあいだで主導権を握るチャンスを潰し、「公儀政体」の成立を、ひとまずは回避したのでした。

 

 「公議政体論」は、幕府のもとでの「雄藩連合」政治をめざす・かつての「公武合体論」にたいして、それを朝廷のもとで実現しようとするもので、そこでは徳川将軍家はもはや一大名の権限しか与えられないのでした。

 

 慶喜の〈肩透かし〉・巻き返しを受けて、「公議政体」派は分裂しました。西郷,大久保薩摩藩の指導部は、長州藩などと協力し、〔…〕武力倒幕のため挙兵する道を選び、その機会を探りはじめた。」 他方、「土佐藩などは、なお平和的な道すじでの公議政体の樹立を探った。」それら2者の動きに対抗して、「幕府は〔…〕軍事と政治の改革により〔自らの〕権力を強化し、全国支配権を維持しようとはかった。」将軍慶喜は「幕政改革に精力的に」取り組み、フランス公使の助言に基いて幕府の機構に「国内事務,会計,外国事務,海軍,陸軍」の行政分課を設け「近代国家の専門部局制を採用する。軍制改革もめざましかった。」

 

 この「専門部局制」は近代国家創設の重要な一歩で、たとえば江戸時代には、各藩ごと、幕府でも奉行ごとの縦割りが主で、各々に職務分化があり、それらが複雑に絡み合って縄張りを主張し、事務の遂行を妨げていたのです。集権的近代国家にとって、統一的な「部局制」は必須の基礎であったと言えます。しかし、それが本格的に機能し始めたのは「明治政府」においてでした。

 

 将軍慶喜の率いる幕府は、開港場の増設にも積極的で、朝廷の「上級貴族全体の支持」を獲得したうえ、「兵庫開港」の勅許を得たのです〔1867年5月末〕。兵庫(神戸港)の開港は、当時、諸藩のタヒ命を握る物資集散地「大坂」の対外開市を伴うことから、この決定の政治的・経済的影響は極めて大きなものでした。

 

 慶喜の朝廷政治工作に敗れた薩摩・長州は、いよいよ武力制圧による「朝廷の大変革」と武力倒幕に向けて準備を進めることになります。(藤田覚『幕末から維新へ』,2015,岩波新書,pp.170-178,188-192,195-197,203-204,207-209;井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.127,131,141,146-148.)

 

 

 

【2】 前史 ――「連合国家」か? 倒幕・集権国家か?

 

 

 1867年9月、武力倒幕派の「薩摩藩長州藩は、あらためて出兵[条約書]をむすび、芸州藩〔広島〕も加わる。」討幕派の公家を結集して朝廷に反幕府の政変を起こすのと並行して、薩摩藩は「9月中に武力蜂起して天皇を奪い、大坂城へ攻め入る」計画でした。まさに武力に頼った「討幕」計画であったのです。

 

 他方、土佐藩は、非武力の改革運動を進めていました。「徳川慶喜も加えた[公議](会議)による、いわば連邦国家をめざす公議政体論である。」

 

 

Honoré Daumier, Advice to a Young Artist, c.1865-68, National 

Gallery of Art, ドーミエ『若い芸術家への助言』、1865-68年頃、

ナショナル・ギャラリー (ワシントン)。 ©Wikimedia. 

 

 

 土佐藩は、6月に薩摩藩と「薩土盟約」を結んでおり、武力で実現するか非武力かという手段の相違はあっても、実現を目指す政体の構想では、両派はほぼ一致していました。「盟約」では、薩摩側も表面上は、慶喜の自主的な将軍職辞任,天皇への「大政返還」を唱っていました。その要求が容れられなければ直ちに武力行使に移る、というのが薩摩のもくろみだったのです。

 

 討幕派と平和的「公議政体」派に共通する政体構想は、つぎのようなものでした。「朝廷が一切の政治権力を握り、京都の議事院で法制その他すべてを決定する。議事院は、上院と下院からなり、〔…〕諸侯は上院の議員となる」。将軍も辞職して一大名となり、そこに加わる。下院は、「公卿から一般庶民までのうちから選挙で選」ぶ。結局のところ、それは「大名会議による連邦国家」の構想だったと言えます。

 

 ただし、討幕派の薩摩が、「議事院」構想にどれだけ本気だったかは疑問です。というのは、「大名会議」である以上、傘下の「大名の数が圧倒的に多い徳川側が優勢を占めるのは明らか」だったからです。薩摩藩の意図は、この構想によって土佐藩を倒幕側に引き込むとともに、中立の諸藩をも味方につけることにあったと思われます。

 

 ここで将軍慶喜は、武力倒幕を阻止するため、第2段の後退巻き返し・〈肩透かし〉戦術に出ました。それが「大政奉還〔1867年10月〕です。土佐藩と芸州藩から「大政奉還」の建白を受けた慶喜は、西郷隆盛らの予想に反して直ちにそれを受け容れ、朝廷に「奉還」を申し出て翌日勅許されます。慶喜の意図も「大名連合政府」にあり、彼の真意は、そのなかで「徳川宗家が抜きんでた筆頭となり、国政の実権をあらためて確保する」ことにあったと推察されます。「大政奉還」上申とその勅許により、「薩長芸3藩は出兵する名分を失ってしまった。」

 

 この段階では、諸藩,有力公家のあいだで、薩長などの「武力討幕派は、圧倒的に少数勢力」でした。「大政奉還」勅許をそのまま放置すれば、諸侯の平和的合議により、慶喜の目論見に近い親徳川体制が形成されてゆくのは明らかな情勢でした。木戸孝允西郷隆盛ら薩長の有力藩士が新政の主導権を握る余地はありません。そこで、少数勢力が実権を握るために決行したのが、12月初めの「王政復古の大号令」クーデターだったのです。

 

 クーデターに賭けた「武力討幕派」の謀略は、長州藩の木戸孝允が土佐藩の坂本竜馬に 9月に送った手紙に、赤裸々に書かれています。それによると、クーデターは人心を欺くための「狂言」であり、「狂言」から「大舞台」(倒幕戦争)に進むと言うのです。「狂言」を「甘く出か」して、「大舞台」で使えそうな役者を「公議政体」派から仲間に引き込み、幕府との正面戦争に追い込んでしまう。これが、「武力討幕派」という少数のテロル集団が、放っておけば平和的にしか動かない多数者を、過激な闘争に巻き込んでゆくための「工夫」でした。「武力討幕派」は、クーデターという「狂言」を演じて、一種の〈臨時革命政府〉をでっちあげ、わずか数名の者が多数の諸藩,公家を倒幕に動かしてゆく体制を造り上げたのでした。そのための〈指導原理〉として利用されたのは、〈天皇〉の「万世一系」であり「尊王攘夷」理念でした。

 

 「12月9日、禁裏御所の諸門を薩長両藩兵が固めるなか」、幼少明治天皇の「御前」で、西郷隆盛,岩倉具視ら「討幕派」は、土佐・越前・尾張の「公議政体」派を前に「王政復古の大号令」なる文書を示して認めさせ、天皇の勅令として公布したのです。内容は、ペリー来航以来の国難はすべて、「条約締結」をはじめとする幕府の「失政」のせいだと断罪し、慶喜の辞任と「幕府の廃絶」を決定し、「総裁,議定,参与」の「三職」を「仮に置く」と宣言していました。席上、土佐藩主山内容堂は幕府を擁護して反論し、〈岩倉らは「幼沖の天皇」を利用して「権柄を盗」むものだ〉と言い切った。すると、岩倉山内に対し、天皇の「御前」である!と恫喝して黙らせ、外で藩兵を指揮していた西郷岩倉に「短刀一本あれば片づく」と呼びかけて一同を脅迫したので、意見をする者はいなくなったという。「明治新政府」の〈恐怖政治〉は、ここに始まったと言ってよいのです。

 

 客観的に見れば、幕府の開国外交は、当時〔1850-60年代〕の比較的温和な国際環境のもとで貿易と国内経済の成熟をはかろうとする「現実的で合理的」な政策であったと評価できます。実際に、欧米との貿易が始まったことで、開港場付近では、めざましい商業・手工業の発展が萌していました。ところが「討幕派」は、「神武創業ノ始」に戻ることを謳った神国思想の「大号令」宣言を振りかざし、「天皇の権威と藩の武力を背景にして」、根拠ある抗議を問答無用に「押しつぶし」たのでした。

 

 

Jean-Baptiste Camille Corot, Un coup de vent, a gust of wind, circa mid 1860s 

to early 1870s, Pushkin Museum of fine arts, 

コロー『突風』, 1860年代半ば~1870年代初め, プーシキン美術館。©Wikimedia. 

 

 

 「三職」の「参与」には、西郷,岩倉,大久保利通が入って実権を握り、これが〈臨時革命政府〉でした。そのまま「明治新政府」を構成してゆく討幕派は、幕府が不平等「条約を結んだことを[失政]と位置づけ」、〈条約改正〉を「外交の大前提として、[万国対峙][万国対立]〔欧米諸国と対等に列すること〕を国是の第一に掲げて出発する。」そこには、「開化主義大国主義への少数派の賭けがあった。」

 

 明治政府が精力的に進めた・急激な「開化」と、周辺への侵略をふくむ「大国主義」は、かならずしも、当時の国際環境ではそうするほか無い必然的道すじだった、とは言えません。「公議政体」派が平和的にめざしたような・より分権的な「連合国家」による・緩やかな近代化もありえたのです。集権的・専制的な「明治国家」による急激な近代化は、「武力討幕派」というテロリスト集団から続いて「明治新政府」を牛耳ることとなる少数派が・この国に押しつけた・きわめて特殊な史的道すじだった、と言わなければなりません。(藤田覚『幕末から維新へ』,2015,岩波新書,pp.207-208,211-212;井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.150-157.)

 

 

 

 

 

 

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Plinio Nomellini, “La Sorgente , La Source”, 1914-16.    .