「ユートピア島の地図」。 1518年版 "Utopia von Thomas Morus" に付された
Ambrosius Holbein の挿絵。 © Bridgeman Images. 左手を挙げている人物
は、ユートピア島に漂着した体験を語る漁師、その右がトマス・モア。
【1】 「ユートピア」から「ユートピスティクス」へ
「ユートピスティクス」という耳慣れない用語が本のタイトルになっています。「ユートピスティクス」とは何か? 「ユートピア」とは違うのか?
ウォーラーステインの考えをひとことで言えば、現代において「ユートピア」は役に立つものではなくなってしまった。いわば、芸術の世界へ居場所を変えてしまった。私たちが自分の社会を真剣に考える上で必要なものは、「ユートピア」ではなく「ユートピスティクス」〔「ユートピアの科学」と言えば、近いか?〕だ、ということなのです。
ウォーラーステインは、彼らしく、「ユートピスティクス」の定義も書いていますが、それはしばらく後で出しましょう。まずは、「ユートピア」とは何か? 人類にとって、何だったか?
『ユートピアには宗教的な機能があり、それはまた時には政治的な動員のしくみとなりうる。しかしそれは、政治的には反発をもたらしがちである。〔…〕ユートピアは幻想をもたらすのであるが、それゆえにまた不可避的に幻滅をもたらすからである。ユートピアは、恐ろしい悪事を正当化するためにも使われうるし、また使われてきた。これ以上のユートピア的なヴィジョンを持つことは、わたしたちにとって実際に一番不要なことである。』
ウォーラーステイン,松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.9-10. .
ここで言う「ユートピア」「ユートピア的なヴィジョン」の例として、共産主義社会を、「恐ろしい悪事」の例として、スターリンによる「粛清」などを想定すれば、ウォーラーステインの考えに、かなり近いと思います。ヒトラーの「アーリア人種が支配する世界」と、それが正当化する「絶滅収容所」も、「ユートピア」と「恐ろしい悪事」の例になるでしょう。しかし、それらだけではない。
トマス・モアの『ユートピア』や、孟子の「井田法」の世界、「弥勒下生説」、イエス・キリストの『福音書』や新約聖書の『ヨハネの黙示録』が唱えた「神の国」も、「ユートピア」の例から外すことはできません。それらには「宗教的な機能」はあるが、不可避的に「幻想」も「幻滅」ももたらすのです。
想起されるのは、『福音書』のイエスが、政治とのかかわりを注意深く避けていることです。たとえば、「カエサルのものはカエサルに」:マルコ12:13-17. マタイ22:15-22. ルカ20:20-26。ここでは、『マルコ伝』のテクストを引きましょう:
『13 さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした。14 彼らは来て、イエスに言った。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」15 イエスは、彼らの下心を見抜いて言われた。「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」16 彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、17 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。』
『マルコによる福音書』12:13-17, 新共同訳. .
デナリウス銀貨。ティベリウス時代(AD 14-37)、リヨン鋳造。
表面〔上〕の銘:「神なるアウグストゥスの息子、
ティベリウス・アウグストゥス皇帝」
つまり、ファリサイ人たちは、イエスに、あなたは平等主義者だから、カエサル(皇帝)に理由もなく従ったりはしないだろう。われわれはユダヤ人なのに、ローマの皇帝に税金を取られている。これは不当ではないか? と言っているのです。イエスの答えは、政治と宗教は別だ。神に仕える者は、政治運動をすべきではない。税金は払いなさい、ということです。
しかし、「ユートピアは政治には関わらない」などと言いきってしまうこともできません。 『ユートピア便り』の著者ウィリアム・モリスは、みずから「マルクス主義者」と名乗っていました。彼は、意識的に政治的な共産主義者だったのです。にもかかわらず、『ユートピア便り』には、貨幣があっても使われることのない世界、物を買うのではなく、どこででも好きなだけ取ってゆくことのできる世界、人びとは仕事をすることが楽しいから働いている、それ以外にはたらく理由はないと思っている、そういう世界が描かれているのです。
「ユートピア」とは、「自由」「平等」といった価値概念を、抽象的な言葉や理論によってではなく、眼に見えるイメージによって理解させてくれる便利なもの。ただし、それが政治によって、つまり国家権力によって・直接実現できるなどとは考えないほうがよい、ということなのでしょうか? 「ユートピア」と政治との関係は、なかなか微妙なものがあるようです。
そして、ウォーラーステインの言う「ユートピスティクス」とは、「ユートピアを議論の対象にする」ということなのではないか? 実現すべき「社会」を、なにかとてつもなく崇高なものにしてしまうと、「恐ろしい悪事」を隠蔽することになってしまう。それではいけない。つねにその是非が、「公の議論」の対象になっていなければならない。あらゆる人が自由に語り、自由に非難もできるようでなければいけない。そういうことでしょうか? ‥‥その場合、そのような議論は、「実質合理性」をめぐる論争と交渉、というかたちで「政治」の俎上にのぼることができます。
『ユートピスティクスは、歴史的なオルタナティヴ〔選択肢――ギトン註〕について真剣な評価を下すことであり、わたしたちに選択可能な史的システムが実質合理性を持つのかどうかを判断する行為である。それは、人間』の『社会システム〔…〕の可能性への制約となるものを示』す・『人間的な創造性に委ねられた領域である。それは、完全(かつ必然的)な未来の顔ではなくて、オルタナティヴ〔選択可能――ギトン註〕で・より信用でき〔…〕歴史的に可能な(しかし少しも確実ではない)未来の顔である。それは、したがって、同時に科学と政治と道徳にとっての課題である。〔…〕
ユートピスティクスが行なうのは、わたしたちの目的が何であるべきかについて――〔…〕手段』についてではない『――、科学と道徳と政治から学ぶものを調和させることである。』
ウォーラーステイン,・松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,pp.10-11. .
しかしながら、どんなに努力しても、社会は思ったように変わるわけではない、ということならば、このような「ユートピスティクス」の議論は空しいだけです。それならばいっそ、自由に空想の翼を広げて「ユートピア」を語ったほうがよい。ウィリアム・モリスが生きた時代は、たしかにそういう時代だったのです。
ところが、ウォーラーステインによれば、今は違うのです。「資本主義的世界システム」は破綻に近づいています。少なくとも、混乱が大きくて、将来の予測ができない「カオス」状態になっている。ウォーラーステインによれば、このような時代は、逆に言えば「小さな力で大きな影響を与える」ことができる時代です。変えようと思えば変えられる。ただし、どのように変わっていくかについて、確たることは誰にもわかりません。このような・システムが「カオス」に突入した時代だからこそ、「ユートピスティクス」には可能性が開かれているし、必要とされてもいるのです。
ホルバイン「漁師ヒスロデュースがモアとその同伴者にユートピア島に
ついて語る」: "Utopia von Thomas Morus"(1518) 挿絵。©Wikimedia.
【2】 「実質合理性」――
価値観の違いは、どうにもならないか?
『議論は、〔…〕実質合理性という概念、つまり形式合理性の概念に対してマクス・ウェーバーによって提唱された概念をめぐって生じる。実質合理性概念によって彼が述べているのは、「究極の価値」(価値評価のための理論的ないしは倫理的公準 wertende Postulate)を基準にして目的を選択することである。ウェーバーによれば』実質合理性『の概念は「非常に多義的であり」そして「実質合理性の価値尺度になりうるものは無限に存在する」。〔…〕これらの諸価値は、ウェーバーのドイツ語の表現が示すように、「公準〔要請――ギトン註〕」である。そして明らかに、公準についてわたしたちの意見はさまざまでありうる。』
ウォーラーステイン,・松岡利通訳『ユートピスティクス』,1999,藤原書店,p.12. .
「公準〔Postlat; Postlate は複数形〕」は、「要請」とも訳されます。「科学的または実践的理論にとって、基本的前提として必要とされる命題」「ある論理的、実践的体系の基本的な前提として措定せざるを得ない命題」と説明されます(コトバンク)。ユークリッド幾何学には、「2つの点は、直線で結ぶことができる」(第1公準)から始まって、「2つの平行線は交わらない」(第5公準)までの5つの「公準」があります。これらは、証明不可能ですが、これらが無くては幾何学という体系は成り立ちません。
哲学でも、論理的な哲学体系は、基本的な命題として「公準」を立てます。カントの実践哲学は、「神の存在」「魂の不滅」「自由意志」を前提として受け入れますが、カントによると、これらは「理論的でも明白でもない」、つまり証明はできない。が、これらが真実だと仮定しないことには、実践倫理は成り立たないとしています。
そのように、「公準」とは、ある倫理や社会理論を語るためには、どうしても・そう仮定しておかなければならない「要請」なのです。つまり、「議論や推論を行うための、また何かを信じるための基礎・土台として、真実だと想定されているもの」(Oxford Dictionary of English, 2nd ed.)である。「公準」は、証明することができませんから、見解の異なる人が相対したときには、どちらが正しいとも決められない。けっきょくは、「価値観の違いだ」ということにならざるをえません。たとえば、キリスト教徒であるカントは、「神の存在」「魂の不滅」を、証明無しに信じることができたでしょうけれども、仏教徒は、異なる意見を持ってもおかしくありません。
ところで、↑上の引用文に出てくるウェーバーの「実質合理性」の基礎にある「倫理的公準」は、複数形なのです。つまり、複数の・たがいに矛盾もする様々な価値基準が存在する、ということが、「実質合理性」という考え方の前提にあります。
そうすると、‥‥異なる価値基準がぶつかり合うことが前提にあるとすると‥‥、一つの社会全体として、あるいは国家として、まとまってゆくことは、どうしたらできるのでしょうか。力対力の戦いで、勝ったほうが負けたほうを黙らせて解決するほかはないのでしょうか?
ここには、3つの考え方があると思います:① 力の優劣と戦いによって解決される。② 戦いによるけれども、その勝敗は、究極的には人類史の法則によって決まっている。③ 討論と説得による解決が可能である。〔①の「戦い」は武力闘争とは限りません。多数決は、①の手段にも ③の手段にもなりえます。民主主義なら③になる、とは言えません〕
② は、「弁証法」の考え方だといってよいでしょう。ヘーゲルや、その影響を受けたマルクス主義者が、この考え方です。しかし、「人類の進歩」という・この考え方の前提自体が証明不可能で、いわば「公準の公準」を立てていることになるので、これは解決になりません。たとえば、“反動的” なヘーゲル主義者とマルクス主義者のあいだでは、まったく意見が合いません。
ウェーバーは、① のようにも見えますが、「ドイツ民主党」という少数政党の結党メンバーとして活動しており、同党は「ワイマル共和政」の連立政権にも参加していました。多数派を説得して自らの政策を実現することも可能だと考えていたわけで、③ に近い面もあったと考えられます。
1917年、ラウエンシュタイン城での集会で、左派社会主義活動家エルンスト・
タラー〔ウェーバーの直右〕らと討論するマクス・ウェーバー〔中央右向き〕
マールブルク大学蔵。 ©Wikimedia. のちにウェーバーは、世代間の論争
の場となったこの集会を「世界観のデパートだった」と回顧している。
ウォーラーステインは ③ の考え方であるようです。その詳細は、この本全体で論じられているといってよいので、ここでは、ごく予備的な考察をしておきます。
それは、価値観の異なる「公準」のあいだで、「討論と説得」によって一致することが、どうして可能なのか、という点です。どちらの「公準」も証明不可能なのですから、論理的説得は不可能であるようにも思えます。
たしかに、「究極の価値」にもとづく究極の「目的」どうしのあいだで論争したら、決着はつきません。たとえ論理で打ち負かしても、相手は、「それでも地球は動く」と呟くでしょう。「討論による解決」は、納得することが必要なのです。
しかし、「目的」と「手段」の関係は、ウェーバーが言うほど一方的なものでしょうか? ウェーバーの「実質合理性」と「形式合理性」については、後日、ウェーバー自身のテクストを詳しく検討するつもりですが、簡単に言えば、「形式合理性」は「資本主義的世界経済」の内部で優勢な考え方で、それ以前、およびその外部では、もっぱら「実質合理性」を人びとは信奉していたのです。
たとえば、企業活動はその大前提として、「無限の資本蓄積」ないし〔同じことの言い換えですが〕「利潤の極大化」を「目的」としています。そこでは、それらの「目的」を最大限に実現するために、労働/原料のコストを切り下げる、価格と販売量を引き上げる、といったことをいかに効率的に行なうかが追求されます。これが、「形式合理性」ないし「計算合理性」の追求です。つまり、「目的」は、「資本ないし利潤を増やすこと」に固定されていて、それをいかに効率よく行なうか、それだけを追求するのが、「形式合理性」です。ですから、「形式合理性」は、たいへんに解りやすい。「目的」についての議論がなく、ひたすら、より効率的な手段は何かが議論されるからです。「価値」は問題にならない。
これに対して、「実質合理性」とは、いわば「その他すべて」ですから、目的も価値も、その場合に応じてさまざまです。同じ場所で、異なる「目的」がぶつかり合う場合もあります。そこで、ウェーバーを読んでいると、「実質合理性」に基づく事業なり、社会なり、はたして成り立つのだろうか? という気がしてくるのです。
しかし、「目的」と「手段」の関係は、近代社会において考えられているほど一方的なものではなかったと、私は思います。近代社会のふつうの考え方は、まず「目的」があって、それを実現するにはどんな「手段」がよいかを考える、というものです。つまり、「目的→手段」思考。ウェーバーも、この考え方です。「演繹」型の思考と言ってもよいでしょう。これは、「形式合理性」が支配する「近代システム」特有の思考かもしれません。
しかし、「神は存在する」というカントの「公準」を考えてみましょう。これは、キリスト教の「究極の価値」であり、信仰の「目的」と言ってもよいでしょう。たとえば、親がキリスト教徒ではない日本人、成年洗礼をした人の場合には、この「公準」を信じることは容易ではありません。その場合、しばしばアドバイスされるのは、ともかくも教会の行事に出席して繰り返し祈り、習慣にしなさいということです。入信を決意した動機は、カトリックの典礼や、神父の人がら、会衆の厳粛で心のこもった雰囲気に魅せられたことだった、という人も少なくないはずです。それらは、教会にとっては「手段」であって「目的」ではありません。が、多くの入信者にとっては、「目的」は容易に確信できなくとも、「手段」のほうは最初から受け入れています。それでよいのです。繰り返し祈り、馴染んでいくなかで、「これは、ひょっとすると神様は存在していらっしゃるのではないか」と思うようになることもあるはずです。
つまり、「手段→目的」という方向に推移することも、じっさいの世の中では多いということです。
トマス・モア。英国、バーンマス、「聖トマスモア・カトリック
教会」メイン・ドア上部のモザイク画。 ©geograph.org.uk.
モアの右に、「ペンは斧〔処刑〕より強し」の標章がある。
討論において人を説得する場合でも、「目的」では一致できなくとも、まず「手段」のレベルで協力が可能になることは多いはずです。抽象的な「目的」と「目的」で争い合うのは、哲学のレベルでは必要なことかもしれませんが、政治や社会の実際では、現実的ではありません。これが、ウォーラーステインの言う「実質合理性」の考え方であり、③ 戦いではなく「討論と納得」によって解決を見いだそうとする考え方なのだと思います。ただ、それには相当の時間と忍耐が必要です。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!