「沖縄返還」。1971年8月、米国は、ドルの金兌換を停止し(ニクソン・

ショック)、1972年5月、沖縄の施政権を手放した。2つの出来事は決して

無関係ではなかった。72年1月、那覇市内で撮影。©沖縄タイムス.

 

 

 

 

 

 

【6】 「新自由主義」の現在――アメリカの

ヘゲモニー低下、3度目の「帝国主義」段階


 

『1980年代以降のアメリカの経済政策は、新自由主義と呼ばれています。しかし、新自由主義とは、それまでの自由主義〔ヘゲモニー福祉国家の諸政策――ギトン註〕〔…〕否定なのです。〔…〕19世紀末にイギリスにも同様の政策の転換がありました。それが当時「帝国主義」と呼ばれたものです。〔…〕その内実は、今日の「新自由主義」と似ています。というより、新自由主義は、新帝国主義と呼ぶべきものなのです。

 

 また、新自由主義は、1国が選択する経済政策であるとはいえません。〔…〕1国だけがそれから遁れるというわけにはいかない。その意味でも、帝国主義と同じです。したがって、私は新自由主義を、世界資本主義の1つの歴史的段階であると見なします。

 

 ここで、19世紀末の帝国主義をもう一度ふりかえってみます。ハンナ・アーレント『帝国主義の特徴をイギリスの文脈で見ようとした〔…〕イギリスでは、帝国主義とは、資本が海外に向かい、国民=ネーションを切り捨てることであった。』

柄谷行人『憲法の無意識』,2016,岩波新書,pp.166-167.  

 

 

 かつて世界史上、古代・中世の《帝国》――漢,唐,モンゴル帝国,ペルシャ帝国,ローマ帝国,オスマン・トルコ,‥――は、他民族・国家を統合して支配する原理を持っていました。自国の宗教・文化を、必ずしも被支配者に押し付けない。権威に服従して貢納すれば、統治には介入しない、といったことです。「万民法」「世界宗教」「共用文字言語〔漢文,アラム語,コイネー,ラテン語,コーラン・アラビック〕」「度量衡統一」「紀年・暦法の制定」も《帝国》支配の重要な手段でした。

 

 

 

 

 ところが、アーレントによれば、近代の「帝国主義」には、そのような統合の原理がありません。国民国家(ネーション・ステート)がそのまま、支配を拡大しようとするだけなので、「自由・民主主義」といった自国の価値を押しつけて同質化しようとする。また、国民国家の支配の拡大は、交換様式C(資本主義進出)にもとづくものです。近代の「帝国主義」が植民地・半植民地から奪うのは、領土・統治権よりもまず、関税権です。自由貿易と価値を押しつけ、伝統的な産業と文化を根こそぎ破壊しようとするのが、近代の「帝国主義」なのです(柄谷行人『帝国の構造』,2023,岩波現代文庫,pp.96-99.)そこで、「帝国主義」は、支配下の民族から強い反発を受けることになります。その結果、「帝国主義」が解体したあとには、多数の国民国家が独立することになります。ナポレオン戦争(1度目の「帝国主義」期)の結果がそうでしたし、19世紀末の「帝国主義」も、それが終った後の自由主義期〔1930-1990〕にアジア・アフリカで新興国独立のラッシュとなりました。(『憲法の無意識』,pp.139-140.)

 

 

1930年1月、第2次サティヤーグラハ(非暴力不服従)

運動「塩の行進」の先頭に立つマハトマ・ガンディー

 

 

 しかし、国民国家が、そうやって「帝国主義」として膨張していくためには、自由主義期の「資本=ネーション=国家」のままでは海外に移転できません。資本は、ネーションの足かせを切り捨てなければ、自由に出て行くことができないのです。ネーションの足かせとは、資本発展のもたらす格差拡大に対する「平等主義」の要求です。アーレントによれば、19世紀末の「帝国主義」期は、「ブルジョワジーが初めて政治的権力を握った」時期です。それまではネーションの制約を受けて労働者の福祉や再分配にも配慮していた国家は、「帝国主義」期になるとそれらを切り捨て、資本の自由な海外進出と金融投機を支援するようになるのです。(『憲法の無意識』,pp.167-168.)

 

 

『それは、国家ネーションを配慮する制約から解放されたということです。〔…〕国家=資本は、ネーションの平等主義的な要求から解放された。〔…〕社会福祉などやる必要はない。労働組合の言うことなど聞く必要はない。資本の独裁、それがイギリスの「帝国主義」の内実です。〔…〕

 

 この時期イギリスで起こったことは、現在、新自由主義として、先進資本主義国に起こっていることと同じです。これはまた、中国やインドでも起こっています。〔…〕

 

 企業は、賃金の安い労働者を求めて海外に移動する。資本の国際競争のためには、人びとの生活は犠牲にされてもやむをえない。その意味で、新自由主義のイデオロギーは、帝国主義のそれと類似してきます。〔ギトン註――1870-1930年の〕帝国主義時代に支配的なイデオロギーは、弱肉強食という社会的ダーウィニズムでしたが、新自由主義時代にも〔…〕勝ち組・負け組、自己責任、といった言葉が公然と語られる〔…〕労働者は正社員、パートタイマー、失業者という位階に分断された。それは自由競争による自然淘汰の結果として当然視される。

 

 しかし、19世紀末に始まる帝国主義の場合、資本ネーションを犠牲にするようなことは、第1次大戦以後は通用しなくなりました。1つには、ロシアで社会主義革命が起こり、〔…〕諸国家も民族自決を掲げ、帝国主義を否定するようになり、また、国内でも労働者・農民を保護する政策をとらねばならなくなった。それは、ニューディール政策(ケインズ主義)あるいはファシズムという形をとりました。〔…〕第1次大戦後には、それ以前の帝国主義が否定された、ということができます。その結果として、アメリカのヘゲモニーにもとづく自由主義的な段階が成立したのです。

 

 それが終りを告げたのは、1980年代に顕著になったアメリカの産業資本の衰退です。さらに、1990年ごろに起こったソ連圏の崩壊。〔…〕このあとに生じたのは、第1次大戦以降否定されてきた「帝国主義」の復活〔「新自由主義」の名のもとに――ギトン註〕なのです。〔…〕資本=国家は、もはや遠慮会釈なく、労働運動を抑圧し、社会福祉を削減するにいたった。こうして、各地で資本の独裁体制ができあがったのです。』

柄谷行人『憲法の無意識』,pp.168-170.  


 

1991年1月、「湾岸戦争」。炎上するクウェートの油田地帯の上空を

飛行するアメリカ空軍F-15,F-16戦闘機。

 

 

 

【7】 「3度目の帝国主義」との闘い方

――「多極化」と周辺諸国/表面を疑え

 


 これ以降は、現在の「帝国主義」期〔1990-2050〕の状勢が、過去の「帝国主義」期〔1870-1930〕と、いかによく似ているかが述べられています。このへんになると柄谷さんの考えは、まだよくまとまっていないようで、表面的観察の印象をぬぐえない箇所もあります。

 

 しかし、そのなかから、いくつか掻い摘んで箇条書きふうにすると、次の4点になるでしょう。各点のあとに、「☞」以下、私の所感を述べます。

 

 

1 「現在の東アジアの地政学的構造が形成されたのは、日清戦争のころです。」「日清戦争の時期に日本がとった選択」が「そのような構造をもたらした」。「選択」とは、福沢諭吉の言う「脱亜入欧」路線、……というよりも実際には、「欧」とともに「亜」に侵入する路線、つまり「帝国主義」でした。(p.176.)

 

  「現在、中国・日本・南北朝鮮の間には、かつて日清戦争の時期にあったのと構造的に同じ状況が存在している」(p.174.)

 

 ☞ 前半は、その通りだと思います。しかし、後半については疑問です。たとえば、朝鮮半島が2つの国家に分断されている、というような状況は、日清戦争当時には無かったし、予想さえできなかったことです。

 

 たしかに、日清戦争前後は、近代東アジアの形成において重要な時期ですが、歴史は重ねられてゆくものです。安易に2つの時期を取り出して、表面的な類似点から何かを結論しようとするやり方には賛成できません。

 

 

2 「近年フランスで起こっているイスラム過激派のテロリズムとそれに対する世論の反応が 120年前と類似する」。ただし、120年前は、ユダヤ人を標的にして反ユダヤ主義が煽動されていたが、現在はユダヤ・イスラエルではなく、それと対立するアラブが標的にされている。現在の「中東における〔イスラムの〕宗教的原理主義は、イスラエルのシオニズムに類似しています。たとえば、イスラム国(IS)が建設されたのは」イスラムの伝統を装っていても、じっさいは「イスラエル建国の模倣である」。(p.178.)

 

 ☞ 現在の「3度目の帝国主義段階」について、ここから言えるのは、「極」と「周辺」のあいだの矛盾・闘争に、宗教イデオロギーが絡んでいるということだと思います。それは、120年前とは異なる状況です。

 

 現在は「多極化」がキーワードです。新自由主義諸国に中国,インドなどを加えた・ヘゲモニー争奪中の諸国を「極」とすれば、それぞれの「極」は自分のまわりに小国家群・低開発国群を「周辺化」して配置し、政治的には中心化し、経済的には資本投資の対象として従属化しつつあります。「周辺」国のほうも、「極」から借款等を受け入れなければやっていけないのが現状ですが、しばしば累積債務に陥って一層の従属を強いられます。複数の「極」から圧力を受けることも珍しくなく、バランスを誤れば、国内で深刻な党派対立が起きて政治機構を麻痺させます。

 

 柄谷氏が指摘する状況は、「周辺」国側は「極」に対抗するイデオロギーとして宗教に頼ることが多く、「極」のほうでは逆に、宗教に対する差別的意識で一致しようとする、ということだと思います。「極」は、自分のネーションや価値を「周辺」に押し付けて、同化しようとします。これは、フランス「極」だけでなく、中国「極」などにも顕著に見られます〔⇔ウイグルのイスラム教,チベットのラマ教〕

 

 

新疆ウイグル自治区の新興住宅地で遊ぶ子供たち。2012年9月撮影 ©Reuter.

 

 

3 「現在あるような〔世界的〕不況は、〔19〕30年代の不況とは異質です。」1930年代の不況は、急激で深刻だったが、回復する展望があり、まもなく回復した。しかし、現在の不況は、それほど深くないかわり、長引いて、回復の見通しがない。

 

  このような慢性不況は、19世紀末の「帝国主義」時代と同じである。19世紀末から第1次大戦まで、重工業化の発展によって、雇用と消費が減退したため、先進諸国は慢性的な不況に見舞われた。それと同様に、「現在は、ITの発展があっても、〔…〕雇用を減らすことになるので、消費の減退に帰結し」てしまう。だから、技術革新によって不況から抜け出そうとしても、原理的困難がある。これは、「帝国主義」期に共通する資本主義の障害と言えます。1930年代と比較しても、問題の解決にはならない。(p.179.)

 

 

4 「没落しつつあるアメリカに代わって、新たなヘゲモニー国家となるのは、〔…〕人口から見ても、中国ないしインドということになります。しかし、中国やインドの経済発展そのものが、世界資本主義の終りをもたらす可能性がある」。なぜかと言うと、‥‥端的にいえば、この2国には「世界の農業人口の過半数が存在」していたからです。ところが、両国の資本主義工業化によって、それは急速に消滅しつつあります。世界資本主義の存続には、本源的蓄積が不可欠なのです。資本主義は、その外部にある自然(資源)と人口を常に切り崩しながら発展しているのであって、蚕食する「外部」が無くなれば、資本主義経済は、活動が止まってしまうのです。

 

 “フロンティア” の消滅は、世界資本主義の存続を不可能にします。(ついでに言えば、①自然〔資源;捨て場としての大気と海〕の枯渇,②技術革新の頭打ち、も深刻ですが、おそらく最初に来るのは③外部人口の枯渇です)

 

 もちろん、在来式農業に従事する人口が減ったからといって、食糧生産ができなくなるわけではありません。機械化され、技術的に洗練された方法で、人手のかからない農業生産を発展させてゆくことは可能です。また、資本主義でなくとも、他の方式で生産と交換を行なうことは可能です。資本主義は、たかだかこの 300年間に主流となったにすぎません。資本主義(交換様式Cのなかの一部にすぎない)から他の方式への移行がスムースに行なわれるならば、何も心配することはないのですが‥‥。

 

 問題は、この「移行」に、資本国家は頑強に抵抗すると予想されることです。「資本の弱体化は国家の弱体化でもあります。それゆえ、国家は、何としてでも資本蓄積の存続をはかるでしょう。資本は、自己増殖ができないならタヒにます。しかし、是が非でも生きながらえようともがくので、〔…〕今後、世界市場における資本の競争は、タヒにものぐるいのものになります。」

 

 しかし、その熾烈な争いから、直ちに第1次大戦のような戦争に突入する可能性は低い。人類は過去の経験から学んでいるからです。まず、先進資本主義国どうしの対立が激化します。これは、2度目の「帝国主義」期と同様に、「互いに資源や市場を囲い込」んで、「地域主義」(ブロック間)の対立となります。

 

 他方、「先進諸国に対する低開発国の闘争」も起きます。このような “下剋上” の闘争には、いつも何らかの正当性根拠ないし理念が必要です。しかし、ひところ言われた「第三世界」の理念は、「第二世界」(ソ連圏)が存在しない現在では、もはや無効です。そこで、イスラム教,ヒンズー教などの宗教にそれを求めることになりやすい。適当な宗教がない国では、マルクス主義(の王朝ヴァージョン)が持ち出されたりしますが、これは若干苦しい。

 

 しかし、それで直ちに先進国・低開発国間の戦争になるわけでもない。


 

イスラエル不招待について、記者の質問に答える鈴木史朗・長崎市長。「決して

政治的な理由で招待しないわけではなく、平穏かつ厳粛な雰囲気のもとで式典を

円滑に実施したい理由だ。苦渋の決断ではあったが、決定した」2024年8月8日。

 

 

 「以上の2種類の闘争は、入り組んでいます。」低開発国からの反撃に対して、帝国主義(新自由主義)諸国は連帯して対処しますが、同時に帝国主義国間でも争う。低開発国どうしも、帝国主義諸国の「ヘゲモニー争いに巻き込まれて分断され〔…〕互いに抗争します。このような混沌とした争いが、思いもよらぬ世界戦争に発展する可能性がある〔…〕突発した局地的な戦争が世界戦争に発展する蓋然性は高いのです。」(pp.180-183.)

 

 したがって、ヘゲモニーを争い合う現在の状態から、新たなヘゲモニー国家体制への移行、あるいは、そもそも資本主義とは異なる生産・交換方式への移行が起こるとしても、戦争を経てそうなる可能性が高いことになります。ちょうど、2回目の「帝国主義」段階が、2回の大戦を経て終了したのと同様に、「現在の新自由主義段階も、やはり戦争を通して終息する蓋然性が高い」。もちろん「真の解決はむしろ、世界戦争を阻止することによってもたらされる〔…〕その場合、日本がなすべきでありかつなしうる唯一のことは、憲法9条を文字通り実行することです。」(pp.183-184.)

 

 ☞ まず、この最後の段落における第3の「大戦」の危険性――というより、柄谷氏は「蓋然性」(必然性の一歩手前)とまで言っている――についてですが、私は、現代における戦争と平和の関係は、もっと複雑なものになっていると思います。たしかに、この 2024年8月の時点で、ガザ地区のハマスやレバノンのヒズボラをめぐる対立が、イラン・ロシアとイスラエル・欧米の間の大規模な中東戦争に発展する可能性が憂慮されています。「帝国主義諸国間のヘゲモニー争い」とそれによって「分断された低開発国どうしの抗争」が複雑に絡み合って「思いもよらぬ世界戦争に発展する」という、憂慮の図式に当てはまる状況があるからです。しかし、私はこれは結局回避されると見ています。そのかわり、ガザ地区のような刹戮は、今後も世界の各所で公然と行われることでしょう。なぜ刹戮が見過ごされるのか? より大規模な戦争になることを恐れるからです。それだけ人類は “世界戦争の世紀” から学んで知恵をつけたともいえる。その半面で、罪のない “小さな犠牲” は公然と見過ごされてゆく。……この状況に対して、長崎市が、イスラエルを平和祈念式に不招待とすることによって《異議申し立て》したのは、本質的な行為であった(意識的動機が何であろうとも)と言えます。なぜなら、広島と長崎こそは、核戦争回避のために “小さな犠牲” が公然と作り出されたこちらのコメント欄参照〕最初の事例であったからです。

 註※「本質的な《異議申し立て》」: 市長の控え目な言い方のなかに、どんな抗議よりも深い・市民たちのイスラエルに対する深い失望を、私は見る。⇒:インタヴュー全文

 

 柄谷氏の言う「の出現」あるいは「世界共和国」は、こうした本質的行為の積み重ねの果てにしかありえない、と私は思います。

 

 私は、資本主義に代わる新しい方式が出てくるとしたら、「極」からではない。つまり、G7からも中国からもインドからも出て来ない。むしろ、「極」に対抗する側からしか出て来ようがないと考えています。なぜなら、「極」とは「帝国主義」国家であり(中国もインドも例外ではない!)、資本=国家の動因によって動いているからです。

 

 それでは、「周辺」国が、「資本主義でない方式」への移行を担うのかというと、これまたそう単純にはいかないと思います。たしかに、「周辺」国には、より古い社会編成が残っているでしょう。しかし、それはそのままでは、どうにもならない。どうにもならないがゆえに、現状の「周辺」国は、資本と資本主義を受け入れようと、ほとんど血道を上げているのです。

 

 ここでヒントになるのは、「力と交換様式(28)」【82】で見た「アーミッシュ」の事例です。ヘゲモニー国家アメリカの中心部・ニューヨーク州に「アーミッシュ」の村があって繫栄していることに驚きますが、むしろ、ヘゲモニー国家の中心部にあるからこそ存立しうる――と考えるべきなのかもしれません。というのは、たとえば「アーミッシュ」の若者たちは、休日にはニューヨークの街へ行って、当代最高の文化に浸ることもできる。そうやって発散したうえで、平日には村で前近代的な “人間的な” 暮らしを続けることができる(外の世界で働いていれば、平日と休日が逆かもしれませんが)。また、そうした往き来を通じて、外の世界の《自由》なふんいきや考え方が、つねに村に入って来る。個人の《自由》と自律を重んじる考え方が「アーミッシュ」から無くなることはないのです。

 

 

アーミッシュの若者たちは、8年間の学校教育と、「外」での就労経験を

経たあと、アーミッシュ教会の歴史を学んだ上で、

洗礼を受けるかどうかを自ら決める。 ©Wikimedia.

 

 

 北朝鮮の人びとは、処刑の危険を冒してでも韓ドラが見たくなります。修道院のようなところに閉じこもった生活は、いくらそれが理想社会だと言われても、信じて堪えていける人は少ない。人間とは、無限に増大しうる「欲望」をかかえた厄介な生き物です。それを考えた場合には、資本主義領域と非資本主義領域の併存、という在り方は、当面の解決を示しているかもしれないと思うのです。

 

 柄谷氏の言う「憲法9条の実行」についても、たとえば、単に自衛隊を解散したというだけでは、大きな影響力をもたないと思います。むしろそれ(最初から完全無軍備でなくてもよい)を掲げて、何をするかが重要だと思います。紛争の生じている場所、戦争になりそうな場面に積極的に関与して、当事者とともに悩んでみる努力が必要です。「正しい真理」を掲げることは、それだけならば何の意味もない。必要なのは実践です。

 

 

 

 

 

 

 よかったらギトンのブログへ⇒:
ギトンのあ~いえばこーゆー記

 こちらはひみつの一次創作⇒:
ギトンの秘密部屋!


 

セクシャルマイノリティ