☆ 宇和奈邊古墳 (宇和奈辺陵墓参考地)


大和国添上郡
奈良市法華寺町
(P無し)


☆2020年10~11月にかけて大規模調査が行われ、従来の概要と大きく異なることが判明。当記事も反映したものに改定します。池の水を全て抜き発掘をしたという本格的なものだったようです。
※現地調査会に参加はしていません。発表された各種ニュースを基にします。


◎調査主体は橿考研と奈良市教育委員会。墳丘は宮内庁管轄、周濠は奈良県と奈良市が管轄であったため三者合同による調査となったようです。以下主な新しい発見を。

◎全長255m → 270~280mほどに。
池の水で浸食されていたことが分かり、全長が変わりました。これに伴い全国第13位から第12位に変更、また奈良市最大の古墳に変更されました。
「奈良市最大の古墳」となったことが特に重要ではないかと考えています。天皇陵や近親の皇族の御陵が密集する地域。その中で最大の古墳であるということ。被葬者の議論に大いに花が咲くことを期待します。

◎墳丘の様子
3段構造であったとされ、下段は埴輪列が巡らされ、二段目には葺石が張り巡らされていたことが分かりました。

◎大量の埴輪が出土
「透かし」と呼ばれる三角形の穴が開いた埴輪が中心。これは築造時には既に作られなくなったもの。「復古主義的な造り…」という考え方もなされているようです。また鰭付埴輪も出土したとのこと。


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「佐紀盾列古墳群」の東端、全国第13位(→12位に変更)の規模を誇る前方後円墳。
※読みは一般に「さきたてなみ古墳群」とされますが、記紀の記述から「さきたたなみ古墳群」が正解かと思われます。なお橿考研は「佐紀古墳群」としています。

全長は255m(→270~280mに変更)、「佐紀盾列古墳群」最大、巨大な周濠を抱える圧倒的な様は大王級のものと思われますが、該当しそうな天皇が見当たならないのが現状。
代わりに仁徳天皇皇后 八田皇女の陵墓参考地とされています。仁徳天皇皇后ならこの規模も納得できないこともないかと。
あるいは前後数代の天皇治定墓の見直しが必要なのでしょうか。

「佐紀盾列古墳群」は大まかにみて、大和王権黎明期から初期にかけて築かれた「纏向古墳群」や「柳本古墳群」から移行したもの。
4世紀末から5世紀前半頃のもので200m超級のものが3基もあるなど、大王級の墳墓が築かれました。

この後には「百舌鳥・古市古墳群」へと移行していきます。もちろん仁徳天皇陵はこちらに築かれた最大のもの。

当古墳の培塚(ばいちょう)からは、900点に近い「鉄鋌」が出土しているようです。これは鉄製品への加工前の短冊形をした鉄素材。この時期らしいものであり、渡来系技術集団が多勢流入し製造に当たっていたものと思われます。武具・農具ともに一大イノベーションが起こったようです。

八田皇女は応神天皇と和珥氏の血を引く宮主矢河枝比売との間に生まれ、仁徳天皇の異母妹。ただし「先代旧事本紀」には、母は物部山梨媛とありますが。

仁徳天皇の皇后には先に磐之媛がいます。記紀には非常に嫉妬深い女性と記され、八田皇女との確執も。すぐ隣には小奈邊古墳(磐之媛参考陵墓)あるいは磐之媛治定陵墓が築かれていますが、そんなことがあるものなのでしょうか。
あの世で仲良く?…なんてことにはならないと思うのですが。