前回の最後は、「山辺の道」の天理市と「白川ダム」のあいだで、「石上 いそのかみ 大塚古墳」と「ウワナリ塚古墳」を探したものの、日が暮れて暗くなってきて「石上大塚」はみつからず、「ウワナリ塚」の石室には達したものの導入路は不明なままだった。この2古墳は道標がほとんど無く、手探りの状態なので難しい。
あらためて昼間の明るい時間に2古墳をつきとめ、さらに南方へ落穂ひろいを続けることにした。
シルエットは行程の標高(左の目盛り)。折れ線は歩行ペース(右の目盛り)。標準の速さを 100% として、区間平均速度で表している。横軸は、歩行距離。
国道を走る路線バスの、2古墳にいちばん近い停留所で降りて、「山辺の道」へ向かう。奥のシルエットは、大国見山。
ナヨクサフジとモンシロチョウ。ナヨクサフジはマメ科ソラマメ属の草で、レンゲと同様の緑肥として導入されている植物だそうだ。ただし、毒性がある。
左手に「シャープ総合開発センター」が見える。その手前の大きな樹が、「赤土山古墳」の後円部に立っている松の木だ。枝ぶりに見覚えがある。
丘陵部に入っていく。ぎっしりと密な竹やぶのなか、鳥居をくぐる。
まもなく稲荷社がある。
左は、
「石上廣高宮伝承地」
右は、
「正一位平尾姫丸稲荷大明神」
とある。「石上広高宮 いそのかみ・ひろたかのみや」は仁賢天皇の皇居。「平尾姫丸稲荷」は「平尾山稲荷」とも云う。「平尾山」は、この丘陵の名前らしい。この稲荷社は「石上市神社」〔現在は国道の西側にある〕の旧社地で、古代のバザールがあった地。そこに、仁賢天皇の父・市辺押磐皇子〔雄略天皇に刹害された〕の「石上市辺宮」もあったという。つまり、この丘は古代のバザールで、仁賢父子は、そのそばに居館を設けてヤマト国を支配した、ということだ。
なお、「伝承地」とあるように、以上はあくまでも一説で、「石上広高宮」だったとされる場所は、天理周辺にほかにもある。仁賢天皇は架空の人物だとする学説ももちろんある。
この稲荷社の近くで、明治時代に銅鐸が出土している。その記念碑と説明版:
竹のほかにアラカシ,イロハカエデ,オニグルミなどが混じる雑木林になる。さらに進んでいくと、2つの上水道配水タンクの外壁が現れ、ここで「山辺の道」に合流する。
2つのタンクのあいだを昇っていくと、ここが↓、「石上大塚」と「ウワナリ塚」へつながる踏み跡の分岐点ではないかと、前回眼をつけた場所。
まず、「石上大塚」を探してみる。竹やぶの中の、あやふやな踏み跡をたどっていく。下生えが少ないので、どうにか歩けるが、人が歩いた跡なのかどうかもよくわからない。
さんざん歩き回って、石室↓に辿りついた。標識も何もないが、「石上大塚」の石室にまちがいない。前回は辿り着かなかったが、ようやくリベンジした。
「石上大塚古墳」は 6世紀前半(古墳時代後期前半)の前方後円墳。2段築成,横穴式石室,周濠・外堤・葺石の一部が残っている。石室は巨石を2段に積み上げて造られているが、1段目だけが残っている。石室があるのは前方部だ。
崩壊が著しいが、石室は、「ウワナリ塚」と同様に、巨石を積み上げて整然と造られていたことだろう。中に安置されていた石棺も今は無いが、破片が出土している。
さて、「石上大塚」石室から「山辺の道」に戻ろうとうろうろしていると、いきなり「山辺の道」の道標に出くわしてしまった。しかも、道標に追加された手書きの案内によると、ここは「ウワナリ塚」への導入路の分岐点だという。わけがわからなくなった。……
結論を言うと、さっき両古墳への分岐点だと思ったのは間違えで、正しい導入路は、もっと南:天理・石上神宮寄りにあったのだ。
これから両古墳を訪ねる人のために、正しい道すじを書いておこう↓。
まず、「石上大塚」への導入路は、道標も何もないので判りにくいが、天理・石上神宮方面から来て「みかん農園」を過ぎ、竹やぶに入ったら、左へ登る踏み跡を探すとよい。石室は「山辺の道」から見えないが、斜面の途中にある。↓導入路の状況。
「ウワナリ塚」への導入路は、もう少し分かりやすい。さらに「山辺の道」を直進するとT字の突き当りになる。そこに↑上記の道標がある。左が「山辺の道」、右が「ウワナリ塚」だ。T字分岐点↓:左が天理方面、正面が「白川ダム」「櫟本」方面。
「ウワナリ塚」へ向かう。前回は見逃していたが、説明版もある。
「ウワナリ塚古墳」は 6世紀中頃~後半(古墳時代後期)の前方後円墳。2段築成,横穴式石室,埴輪と葺石が出土。石室は花崗岩の巨石を積み上げて造られている。今は金網に鍵がかかっているが、人が入って中を観察できる遺構だという。中には石棺が置かれていたはずだが、盗掘で持ち去られたものか、発見されなかった。
この古墳群の被葬者は、大和朝廷で蘇我氏と争った物部氏だとする推定が有力だ。「ウワナリ塚」が造られた 6世紀中頃~後半といえば、まさに争いの絶頂、587年には、蘇我馬子・厩戸皇子 vs 物部守屋のあいだで宗教戦争(仏教対神道)の戦端が開かれ、守屋はじめ物部一族はことごとく刹害されたという。この古墳にも、犠牲となった物部首長のひとりが眠っていたのかもしれない。
導入路を進んで墳丘(後円部)を越えると、すぐに、表てのブドウ畑(前方部)の側道に出てしまう。前回はブドウの樹が見えていたが、いまはビニールで覆われている。
「山辺の道」を、天理方向に進む。国道に出て、緩い坂を少し下ると、「豊田山城」への分岐点がある。
「山辺の道」は、もとはここから「豊田山城」のほうへ向っていた。いまは、道標もその部分が消されてしまっている↑。
タイムレコード 20260519 [無印は気圧高度]
「国道櫟本」バス停[78mGPS]1010 - 1033「平尾山稲荷」[105m] - 1048配水タンク[115mGPS]1052 - 1054「両古墳分岐点(誤)」[130mGPS]1103 - 1110「石上大塚古墳」石室[135mGPS]1121 - 1126「ウワナリ塚」分岐点※[129mGPS]1129 - 1133「ウワナリ塚」石室[139mGPS]1136 - 1137「ブドウ畑」側道出会い[135mGPS]1103 - 1143「山辺の道」出会い※1121 - 1145「石上大塚」分岐点[127mGPS]1147 - 1157車道出会い[94mGPS]1200 - 1203車道岐れ[92mGPS] - (2) へつづく。








































