ドナテッロ「ダヴィデ」1444-46年。
【4】 中世末 1000-1450 ――「封建文明」の時代
15世紀までのヨーロッパと、「長い16世紀」およびそれ以後のヨーロッパの大きな違いは、後者の時代には「基軸的な分業体制」がヨーロッパを掩っていたのに対し、前者の時代にはまだそれが無かったことです。
1000年(ないし1100年)~1450年は、「ロジスティック波動」の一つの周期(「A局面」〔上昇,好況〕→「B局面」〔下降,停滞〕)にあたります。「人口」「経済活動量」「物価」という3つの要素が、たがいに相関しつつ拡大し、その後縮小しました。ただし、「経済活動量」のなかで「実質賃金」水準だけは、他の指標とは逆の動き(好況の「A局面」で低下し、不況の「B局面」で上昇する)をします。(『近代世界システム Ⅱ』,pp.x-xi.)
そうは言っても、この時代には賃金労働のウェイトはまだ低かったのです。賃金コストが問題になるのは、都市の手工業・商業に限られていました。その影響は、「B局面」〔1300-1450〕で徒弟・職人の実質賃金が上がった時に都市のギルドが打撃を受ける、という形で顕在化します。
それに対して、資本主義的世界=経済が稼働を開始した後の・次周期の「B局面」〔17世紀〕では、実質賃金の上昇は、きわめて大きな意味を持ちます。それによって、農民のなかからは、都市に出て賃金労働者になり「一旗揚げ」ようとする者が増加したからです。
『近代〔…〕以前にも、いくつも「世界経済」はあったのだが、近代以前のそれはすべて、帝国に変身してしまったのである。中国しかり、ペルシャしかり、ローマまたしかりである。〔…〕
〔ギトン註――資本主義システムとして出立した〕16世紀のヨーロッパ〔…〕は、当時存在した唯一の「世界経済」だったわけではない、〔…〕他にも「世界経済」はいくつか存在した。〔著者によれば、たとえば中国――ギトン註〕
〔…〕12世紀の東半球には、一連の帝国や小世界〔「世界経済」に似た複合体ないし貿易圏か?――ギトン註〕が密集し、互いにその境界を接して〔…〕いるケースも稀ではなかった。まず、当時の地中海は、ビザンツ帝国とイタリア諸都市,〔…〕北アフリカの一部とを結ぶ貿易上の結節点となっていた。同様に、インド洋=紅海地域も、もう一つの複合体をなしていた。中国地域が第3のそれだとすれば、モンゴルからロシアに至る中央アジア内陸部が第4の世界をなしていた。つづいて、バルト海地方が第5のそれになろうとしていた。
これに対して、北西ヨーロッパは、経済的に見るとまったくの周辺〔システムの一部である「周辺」ではなく、5大「小世界」ですらなく、世界の辺境という意――ギトン註〕にすぎず、そこでは、のちに封建制の名で呼ばれるものが、基本的な社会形態ないし社会組織をなしていたのである。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅰ』,2013,名古屋大学出版会,pp.15-16. .
12世紀の中国:北宋の首都開封の繁栄。張択端『清明上河図』
『封建時代のヨーロッパは、「世界経済」でも「世界帝国」でもなかった〔…〕、それは、一連の小システム〔ミニシステム――ギトン註〕――つまり分業体制――の集まりで、ひとつの宗教構造を共有し、〔…〕ラテン語という共通語を持っていたという意味で、「文明」と呼ぶほうがあたっていよう。
封建ヨーロッパの地理は、無数の荘園構造から成り立っていた。荘園は、それぞれが周縁地域をもつ小さな分業体制をなしており、いろいろなしかたで幾重にも重なった、ゆるい、広汎な政治構造に覆われていた。こうした地域の多くは、遠距離貿易のネットワークにもつながっていた。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,p.xi. .
【5】 発展の「A局面」 ――1000-1300
『ところが、このように互いに隔絶された地域が、平行的な変動を経験することがあり、ロジスティックと呼ばれている。すなわち、11,12世紀には各地で、大なり小なり人口が増加し始めた。農業従事者が増え、農産物の需要も増したので、ヨーロッパの農業生産は拡大していった。それぞれの村や地域の境界域周辺では、荒れ地の開墾が行なわれた。森、湿地、ムーア、フェン、沼地などである。したがって〔…〕これらの土地は、従来から耕されてきた土地ほどには肥沃ではなかった。〔…〕
こうした開墾は、〔…〕全体としての「キリスト教のヨーロッパ」のフロンティアでも起こった。十字軍運動、イベリア半島におけるレコンキスタ〔イスラム支配地の「再征服」――ギトン註〕、〔…〕西地中海の奪回、ドイツ人の「東方植民」、イングランド人の〔…〕ケルト地方への進出などが、それである。穀物の需要がきわめて強く、そのぶん利益も上がったので、「荒れ地」が開墾されただけでなく牧草地の耕地への転換〔…〕、安価な穀物から高級な穀物――第1に小麦、ついでライ麦――への転換もなされた。施肥や技術改良の導入も採算が合うようになり、耕地の平均的な土質は悪くなっ〔…〕たのに、生産高は増加していった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,pp.xi-xii. .
「レコンキスタ」。フランシスコ・プラディーリャ・オルティス〔1848-1921〕
『グラナダの降伏』。イスラム最後の領土グラナダを明渡すムハンマド13世(左)
「全体の拡大傾向とインフレを背景にして、」伝統的な固定地代、とりわけ貨幣地代は目減りしていった。「領主」層にとってこれは忌々しいことだった。「領主」層にとっては、社会全体のレヴェルに応じた奢侈をふるまうことが、ステイタスの維持に欠かせなかったからだ。地代の引き上げは、小作契約の更新期が来なければできなかったし、期限が来ても引き上げ可能な額は微々たるものだった。急激な変化は「伝統」が許さなかったからだ。そこで「領主」たちがとった対策は、「労働地代」(賦役,農奴制)への転換(復活)だったのです。無償の賦役による領主「直営地」経営が拡大しました。そのために、荒れ地の開墾,牧草地の耕地への転換だけでは足らず、さまざまの・農民からの小作地取り上げ手段も動員されました。これなら「伝統」には反しないと見なされたのです。
こうして、〈古いものの復活・反復〉が、最新の流行になりました。のちの「B局面」になると、農民のほうからも、一部〈不逞の輩〉は、“農奴制よりも古いイエス・キリストの共産主義” を持ち出して起ち上がります(ワットタイラーの乱〔1381年〕,ジャックリーの乱〔1358年〕,ブントシューの一揆〔1493,1502,13年〕):「アダムが耕し、イヴが紡いだ時、誰が領主だったか?」――が、これらはそのつど徹底的に鎮圧されたのです。
その一方で、「ロジスティックA局面」の発展趨勢は、富裕な小農民・勤労地主たちにも、市場向けに生産すれば「小さな生産単位でも十分に利益をあげることができ」るとの希望を抱かせました。こうして「A局面」には「経済活動の主体が激増し、生産は[分散化]した。」
中世末における「経済の全般的な拡大」は、農業だけでなく、「繊維産業と金属工業」を中心とする「工業部門」にも及んでいました。「この過程で工業は都市に集中する傾向を示したが」、それは、場所的に集中することで「取引コスト」(輸送費など)を節約することができたからです。また、都市への集中によって、領主層に強力に対抗できる組織体としての「ギルドの出現が可能になった。」全体的に「経済活動の専門化が進み、地域内での分業が進展した。」
「地域内での分業は、遠隔地間の[奢侈品]貿易が成立する余地を生んだ」。つまり、当時の西地中海~ヨーロッパは、ごく狭い局地的分業圏に支えられた経済的中心都市があちこちに存在し、それらが《遠隔地貿易》のネットワークでつながっている。――そういうイメージで把えることができます。《遠隔地貿易》は、《奢侈品》の交易を主品目とするもので、局地内の取引品目とは異なっていました。が、周辺農村で生産された穀物・食糧品が都市の職人や商人の生活を支え、都市手工業に原料(繊維材料,鉱石等)を供給するという形で、《遠隔地貿易》は地域内分業によって支えられてもいたのです。これが、中世末――「世界システム」の発生前――におけるヨーロッパの経済組織でした。それはまだ、「世界=経済」となってはいなかったわけです。
この中世末には・いわば分業の空白地となっていた「中距離」域が、その後、分業圏に編入され、ヨーロッパ全体に一つの「基軸的な分業体制」が成立した時に、資本主義的「世界=経済」すなわち「近代世界システム」が起動することになります。それには「長い16世紀」〔1450年以後〕の到来を待たなければなりません。(Ⅱ,p.xii.)
アルブレヒト・デューラー〔1471-1528〕『メランコリア』
『封建文明の政治は、本質的に地域の政治にあった。そこでは領主(landlord/seignior/Fürst)は、政治的支配権を利用して経済的優越を強化しようとした。〔…〕経済の拡張期にあたったこの時代には、すべての領主が、まず何よりも農奴制の導入によって、さらには家臣の数を増やすことによって、農民に対する政治的支配を強めた。
しかし〔…〕同時に、〔…〕貴族〔≒領主――ギトン註〕に対する上級の[支配者]たち――国王,公,伯――のそれも強化された。〔…〕君主の「家政」の規模は大きくなり、ヨーロッパの「対外」発展〔十字軍,レコンキスタ,東方植民――ギトン註〕は、こうした君主の行為であった〔…〕
文化的には、この時代は円熟の時代であった。物質的な基礎は確立したし、自分たちの文化にたいする自信もついた。〔…〕トマス・アクィナス〔ca.1225-1274〕の『神学大全(Summa Theologica)』〔…〕は、題名のとおり[総合(summa)]だったのである。
人口が全般的に増加し、工業が都市に集中したうえ、政治的・文化的な闘争の場が拡大した結果〔…〕小規模ながらインテリといえる階層が出現し、初期の大学が設立された。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,pp.xii-xiii. .
【6】 収縮と転形の「B局面」 ――1300-1450
『ほぼ 1250年ないし 1300年頃から、拡大は停止し、長期の景気後退が始まった。〔…〕これまで上昇を続けた指標はすべて下降に転じた。「外部」との境界線は後退した。十字軍は追い払われ、ビザンツ帝国がコンスタンティノープルを再占領した。〔…〕アジアの草原からはモンゴル勢力が襲来した。
〔…〕黒死病が一つの原因となって、人口が減少していった。〔…〕耕作を放棄する土地が増えた(廃村)。〔…〕耕地の縮小の原因は、一部は、疫病や飢饉、局地的戦闘などによる人口の減少〔…〕であり、また一部は防衛上の理由であったり、〔…〕領主による囲い込みと耕地統合〔※〕のためであったりした。
物価のインフレも逆転した。地代も低下した。小麦の価格も下がり、穀物栽培から牧草地や〔…〕ブドウ畑への転換が起こった。〔…〕穀物栽培には多くの労働力が必要だったからである。「上等の」穀物は、より安物の穀物に道を譲った。技術革新や土地改良への投資も少なくなり、収穫量も少なくなった。
領主の地代収入の危機は、人口の減少によって直接生産者の交渉力が強化されたため、さらに』深刻になった。『農奴制〔伝統的な賦役制度――ギトン註〕は衰退し、ついにはおおかた消滅した。
他方、領主たちは耕地を統合したり囲い込んだり〔※〕することで、地代の減少を補填しようとしたため、再集中の傾向が生じた。これらの事情は一体となって、労働力不足の領主を没落させ、多くの兄弟姉妹や多世代で土地を保有する〔…〕富農層の抬頭をもたらした。資本は、土地から逃避したのである。』
註※「耕地統合」「囲い込み」: 細かい農民保有地(しばしば「地条」)の集合体である耕圃を一体地に変えて、領主が直営したり貸し出したりするのが「耕地統合」。耕圃や農民共有地を農民から取り上げて領主の放牧地などにするのが「囲い込み」。
フォーヴェル物語(Roman de Fauvel: 14世紀,フランス)の挿絵。
『工業製品の市場も、もちろん縮小した。実質賃金は上昇し、生産コスト引き下げのため、工業は農村部に立地を移した。取引回数が減少していることもあって、いまや〔ギトン註――都市集中による〕取引コスト引き下げよりも、〔ギトン註――農村移転による〕労働者コスト引き下げのほうが、最優先課題となったからである。
政治的な帰結は、地域の直接生産者に対する領主たちの権力の低下であった。君主たちも、同様に権威を低下させた。「国家」は分解しはじめ、君主は領主・貴族層を掌握しきれなくなった。「地代収入の危機」の結果、〔ギトン註――外征費用をまかなえないので〕「ヨーロッパ」の外延部での武力衝突が減少するのに対して、〔ギトン註――収入源の奪い合いになるので〕その内部での武力抗争が激増した。政治権力の脆弱化に乗じて、農民反乱が頻発した。〔…〕
文化の面では、この時代は、権威に懐疑の眼が向けられ、偶像破壊が進み、混乱の広がった時代であった。教皇の権威も低下した。平等主義を掲げた〔…〕半異端的〔…〕宗教運動が広がった。文化の「中心」も安定しなかった。知識人たちは、ますます自立的になっていった。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,2013,名古屋大学出版会,pp.xiii-xiv. .
文化面の主な事項を列記すると↓下記のようです。オッカムの「唯名論」は、トマス・アクィナスを頂点とするスコラ哲学に異論を唱えたもの。ボッカッチョは教会と聖職者の堕落を風刺し、ダンテ,クザヌスも、権威的言説に対して根源的な再検討を加えました。異端宗教運動と農民反乱は、こちらで詳しく論じました。
1304-21 ダンテ『神曲』
1323頃 ウィリアム・オッカム『論理学大全』
1347-48 ペスト流行。
1353頃 ボッカッチョ『デカメロン』
1378-1417 大シスマ(ローマとアヴィニョンに教皇が並立)。
1440 ニコラウス・クザヌス『知ある無知』
『こうして、この長期波動〔1000-1450――ギトン註〕全体として注目すべきことは、その対称性である。〔このようなきれいな対称性は、資本主義システムの始動以後には、見られなくなる。――ギトン註〕
経済の変数は、最初上昇し、のちに下降に転じた。さまざまな社会構造も、最初は一定の方向に動き、のちに逆方向の趨勢となった。政治的階層秩序――直接生産者に対する領主の支配と・貴族に対する君主の支配――も、はじめは強化の方向に向かったが、のちに弱まっていった。中心的な文化は、最初自信に満ちていたが、のちに疑念を呈されるようになった。
しかもこの対称性は、「ヨーロッパ封建文明」全体に〔…〕だけでなく、各地方についても確認できる。〔…〕各地方は、まるで全体のパターンをなぞっているかのごとくである。封建ヨーロッパは、デュルケームが〔訳者註――『社会分業論』で「有機的連帯」と対比させた〕「機械的連帯」の一つのモデル〔…〕にも見える。』
ウォーラーステイン,川北稔・訳『近代世界システム Ⅱ』,p.xiv. .
ヤン・ファン・エイク「ロラン尚書官の聖母」1435年頃、部分。
©MeisterDrucke-107481.
↑前記引用の最後の部分について、事典を参照してみましょう。↓説明の「個人」を「地域」と言い換えれば、上の文脈に該当します:
『デュルケムによれば、同質的で環節的な社会における・類似した個人の結合である「機械的連帯」は、
〔ギトン註――近代の〕組織的な社会における異質な個人の・特定の関係をとおした結合』である『「有機的連帯」と区別できる。
未開社会のホルド〔※〕に典型的に見られるとされる前者は、社会的分業の発達にともなって衰退し、後者に取って替わられる。こうして成立するのが近代社会である。』
廣松渉・他編『岩波哲学・思想事典』「連帯」. .
註※「ホルド」: horde. 「群」。英語ではふつう band と云う。 原始社会における基礎的集団。家族がいくつか集まったもの。旧石器時代人は、「群」をなして一定地域内を季節的に移動し、狩猟・採集・遊牧などの生活をした。原始社会の「生活単位は夫婦とその子どもからなる核家族で,資源が豊富なときは一時的に30人から100人ほどの集団〔バンド〕をつくるが,また家族単位で離散してしまう。旧石器時代以来,採集狩猟生活者の多くはこの生活様式であり,そこではリーダーに率いられる一時的な狩猟集団以上の組織はない。政治的経済的な集団組織は家族をこえて存在しないのが,バンド段階の社会の特徴である。〔…〕狩猟民でも北西アメリカ・インディアンのように資源に恵まれた地域では首長制に達している」〔世界大百科事典〕とされる。しかし、縄文時代人が恒久的な集落を形成していたのは明らかで、「狩猟定住」段階には、恒久的な定住バンドが存在した。「恒常的なバンドをホルドとして,他と区別することもある。ホルドは本来,中央アジアの遊牧民集団に対して適用された」名称である〔ブリタニカ〕
さらに、『社会分業論』の説明を見てみます:
『デュルケムの主著〔…〕。本書は、社会の進化を分業の進展として把握し、分業が未発達で・社会の諸単位が同質的であるような社会(環節社会)において成立する連帯を〈機械的連帯〉、分業が進み、異質な単位が相互依存的になっている社会において成立する連帯を〈有機的連帯〉と呼んだ。そして、近代社会を、分業にもとづく有機的連帯の社会と見なした。
その際、デュルケムは』「分業」にかんして、『人口増加・集中、交通と社会関係の緊密化などの客観的構造変化による説明に努めた。その一方、〔…〕分業による人々の異質化により自立と個性化がもたらされ、また相互依存の深化による新たな共同の意識が成長すると考えた。〔…〕
しかし、そうした見通しにも拘らず、現実のヨーロッパ社会の分業の状況は、無規制性やはなはだしい拘束性を呈している。第3篇ではこの〔…〕産業の無規制(アノミー)、階級対立、弱肉強食の競争などが指摘されている。〔…〕
〔ギトン註――デュルケムとジンメル〕に共通するのは、〔…〕社会の分化は、決して社会をバラバラにするのではなく、逆に社会を高度な統合水準に導くものである(あるいはそうあるべきだ)とする確固たる見通しである。』
廣松渉・他編『岩波哲学・思想事典』「社会分業論」「社会分化」. .
大湯環状列石、紀元前20-15世紀。秋田県鹿角市。各地の縄文遺跡を訪れて
みると、個性豊かなことに驚かされる。「縄文」という一つの文化があった
のだろうか、土器の形が模倣されただけなのではないか、と疑うほどだ。
つまり、「環節社会」とは、ヨーロッパ中世のような前近代社会を、ミミズのような環節動物の体制になぞらえた概念:多かれ少なかれ完結した分業を持つ単位社会が、多数連結して一つの社会をつくっています。これを、
各部分社会の独自性・異質性が大きく、それらの間に高度な役割分担と統合が見られる・近代の「有機体的社会」・に対比します。その場合、近代の「有機体的社会」は、決して誰か権力者が、あるいは「国家」が、計画して・ロボットを組み立てるように造り上げたものではない――ことに注意する必要があります。「国家」や知識官僚の “計画” 能力には、また実行力にも、かなり狭小な限界があるのです。現実の近代社会には、さまざまな「無規制性」と衝突・軋みがあり、「国家」は、しばしば「拘束性」を強化してそれを乗り超えようとします。しかしその一方で、‥‥じつは社会自体に「高度に統合」する性質が備わっているのだ、というデュルケームらの指摘は記憶に価するでしょう。
それと、もうひとつ。デュルケームも、ウォーラーステインも、近代以前は、どの個人も村も地域も似たり寄ったりで、近代になると異質化・個性化する、と言います。しかし、私たちの生活感覚には、むしろ近代社会のほうが、冷たい画一化が行きわたっているようにも感じられるのです。この点については、本書を追いながら考えてみたいと思います。
最後に、ヨーロッパ中世の音楽を聴いておきましょう。13世紀,スペインの「栄光の聖母に A Virgen Muy Groriosa」↓。おかしな感じがするかもしれませんが、私たちになじみのある「ヨーロッパ」という文化圏は、この時代にはまだ誕生していなかったのです。
こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!