【59】 「システム」への〈反抗〉の両義性
「システムへの〈反攻〉」と言うと、効果的な打撃を「システム」に与えられるように見える。しかし「反抗」と書いたら、どうか? あたかも思春期の中学生が親に逆らうようなもので、抗ってはいても、「システム」の外に飛び出すわけでもなく、中途半端で無駄な抵抗に終わるだろう、と見えてしまう。つまり、「システム」の内部での「抵抗」には、多かれ少なかれ「両義性」がつきまとう。
しかし、「両義性」の解明は、――この場合に限らないが――錯綜していて難しい。まずは、それらの「抵抗」は常に効果的で有意味で、たんに「抵抗した」というだけで「システム」の弊害は克服されてしまう、かのようなオプティミスティックな見方を検討してみよう。
その場合、システムに対する「忌避の欲動は、[システム]の冷徹な非人間性に対する抵抗」であるとされ、「[近代]によって抑圧され疎外された〔…〕生き生きとした人間性」が、それによって回復」し再生する、との物語が語られることになる。「大らかで温かな[寅さん]の野人ぶりに[庶民]が喝采するのも、〔…〕残存する部落民差別に人道主義者兆民が憤慨するのも、情熱に駆られた書き手が言語使用のこちたき正則を蹴散らかし、筆の勢いに任せ」て異形 いぎょう のエクリチュールを産出する「のも、[システム]の人間疎外に対する小気味良い批判の身振りと見なされることとなろう。(『明治の表象空間 下』,pp.201-202)
『この人間主義的なプロットに一面の真理があることは否定できない。もとより「システム」の内部に「人間」が占める場所はない。〔…〕「人間」個体が自身の有限の生の現場に執着するかぎり、彼は何らかの形で「システム」への抵抗を試みざるをえない。〔…〕「システム」に「人間」を対立させ、その対決の勝者として「人間」に喝采することは、いつでも人々に心地よい慰藉をもたらす。ナチ党員にして〔…〕ホロコーストの「システム」の〔…〕有機的一部分を担っていたオスカー・シンドラーが、1200人のユダヤ人を虐刹から救ったあのエピソードは、「システム」に対する「人間」の英雄的抵抗の物語として消費され』る。
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.202. .
しかし、そうした「物語」を生産し消費する「近代システム」の側から考えても、「情緒的な人間主義〔Ⓐ〕を混入することで、[システム]の」機能そのものに「不具合が生じることは事実であ」る。そのことは何を意味するのか? 単なる〈情緒的な人間主義〉〔Ⓐ〕による「システム批判」では、わからないだろう。
「近代システム」を擁護する考え方に立った場合には、前回述べたように、「[システム]自体は価値中立的であり、そうである以上」「システム」の完璧な作動は、「[人間]の幸福や自由を」増進するかもしれないし阻害するかもしれない。そこで、近代的「啓蒙」「理性」の側に立脚した一つの答え〔Ⓑ〕は、つぎのようになる。「システム」を忌避する欲動の反作用によって「システム」の作動に支障が生じた場合には、「[システム]がめざす目的や〔…〕波及させる効果をめぐって、あらためて[理性]が行使され([理性]の[公的使用]、[大きな正論]〔※〕)」、「理性」の「上位の審級」では、「むしろ[システム]の失調こそが、〔…〕[理性]的価値の実現に」、より「かなったことだと判定される」場合がありうる。『シンドラーのリスト』は、まさにそうした場合だ、と理解されることになるだろう。
註※「大きな/小さな正論」「理性の公的/私的使用」: カントの用語。⇒:(1)【2】。
Léon-Augustin Lhermitte, La dent du Chat au lac du Bourget,
1901. レオン=オーギュスタン・レルミット『ブールジェ湖
から望む猫の歯』1901年。 ©Wikimedia.
【60】 「システム」の「不徹底」―― あるいは
「システム」への「イデオロギー」の侵入
〔Ⓑ〕から、〔Ⓐ〕の「人間主義」への批判は、たとえば、次のように展開される。明治日本の「近代システム」構築期にあたって、「加藤弘之のような政治学者や、外山正一,有賀長雄のような社会学者に要請された使命は、〔…〕システム化された[知]の構築作業であり、それはそのまま[大きな正論]に合致する[理性]の[公的使用]でもあったはずである。」ところが「彼らは、[システム]論的思考が完遂されるはるか手前の地点で腰砕けとなり、情緒的な人間主義〔Ⓐ〕へと曖昧に逃れてしまった。」 (『明治の表象空間 下』,pp.202-203.)
『「知」とは、その極限まで突き詰めた場合、仮借のない非人間的な徹底化を知性に強いる怪物にほかなるまい。それ〔自らの「知」を非人間的に徹底すること――ギトン註〕は抑圧的な権力の発動とも言えるが、その抑圧に』耐えた『うえで、ある瞬間、「知」それ自体によって「知」を批判しうる視座を獲得することこそが、知識人の使命なのではないか。
その徹底化の耐忍を、これら「および腰の知識人」たちは曖昧に回避し、「理性」を「情念」によって混濁させ、しかもその腰砕けぶりを、知的めかした西洋人名の羅列』などの『恫喝的な意匠でもって糊塗〔…〕した。それ〔徹底化の回避――ギトン註〕を彼らに強いたのはいったい何だったのか。〔…〕
「明治の表象空間」で「システム」の合理性の徹底化に抗う力が働いたとして』も、そ『のことは、むしろその抵抗の力自体が「システム」のよりいっそう滑らかな作動に寄与したと捉えるべきではないのか〔…〕。「理性」の徹底化を回避することによって初めて効率的に機能しうる〔…〕「半=理性」的「システム」といったものがあ』る。『明治初期・中期の専門知識人の言説は、〔…〕そうしたキメラ的な「システム」をもっともよく体現〔…〕していたのではないかということだ。
そのキメラ性としてここで「システム」に混入しているものは結局、「イデオロギー」――「国体」を聖化する尊王思想とそれを核と〔…〕した侵略的ナショナリズム〔…〕――であろう。「および腰の知識人」たちが示した情緒的な人間主義への媚態は、このイデオロギーのコロラリーの一つにすぎない。
「システム」と「イデオロギー」の相互浸透の問題は、〔…〕歴史学においてもっとも尖鋭化する。』なぜなら歴史学は、『ネーション・ステートの定礎と不可分の学問的ディシプリンたらざるをえなかった』からである。
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.203-204.
Иван Шишкин, После шторма в Мери-Хови. After a storm in Mary-Howe,
1891, Borys Voznytsky Lviv National Art Gallery. イヴァン・シシュキン
『嵐の後のメリ・ホーヴェ』1891年。リヴィウ国立美術館。 ©Wikimedia.
明治日本における「システム」構築の不徹底性、すなわち「システム」への「イデオロギー」混入の一例として、ここで「社会進化論」を参照してみよう。そこで流行した「社会進化論」が、一見「理性的」と見えても「[イデオロギー]以外のものでないことは自明である。[優勝劣敗]の[条理]」に、「必然性」「第19世紀の大勢」を見る徳富蘇峰らの「史論」は、「一応[システム]の外観を取り繕ってはいるものの、〔…〕[イデオロギー]に汚染された不完全な[システム]」にすぎない。
が、「ここではむしろ逆に」考えてみたい。つまり、「明治の表象空間」において「システム」とは、「純化された完成形では決して機能しえず、何らかの[イデオロギー]と野合した不完全形においてのみ滑らかに作動しうる」ものであったのではないか。「明治期の[システム]の不徹底の主要因は、そこに接ぎ木された[イデオロギー]〔…〕による混濁である。」接ぎ木された「イデオロギー」とは、「ナショナリズム」だけでなく、「いわゆる[家族主義的国家観]」に「結晶する広い意味での温情的な人間主義」をふくむものであった。「社会進化論」という・「言説空間」の局面から「浮かび上がってくるのは、〔…〕[システム]が[イデオロギー]と野合」し、「その混濁した不完全性を通じて、より〔…〕効果的な[システム]へと高次化してゆく〔…〕メカニズムにほかならない。」それが、「[理性]の徹底化を回避」することで「初めて効率的に機能しうる[半=理性]的[システム]」と、さきほど呼んだものにほかならない。「そこには、[システム]の完璧な作動に対する[抵抗]を[システム]自身が狡猾に取り込み、それを自身の・よりいっそう滑らかな作動に寄与させてしまう巧緻なメカニズムが働いている。」
この意味での「[システム]と[イデオロギー]の癒着」関係は、つぎのようにまとめることができるだろう:「[システム]が人びとの意識と身体に実効的に働きかけるためには、[イデオロギー]によって補助されなければならない」。その一方で、「[イデオロギー]がネーション・ステートの統合の符牒として政治的な力を発揮する舞台の土台には、[システム]が設 しつら えられて」いなければならない、と。(『明治の表象空間 下』,pp.206-208.)
『疎外された人間性の回復、という物語が〔…〕見せかけの解にすぎず、安易な人間主義への媚態が、「システム」の有機的な構成要素にしかなりえない』のだとすれば、『この狡猾な陥穽を回避し、「システム」の作動する空間自体の外部へ逃れるには、いったいどうしたらよいのか。
それには、「システム」と「イデオロギー」の共犯性自体を撃つ批判の実践が必要となろう。だが、ネーション・ステート〔という強固なシステム=イデオロギー複合――ギトン註〕の成員の一人であることを受け容れつつそれを行なうことなど、はたして可能なのか。
〔ギトン註――完成された近代のネーション・ステートにおいては〕人は、誕生の瞬間からタヒの瞬間まで〔…〕「システム」の内部に丸ごと搦め捕られており、自身の現実生活と精神生活の総体を「システム」との相関の下に営んでいる。いかに懐疑を研ぎ澄まし〔兆民のように――ギトン註〕、いかに奔放なエクリチュール〔露伴の『五重塔』,一葉の『にごりえ』のような――ギトン註〕に身をゆだねたところで、いつのまにか我知らず「総動員体制」〔1938年「国家総動員法」――ギトン註〕といった強力かつ精密な機械の有用な一部品と化していたりするものだ。
Alexandra Makovskaya, Малороссийский вид, View from Little Russia, 1891.
アレクサンドラ・マコフスカヤ『小ロシアの風景』1891年。©Wikimedia.
だが、「システム」の権力性への抵抗が、多様な形で展開されてきたこと〔…〕もまた事実である。「文学」のエクリチュールを通じてのそうした試みのほんの一例に〔ギトン註――次節↓で〕触れて、』この考察を『締め括ることにしよう。』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.208-209.
【61】 近代日本「公娼システム」の成立
「[システム]の権力性 への抵抗」の「一例」として松浦氏が取り上げるのは、一葉作『にごりえ』の「お力」と『たけくらべ』の「美登里」です。「[システム]が作動する空間自体の外部へ逃れ」、「[システム]と[イデオロギー]の癒着関係」に「搦め捕られる」ことなく、「エクリチュールを通じて」それらの「共犯性を撃つ試み」。ここで俎上に上がる「システム」とは、明治期に確立した日本の「公娼制度」であり、それが「作動する空間」とは、公認「遊郭」の内部(公娼)と外部(私娼)にいる娼婦たち、彼らに関わる制度と人びと、およびそれらを囲繞する明治期日本の社会です。「美登里」は、「公娼システム」の内部へと「搦め捕られ」引き込まれてゆく存在であり、「お力」は逆に、「システム」の外部へ排除されつつ「[システム]が作動する空間」の苛酷な支配を受ける存在。そして、著者一葉は、「[システム]が作動する」周縁空間で、多かれ少なかれ「[システム]の作動」に依存しつつ生きている人びとのひとりです〔「吉原遊郭」に接して雑貨店を開き、のちには、「新開地」の私娼のために代筆を引き受けて生計の一助とした〕。
「外部へ逃れる」「撃つ」などと言うと、あたかも「システム」にも「イデオロギー」にも影響されない “客観的” ないし “純粋” な立場をとるとか、それら「システム」なり「イデオロギー」を、宙空から大上段に、あるいはお説教のように批判すること〔下田歌子や「啓蒙」官僚のように〕を想像しがちですが、一葉の小説を見れば明らかなように、彼女の姿勢は真逆です。むしろ、「システム」と「イデオロギー」が支配する空間の内部を生き、その「泥にまみれる」ことこそ、一葉のエクリチュールの方法論なのです。
まず、明治における「公娼制度」成立の経緯を、かんたんに見ておきます。「明治の初年、〔…〕性の領域に」も「[システム]化の網の目がかけられる。公娼制度が、それである。」
1872年〔明治5年〕に出された太政官布告:通称「芸娼妓解放令」は、正式名を「人身売買ヲ禁シ諸奉公人年限ヲ定メ芸娼妓ヲ開放シ之ニ付テノ貸借訴訟ハ取上ケスノ件」といい、前借金で縛られた年期奉公人である遊女を妓楼から解放するものだった。同年に発令された「前借金無効の司法省達」とともに、遊女に対して「前借金」を取り立てる訴訟を、裁判所等は受け付けないことになった。ただし、売春も、遊女に売春をさせる妓楼の営業も、合法であった。〔江戸時代には、公権力の指定する「遊郭」以外の売春は、建前上違法だったが、取締りは緩く、実際上行なわれた。〕
「芸娼妓解放令」は、翌年の「キリシタン禁令の廃止」とともに、「不平等条約改正」を求めていた明治政府が、西欧諸国に対して「文明開化」したふりを見せるための政策であったと思われます。それが、人権思想に基づくものでなかったことは、同じ1872年に「鶏姦律条例」を制定し、『聖書』が禁ずる男性同性性交を禁止・処罰したことからも明らかです。
Courting couple at the symposium, or Symposium scene with youths,
Attic cup, Athens, Around 500-450 BCE, Louvre Museum. ©Wikimedia.
アテネの壺絵「酒宴で求愛するカップル」。紀元前500-450年、ルーヴル美術館
したがって、「芸娼妓解放令」はほとんど実効性がありませんでしたが、それでも「妓楼」業者らは政府に対して業態の公認を求めて運動を起こしました。これを受けて、翌1873年「貸座敷渡世規則」「娼妓規則〔府県の条令〕」が制定され、妓楼は「貸座敷」と名を変えて正式に存続することとなります。「遊郭地域の特定、および娼妓の[本人真意ヨリ出願]という2条件の下で売春営業の継続を認可」されました。東京府の「娼妓規則」を見ると、娼妓の「本人真意」出願であることを「取糺 トリタダ シ候上差許 サシユル シ」、売春許可の「鑑札」を与えること、免許された「貸座敷」においてのみ売春営業を許されること、「月2円」の「鑑札料」を支払うこと〔個々の遊女が安定して支払える金額ではなかったと思われる〕、「月2回」の・医師による梅毒検査が義務付けられています。「かくして明治の娼婦たちは」「鑑札制」の「[システム]の中に取り込まれた」。
「解放令」とは言いながら、「本人真意」という条件が厳密に守られたとは思えませんし、妓楼・「貸座敷」業者にとっては、むしろ従前よりも有利になったと思われます。というのは、「遊郭地域の特定」にかんして、東京の「吉原」のような江戸時代からの公認「遊郭」に加えて、多くの「遊郭地域」が新たに指定されました。けっきょくのところ、「前借金」拘束が多少緩くなったこと〔司法による取立ては難しくなったが、暴力による取立ては可能〕、「鑑札制」により公的「システム」が敷かれたこと、以外は、人身売買・拘束の実態に大きな変化はなかったと言えます。
「鑑札制」システムは、東京府など大都会では「解放令」の翌年から施行されたものの、地方にまで、また都会でも隅々にまで浸透するには時間がかかったと思われます。「やがて明治33年〔1900年〕の[娼妓取締規則]に至って、娼婦の取り締まりは自治体から内務省に移管され、国家管理の公娼制が確立する」。(『明治の表象空間 下』,pp.209-210)
一葉が『たけくらべ』を同人誌『文学界』に発表したのは 1895年1月、『にごりえ』を脱稿したのは同年8月〔発表は翌9月〕。公娼制が国家制度として確立する 5年前のことでした。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!







