赤い線は 10月10日の,青い線は 10月11日の軌跡。 .
「西乗鞍古墳」と「東乗鞍古墳」が見えてきた↓。そこはもう「大和古墳群」の次のかたまり:「杣之内古墳群」に属する。しかし、その手前に「夜都岐 やとぎ 神社」がある。
この神社は、見た目は地味だが式内社〔『延喜式神名帳』927年 に登録された神社〕らしく、格式も沿革もあって私の手には負えないので、関心のある方は「かむながらのみち」へ。そちらの説明によると、「夜都岐」の読み方もヤトギではなくヤツギ。
「東乗鞍古墳」のそばを通過↓。前方後円墳。古墳時代後期前半(6世紀前半)。横穴式石室を備える。これと「西乗鞍古墳」をふくむ「杣之内古墳群」は、物部氏の首長墓だとする説が有力。これくらいの時代になると文献史とのかかわりが深くなって、“古代史ロマン” の空想域からは脱してくる。
T字に突き当たる。ここで、奈良県指定の「山辺道」は二手に分かれる。右の・山地を越えていく路を選ぼう。
石畳の路に入り、暗いヒノキ林の中を昇っていく。
峠に出ると、急に眼の前が開けた。こんな高処にも畑と柿の果樹園がある。
「内山永久寺」跡に到着。
ここは休憩所兼展望台になっている。生駒山がよく見える。
「内山永久寺」は、平安時代後期の「永久」年間に、興福寺大乗院の院主であった藤原摂関家によって創建された。鎌倉・室町期には、興福寺の強大な権威のもとに勢力をふるい、本地垂迹説の流行とともに「石上 いそのかみ 神宮」の神宮寺として諸社に支配を及ぼした。南北朝の戦乱期には、後醍醐天皇が身を隠した行宮 かりみや のひとつだった。戦国期の大伽藍と、豊臣秀吉の与えた寺領は、近世を通じて維持された。
ところが、明治の「廃仏毀釈」によって寺領は没収され、寺宝は奪い去られ、堂宇は受け継いで護る者もなく破壊されてアルプスのハイジとなった。
下に降りて行くと、池がある。これが、説明にあった「本堂池」だろう。
芭蕉の句碑がある。
うち山や とざましらずの 花ざかり
「西の日光」と呼ばれて繁栄した当時の句だが、権勢,壮麗とはいっても、丘陵の奥に一歩退いて人知らず栄える風情だったろうか。
「石上神宮」へ向かう途中の山蔭にも大きな溜池があって、 午後の陽を映していた。
「石上神宮」に到着。ここは次の機会に回して「天理駅」へ向かう。
「天理教本部」。
天理駅に到着。
タイムレコード 20251011 [無印は気圧高度]
(3)から - 1352「夜都岐神社」[86mGPS] - 1407T字分岐[99mGPS] - 1440「内山永久寺」跡[119mGPS]1500 - 1519「石上神宮」参道出会い[105mGPS]1524 - 1536「布留」交差点[82mGPS]1603 - 1632「天理」駅[98m]。
踏査記録⇒:YAMAP




























