小樽に到着した中江兆民。1891年4月、小樽の『北門新報』主筆に就任した兆民は、
同年7月ようやく重い腰を上げて来樽した。『月刊小樽學』2018年4月号の表紙。
【1】 中江兆民と福沢諭吉 ――「明治14年」の岐路
じつは、このレヴューは1年以上前から温めてきたのですが、なお未だ準備不足であるにもかかわらず連載を開始することにしました。というのは、2026年総選挙後の政治と思想の現情況にあって、著者の見方・考え方に・あまりにも示唆するものがあることに驚いているからです。この本は、たんなる明治時代に関する専門書ではありません。‥‥が、前置きを長々と書くのはふさわしくありません。いきなり本題に入りましょう。
中江兆民〔1847-1901 本名:中江篤介〕は、明治の民権派指導者のなかでも最も進歩的な民権・自由主義者とされ、「東洋のルソー」とも呼ばれています。兆民は、のちに啄木が「時代閉塞」と呼んだ状況へと向かってゆく富国・軍国の隘路のなかで、他の民権運動家がこぞって国権へと転向してゆくのとは対照的に民権・自由・平等の主張を貫いたことから、そう評価されているのですが、じつはそんな単純な者ではない。兆民の著作には、「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ」と高らかに宣言した啓蒙家「福沢諭吉がかつて知らなかったような」啓蒙的言説にたいする「懐疑が漲 みなぎ ってい」ます。武家時代への懐旧の情にかられ中国侵略を強硬に主張する・『三酔人経綸問答』〔1887年〕の「豪傑君」は、著者兆民の分身の一人と言ってよい。「東洋のルソー」のこうした多面性を解くことから、著者は独自の明治思想論を展開するのです。
思えば、ジャン=ジャック・ルソーもまた、「社会契約」に代表される民主主義と、「一般意志」論に集約される全体主義との両面を兼ね備えた人でした。
中江兆民は、幕末の高知城下で足軽 あしがる 身分の家に生まれ、維新直前の 1861年に家督を相続しています。藩校などでフランス語を学び、1871年明治政府の「岩倉使節団」に加わって渡米欧し、フランス・リヨン等に滞在、73年帰国後は麹町に「仏蘭西学舎」を開き、仏語と民権論を教授して幸徳秋水,堺利彦ら民権派や内村鑑三を育てた。82年には、ルソー『社会契約論』の漢文訳『民約訳解 第1巻』〔77年・服部徳・訳の校訂版〕を自塾から出版しています。75年以後、「東京外国語学校」校長,元老院書記官などに任命されるが、政府・上司と対立して、いずれも短期間で辞め、または配属先を転々します。
しかし、1981年〔明治14年!〕以後は在野での活動に専心し、民権系の各新聞社でジャーナリストとして活動し、「自由党」に加わるなどして政府批判と自由民権の主張を強めたため、87年公布の「保安条例」で首都追放処分を受けています。
1990年の第1回衆議院総選挙では、大阪の被差別部落に本籍を移し、部落民の支持を得て一位当選。91年、「自由党」土佐派が政府予算案に賛成して予算を成立させたことに憤激し、「アルコール中毒なので採決に加われない」と主張して議員辞職。同年小樽に移住し、以後は、新聞社の設立・執筆,選挙応援のほか、材木業,鉄道業などの実業も手がけた。
こうした兆民の生涯――その言論活動において、決定的意味をもった社会的事件が、1881年の「明治14年政変」だったと、著者は述べます:
『中江兆民の言説群を、あらためて「歴史の時間」の文脈に置き直してみよう。〔…〕すると、明治14年の政変というできごとが、明治の表象空間の画期的な〔…〕切断面として〔…〕視界に迫 せ り上がってくる。』この『時点で、明治の言説の場に決定的な地滑りが起きたのであり、『三酔人経綸問答』というテクストは、その地滑りを参照しない限り、その十全な意味作用を読み解けないように思われるからである。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.257-258.
「明治14年政変」とは、憲法制定・国会開設問題にかんして、憲法の即時制定とイギリス流政党内閣制の導入を主張する急進的な意見書を提出した参議大隈重信を、伊藤博文,山縣有朋らプロイセン流・保守漸進派が罷免し、政権から排斥した事件です。伊藤らは、大隈の背後には福沢諭吉ら民権運動(穏健派)グループがいると睨 にら んでおり、政変は、福沢ら「啓蒙」派の政権への影響が一掃されることを意味しました。この政変が起きるまでは、政府は福沢らを政府広報の発行に参加させる意向でしたが、その構想も消えたのです。
大隈罷免と同時に、伊藤らは、9年後の「明治23年を期して国会開設を期した詔書を発布」させています。つまり、この政変は一面では「自由民権運動の高まりの圧力を背景に、政府が立憲制と議会制の導入に踏み切らざるをえ」なくなった・明治国家の民主化の画期であった。そういう進歩的意義をもつできごとだったことは否定できないのです。
しかし、その反面、この政変「を機に、① 薩長藩閥体制がいっそう強固になり〔…〕、② 皇室の権威を支配の正統化に利用する天皇制国家確立への道が舗装された。それは、〔…〕③ 軍事的な帝国主義の拡大へ向けて日本をとめどなく押し流していく道でもあった。」(p.258.)
③ 対外的な膨張・侵略の画期ということでいえば、翌 1882年に朝鮮で起きた「壬午軍乱」を機に日本軍は急激に増強されることとなります。「壬午軍乱」は、親日的な開化政策を進める朝鮮王朝が、日本人軍事教官のもとで近代式軍隊(別技軍)を養成していたのに対し、冷遇されて俸給の支給も滞った旧軍隊の兵士がクーデターを起こし、王朝政権のみならず日本公使館を襲撃して軍事教官らを刹害した事件です。これによって、朝鮮では親日派政権が倒れ、国粋的な大院君政権が成立しています。明治政府は、「壬午軍乱」の勃発を対外的危機と感じて、大幅な軍備拡張を開始します。それまで 900~1200万円だった軍事費は、83年度には 1616.5万円に急増しています。(p.292.)
「明治14年政変」が、一面において近代化の達成であり他面においてその挫折であったのにたいし、「壬午軍乱」が、近代化に対する抵抗の面をもったことは、両国のこれ以降における異なる歩みを暗示するできごとであったといえます。
『明治14年の政変〔…〕は、「啓蒙」的言説の勝利と敗北を、ともども徴 しるし づけている。立憲制の採用は、〔…〕開明派知識人の〔…〕言説と自由民権運動の実践が一定の成果をあげ、明治日本の民主化に資することができた〔…〕。だが他方、① 藩閥官僚による〔…〕専制の強化と ② 天皇の大権の神聖化もまた、この政変の帰結であり、そこにおいては「啓蒙」は現実政治に完全に裏切られた〔…〕。「啓蒙」的言説は、われわれがすでに触れた「自壊」のゆえに、藩閥体制の確立と天皇の不可侵化を押しとどめることができなかった。以後、④ カントが・それは無制限なものでなければならないと言った「理性を公的に使用する自由」は、近代日本人の心性において或る決定的な抑圧を蒙るようになっていく。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.259-260.
著者が述べている「啓蒙的言説の自壊」とは、何でしょうか? また、「理性の公的使用」とは? ――これらは、著者が提起する重要な論点です。
「14年政変」は、明治国家が近代化の途上で立たされた重大な岐路であり、明治政府はそこにおいて、民権拡充の道から別れ、国権強化・侵略の方向へ舵を切ったのです。そのことは、政権が「民権」穏健派の福沢グループを「官」界に迎え入れる方針を捨て・「福沢一派〔…〕の全体を権力から一挙に排除した」ことに現れています。「生涯を通じみごとなまでに在野にとどまりつづけた福沢だが、彼が[官]の権力機構の内部に入っていったかもしれぬ唯一の機会」が、この時だったのであり、「それが潰れた明治14年10月11日は、[啓蒙]と権力との乖離を徴づける決定的な日付であった」。「以後の福沢は徹底して[民]の側に身を保持し、慶應義塾での教育実践」と「『時事新報』を〔…〕活動の舞台としたジャーナリズムによる世論形成に専心してゆく。」
それでは、福沢は、以後一貫して「民権」と「人の平等」の側で論陣を張ったのでしょうか? ‥‥そうではなかったのです。むしろ、福沢自身にとっても「明治14年」は、国権称揚と不平等容認へとその論調を変えてゆく画期となっているのです。ここに、「明治啓蒙主義」のはらむ重大な問題点があります。福沢は、明治18年『時事新報』に社説として「脱亜論」を掲載し、「民主的な開明派から、ナショナリスティックな国権論者へと位置移動してゆくことになる」。「かつて『学問のすすめ』に表明されていた自由と平等という大義への彼の無条件な信奉が、明治10年代半ば以降〔…〕弱まってゆく」。これはもちろん、福沢個人の〈変節〉〈裏切り〉といった問題ではない。明治の国家と社会の全体に起きた圧倒的な「言説空間」の変動・すなわち「[啓蒙]の無力化という現実を前にしたとき、知識人に強いられた言説発信の様態シフトの選択の一つとして」〔福沢とは異なる選択をしたのが中江兆民だった――ギトン注〕、福沢の変化を「歴史状況の内部で理解することが問題なのだ。」(pp.260-261.)
『かくして、明治14年の政変を契機として、近代日本の〔ギトン註――めざす〕国家像をめぐって、それまでカオティックな流動状態であったものに、ある明確な形態が与えられることになる。以後、自由民権運動は徹底的な弾圧が加えられて〔1881年秋田事件,82年福島事件,83年高田事件,84年福島,加波山,秩父,飯田,名古屋事件,85年静岡,大阪事件――ギトン註〕壊滅状態になり〔1884年自由党解党――ギトン註〕、しかも体制側が一応は憲法制定と議会開設を呑んだことで、蜂起〔ギトン註――によって民主化を勝ち取ろうと〕する民衆の側に拍子抜けの茫然自失と無気力感が広がってゆく。そんな中で、「啓蒙」はいったい何をなしうるのか。〔…〕言説の「啓蒙」的形態は、いかにして可能となるのか。〔…〕政治行為の現場から切り離されて無力感をかこつ知的認識が、それでもなお現実状況に対して実効的たりうるとしたら、それはどのように〔…〕なのか。ここでわれわれは、今日なお答えが与えられない〔…〕この喫緊の問いが、明治14年に至って近代日本に初めて出現した画期的瞬間に立ち会っているのだ。そして、この問いへの返答〔…〕のなかで、最も強力な説得力を持ちえたものが中江兆民の文章、なかんづく『三酔人経綸問答』だったのだと思う。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.261-262.
2025年5月17日、光州広域市東区錦南路で開かれた「5・18光州民主化運動
45年前夜祭」に参加した李在明「共に民主党」党首
(当時。現:大統領) © 聯合ニュース
【2】 「大きな正論」と「小さな正論」
―― 理性の「公的/私的使用」
前節の引用文の説明で宿題になっていた「理性の公的使用」という用語は、著者が明治日本の「言説」分析に用いているキー概念の一つで、エマヌエル・カントに由来するものです。そこで、ここでは少し腰を据えて説明する必要があります。
カントはエッセイ『啓蒙とは何か』において、理性の「公的使用」と「私的使用」の区別に言及しました。理性の「公的使用」は、著者の用語では「大きな正論」に対応し、「私的使用」は「小さな正論」に対応します。ごくわかりやすく言えば、「理性の公的使用」「大きな正論」とは、際限なく巨きな広い立場からものごとを考え述べることであり、いかなる「正しさ」も最終的なものとは認めず、すべてを疑い、究極的には理性そのものさえ疑うことです〔ゲーデルの「不完全性定理」参照――ギトン註〕。おそらく、社会生活においてそのようなことが許されているのは学者だけであり、学者は、社会生活の公的場面(政治行動など)で自らの主張を実行に移したりしない(少なくともカントの時代には)からこそ、そのような理性の使い方を許されているのです。そこで、私たちの日常的な語感とは相違があることになります。私たちの無意識な語感とは異なって、理性の「公的使用」とは、学者の思索のようないわば私的な領域でのみ許される理性の使用であり、その「私的使用」とは、現実の社会の公的領域でもっぱら通用(横行)している理性の使い方なのです。ただし、著者には、理性の「公的使用」と「大きな正論」こそ、公的場面において最大限に尊重されなければならないという思いが言外にあります。
『自らの正しさに疑いを持たない言説、それを正論と呼ぶことにしよう。〔…〕正しさの自明性への信を自他に向けて誇示しているものが正論なのである。したがって、正論は、〔…〕それが語る直接の内容にだぶらせて、同時に、その内容の正しさへの揺るぎない信憑というメタ・メッセージを送り届けてくる。だから正論はつねに威圧的である。わたしは正しい、〔…〕正しいわたしをあなたは受け入れざるをえない。わたしを疑ったり否定したりするのは、理性への信を放棄することであ』る。『わたしを受容せよ。そして、わたしに従え。
正不正を判定するものが理性である以上、正論による恫喝とは、理性の共有に参与しつづけるかそれを放棄するかを迫る踏み絵にほかならない。ところでその理性とは、公的に使用されたものなのか、それとも私的に使用されたものなのか。「ある・委託された・市民としての地位もしくは官職において」許される理性使用に基づく正論〔「小さな正論」,すなわち「理性の私的使用」に基づく正論〕というものがあって、たとえば語り手と聞き手の双方が所属するローカルな組織の内規を楯にとった主張などがそれにあたる。他方、「読者世界の全公衆を前にして学者として」〔以上、「」内はカントからの引用――ギトン註〕の理性使用によって提起される正論』もあり得る。『いわば、小さな正論と大きな正論があるのだ。
〔…〕カントによれば、「啓蒙」によって未成年状態から脱した市民は、「あなたは好きなだけ議論してよい。ただし、服従せよ」と言われるようになるのだという。主体は、委託された・市民としての地位や官職に就いているかぎり、それ〔地位・官職――ギトン註〕が要求する規範によって理性の使用に限定を受けるのは当然であり、そのことに不平を言う権利はない。だが他方、「論議」にかんするかぎり、成熟して未成年状態を脱した主体には無制限の自由が保障されるべきだというのが、カントの啓蒙論なのであった。ところで、この「論議する(räsonieren)」という観念が、正論のまとう権威主義的な威圧感と相容れないことは明らかだろう。何が正しく何が正しくないかをめぐる「論議=推論(raisonnement)」は、疑いや否定をもふくむ理性の多様な機能の発動を通じて無制限に継続されるべきであり、ある任意の論の「わたしは正しい」という強圧的な確信の表明によって一度限り決定的に断ち切られてしまっていいようなものではない。結局、「啓蒙」された市民社会において、大きな正論というものは実はありえないのであり、存在するものはただ、小さな正論だけなのだ。
新聞紙条例。ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)の風刺画。
左は警官で、右は新聞記者。窓から西洋人が覗いている。
〔…〕讒謗律と新聞紙条例〔…〕によって明治政府が抑圧しようと努めたものは、カント的な意味での「論議」にほかならず、以後、近代日本は、小さな正論が猖獗をきわめる社会として自己を成型し、それら〔ギトン註――小さな〕正論群のネットワーク〔「教育勅語」「修身教育」と「家長制」に代表される――ギトン註〕を整備してゆく。押しつけがましい判断(わたしは正しい)とそれに基づく強圧的な指令(わたしに従え)は、民衆の日常生活の最も細かな襞々のなかにまで浸透してゆく。問題は、そこで人々の精神と身体を縛り上げて言説が、理性の私的使用に基づくものに限られているという点、〔…〕にもかかわらず、それら小さな正論群がいつのまにか一致団結し、大きな正論の虚像を虚空に描き上げる〔政府,政治家,国粋イデオローグたちが描き上げる――ギトン註〕のに貢献してゆくという点なのである。かくして、誇大妄想的な普遍性を僭称する大きな正論が、その発話にかんして誰が責任をとるわけでもないまま、自然に生成してゆくことになってしまうのだ。
〔…〕人々が・これら無数の小さな正論の前に拝跪し服従するのは、そこに語られている内容が正しいからではない。その言説が自らの正しさの自明性に強固な確信を抱いており、メタ・メッセージとして発信されるその確信による恫喝が、「論議」を停止させ、人々を〔…〕「啓蒙」以前の未成年状態へと〔…〕逆行』させる『ことになるのである。』
松浦寿輝『明治の表象空間(上)』,2024,岩波現代文庫,pp.262-265.
ここで著者がカントに倣って言う「未成年状態」とは、理性によって認識し判断する能力が乏しい状態ではありません。カントによれば、人間は理性を使用する能力を、生まれながらに造物主(天地創造の神)から与えられています。「未成年」に足りないのは能力ではなく、「勇気をもって自身の」理性を「あえて行使しようと決意する」ことであり、自らの責任において理性を行使し決断する勇気ないし気概なのです。「未成年状態」とは、理性を「みずから行使する大胆さを持てずにいる怠惰と臆病」のことであり、「未成年からの脱皮如何」は、知能が高いか低いか、頭がいいか悪いかではなく、もっぱら「倫理的決断」に踏み切るか/退きこもるかの違いなのです。ローマの哲人ホラティウスが言う「臆せず敢えて知れ!(Sapere aude!)」は、「啓蒙の至高の標語にほかな」りません。(p.233.)
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!






