国道から折れて、「山辺の道」旧道を「豊田山城」へと向かう。
ここで、「豊田山城」へ行く路が「山辺の道」旧道から岐れる。
廃道状に荒れた山路を 15分ほど昇ると、どうやら尾根上に出た。ヤブだらけで、どこが城跡やら判らない。スギ,ヒノキ林のほか、アラカシ,竹,コナラ,カシワ,クリ,ホオノキ,ハリギリなど。
標識はあった。説明もついている。
この↑説明版の付図の「城郭」を、帰宅してから地形図に落としてみたら、↓こうなった。等高線を目安に、両図の縮尺と位置をおおよそ合わせた。
「豊田山城」には4つの「郭 くるわ」がある。どうやら、私はかなり見当違いのほうを歩いていたようだ。「南郭」(出郭)だけは、かすっている。↓標識の場所から、適当な方向を撮してみたが、「南郭」を見下ろしたことになっているようだ。
「豊田山城」は、この地域の地方領主「豊田氏」が室町時代後期に築いた戦いの城で、平時は麓の居館から地域を支配していたようだ。敵が攻めてくると、この「山城」に籠って戦った。「豊田氏」は、「応仁の乱」前に台頭して 15世紀半ばに全盛を迎え、乱後の 1499年に「豊田山城」焼亡。おそらく、「豊田氏」は「筒井氏」に敗れて服属した。1568年には「筒井氏」とともに、山城國の松永久秀と戦い、「豊田山城」は久秀に攻められて落城。「豊田氏」は、1570年には「松永氏」に服属した。
「東郭」のほうへ向っている。
「副郭」の南辺に掘られた空堀のようだ↑。ピークに上がって、そこからは尾根すじをたどってみる↓。
大きな空堀に出会う↓。上記の地図にある4つの「郭」からは離れているが、あちこちのブログの説明を参照すると、これは、城を拡張しようとして設けた堀らしい。「松永氏」に服属後、その指示で設けた可能性がある。しかし、「郭」の造成には至らず放棄されている。
このへんで、南側の尾根伝いに下りている地形図の点線に合流。ところが、この径も途中で消えてしまった。谷に下りてみると、ここは谷地の谷奥だ。堰堤のような人工の高まりがある。
現在は干上がっているが、ここは溜池の跡ではないか。地形図を見ると、たしかに池が書いてある。その下には、放棄された棚田の跡が続いている。
ようやく「山辺の道」(旧道)に戻った。見覚えのある池の畔で休憩。
「山辺の道」本道に合流。ここからは、「石上神宮」へは行かず、表て通りを歩いて「天理市」市街に入る。
「布留 ふる」交差点のコンビニ。
「天理教本部」
「天理大学」。
天理市以南の「山辺の道」は、「石上神宮」から山の中を通って「東乗鞍古墳」に出る峠道と、「天理教本部」から「東乗鞍古墳」まで平地をゆく道に岐れる。昨秋は峠道をたどったので、今回は平地の道を歩いておきたい。「東乗鞍古墳」をはじめとする「杣之内古墳群」は、平地の道からでないとよく見えない。
「天理大学」の構内を横断し、「天理図書館」を過ぎると、天理大学乗馬部の厩舎のそばに、「西山古墳」がまず、その巨きな姿を現す。
「西山古墳」の周濠に沿って、後円部から前方部へと巡ってゆく。
ここが前方部の正面になる。天皇陵なら拝所が置かれる位置だ。説明板が設置されている。
「西山古墳」は、古墳時代前期後半〔4世紀後半か〕の前方後円墳で、3段築成、後方部の中心に竪穴式石室があるほか〔戦時中に陸軍が対空砲陣地とするため盗掘したが、出土石材等の記録は残されている〕、北側の「塚穴山古墳」〔古墳時代終末期〕の下に埋もれて、3基の埋葬施設がある。墳丘の規模は、地域最大。墳丘の1段目は前方後方墳の形をしているという特殊な構造が注目される。後円部の東側に、さらに方部があったとも考えられ、そうすると、長大な「双方中円墳」〔長大な方墳の中央に円墳を載せた形〕だったことになる。
墳丘斜面から葺石と多数の埴輪片,各種の形象埴輪が出土し、前方部と後方濠から、銅鏡片,碧玉製鏃,碧玉製車輪石,鉄剣などが、「塚穴山古墳」下の埋葬施設から埴輪棺〔円筒形埴輪を埋葬棺として使用〕が出土している。
「塚穴山古墳」は、「西山古墳」の北側に接して古墳時代終末期〔6世紀末~7世紀前半〕に追築された円墳で、全長 17メートルの石室〔羨道部まで巨石で築かれているという〕が残っているという。「西山古墳」前方部から全景を撮したが↓、石室が見れるなら行ってみるべきだった。
さきほどの「豊田山城」も、帰宅してから城郭図と地形図を照合して、現地で城郭遺構を確認できる見通しがついた。「杣之内古墳群」も見残しが多い。この領域は、いずれ再訪することになるだろう。
「山辺の道」に戻って南下してゆく。上の古墳分布図によると、左手の↓この2つの小山にも、3基の古墳が埋もれているようだ。
つぎに現れるのは「小墓古墳」だ。案内表示は無い。Wiki によると、古墳時代中期の前方後円墳。周濠から埴輪状木製品が出土している。
「西乗鞍古墳」↓。比較的調査が進んでいて、4次の発掘調査が実施され、2018年には国の史跡に指定された。古墳時代中期末葉〔5世紀末頃〕の前方後円墳で、2段築成と推定され、周濠,外堤,くびれ部の「造出」を伴う。埴輪,須恵器,土師器以外の遺物の出土は、まだない。
左から、「龍王山」「東乗鞍古墳」「西乗鞍古墳」:
「西乗鞍古墳」:
「西乗鞍古墳」の手前で「山辺の道」なりに左折して、ゆるい尾根を上がっていくと、「東乗鞍古墳」に近づく。こちらには説明版もある。古墳時代後期前半〔6世紀前半頃〕の前方後円墳で、写真↓左が前方部のようだ。2段築成、周濠と横穴式石室を伴う。
「東乗鞍古墳」は、花崗岩の巨石で築かれた「横穴式石室」が遺存している。中には、阿蘇ピンク石の刳抜き式家形石棺と、二上山白色凝灰岩の組合せ式石棺〔底石のみ遺存〕があるという。開口部が南に向いているので気づかなかった。これも次回の課題になる。
「東乗鞍古墳」のすぐ北東にある小さな丘(↓矢印)も、未調査の古墳だという。「杣之内石塚古墳」という名前もついて、調査を待っている状態だ。
「東乗鞍古墳」を右に見て坂を上がり、「山辺の道」の二股分岐点に達した。
これで、「山辺の道」にかんしては完結したが、「杣之内古墳群」は、まだ未消化な点が多い。ネットで説明や写真を見ていると、脚がうずくようだ。それに、二股分岐点のさらに南でも、「環濠集落」など、十分に見ていない箇所が思いつく。近々、ここはまた訪れることになるだろう。
龍王山↓。
タイムレコード 20260519 [無印は気圧高度]
(1) から - 1203車道岐れ[92mGPS] - 1208「山辺の道」岐れ[103mGPS]1212 - 1224「豊田城址」標示板[173mGPS]1227 - 1245「南側の点線」出会い[200mGPS] - 1316溜池跡[126mGPS]1052 - 1326「山辺の道」出会い[105mGPS]1349 - 1400「布留」ファミリーマート[82mGPS]1422 - 1449「西山古墳」前方部[74mGPS]1458 - 1535「山辺の道」二股分岐点[99mGPS]1554 - 1618「勾田」バス停[64mGPS]。
踏査記録⇒:YAMAP


















































