赤い線(下方)は 11月11日の ,
青い線(下方)は 11月12日の ,
赤い線(上方)は 11月14日の ,
青い線(上方)は 11月15日の ,
各軌跡。.
赤い線は 11月14日,青い線は 15日の軌跡 .
「狭岡 さおか 神社」。
創建・沿革にかんして諸説あって、なかなか複雑なようだ。れいによって「かむながらのみち」にまとめられているので参照していただくほかないが、私の関心に沿って2,3掻い摘んでおこう。社伝によると、藤原不比等の創建だという。他方で、境内には「天神社」と彫った灯籠が多く、(1) で見た天理の「豊日神社」と同様に、中近世以後は天神ないし菅原天満宮として通っていたようだ。その2系統に、さらに『古事記』の「狭穂姫」伝承〔⇒(8)〕が加わる。境内には、「狭穂彦・狭穂姫」にかかわる池もあるようだ。
↑上の鳥居から参道に入ると、「狭穂姫伝承地」の碑↓がある。
参道の奥の石段を昇ると、拝殿があり、朱塗りの鳥居の向こうに神殿がある。
「ウォークルート」に戻って先へ進む。JR の線路の向こうにウワナベ池の「ウワナベ古墳」が見えると、まもなく「不退寺」に到る。
「不退寺」「南門」、1317年築。
「不退寺」の号は、「不退・転法輪」から来ているようだ。シャカと菩薩たちが示した不退・不屈の「衆生済度」の意志、といったところだろうか。私などは、つぎのような賢治詩を思い浮かべてしまう:
みちのくの
五輪峠に
雪がつみ
五つの峠に雪がつみ
その五の峯の松の下
地輪水輪また火風
空輪五輪の塔がたち
一の地輪を転ずれば
菩提のこころしりぞかず
四の風輪を転ずれば
菩薩こゝろに障碍なく
五の空輪を転ずれば
常楽我浄の影うつす
みちのくの
五輪峠に雪がつみ
五つの峠に…… 雪がつみ……
宮沢賢治「五輪峠」〔下書き初稿:1924.3.24.〕『春と修羅・第2集』 .
「本堂」、室町前期築:
「不退寺」は、もとは平城上皇の「萱 かや の御所」だった。平城は「平城京」への還都を望んだが叶わなかったため、退位後は「平城宮」近くの此処に御所を造って住んだ。その邸宅を、平城の孫で『伊勢物語』著者在原業平が寺院とし、「不退寺」を創建したとされる。が、なにぶん近世の地誌類が記録する伝承で、創建時の史料はない。「本堂」内部は撮影禁止だが、業平が衣服の文様に好んだという菱形二重格子の隔壁などがあった。
「多宝塔」、鎌倉時代築↓。稀有な檜皮 ひはだ 葺きの多宝塔だったが、明治初年に上層部が取り払われ、瓦葺きの平屋建てになっている。
ともかく、風景とたたずまいはこれまでの随一で、「やまのべ」旅の終幕にふさわしい巡礼地となった。
境内には歌碑も多い。
佐保山は 終 つひ の棲家 すみか よ つく法師 □穂
この句碑はヤブの奥にあった。寺が立入禁止の札を立て損なっていたので、気づかずに入ってしまったが、撮影できてよかった。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは
『百人一首』17段, 在原業平 .
おほかたは 月をも賞 め でじ これぞこの 積もれば人の 老いとなるもの
『伊勢物語』88段, 在原業平 .
月見の際に詠んだ歌だという。「世間の人は、歳月(が流れるの)を賞賛したりはしない。私だって年をとるのはいやだ」と、年月の「月」と月見の「月」を掛けた業平らしいアイロニー。
古墳から掘り出された石棺。5世紀の「舟形割竹くりぬき石棺」、砂岩。ウワナベ池南方の「平塚古墳」のものという。場所から言って、「平城京」造営による古墳破壊で露出したものか。草刈鎌の砥石として使われていたのを、「不退寺」に収容した。
「不退寺」を出て、大和路線の陸橋を渡る。「ウワナベ古墳」が、自動車道の盛土の先に見えている。
「ウワナベ古墳」↓は、広大な濠「ウワナベ池」に囲まれている。「佐紀盾列 さきたてなみ 古墳群」の東端にあり、同群で最大。5世紀中頃〔古墳時代中期中葉〕の前方後円墳。左が前方部、右奥が後円部。周濠は、後世に農業用ため池とするために拡張している。
西側から。↓
考古学調査によれば墳丘は3段で、「葺石 ふきいし」と基底石が敷かれ、最下段の周囲に埴輪が並べられていた。
この古墳も宮内庁は「陵墓参考地」としており、従来であれば調査はあり得なかった。が、2020年に宮内庁・橿原考古学研・市教育委による合同調査結果の発表があった。周濠の水を抜いて発掘する大掛かりな調査だったらしい(詳しくはこちら)。しかし、埋葬施設などの本格的な発掘はまだなのではないか。ふつう、古墳の発掘は 10~20次にわたって少しずつ行なわれる。
歴史学者でもある徳仁天皇の即位以来、宮内庁も徐々に陵墓の科学的調査に乗り出している。いつかは、数ある有史以前の「天皇陵」も発掘され、古代史の真実が明らかになることだろう。私は、徳仁氏が皇太子になる前からこのことを信じて期待してきたが〔友人たちは誰も本気にしなかった〕、今ようやく実現しつつあることは何を置いても喜ばしい。
「コナベ古墳」↓。コナベ古墳にも周濠があるが、ここで見えている水面はウワナベ池〔ウワナベ古墳の周濠〕。
「コナベ古墳」。周濠の岸からだと1枚に収まらないので、2枚をつないでいる。左が前方部、右が後円部。コナベ池は、水が濁っている。
「コナベ古墳」は「ウワナベ古墳」と同様に3段築成の前方後円墳で、「ウワナベ古墳」よりもやや早い5世紀前半〔古墳時代中期前半〕。墳丘には葺石が敷かれ、墳丘の各段と外堤で円筒埴輪列が確認されている。周濠に沿って 10基の陪塚が並び、周濠を持つ陪塚もある。「最も整った形の前方後円墳」だと言われるが、樹が生えているし、通りいっぺんの観覧では、なかなかそれは判らない。
「コナベ古墳」の北隣りにあるのが「ヒシアゲ古墳」なのだが、ここで大失策をしてしまった。「ヒシアゲ古墳」は、宮内庁が仁徳天皇の后の陵墓に指定していて、南側に拝所もあってそこから観察できるのに、私は見逃して過ぎてしまったのだ。
点線の道へ行けばよかったのだ↓。「ウォークルート」を忠実にたどったのがいけなかった。
おかげで、「ヒシアゲ古墳」のまわりを3分の2周したが、周濠の周りの樹木に妨げられて墳丘の形さえよく見えない。ここに復元埴輪が並べられているのだけ、撮すことができた。
クリ,クヌギ,コナラ,アラカシ,クスノキ,スダジイなど、常緑広葉混淆林の中を進む。木の間から周濠が見える。
周濠、北西部。墳丘の全容は見えない。
南西隣りの水上池ごしに、ようやく墳丘が視野に収まった。
「ヒシアゲ古墳」は、5世紀後半〔古墳時代中期後半〕の前方後円墳で、「コナベ古墳」「ウワナベ古墳」より後になる。二重の周濠を持つが、今見てきた範囲では内濠のみ残っている。
「市庭古墳」(平城天皇陵)↑。もとは巨大な前方後円墳であったのが、「平城京」建設のさいに前方部が削平され、後円部も小さく削られたことが、文献史料と考古学調査で確認されている。したがって6世紀以前〔出土した埴輪の形態から、古墳時代中期前半,5世紀前半〕の古墳であり、平城天皇〔824年没〕の陵墓ではない。
そうすると、平城天皇の陵がどこにあるのか不明になる。平城天皇は、さきほど訪れた「不退寺」すなわち “終の棲家” に葬られ、そこが寺となった。そう考えるのが妥当ではなかろうか。
平城天皇は、「平城京」還都をもくろむ「薬子の乱」を上皇として支援し、「平城京遷都の詔」まで出してしまった。が、現役・嵯峨天皇ら「平安京」体制派の巻き返しで薬子は失脚〔その後自刹〕し、挙兵も失敗して還都は頓挫する。平城上皇は本来なら廃位・流刑となってもおかしくないが、ただちに出家して平城京の「萱の御所」〔のちの不退寺〕に引きこもることで、なんとか「太上天皇」の地位を維持したのだった。それくらいだから、平城上皇の陵は営まれなかったと考えても、奇想ではないと思う。
「平城宮」のそばを過ぎる。復元された「第1次大極殿」が見える。
タイムレコード 20251115 [無印は気圧高度]
(8) から - 1107狭岡神社[90mMAP]1115 - 1123「不退寺」[75m]1208 - 1232「ウワナベ池」西[79m] - 1250「ヒシアゲ古墳」復元埴輪公園[78mGPS]1322 - 1351「水上池」西南角[76mGPS](ヒシアゲ古墳の近くへ往復)1410 - 1412「平城天皇陵」[79mGPS]1423 - 1436「佐紀池」「御前池」の間[76mGPS] - (10) へつづく 。











































