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金弘道『檀園風俗畵帖』から「葺瓦(기와이기)」、1780年頃。

国立中央博物館(ソウル)。 ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

 


 【16】 「江華島事件」と不平等条約

 


 「明治政府」首脳部のあいだで、「朝鮮」は、対外侵略の主要なターゲットとして明治初年から徐々に注目を集めてきました。まず、〈幕府外交〉からの「明治政府」の不連続性のために、朝鮮王朝との間で国交の継続が困難になったことから、武力による打開を主張する「征韓論」が、意見としては大勢を占めました。ただ、それを実行するだけの余裕と実力が、初年の「明治政府」には無かったわけですが、→「日清修好条規」→「琉球藩」設置→「台湾出兵」→ と、いわば「迂回戦略」を重ねたすえ、いまや「朝鮮王朝」に武力を差し向けるための周辺条件は整いつつありました。他方で日本国内でも、ひところ燃え盛った「徴兵令反対一揆」はあらかた鎮圧され、「徴兵」→「常備軍」創設も滞りなく進行し、いざとなれば侵攻できるだけの軍備をそなえつつあったのです。

 

 その一方、「朝鮮」への浸透が懸念されていたロシアとの間でも 75年5月には「千島樺太交換条約」が締結され、こちらでもひとまずは、国家間の安定した力のバランスが形成されていました。「千島樺太交換条約」は、実質的には日本のサハリンに対する “放棄宣言” であり、日本はこの譲歩によって、「朝鮮」進出にたいするロシアの無言の保証を得たと言ってよいでしょう。

 

 『岩倉使節団』の一員として帰国した参議大久保利通は、「征韓派」西郷・板垣を失脚させた 73年の政変直後に「内務省」を設置し、みずから初代「内務卿」として、「徴兵令」「地租改正」「学制」など「留守政府」が始めた急進的国内改革を引き継いで完遂することに注力しました。そのうえで・「台湾出兵」の戦後処理を、清国との「互換条款」締結〔74年10月〕によって首尾よく片づけた大久保〔※〕は、「75年はじめ〔2月〕の大阪会議で」、台湾出兵に反対して下野した木戸孝允と、「征韓論」を唱えて下野していた板垣退助の双方を政権内に復帰させ、「大久保政権」に安定した国内的基礎を確保しました。この段階で大久保,板垣,木戸のあいだでは、将来においての「漸進主義による立憲政体の樹立」を合意しています。

 註※「台湾出兵の戦後処理」: 「台湾出兵」は、諸外国から見れば明白な清国領土権の侵害であり、日本の派遣軍に多大の病死者を出した点でも大失策だったが、戦後処理交渉で清国から、派兵は「民を保 まも る義挙」であったとの表明と 50万両の「償金」を得たことで、日本国内的には大久保政権の評判を高めた。

 

 1875年9月20日、朝鮮の首都「漢城」〔現ソウル〕から黄海に注ぐ漢江 ハンガン 河口で起きた「江華島 カンファド 事件」は、外務卿寺島宗則と外務省官僚,海軍大輔の強硬姿勢と軍事的挑発行為が招いた両国間の衝突であったかのように書いている史書が多いのですが、ここに至る史実の流れから見れば、単なる偶発的衝突、ないし一部の外務官僚の突出と断ずることは困難です。むしろ、「征韓論」は、「維新」の初めから数えきれぬほど唱えられつつ、実力不足のために実施されなかったのであり、ここに来てようやく、国内的実力も周辺国際環境も整ったことから、いよいよ「明治政府」を挙げて侵略に乗り出した、と考えるのが妥当ではないか?

 

 事実、「大久保政権」が殖産興業政策をすすめるなかで最も力を入れたのは、政商三菱らを優遇する「海運保護」の実施でした。政府御用商人の商社・海運会社を東シナ海に進出させ、日朝中貿易で「富国」をはかることを既定路線とした「大久保政権」にとっては、朝鮮の「開国」はぜひとも早急にし遂げなければならない課題だったと言えます。「江華島事件」は、「政府が海運保護政策を決定し、三菱に特権的保護を与えることを決め」た・その5日後に引き起こされています。


 

Konstantin Savitsky, Море в Нормандии, Рыбак в беде, Sea in 

Normandy, 1875, Tatarstan State Museum of Fine Arts.

コンスタンティン・サヴィツキー『ノルマンディーの海』、1875年。

タタールスタン国立美術館。 ©Wikimedia.

 

 

 この日、日本軍艦「雲揚号」から出た武装端艇は、朝鮮側に無断で漢江の支流「塩河」を首都「漢城」方面へ遡行し、「朝鮮側陣営のある第三砲台」の前を通過した処で「砲撃され交戦になった。」武装した艦船で内陸河川に入っていくことなど、「不平等条約」下の日本でも諸外国に認められることではないのに、まして朝鮮王朝とは一切の条約を結んでいないのです。しかも「事件 9日後」の同艦の公式報告書によれば、遡航の目的は、「諸事検捜かつ当国〔朝鮮〕官吏へ面会、万事尋問」するためだったと言うのですから、ケンカを売りに行ったようなものです。交戦を引き起こすための〈挑発行為〉としか言いようがないのです。‥かつてペリーが浦賀で、こんな敵対的態度を取ったことがあったかどうか、考えてみなければならないでしょう。

 

 朝鮮王朝では、日本の「幕末」よりもはるかに激しく「攘夷」を掲げ、「開国」を求める諸外国に抵抗していました。王朝の実力者「大院君 テウォングン」は、「尊王攘夷 主和売国〔対外協調は売国だ〕」と彫った石碑を街道の要所ごとに建てさせていたほどです。1866年には、アメリカの武装艦船「ジェネラル・シャーマン号」が大同江を遡行して朝鮮の官民と交戦していますが、平壌監司朴珪寿は同号を焼打ちして乗組員全員を刹害した功績を称えられ、朝廷から加資〔俸禄の増額〕されています。

 

 ですから、「江華島事件」で日本側は、相手方の強硬な出方を十分に予想したうえで、交戦覚悟で挑発したと考えるほかないのです。

 

 「第三砲台」で端艇と朝鮮側が交戦した翌日、主艦「雲揚号は艦砲で攻撃、陸戦隊を送り〔…〕第二砲台を焼き払う。」さらにその翌日には「第一砲台」(城砦)に「放火、35名を刹戮した。」日本軍の襲撃は、民家と民間人にも及んだ。

 

 3日間の戦闘の後、日本政府がまず交渉使節を差し向けたのは、朝鮮王宮ではなく清国でした。ここにも、頑迷な朝鮮王朝を無視して、大国から圧力をかけさせようとする日本政府のズルさが現れています。

 

 75年11月、森有礼 ありのり〔薩摩〕が北京に清国駐在公使として派遣されました。この時期になって清国に公使を派遣したのは、「江華島」事件の戦後処理交渉にあたって背後から朝鮮政府に圧力をかけさせる下心があったからです。清国側はそれを警戒したようですが、翌76年1月、清の実力官僚李鴻章〔直隷総督兼北洋通商大臣〕が北京の外の「保定府」で森と会っています。日本軍の朝鮮侵犯行為は「日清修好条規」の違反だと批難する李鴻章に対し、森は、清との条約は朝鮮には無関係だとして開き直り、日本の朝鮮侵略を思いとどまらせようとする李鴻章の説得に、まったく耳を貸さない態度を示しました。しかし当時、四方の隣邦に列強の勢力が及んでくる状況を憂慮していた清国は、とくにイギリスのビルマ侵掠の進行〔すでにビルマ南部を領有した英国と、北部ビルマ王国の冊封・宗主国である清朝との緊張が高まっていた〕と、そのイギリスが日本の朝鮮侵略の背後にもいることを見て、朝鮮では譲歩して、英国との融和を図ろうと考えたのです。そこで李鴻章は、「日本との交渉を妥結」して「開国」に応じるよう「朝鮮政府に助言した。」〔朝鮮・ソウルでの日朝交渉は、75年12月に始まっていた。〕

 

 なお、森有礼は、外交官としてのアメリカ駐在から帰国した 1873年に福沢諭吉,中村正直らと「明六社」を設立した明治「啓蒙主義」運動の中心人物でした。その森が、清国「洋務派」李鴻章を相手に朝鮮侵略の正当性を堂々と主張したことは、日本の「開化」「啓蒙」「民権」と対外膨張との深いつながりを象徴していたと言えます。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.216-220.)

 

 

getty-images, American Christian missionary school in Korea, 1890.

ソウル(背景の山から推定)のアメリカ・キリスト教ミッション・

スクール。1890年。

 

 

 さて、朝鮮王朝への戦後処理交渉使節は、「事件」から3か月たった 75年12月に派遣され、『薩摩閥の黒田清隆が全権大使に、井上馨が副使に任命された。当時は、大不況がつづいており、』日本では『戦費が欠乏していた。政府が黒田に与えた訓令は「和約を結ぶことを主とし」と明記しており、慎重な対応を求めた。しかし朝鮮が〔ギトン注――開国と通商条約に〕応じない場合は〔…〕決裂』する『全権も与えていた。黒田は期限を切って朝鮮に迫り、朝鮮は、戦備の不足〔朝鮮王朝は、専業武人による旧式軍隊のままだった――ギトン注〕と清国李鴻章の助言によって条約に応じた。

 

 この時、下関では、陸軍卿山縣有朋が日朝開戦に備えていた。〔…〕広島と熊本両鎮台兵の派遣と輸送船舶の準備が調っていた。』

井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,p.220.  .

 


 「江華島事件」の戦後処理が、修好通商条約締結にとどまったのは、日本の財政事情に妨げられた結果であり、日本政府の本来の意図からすれば不本意な結果でした。政府内の「膨張主義」論者は、ここで一挙に朝鮮への侵攻と領有をめざしていた〔非現実的な野望ではあったが〕のです。

 

 「1876年2月に[日朝修好条規]〔江華島条約,丙子条約〕〔※〕が締結される。〔…〕朝鮮を、自主国で[平等の権]を持つと規定し」ているのは、中世的「冊封体制」による「清国の宗主権を否認する」日本側の意図によるものでした。その実、「条規」のそれ以外の規定は、日本や清国が欧米諸国と結んだ「不平等条約」に倣っており、しかも日本,清国の場合よりも徹底していました。「釜山のほか2港の開港」と日本人の「往来通商」権、「日本の航海者〔軍艦を含む!〕」の「海岸随時自由測量」権、日本の「領事裁判権」を認め、「附属条約と通商章程によって、日本貨幣の流通、日本〔…〕商品の無関税も決められた。」自由測量権と日本貨幣流通権は、日本が欧米と結んでいた「不平等条約」にも無いもので、日本は、欧米を超える「不平等」を朝鮮に押しつけたのです〔清国の黙認のもとに…〕。「無関税」は 7年後に改められますが、これも欧米以上に甚だしい「不平等」特権でした。

 註※「日朝」か「日鮮」か: 戦後の日本では、つい何十年か前まで、中学・高校の教科書でも、この条約は「日鮮修好条規」と呼びならわされていました。「鮮」は「朝鮮」の略称ですが、色濃い差別意識が浸潤した語でした。条約の正文には、「修好条規」とのみ書かれており、明治時代の日本では「朝鮮国ト修好条規取結」等と表現しています。「鮮」という蔑称は、1910年以後の植民地統治のなかで日本人に沁みついた差別意識の表現であり、それは、敗戦・光復後も根強く残ったのです。

 

 ただ、朝鮮側も日本の要求をすべて呑んだわけではなく、日本にたいする「片務的最恵国待遇を認めなかったのは」小さくない成果であり、これは「朝鮮にとって、最悪の事態を防ぐ」防波堤となった。

 

 「無関税」によって、日本商品の流入は急速に進みました。欧米諸国はまだ朝鮮に合法的輸出ができない状態で、日本だけが「無関税」で輸出したのですから、日本の貿易商人は、とりわけ欧米製品の中継輸出によって、巨額の利益を占めることができたのです。主な輸出品は、イギリスの機械織布によるインド産綿布であり、日本への主な輸入品は米穀でした。まもなく、日本の貿易は「清国の朝鮮貿易総量を凌ぐ」ことになります。

 

 イギリスは、ロシアの極東進出を食い止める意図から、南下の通路となる「朝鮮」に日本が進出して押さえようとする情勢を歓迎していました。他方、清国は、ビルマ方面でイギリスと緊張状態にあり、そのため英国の脅威増大を避ける意図〔アヘン戦争,アロー号戦争でうけた打撃が記憶に新ただった〕から「朝鮮」を棄て石とし、さしあたって日本の侵略を黙認する態度をとっていました。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,p.221.)

 

 

『日本は、朝鮮に不平等条約を強制する外交を進める限り、西欧列国との利害は一致すると確信していた。三菱蒸気船会社はこの年、上海航路に加えて、官と一体になって朝鮮航路と北清航路を開設する。』

井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,p.221.  .  

 

 

getty-images, street scene showing shops and traders in 

Seoul, 1890-1900.『ソウルの店舗と商人』、1890-1900年頃

 

 

 

 【17】 朝鮮「開国」への傍注

 


 「江華島条約」〔1875年〕から日本への「併合」〔1910年〕に至る朝鮮〔初期〕近代史は、日本をはじめとする諸外国による一方的な侵害・服属の過程として描く史書が日本では多く、岩波新書も例外ではありません。しかし、「不平等条約」に基づく貿易の効果を見ても、そこには 20年前に日本で起きたような、外国貿易が国内産業を振興させ、小規模ながらマニュファクチャー的な手工業が成長してゆく過程が、やはり繰り返されているのです。残念ながら、この面は日本でも韓国でもあまり注目されておらず、研究は遅々として進まないのですが、これまでに実証されている事実でいえば、たとえば、綿織布手工業があります。これは、輸入されるインド産綿糸を主な原料とする朝鮮国内での綿布生産であり、日露戦争〔1904-05年〕前後までは、イギリス産綿布の輸入を抑えて成長する趨勢にありました。(梶村秀樹『朝鮮における資本主義の形成と展開』,1977,龍渓書舎.)

 

 「開国」後の朝鮮では、王朝支配体制を近代化する試みが繰り返され、「甲午農民戦争」〔1894年〕の「東学」のように、外国勢力に抵抗して民衆的な自治組織を樹ち立てる動きも起きてきますが、それらの背景には、やはり中層以下の階層を潤した産業の隆盛を見ないわけにいかないと思うのです。

 

 「開国」後の産業隆盛の効果は、外国勢力の侵入への抵抗ばかりでなく、日本・欧米文化を積極的に模倣し「開化」を推進する動きをも惹起しています。「開国」後・朝鮮の「開化啓蒙運動」は、日清戦争の前後には、端的に・「開化」の象徴である日本を模倣の対象とし、旧い王朝政治文化の象徴である清国を批判の対象とする図式で彩られていました。その雰囲気は、当時の「政治小説」群〔ハングル書き〕に・あからさまなほど明白に表れています。じっさいのところ、こちら(⇒:明治の表象空間(23)【57】→旅順虐刹)にも書いたように日清戦争の日本軍には、文明国の軍隊とは言えないような残虐なふるまいが見られるのですが、朝鮮の当時の「政治小説」は、もっぱら清国軍による朝鮮での掠奪や粗暴なふるまいと、それと対照的な日本軍の規律正しさを描いているのです。それが、初期「開化啓蒙運動」の傾向、ないしその一面であったことは、否定できないと思います。(金宇鍾,長璋𠮷・訳註『韓国現代小説史』,1975,龍渓書舎.)

 

 そのような文化・政治運動の傾向が大きく変化するのは、日露戦争を境目としているように思われます。日露戦争の遂行と並行して日本が朝鮮政府に押しつけた「乙巳保護条約」と「朝鮮統監府」設置は、日本による植民地化の危機を強く認識させました。同時に、上記の国内産業成長の動きは、外国製品の流入と食糧・原料輸出の圧倒的趨勢の前に委縮してゆくのです。この時期から「併合」〔1910年〕までの運動は「愛国啓蒙運動」と呼ばれ、独立(国権回復)とそのための経済的・文化的「実力培養」を国民に訴える民族主義的傾向を強めていきます。

 

 

 

【18】 「琉球処分」の本格着手と「琉球分割」合意

 

 

 1894年、「台湾出兵」後の清国との交渉の中で、「日本側は琉球人を[日本国属民]と」主張し、出兵は、日本に属する宮古島・琉球島民を守るための「義挙」であったと、清国に認めさせていました。これは、琉球を冊封「属国」としてきた清朝の前例に反するものでしたが、明治政府は、その点を捉えてさらに拡大解釈し、「台湾出兵」の戦後処理協約「互換条款」は、琉球を日本領土として確定したものだ、と「強引に解釈」します。そして 75年7月、「江華島事件」の2か月前、明治政府は「琉球に対して、清国への朝貢の廃止、明治年号の使用、藩政改革、鎮台分営の設置などを命令」し、「琉球を清国から最終的に切り離し日本化する[琉球処分]に本格的に着手した。」「琉球処分」とは、わかりやすく言えば、琉球王国の日本国への「併合」にほかなりません。

 

 当然のことながら「琉球」側では抵抗が起きます。「琉球王府は密使を清国へ派遣し、」琉球「国内では〔…〕琉球士族の抵抗が続いた。」

 

 

首里城「歓会門」(正門) に銃を持って並ぶ日本の兵士、

1879-1896年。©日本カメラ博物館 - 共同通信。

 

 

 78年には「明治政府は、警官と鎮台兵を送り込み、強権的に廃藩置県を実施し、旧琉球王国を沖縄県にした。」琉球王「尚泰は華族として」40万石の旧大名に相当する経済的保証を与えられた上、「首里城」明渡しと東京への移住を強制された。

 

 この年・東京に派遣された清国初代公使は、日本政府の「琉球処分」を「無頼の横、痩狗の狂」だとして抗議したが、80年に清国と日本の間で合意した「修好条規」改約案は、「宮古・八重山諸島を中国領土とし〔琉球分割〕、かわりに日本商人が中国内部で欧米なみの通商ができる〔最恵国待遇→内地通商権〕」というものだった。もっとも、この改約案は、日本への帰属に抵抗して清国に亡命した琉球士族の強い反対〔※〕を受けて調印に至らず、領土問題は「日清戦争」〔1894-95年〕の戦後処理まで棚上げとなります。その間にも、沖縄~八重山現地においては、日本側の「琉球処分」が強制実施されてゆくのです。(井上勝生『幕末・維新』,2006,岩波新書,pp.231-232;牧原憲夫『民権と憲法』,2006,岩波新書,pp.107-108.)

 註※「琉球士族の抵抗」: 「琉球分割」を含む「改約案」は、日本側から清朝に提案されたが、琉球の支配層は、一体としての琉球王国の存続をあくまでも求め、日本への併合も分割も拒否、中国・福建省へ密航して亡命し、清朝当局に働きかけた。彼らの意を汲んだ清朝・同治帝は、「改約案」の調印取りやめを命じた。 

 

 

 

 

 

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