Kuroda Seiki, Dead_Leaves, National Museum of Modern Art, Tokyo.
黒田清輝『落葉』1891年、国立近代美術館。 ©Wikimedia.
【59】 「泥にまみれる」一葉のエクリチュールは
なぜ、「国家の大本」を志すのか?
一葉は、「日清戦争」の前夜に『丸木橋をば渡』ろうと決意し、小説専業を志した時、『みずからの文業の核心が「国家の大本」に触れることになるだろうと、たしかに予感していた。その予感とは、ひとことで言うなら、自分の屍骸が野犬に喰われるような「泥」と「悪」の世界は、教育勅語的国家観と〔…〕下田的な「善」の「をしへ」の外にあり、かつそれと十分に拮抗しうる強度を備えた小宇宙として生成しうるはずだという直観だったのではないか。
彼女は、現今の日本における精神の荒廃や道徳心の劣化を認めたうえで〔…〕、しかしそれを下田のように教育の実践によって正そうとしたわけではない。「我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず、天地の法 のり にしたがひて働かんとする」という・その働きとは〔…〕虚構の物語の制作という文筆活動を意味していたことは明らかだ。その活動のただなかで現実世界の「泥」と「悪」に対峙しなければならない作家のエクリチュールは、もしそれが〔…〕真正のエクリチュールであるならば、「泥」と「悪」を、批判するのでも矯正するのでもなく、〔…〕無視して「みやびの楽しみ」に逃げ込むのでもなく、それにただまみれる以外にない。
タヒ生を賭して、言語によって、恐るべきものにまみれること、そうした作家の営みは、天皇の聖典』と『下田的な「善」の言説〔…〕からは、謗 そし られるかもしれぬ、嗤 わら われるかもしれぬ。現世的な力関係で優位に立つのが、』下田歌子の『「純白の〔…〕徳義心」〔…〕のほうであることは、あまりにも明らかだからである。
しかし、社会に現に瀰漫する汚穢を表象空間中に想像的に回収し、それを虚構として造形し直すという働きから産まれ落ちる小説作品の傍らに置かれるとき、下田的な「善」の言説は、その抽象的な綺麗事としての空疎なイデオロギー性をおのずから露呈するしかない。〔…〕
「泥」と「悪」の包摂を拒んでみずからを「純白」のままに保とうとする「徳義心」だの「道義心」だのによって、はたして国は国たりえ、国民は国民たりうるのか。教育勅語=下田歌子流の国家定礎のイデオロギーの抽象性を撃つ〔…〕この批判的機能を通じて、「死生いとはず、天地の法 のり にしたが」って紡ぎ出される一葉のエクリチュールは、〔ギトン註――こんな「闇」を「闇」のままに無視して、国家もネーションも成り立つのか?という〕一種否定的な形で「国家の大本」に触れることになる。〔…〕
そのとき、カント的な主体の成立を妨げているとさきほどわれわれの述べた・決定論〔「遺伝」の宿命論――ギトン註〕への対応〔※〕を通じて、「お力」=一葉は或る別種の主体の可能性を示唆しているのではないか〔…〕。
註※「決定論への対応」: 下田歌子のように、「決定論」を恣意的に援用して「国家に従属する主体」の馴致に利用するのではなく、「決定論」が自己に及ぼす不可抗力をむしろ主体的に引き受け、それを積極的に生きることで「従属しつつ対抗し耐える自己」を確立しようとする。
「私には以上〔これ以上〕考へたとて私の身の行き方は分からぬなれば、分からぬなりに菊の井のお力を通してゆかう」という「お力」の決意に、われわれはすでに』、〈定められた〉「墜落する」運命を、あえて主体的に引き受け、「行為主体としての責任」において墜落を覚悟で「丸木橋を渡る」ことの能動性を見た。(pp.28-29)
Николай Петрович Богданов-Бельский, Виртуоз, 1891, Государственный
музей искусств Грузии, Тбилиси Техника Холст, масло.
ニコライ・ボグダノフ=ベリスキィ『ヴィルトゥオーソ』1891年。©Wikimedia.
『みずからの悟性を勇気をもって行使することで未成年状態から脱するのが「啓蒙」であるとすれば、この「お力」の決意表明を、端的に「啓蒙的主体」のマニフェストとして読むことも不可能ではない。ここで彼女は受動的諦念を能動へ転じ、自分の人生を主体的に引き受けようとして』いる。
『「お力」にしても作者一葉にしても、或る意味ではたしかに「啓蒙的主体」としての自己主張を行なっているのだが、しかしその「主体性」とは、「啓蒙」的理性の内部には鎖されえない獰猛な活力〔例えば、啓蒙的理性が及ばない自己内部の無意識や、社会の決定的諸力にまで責任を負おうとする――ギトン註〕を孕んでおり、その活力のゆえに、我にもあらず理性的秩序の外部にはみ出し、翻って「啓蒙」の問題機制〔…〕に亀裂を入れてしまう〔…〕。
端的に言ってそれは、おのずと崩壊してゆく宿命を負い、しかし崩壊してゆくことこそがそのもっとも十全な自己実現の姿でもあるといった逆説的な主体性なのである。』予め決定された運命を主体的に引き受けて生きることが、『しかしそのまま或る「狂気」へと彼女を導』く。その「狂気」とは、『決定論に屈服せざるをえない者が、その予定された運命を改めて主体的意志で選び取ろうとしつつ、しかしその意志自体が主体をなおいっそう破滅へと引き寄せずにはおかない・という裏切りの構造のうちに孕まれた狂気』〔★〕である。その「狂気」は、『悟性的に選び取られた営為の「主体性」を崩壊させずにはおかず、しかしその崩壊の予感に震えつづけることそれ自体に、その「主体」の存在理由の核心がある。この裏切りの構造』は、『「書く主体」が我知らず身に招き寄せてしまう〔ギトン註――エクリチュールの〕「狂気」の到来という出来事と同型のものだ』
註★ 「逆説的な主体性・の〈狂気〉」: たとえば、特攻隊に指名された兵士が、その運命を「主体的」に引き受けて生きよう(タヒのう)とする場合、その「主体性」とは、「国体」ヒロイズムへの陶酔〔祖先・家族・天皇のためにタヒのう〕であれ、他の思いこみへの没入であれ、〈狂気〉にほかならない。ただ、その場合は、「国家に従属する主体性」の〈狂気〉であって、お力や一葉の場合とは逆のベクトルを帯びるだろう。そして、「崩壊の予感に震え続ける」身振りは、むしろ「主体」の核心から排除されるだろう。
ともかく、お力と一葉の場合には『この留保なしのデスペレートな身振りが結果的に、市民社会の「馴致された女性」の規範を我知らず踏みにじる結果となる。それは 』一葉の『エクリチュールを「禽獣」の道へと導き、「国家」的秩序への反逆の方途へ向けて押しやってゆくことになるのである。要するに、「衛生=婦徳=国家」というセリーから遁走する一葉は、「理性=啓蒙=国家」というセリーからも同時に身を引き離し、そうすることで、公的イデオロギーとしてのこれら2つのセリーが手を携えて抑圧し虚構化しようとした闇の領域に、生きた言葉を与えようとした、ということだ。』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.60-64.
Isaac Levitan, Timeworn little courtyard. Plyos. Ветхий дворик, Плёс, картина
Исаака Левитана, 1888-1890. イサーク・レヴィタン『プリョースの古びた
小さい庭』1888-1890年。 ©Wikimedia.
『魂祭 たままつり 過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、新開の町を出 いで し棺二つあり、〔…〕
大路に見る人のひそめくを聞けば、彼 あ の子もとんだ運のわるい詰らぬ奴に見込 みこま れて可愛さうな事をしたといへば、イヤあれは得心づくだと言ひまする、あの日の夕暮、お寺の山で二人立ばなしをして居たといふ確かな證人もござります、〔…〕といふもあり、〔…〕切られたは後袈裟 うしろげさ、頬先 ほゝさき のかすり疵 きづ、頸筋の突疵 つききづ など色々あれども、たしかに逃げる處を遣 や られたに相違ない、引かへて男は美事な切腹、蒲團やの時代から左 さ のみの男と思はなんだがあれこそは死花 しにばな、ゑらさうに見えたといふ、〔…〕
諸説みだれて取止 とりと めたる事なけれど、恨 うらみ は長し人魂 ひとだま か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き處より、折ふし飛べるを見し者ありと傳へぬ。』
『にごりえ』青空文庫;『樋口一葉小説集』,2005,ちくま文庫,pp.124-125. .
『『にごりえ』の結末をなす〔…〕「源七」と「お力」の心中沙汰の曖昧さ』にも、「逆説的な主体性」が孕む「裏切りの構造」が『認められるだろう。彼女は〔…〕心中に同意し従容としてタヒの途についたのか、それとも』心中を『強要する「源七」に逆らって無残に刹されたのか、結局読者にはわからない。
「……と伝へぬ」の一句によって、『にごりえ』は幕を下ろされる。〔…〕後に残るのはただ、とりとめのない非人称の集合的な呟きが細かな泡粒のようにぽつりぽつりと立ちのぼる白い空虚ばかりだ。』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.64-65.
松浦氏は、多くの研究者・解説者と同様に、『にごりえ』結末部分の「心中沙汰」を、「心中」か「惨刹」か作者はあいまいにぼかして締めくくっていると解しています。しかし、私の見るところでは、一葉の筆致は明らかに「惨刹」の事実を指している。にもかかわらず、葬儀に参列する人びとの噂話は、この事件を古典文学のような「心中」の美談に作り上げようとしているのです。
定められた宿命を自らの生として引き受け・「逆説的な主体性」を生きようとした「お力」の〈反啓蒙的〉な抗いは、定められたとおりに挫折したのです。そして、特攻兵↑〔★〕の場合と同様に、その「狂気」を〈伝統〉の内部へ回収しようとする美談が造り上げられていきます。一葉が最後に訴えようとしたのは、そこに孕まれた〈物語による「裏切り」〉の構造ではなかったか? 美談が称揚されてゆく一方で、寺の山からは、誰のものとも分からない複数の人魂が「恨み」の尾を曳いて飛び、遊女たちの「集合的な呟き」が「細かな泡粒のようにぽつりぽつりと立ち昇る」ほかはないのです。
Pierre Puvis de Chavannes, Orfeus The Poet, 1896, Nasjonal-
museet, norway. ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ
『詩人オルフェウス』1896年、ノルウェイ国立美術館©Wikimedia
【60】 「理性」と「システム」
「システム」とは、ある「事象・主題・領域」について、「それを構成する諸要素を一定の秩序のもとに統合し」、諸要素「相互間を有機的に連関付け」ることによって、それら諸要素が個々ばらばらでは「帯びようのない機能を、全体として実現」しうる「構造体」、と定義されます。
したがって、江戸時代の幕藩制の政治秩序も、朱子学の「理気二元論」「陰陽五行」に基づく「万物生成論」も、一種の「システム」だと言えます。
しかしながら、「[近代]以降の[システム]がこれらと区別されるのは、諸要素の統合秩序の基盤に、公共化された[理性]的原理を据えている点であろう。」たとえば、人口管理のための「戸籍」、罪と罰の対応の一覧表である「刑法典」、諸・個別科学の概念構成体系、といった諸「システム」の構築を、明治日本は「自らを[近代化]するために必要とした」のです。それらはすべて「何らかの形で普遍性を僭称する[理性]的原理を基盤」に据えた「システム」であり、これらによって「西欧的近代」に倣った「政治的・法的・学問的秩序を確立することが〔…〕急務とされたのだ。それは、厳密な論理の徹底化が事象・主題・領域の全域を覆い尽くす、抽象的にして非人間的な形式世界である。」(『明治の表象空間 下』,pp.197-198.)
『逆に言えば、〔…〕「理性」は宿命的に「システム」創出の試みにまで至り着かざるをえない。合理主義の昂進は最終的には「システム」に結晶する。「システム」とは、「理性」の自己実現の究極の完成形なのである。したがって、抑圧し弾圧する「理性」の権力性〔…〕は、「システム」において最も明瞭な発現を見ることになる。〔…〕戸籍や刑法』だけでなく、たとえば『諸学における概念構成の「システム」もまた、個物の特異性と出来事性をあたうかぎり縮減し減圧しようとする〔…〕点で、一種の権力装置と見なす』ことができる。
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,p.198.
「小石川植物園」、あるいは日本語大辞典『言海』は、あらゆる植物種、また日本語のすべての単語を網羅していると「人を確信させる徹底性の外観」を備えた一覧表であり〔もちろん不完全な一覧表に過ぎないが、人々はそれを意識しない――ギトン註〕、「その信憑性を基盤として初めて[植物学]や[国語]は[システム]として機能する」。
「現実的な必要性や有用性如何とは別に、[近代]以降、[開化]と[啓蒙]は、最高学府の講座に担われた学知のディシプリンが、堅固な[システム]として組織されることを要請する。また、〔…〕言語が語彙と構文法の[システム]でありその機能のさまが辞書と文法書に網羅的に記述されることを要請する。戸籍や刑法とは異なり、それらはむろんファンタスムにすぎない。が、それは人々によって信じられたファンタスムである。その[信]をより深いところで支えているのは結局、[理性]への[信]である。」(『明治の表象空間 下』,p.199.)
『「理性」的なものは正しいものである以上、あなたはそれを信じないわけにはいくまい、と「システム」は無言の声で囁きかける。この強制された「信」に促されて人は「システム」を受け容れ、〔…〕翻って今度はその「信」が「システム」の正当性を担保し、その〔…〕いっそう滑らかな作動を可能にする。この強制された「信」の共同化の力学に、権力装置としての「システム」の本質はある。』
松浦寿輝『明治の表象空間(下)』,2024,岩波現代文庫,pp.199-200.
Paolo Testi, Il genio di Newton; Natura ed arte, p.520b.
ill Console, before 15 August 1893, Incisione di Console
raffigurante la scultura. パオロ・テスティ
『ニュートンの精霊』1893年以前。©Wikimedia.
「理性的システム」のこのような〈絶対的正当性〉は、それがめざす目的・また及ぼす効果の価値にかんして「システム」は〈中立的〉だ、とされることに、もっともよく現れる。悪い目的に「システム」を使う人間が悪い、「システム」自身に罪はない、というわけだ。たとえば、強制収容所のガス室での処刑から遺品の回収と再利用に至るまで、ナチス政権の「ホロコースト」が「高度な合理性に基づいて設計された[システム]」だったことはよく知られている。目的と効果の倫理性・道義性とは別に、「それは優れた[システム]としてあった。そこに貫徹していたのもまた[理性]の原理だったのだ。」
「近代的なネーション・ステートたらんとした他のあらゆる国家におけると同様に、〔…〕明治の表象空間で〔…〕政治・社会・文化のあらゆる領域にわたって[システム]化への志向が猖獗をきわめたことは事実である。」しかし、本論考での松浦氏の問題関心は、むしろ「[システム]の合理性に抗う力」も、そこに働いた、という点に向けられています。たとえば、「民衆を土地に定位させようとする戸籍制度から[横]にはみ出した〔…〕住所不定のいかがわしい放浪下層民の存在」に注目しています。彼らは、「共同体の暗い無意識に深く根ざした何らかの[反=システム]的な欲動を表象していたからである。」
また、「啓蒙」的「正論」に「従うかぎり[四民平等]であるはずの人口管理[システム]〔戸籍〕に残留した[新平民]という記号の意味論的畸形性に」注目したのは、そこに立脚して「新民」の自己主張を提起した「中江兆民の思考が、:たやすく天皇主義と野合して」対外膨張を煽るに到る「徳富蘇峰流の[平民主義]のイデオロギー性:・を打ち砕く力を秘めていたからである。」
「[日本普通語]の総体が[言海システム]の上で運用されていると表向きいかに人が信じていても、その[信]を我知らず裏切って過誤や錯覚や混乱や譫妄に一気に身をゆだねる瞬間があるという事実に」も、著者は注目した。樋口一葉や幸田露伴がしばしば陥ったエクリチュールの “暴走” という実り多い事態が、それである。「[理性]の外に不意に超出するそうした瞬間こそ、個人の生に出来 しゅったい するもっとも貴重な出来事〔…〕である。」(『明治の表象空間 下』,pp.200-201.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!







