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アメリカ/メキシコ国境のフェンスをはさんでミサを行なう人びと。

2018年、メキシコ・ティファナ。©Murayama Yusuke - 朝日Globe.

 

 

 

 


 

【86】 カントの「世界共和国」――それは国家か?

 

 

 前回で、『力と交換様式』の最後のページまで行ったのですが、どう思われたでしょうか? 終り方が、横へそれたような感じがしませんでしたか?

 

 その手前までは、「国家と資本を揚棄(≒廃止?)する」ということを盛んに語ってきたのに、最後の最後で、「世界共和国」になってしまう。それが「」だ、と言われると、何だかはぐらかされたような気がします。それというのも、「世界共和国」だって「国家」じゃないか。カントだって、そう言っているようにしか読めない。全世界を支配する・もはや敵対しうる勢力さえない “最終国家” の下で、人びとは服従の桎梏から逃れるすべを失うのではないか?。。。 そう思われてくるのです。

 

 その点を、少し追究してみたいと思います。まず、問題はカントです。

 

 カントの「世界共和国」について、柄谷氏は、つぎのように言います:

 

 

カントの考えでは、「世界共和国」が成立するとき、国家は死滅する。〔…〕

 

 『永遠平和のために』においてカントが考えたのは、国家、いいかえれば交換様式Bがもたらした怪獣を、いかに揚棄するかという問題であった。そのとき彼が示唆したのは、それ〔国家――ギトン註〕を片づける』ような『「力」があるということだ。彼はそれを「神」とは呼ばず、「自然」と呼んだ。〔…〕そのときカントは、交換様式Dに該当するものを見出したといってもよい。』

柄谷行人『力と交換様式』,p.290.

 

 

 しかし、『永遠平和のために』には、「国家はタヒ滅する」などとは全然書いてないし、こじつけて、そういう読みかたをすることもできません。なるほど、アメリカも中国も「タヒ滅」するだろう。しかし、唯一の国家――「世界共和国」が残るではないか!!

 

 あるいは、こう解釈できるでしょうか? …「世界共和国」は、カント最終目標ではない。「世界共和国」ができた後で、その「国家」もまた、「自然」の《力》によって「揚棄」されることが予感されるのだ、と。(もちろん、カントはそんなことは書いてませんが)‥‥

 

 ここで私は、カントから別の1節を引いておきたいと思います。カントは、人類の最終的な理想状態を、マルクス/エンゲルスや、ジェイムズ・C・スコットとは違って、国家の無い状態とは見ていないようなのです。彼はむしろ、いっさいの不正をただす・強大な国家権力が支配する状態を理想としているように見えます。

 

 だとするとそれは、カントのどんな考え方から来ているのか? ‥われわれはそれを受け入れられるのか? ――視点を変えて、そっちのほうからヒントを探ってみたいと思います。

 

 



『◆第5命題

 ◇市民社会という〈檻 おり

 

 人類が自然によって解決することを迫られている〔「自然」が人類に、解決せよと迫っている――ギトン註〕最大の問題は、普遍的な形で法を施行する市民社会を設立することである。このような社会でなければ、自然の最大の意図、すなわち人間のすべての素質を発展させるという意図が実現されないのである。この社会において市民たちには最大の自由が与えられる。そして市民たちは、どこでも敵対的な関係のもとにありながらも、他者の自由が守られるようにする。そして各人の自由の限界は〔ギトン註――法律で〕厳密に規定され、確保されるのである。自然は、人類がこの社会を独力で構築し、人類に定められたすべての目的をみずからの力で実現することを望んでいるのである。

 

 だからこれは、誰も抵抗することのできない権力のもとで外的な法律に守られている自由が、できるかぎり最大限に実現されるような社会である。すなわちまったく公正な市民的な体制を設立することこそが、自然が人類に与えた最高の課題なのである。〔…〕

 

 ところで人間はたえず、無制約な自由に強く魅惑されているため、必要に迫られなければこのような強制された状態に入ることはない。こうした必要性のうちでも最大のものは、人間がたがいに他者に加える強制である。〔…〕

 

 森ではすべての樹木は、〔…〕できるだけ多くの空気と太陽を〔…〕隣りの樹木から奪って自分のものにしようと、たがいに競って伸びようとする。こうしてどの樹木も、まっすぐな幹を上に伸ばすことができるのである。このように、隣りの樹からいわば〈強制〉されることがないと、どの樹も自由なままに枝を好きなところに勝手に伸ばしていくだろう。そして幹は曲がり、いびつに屈曲したまま成長することになるのである。

 

 人間にとって〈飾り〉であるすべての文化と芸術と、きわめて美しい社会的な秩序は、こうした非社交性のもたらした成果なのである。この非社交性は人間に、みずからに規律を課すように強制し、強制されて獲得した技を通じて、自然の萌芽を完全に発展させるのである。〔…〕

 

 

バルト連邦大学(旧ケーニヒスベルク大学)前のイマヌエル・カント像。

© picture alliance / imageBROKER      .     

 

 ◆第9命題

 ◇自然の計画

 

 自然の計画は、人類において完全な市民的連合を作りだすことにある〔…〕

 

 ヨーロッパにおいては、国家体制が規則的に改善される道程をたどっていることが発見できよう。その際にわれわれは、市民体制とそのと、諸国の間の関係だけに注目することにしよう。

カント「世界市民という視点からみた普遍史の理念」,in:中山元・訳『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』,2006,光文社古典新訳文庫,pp.43-45,60-62.    

 註 下線部は、引用元の傍点部、原文の隔字体。以下同じ。


 

 つまり、人間は〈檻〉に入れられていてこそ、その最良の天分を発揮することができる、とカントは言うのです。

 

 文中にある「非社交性とはカントによれば、人間が他の人間から「孤立して、すべてを自分の意のままに処分しようとする」傾向であり、どの人間もそうした傾向をもっているということを、誰もが熟知しているので、人間はみな「他者に抵抗しようとする傾向」を持っている。その一方で人間には、「集まって社会を形成しようとする傾向」すなわち「社交性」も備わっている。したがって、人間は、社会を構築しようとする一方で、「たえず社会を分裂させようとする」のである、と。(op.cit.,pp.40-41.)

 

 そして、カントによれば、この「非社交性こそが、森林の比喩で述べられたような「強制」(矯正)作用を及ぼして、文化や芸術や社会秩序を発達させている。「公正な市民的体制」、すなわち個人の「自由と平等」が実現された理想的な市民社会も、そうした規律と法治の延長上においてのみ期待することができる、というのです。

註※ カントのいう「非社交性」ないし「非社交的社交性」は、「フロイトが言う[タヒの欲動]ないし[攻撃欲動]に類するもの」である(柄谷行人『帝国の構造』,岩波現代文庫,p.245)。したがって、それは他律的な強制としてのみ作用するわけではなく、対・他者から対・自我へ「折り返す」ことによって自律的な「超自我」ともなりうる。「いいかえれば、戦争こそが戦争を抑える制度を作り出す」(a.a.O.)。ここに、カントの “国家必要説” を超えるヒントがあると思う。

 

 ここでカントの云う「市民社会」「市民的体制」「市民的連合」は、「国家」の存在を前提とする・「国家」の統治の下での社会です。そのことは、↑上で「第9命題」から引用した部分を見れば明らかでしょう。そこでは、「自由」も「平等」も、普遍的に適用される「国家」の《法律》によって守られてこそ存在するのです。そして、《法律》がそのような力を持つということは、「国家」が、警察、軍隊、行刑施設といった暴力装置によって《法律》の強制力を裏づけているからにほかなりません。理性が完全に行なわれ・理想的な「市民社会」が成立するためには、「誰も抵抗することのできない」絶大な「権力」を持った強大な「国家」が後ろ盾として存在することが必須である‥‥

 

 しかしながら、ここで再び視点を変えてみましょう。たとえば、「森林の比喩」に対しては、容易に批判を向けることができます。「一本杉」というものを見たことがあれば、誰でも、杉は周りに他の樹がなくとも真っすぐ上に伸びることを知っています。曲がりくねった樹は、「強制」されないから曲がるのではなく、強風を受ける場所に生えていたり、人間に途中で伐られたあとで・また伸びたり、岩などの障害物に邪魔されたりした場合に曲がるのです。つまり、外部からの「強制」が無ければまっすぐに伸びるのであって、曲がるのはむしろ「強制」が原因なのです。カントの言説は不正確な観察による誤謬と言わざるをえません。

 

 

岩手県・紫波三山・通称「ブナ広場」のブナ独立樹。

枝分かれしているが根元はひとつで、日本有数の巨樹である。

 

 

 そうすると、その点を比喩として人間界に及ぼすならば、むしろ「強制」による奇形的発達を見なければならないでしょう。「強制」をできるだけ取り除いて、のびのびと生きられるようにしたほうが、文化も芸術も発達する。外部から強制しなくともおのずから備わる規律というものもあるはずである。なぜなら、われわれ人間は「超自我」をそなえているのだから。。。。 そういったことが考えられます。

 

 もちろん、いずれにしても比喩にすぎませんから、人間の社会について・どちらか一方だけが真実、ということではないでしょう。問題は、社会にとって、なかんずく、近現代のような・いわゆる「高度な」文明社会にとって、その存立のために「国家」は必須なのかどうか、ということです。

 

 これは、かんたんに答えられる問題ではありません。ともかく、カントは必要説のほうに立っている……だけでなく、理想に近づけるには「国家」をもっともっと強大化してゆく必要がある、という考えのようです。「死滅する」どころではない。

 

 柄谷さんのカントの読み方には賛成できない。と、とりあえず言っておきましょう。

 

 

 

【87】 カントの「自然」と「統制的理念」

 

 

 ところで、カントはこうした・社会や歴史に関する思索のなかで、人類史の方向を決定づける仮定的存在として「自然」というものを持ち出します。この「自然」は、私たちが普通にイメージする・自然環境,天然自然,自然科学的宇宙,…といったものとは、かなり違うようです。カントの「自然」をもう少し掘り下げてみましょう。

 

 柄谷氏は『力と交換様式』の註で、次のように言います:

 

 

カントはかつて、構成的理念統制的理念を区別した。前者は、人間の意志によるもの、後者は、人間の意志を越えたものである。晩年のカントは、統制的理念とは言わずに、「自然」と呼んだ。それは人間の意志を越えた何かであるが、神ではない。それは、私が言う交換様式Dに対応するといってよい。』

柄谷行人『力と交換様式』,p.407(2).

 

 

 つまり、カントの云う「自然」とは、「統制的理念」のことだというのです。

 

 

 

 

『わかりやすく言うと、理性を構成的に使用するとは、ジャコバン主義者(ロベスピエール)が典型的であるように、理性にもとづいて社会を暴力的に作り変えるような場合を意味します。

 

 それに対して、理性を統制的に使用するとは、無限に遠いものであろうと、人がそれに近づこうと努めるような場合を意味するのです。たとえば、カントがいう「世界共和国」は、それに向って人々が漸進するような統制的理念です。

 

 カントによれば、統制的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。』

柄谷行人『世界共和国へ』,2006,岩波新書,p.183.    

 

 

 ‥‥そうすると、「構成的理念」あるいは「理性の構成的使用」とは、人間が計画を立ててそれを実行することなのでしょう。「科学的」社会主義者のお好みの、自然発生的にではなく意識的に、というやつです。たとえば、設計図を書いて、設計図のとおりに家を建てる。それが「構成的」なやり方で、官僚,テクノクラートとは、こういうのがお得意な人たちです。

 

 しかし、社会変革のようなことを「構成的」にやろうとすると無理が出ます。社会は刻々自分で動き、かつ変化しているので、そこに外から操作を加えると、決して設計図通りの結果にはなりません。もしも無理やりに所期の結果を出そうとするならば、暴力的にやることになる。その結果は、短期的には設計したほうに進んでいるように見えても、最終的には真逆になります。

 

 ロベスピエールよりも、レーニンのほうが適例でしょう。フランス革命は大きな犠牲を払いながらも、人類を前進させました。しかし、旧「社会主義」国の人たちは、レーニンらのやったことを全否定したうえで、すべてを初めからやり直しているのです。

 

 そこで、理性にかなった理想を掲げるにしても、もっと別なやり方をしようというのが「統制的理念」「理性の統制的使用」です。「世界共和国」ができれば、自由・平等・公正が完全に実現される・すばらしい世界になるかに見えます。そうなるように理性によって組み立てたのですから、そう見えるのは当たり前です。しかし、それが設計図のようなものだと思ってはいけない。政権を取って、あるいは全世界を征服して、(地上唯一の)国家権力によって、それを実施しようとすると、とんでもない結果になる。それは説明するまでもないことでしょう。

 

 「統制的理念」をかかげてできることは、さまざまな部分的な改良の試みを重ねてゆくことです。ユートピアニズムのような局地的な試行も有益です。思わぬ結果が出てしまうことも多々ありますが、長い眼で見れば、漸進しているように見えるかもしれません。そう見えないかもしれません。どちらに見るかは、多分に価値判断の問題だからです。それでも、「統制的」な理想を掲げていけないという理由にはならない。「統制的」な理想があるということ自体が、途上にある私たちの社会にたいして有益な作用を及ぼすからです。

 

 

サルヴァトル・ローザ〔1615-1673〕『ヘラクレイトス

©Wikimedia. 「万物は,恒常的リズムで明滅する火で

あったし、現在そうあるし、永遠にそうあるであろう」


 

 たとえば、ヨーロッパを中心とする世界で、なぜ科学がこれほど発達したかといえば、「科学は、いつかは世界のすべてを解明するはずだ」という「信」(信仰)をもつ人が、はじめはごく少数存在し、科学が成果をあげるたびにだんだん増えていく、ということがあったからです。最初の、たとえばイオニアのタレスヘラクレイトスの時代には、科学(自然哲学)というものは極めて大雑把であやふやなもので、そんなものが役に立つと信ずるのは狂気だとしか見られませんでした。はじめは、「そうだったらいいな」という「統制的理念」にすぎなかったのです。

 

 

『実は、科学における理論も「実践的」であるほかない。それは自然が解明されるはずだという「統制的理念」なしにはありえないからだ。


 科学的認識(綜合判断)はスペキュレーション(思弁)ではないが、ある種のスペキュレーション(投機)をはらんでいるということを示している。だからこそ、それは「拡張的」でありうるのである。』

柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』,2001,批評空間,pp.78-79.

 

 

 たとえば、マンハッタン計画〔第2次大戦中アメリカの原爆開発プロジェクト〕で最重要の極秘とされたのは、原爆の製造法に関する情報ではなかった。それよりも、「原爆が製造された」・すでに成功した、という情報が最高機密だったのです。なぜなら、「製造できた」という情報が、ドイツ,日本に伝われば、当時開発中だった両国も、たちまち製造に成功してしまうと思われたからです。開発上の最大の障碍は、製造法の細部ではなかった。核分裂連鎖反応という理論的予想が、実際に起きるかどうか、まだ誰にも解らない。「できた」という経験が無い、ということが最大の壁だったのです。もしも、「できる」ということが先に判れば、どうすればできるかを突き止めるのは難しいことではなかった。

 

 科学の「発見」を可能にするのは、緻密な理論でも「実験」でもなく、「かならず発見できる」という理論的「信」なのです。

 

 

『われわれが自然を認識できるだろうという「統制的理念」は、事実、発見的に働くのである。〔…〕詰め将棋の問題は、実戦〔…〕よりはるかに易しい〔詰むということが最初から判っているから。――ギトン註〕かならず詰むという「信」が、最大の情報である。自然界が数学的基礎を持つというのも、そのような「理論的信」である。この意味で、もし近代西洋においてのみ自然科学が誕生したとしたら、このような「理論的信」があったからだといってよい。』

柄谷行人『トランスクリティーク――カントとマルクス』,2001,批評空間,p.80.

 

 

 カントの云う「世界共和国」が、このような「統制的理念」だとすると、それを、「公正で強大な地上唯一の国家」と見ることもできる一方で、柄谷氏のように、国家と国家の矛盾・闘争を抑え、無くすことによって、「資本と国家の廃棄」に道をひらくものだ、と見ることも可能なのかもしれません。

 

 『力と交換様式』では残念ながら、その点が納得できるように述べられてはいません。その 8年前に出た『帝国の構造』〔2014年〕には、もう少し突っ込んで書いている箇所があります。次回――最終回は、そちらを参照してみましょう。

 

 

 

 

 

 

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