ジョン・スチュアート・ミル『経済学原理』(1848年)。

 

 


 

 

 

 


【13】  「オルタナティヴ」なシステム

――「社会主義」は、それではなかった。

 


 前回までの部分でウォーラーステインは、既存の世界システムが陥った「カオス」状態で、何が問題になっているかを明らかにしてきました。それは、ひとことで言えば〈国家正統性が衰退している〉ということ、そのために、政治の領域で「反国家主義」が強い力を持ってきているということでした。

 

 だとすれば、今後やってくるであろう新たな「史的システム」への移行、その過程にたいして私たちがどんな努力を向けるべきか/向けることができるか、という問題――つまり「ユートピスティクス」――の考察にあたっては、↑この現状分析に、十分な顧慮が払われねばならないはずです。

 

 というのは、偉い学者さまが頭の中で考えた「ユートピア」なり、もうすこし現実的な〈未来社会のプログラム〉なりが、そのまま魔法のように現実になることはありえない。仮に、「強力な国家」がそれを採用して、圧倒的な権力なり魅惑的なプロパガンダなりで実現を図ったとしても、結果は、もとのプランと似ても似つかないものになってしまう。これはもう、これまでの歴史が繰り返し教えていることだからです。

 

 現存の世界にすでに生じている運動――意識的・または無意識的な――に依拠し、さまざまな動向を強め・あるいは弱めることによってしか、私たちは目的を達する――というより、近づく――ことはできない。私たちは、揺れている振り子にたいして・特定の方向に力を加えることしかできない(しかも、振り子の喩えから解るように、望む方向とは異なる向きに押すことが有効な場合も少なくない)。これは、世界が「カオス」に入りこんだ時代においても変わることのない真理です。私は、(3)【7】で、このことに・ごくかんたんに触れました。

 

 しかし、これから見ていくウォーラーステインの〈未来社会プログラム〉――というより、どんな〈プログラム〉を選ぶべきかの考察――において、↑このような・現状分析とのつながりは、はたして十分に配慮されているだろうか? 私には、不十分ではないかと思われるのです。

 

 ともあれ、以上のような点にも留意しながら、以下、彼の「ユートピスティクス」を見ていきたいと思います。

 

 「ユートピスティクス」とは、一言でいえば、どんな〈未来社会プログラム〉を選ぶべきかに関する考察です。つまり、「近代世界システム」に代わる新たな「史的システム」の選択に関する科学です。それは、「宗教」「道徳」その他の価値判断にもとづく選択を・より有効なものとするための「科学」からの助言・をも含んでいます。なぜなら、未来に関する選択は、価値判断を含むことが避けられない。「科学」によって特定の価値判断を絶対化することはできないからです。


 なお、そこで言う〈未来社会プログラム〉とは、① 目標はどんな社会か? ② その社会に至る方法・手段は何か? ――という2つの内容を含みます。(もっとも、私は、目標と手段を厳密に分けることに対しては懐疑的です。このことはすでに、(1)【2】の後半で述べました。)

 

 

シベリアの大河イェニセイ川を堰き止めたクラスノヤルスク・ダム。1956-72年

に建設され、広さ2000平方キロ(琵琶湖の3倍。長さ388km,最大幅15km,

最大深105m)のクラスノヤルスク湖を擁し、出力6000メガワットの発電

所を備える。開業当時、世界最大出力の水力発電所だった。©Wikimedia.

 

 

『現存の史的システム〔…〕があらゆる可能な世界のなかでも最良のもの〔…〕と主張する人たちは、 物質的な豊富さと便利さ、 リベラルな政治組織の存在、 平均寿命の伸長、という3つの長所を強調しがちである。〔…〕反対論はほとんど、上記3つの長所について、反対のことを述べている。〔…〕批判者は 鋭い不平等と両極化を見、物質的豊富さと便利さは少数者のためにだけ存在していると論じる。弁護者がリベラルな政治組織を見るところで、批判者は 意志決定にたいする・意味のある大衆の参加が欠如していることを見ている。』「寿命の伸長」に対しては、 深刻に低下した生活の質〔物質的範囲に限られない――ギトン註〕を強調している。

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,p.112. .

 


 しかし、このような議論は、「ユートピスティクス」にとって本質的なものではありません。というのは、「現存の世界システム」に欠点と限界があることは、現在ではむしろ自明であり、「本当の問題は、何をそれに取り替えたいのか」、つまり、取って替わるべきは〈どんなしくみの世界システムか〉だからです。

 

 もしそれが適当なものならば、現存システムの擁護者といえども乗り換えるにやぶさかではない。いまはそういうご時世です。反対に、無理のある構想、懸念を払拭できない計画書しか手もとに無ければ、多少のことはがまんしても現存システムを続けるほうに、多くの人が加わるでしょう。

 

 そこで、歴史的に試みられた「社会主義」は、そういう意味での「オルタナティヴ」でありえたのか? について簡単に考察しておくことも有益でしょう。こんにち、国家体制としての「社会主義」については、多くの人が否定的な回答をします。ウォーラーステインも同じです。が、問題は、「社会主義」は〈どんな点で〉「オルタナティヴ」たりえないか? そのことです。(pp.113-114.)

 

 

『歴史的社会主義に対しては、主として3つの告発がある。 第1に、国家(および党)の権威を恣意的に利用した〔…〕、その最悪〔…〕は国家によるテロである。 第2は、ノメンクラツーラの特権の拡張であり、 第3は、国家が経済に巻き込まれたせいで、社会的価値〔…〕の抑制を引き起こした、広範な経済的非能率〔国営企業などの非効率のこと?――ギトン註〕という問題である。

 

 この告発は〔…〕大部分正しい〔…〕。しかし〔…〕、これらの党〔共産党などの共産主義政党――ギトン註〕の保護下にない多くの体制もまた、 国家の権威を恣意的に利用し、国家のテロすら行ない、 広大で過度の特権を、国家の権威と結びつい』『集団に与えてきたし、 信じられないほどの無能さのせいで、結果として社会的価値を抑制してきた〔…〕近代世界システムの歴史的な軌道において、たいていの国家体制はこれらの特徴を標準的に持っていた〔…〕。そのことは、何ら社会主義国家の〔…〕弁明にはならない。』が、なぜ、これらの欠陥は近代世界システムそれ自体に由来すると見なされないのか、不思議に思えてならない。』近代世界システムは、それが『滑らかに機能するためにこの種の体制を必要としていた〔…〕

 

 〔ギトン註――比較的〕より良い〔…〕(良いように見えた)』のは、『いわゆるリベラル国家の体制であった〔…〕。これらのリベラル国家はすべて、世界システムの非常に狭い〔…〕富裕な地域に位置し』た。『これらの諸国〔…〕には、非常に多くの中間層の住民がい〔…〕グローバルなパイ・の分け前に満足している。結果的に「法による支配」が制度化され、それは〔…〕中間層を守るものである。〔…〕これらの特徴はすべて、現存の世界システム両極化という現実に左右されていた〔…〕

 

 

ロシアのウラジオストクを訪問した北朝鮮金正恩委員長。

2023年9月16日 ©朝鮮中央通信 / 聯合ニュース。

 

 

 いわゆる社会主義諸国家〔…〕は決して自律的な存在ではなかったし、つねに資本主義世界経済の枠組みの中で国家間システムに制約されて機能した〔…〕。オルタナティヴな史的システムとして機能するものではなかった〔…〕

 

 しかしながら、〔…〕ユートピスティクスにおける課題を追求するさいに、その経験から学ぶことができないということではない。わたしたちは、ある種のメカニズムがもたらした結果について有益な教訓を得た

ウォーラーステイン,・松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.115-117. .

 

 

 つまり、歴史的に存在した「社会主義」国家は、資本主義世界システム」の一部として存在し、中核諸国が周辺地域を不等価交換によって搾取するという資本主義システム」の機能が「滑らかに」遂行されるのに貢献してきた。このことは、「資本主義世界経済」に関しても「国家間システム」に関しても言える。

 

 「社会主義」国家とは、このようなものであった以上、それは現存の「世界システム」の一部であって、それに取って替わるようなものではない。「オルタナティヴ」どころではないのである。

 

 歴史上の「社会主義」国家の「欠陥」として言われている諸点――権威主義特権集団非効率――は、「社会主義」という制度の欠陥というよりも、「近代世界システム」そのものが持つ特質である。いわゆる「リベラル国家」には、これらの欠陥は比較的少なく現れたけれども、それらが無かったわけではない。「リベラル国家」とは、「世界システム」の中核地域にかたまって存在した富裕な諸国であって、中核地域に ①,②,③ の少ない「リベラル国家」が存立しうるということ自体、「資本主義世界システム」の結果なのである。

 

 ウォーラーステインの見解をまとめると、このようになるでしょう。

 

 そして、歴史上の「社会主義」国家には、学ぶことのできる長所など何も無い。「社会主義」国家の歴史から「ユートピスティクス」に生かすことができるのは、その失敗からの「教訓」だけだと、彼は考えています。

 

 


【14】 「相対的に民主的で平等主義的なシステム」

―― それは、「自由主義」の本来の理想だ!

 

 

『もしわたしたちが次の 50年間に根本的な歴史的選択をするとすれば、それは〔…〕 ある者がそれ以外の者より決定的に大きな特権を持つような〔…〕システムと、 相対的に民主的で平等主義的なシステムとの間においてなされる〔…〕

 

 既存のすべての史的諸システムは、〔…〕前者の種類のシステム であった。〔…〕現存のシステムは、〔…〕その長所と考えられていること〔…〕つまり価値生産のとほうもない拡張のせいで〔…〕最大の両極化をもたらした点で、』 のなかでも『最悪のものだ〔…〕。多くの価値が生産されることで、現存のシステムの上部層と・それ以外の層との差異は、〔…〕先行する〔…〕史的諸システムよりはるかに大きくなりうるし、大きくなってきたのである。

 

 〔…〕現在のシステムが不平等をもたらし、それゆえ〔…〕集団的意志決定に真に民主的に参加できなくしているのは、〔…〕無限の資本蓄積を優位に置いているからである。


 人々が恐れているのは、もしこの優位性が除去されるならば、〔の史的システム――ギトン註〕と比べて生産的な能率か、 自由で開かれた社会か、のいずれかを犠牲にしなければならないだろうということである。

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.118-119. .

 

 

ジョン・スチュアート・ミル(1806-73)

「パリで革命群衆を見る」 ©Google Arts & Culture.

 

 

 しかし、〈「無限の資本蓄積」を他の目的に対して優位に置く〉という「資本主義」の基本原則を放棄するけれども、 効率も  自由も儀夝にしないような、そういうシステムは、可能です。それを可能にするウォーラーステインの構想を、次節以降で詳しく見ていくことになります。

 

 ここでは、「民主的で平等主義的なシステム」とは、どういうことなのか。もう少し具体的に考えてみましょう。

 

 ㋐「すべての人にとって生活の質を最高にすること」を優位に置き、かつ、㋑「すべての人が〔…〕等しく安全と感じ、他の人の生存や平等の権利を脅 おびや かすことなく・最大限可能な範囲の個人的選択を享受できる〔…〕ように、集団的な暴力手段を制限し管理すること」を優位に置く組織「を考案することは可能であろうか。」

 

 ㋐ は、「本来のベンサムのリベラルな理想」であり、㋑ は、「本来のジョン・スチュアート・ミルの理想」だと言えるでしょう。㋐,㋑ を、「最大多数の最大幸福」という形にしてしまうと、「平等」が儀夝になってしまう。少数の者は漏れても、大多数が幸福ならよい、と。そして実際には、少数の者だけの幸福を実現する口実となる。彼らは、理想を掲げて人々を惹きつけつつ、「民主主義」の名における独裁〔制限選挙,貴族的議会政治〕を行なった。…… しかし、本来の理想主義的な形 ㋐,㋑ に戻せば、〈平等主義的な理想的システム〉となる。われわれは「リベラル(自由主義)」の額面どおりの実行、自由主義者が「理論化したとおりの民主主義」を要求しようじゃないか、とウォーラーステインは言うのです。

 

 ただ、↑㋐,㋑ のような言い方では、具体的にどのような制度や組織を作るのか、わかりません。そこで、‥‥(pp.119-120.)

 


『民主的で平等主義的なシステムの目的を実現する』には、『(i) 誰もが・満足できる仕事を持って働くという状況や、(ii) 予期せぬ必要に迫られた場合に〔…〕援助が社会的に可能である〔…〕状況、になる必要があるだろう。そして最後に、(iii) 生物圏の資源が適切に維持され』ることが必要である。それによって初めて『いかなる世代間の搾取もなくなる』のだから。

ウォーラーステイン,・松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,p.120. .

 

 


【15】 「相対的に民主的で平等主義的なシステム」

――「報酬」の平等、「職業選択」の自由

 


 〈豊かで・しかも平等な社会〉は、「どうすれば〔…〕実現できるだろうか。

 

 報酬の問題から始めよう。一般に、金銭的報酬は、良質の仕事をする動機になると言われている。」たしかに、職人の「優秀な技巧に対して」それに見合った報酬が与えられれば「良質の仕事」が生み出される。報酬の大きさが、仕事の質と無関係であったり、無報酬であったりすれば、「良質の仕事」も効率的な仕事も期待できない。これは、資本主義の利点としてしばしば強調されるが、資本主義だけの利点ではない。

 

 

Eight of Coins from the Rider–Waite tarot deck

 

 

 むしろ、資本主義に特有の高額「報酬」は、たとえば「会社の特別利潤獲得に対し経営者に報酬が与えられる」ような場合である。「特別利潤」の獲得は、「無限の資本蓄積の優位」という原理が社会を支配しているときにだけ、「良質の仕事とみなされる」。ある種の古代的社会では、むしろそれは罪悪として処罰の対象になるだろう。

 

 ひとくちに「報酬」と言っても、職人の仕事に対するそれと、経営者の利潤獲得に対するそれでは、意味が違う。その違いは、「報酬」の額にも現れる。職人の仕事の質の良さに対して与えられる割増しは、10%,20%といったところだが、経営者のそれは、100%増し,1000%増しも珍しくない。なぜなら、獲得した特別利潤の分け前だからだ。

 


 『経営者が、現在のシステムにおいて獲得できる』その種の『特別手当を受けるときにのみよく働く・というのは本当なのだろうか。そういう考えはばかげている〔…〕

 

 多様な(大学教授のような)専門家たちは、〔…〕わずかの物質的報酬の増加によってではなく、名誉が得られ、さらに労働時間の自己管理が増す場合に、良く働くよう刺激を受ける〔…〕。通常、人々がノーベル賞をもらうのは、無限の資本蓄積に刺激されたから〔賞金を投資してさらに儲けたいから――ギトン註〕ではないのである。そして、現在のシステムには、金銭を主たる動機としない〔…〕著しく多数の人々がいる。〔…〕もし、名誉労働時間の自己管理の増加が、より一般的に報酬として入手可能になれば、はるかに多数の人々が、その』非金銭的報酬『に本来的な満足を見いだすのではなかろうか。

 

 そして、』これにさらに、『人々がいっそうの満足を覚える種類の仕事に就けるような・もっと改良された職業選択のシステムが付け加わるならば、〔…〕アノミー〔社会規範の崩壊による無秩序。自刹増加の要因とされる――ギトン註〕は大きく減退するであろう。そしてもし〔…〕年々、あるいは継続的に〔…〕多様な職業に就くことを許容し、奨励し、組織するときには、配置のしたかによっては』人びと全体の『満足が増大するかもしれない。付言すれば、このことは、家族責任の平等化をさらにいっそう進めるだろう。

 

 このことについて、近年わたしたちは大いに論じてきたのだが、〔…〕ほとんど何も実行されてこなかった』

ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.121-123. .

 

 

 ↑この「労働時間の自己管理」の増加に関すること、また、職業訓練と転職の促進に関すること、いずれも我が国では、官僚や右翼的な政治家から、左翼/労働運動を攻撃する文脈で提案され・実施されてきた・特殊事情があります。そのために、左翼/リベラルの・この問題に関する認識は、たいへんに遅れています。しかし、これは本来、資本主義を乗り越え・社会を「民主的で平等主義的な」ものにするための方策の一部なのです。

 

 

 

 

 

 

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

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