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ジャック=ルイ・ダヴィド:「テルモピュレーにおける

レオニダス」(1814年) ©Wikimedia.

 

 

 

 

 

 

【41】 「ドイツ・ユーモア」とは何か?

 


 前2回〔(11) (12)〕は、読者には解りにくかったかもしれません。

 

 そうなってしまったのは、私のせいもありますが、柄谷氏の構想する方向と、フロイトの原著がめざしている方向がかなり異なるせいもあるのです。柄谷氏が採り上げようとしているのは、フロイトのほうから見ると、フロイトの構築する精神分析理論の・ごく一面でして、しかも、フロイト自身はたいへん稀にしか、その局面には注目していない、そういう一面なのです。まぁぎっちり読んできて、漸く私にも、そのへんの事情が飲みこめてきたわけです。

 

 しかし、幸いなことに、フロイト自身が、柄谷氏の注目するような「超自我」の一面を、集中的に採り上げて書いた短い論文があります。『ユーモア』は、日本語訳全集でわずか 6ページのモノグラフですが、ここで、フロイトは、「自我」に攻撃性を向けて厳格に監督する「超自我」ではなく、もっと穏和で軽妙なやり方で「自我」の「重荷を下ろしてやろ(entladen)」うとする「超自我」の一面を描いているのです。



超自我のこうした〔ギトン註――他律的ではなく自律的な〕性質は何よりも、『ユーモア』という論文〔1928年〕において明瞭に示されている。〔…〕超自我は、自我を抑えるというより、むしろ自我の自律性を支援するものである。その意味で、検閲官が外から来るものであるのに対して、超自我は内部から来るものだと言ってよい。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.91-92.  

 

 

 「ユーモア」の類語には、諧謔、機知、とんち、ウィット、エスプリ、冗談、洒落、おとぼけ、漫才、ジョーク、皮肉、アイロニー、風刺など、じつにたくさんの種類があります。それぞれ少しずつ意味が違うようであり、日本、英国、フランス、ドイツ語圏、‥‥といった文化圏ごとに、それぞれの意味が少しずつ異なっているようにも思われます。

 

 フロイトの論文は、日本人を意識して書かれているわけではありませんから、私たちが読んで理解するには障壁があります。そこで、私たちとしてはまず、ドイツ語圏の「ユーモア(Humor)」について、少し下調べをしておきましょう。

 

 

   

 

 

 Wikipedia によると、ドイツ語圏で「ユーモア」とされる例は、次のようなものです:

 

 

① マドレーヌが夫に言うのには、彼女の精神科医は、こう言って彼女にパラノイアの発作について警告した:「ともかく、退屈だけはさせませんから!」 〔ソール・ベロー『公爵』〕

 

② 「こういう蒸し暑い時は、レモン・ジュースがからだにいいんだ。ビタミン‥‥ええと、ビタミン何が含まれているんだっけな、ええと。」彼からコップを受け取って飲んでみた。「まあ、ともかく水が含まれているよ」と私は言った。 〔グレアム・グリーン『おとなしいアメリカ人』〕

 

③ 紀元前480年、ペルシャ王クセルクセスは、テルモピュレーの戦い〔ギリシャ側スパルタ勢が全滅した――ギトン註〕を前に、ギリシャ軍に、こう言って脅迫した:「朕は、きわめて多数の射手を抱えておるがゆえに、彼らの矢は太陽を暗黒にするであろう」。スパルタ王レオニダスは、こう答えたと云う:「ありがたい、夜討ちができるな」 〔以上、独語版wiki「Humor」

 

④ マティアス・クネイスルという盗賊が、月曜に死刑を執行するとの判決にたいして、法廷で、こう言い添えた:「幸先 さいさき のええ週になるのお!」

 

⑤ 2008年7月25日、死刑判決を受けた殺人犯クリストファー・エメットは、ヴァージニア州知事に恩赦申請を却下され、執行される時に、最後の言葉を尋ねられて、こう言った:「あんた、1票失くしたな、と知事に言ってくれ」 〔以上、独語版wiki「Galgenhumor」

 

⑥ 「当地は、警察による犯罪防止のためビデオ撮影中です」という立て札。 〔英語版wiki「German humour」

 

 

 「ユーモア」とは、そういう笑いを誘うようなことを言う人がいて、その人や、それを聞いた別の人が “おかしみ” の快感を感じ、またそれを小噺などのかたちで聞く聴衆・読者も快感を感じる、という構造があるようです。この、ユーモラスな言葉を吐く人を「ユーモリスト」と呼びましょう。

 

 

 

 

 

 もっとも、「ユーモア」には、言う人自身はユーモアを意識していない場合もあります。⑥は、おそらくそういう場合です。立て札を立てた地主は、たんに表現が拙かっただけで、自分の言葉が「警察による犯罪」を警戒しているようにとられるとは思わなかったでしょう。そういう場合には、「ユーモリスト」は、立て札を立てた地主ではなく、それを見て笑う人びとです。

 

 ①~⑥には、風刺に近いもの、皮肉と取れるものもありますが、これらに共通の性格を考えてみると、「気休め」「おとぼけ」「一本抜く言いぐさ」「脱力ジョーク」といったところではないでしょうか。

 

 

『ユーモラスな機微の核心を理解しようとする理論には、基本的にいって、3つの主なものが知られている。優越性説,「ちぐはぐ」説,「荷下ろし」説である。

独語版wiki「Humor」。 



 優越性説は、アリストテレスに遡る見解で、「ユーモア」の快感は、他人を見下して自分の優越性を感じることによってもたらされると言うのです。しかし、これはむしろ「笑い」一般の特性というべきです。「ユーモア」にはそれほど強く出ていません。↑上の例に照らしてみれば解るでしょう。

 

 「ユーモア」の諸例は、他人を見下すのではなく、むしろ、もともと優越している他人(優越した力をもつもの)に対して、自分を、対等の高さにまで引き上げようとしているように見えます。それは、③~⑥に、よく表れています。

 

 「ちぐはぐ」説は、古代ローマのキケロが主唱者ですが、たしかに、「ユーモア」の笑いを生み出す状況設定の一面を、良く把えています。

 

 

 

『キケロ〔…〕は言う。我々が笑うのは、ある別の、たいていはより低俗な見方への・びっくりするような転換が行なわれた時である、と。つまり、与えられた状況が、2つの相異なるパースペクティヴによって判断される。そのうち一方のパースペクティヴは、より単純で不十分な見方に基づくものである。』

独語版wiki「Humor」。 



 しかし、その「より単純で不十分な見方」のほうにこそ「ユーモア」の本領があり、そうした、いわばバカげた見方を堂々と提出することが、笑いを生み出しているのです。たとえば、②で、レモン・ジュースは「水が含まれている」から身体に良い、というユーモリストの言いぐさは、良い例でしょう。このような・状況と見方の「ちぐはぐ(Inkongruenz 不相応)」が、「ユーモア」の笑いのもとになっているのは確かでしょう。

 

 第3の「荷下ろし」説は、フロイトの論文『ユーモア』の見解です。

 

 

『フロイトによると、ユーモアは、心理的な緊張と圧迫を解消するために働いている。この圧迫は多くの場合、ある社会的・文化的背景に帰せられるものである。

独語版wiki「Humor」。 



 つまり、「ユーモア」は、重い荷を負って呻吟している「自我」にたいして、「荷下ろし」をしてやるので、私たちは快感を感じて笑う、と言うのです。この・自我が負っている圧迫は、外部の「社会・文化」によって負わされたものですが、こうした「重荷の背景」は、しばしばユーモア噺じたいに明示されています。③~⑥、いずれもそうです。

 

 

 

 

『一般に、ドイツ語圏で「ユーモア」として理解されるのは、人が、ある特定の状況において、「そうであるにもかかわらず」笑う場合である。この「にもかかわらず」をより詳細に見ると、「ユーモア」は、弱さと強さを、ある特徴的なやり方で結合させている。笑いは、危機または破綻の状況に登場し、しかも第三の道に向かうことなく、危機を乗り越えようとのわずかな希望を伝える場合にだけ、「ユーモア」となる。

 

 ユーモラスな笑いを解き放つものは、「まちがえ」なのであるが、それは、人がすでにおかした間違えとは別の、まだおかしていなかった「まちがえ」である。この・自分の弱みをわざわざ二重にすることが、象徴的に、状況の脅威を克服することになるのである。この・自分の抵抗力に対する過小評価には、人が抵抗なく状況に身を委ねてしまうことはないという、楽観的な示唆が隠されている。この象徴的な先回りは、現実生活における解決についても、新たな希望を伝えてくれる。「ユーモア」において、人は自分を、じっさいにあるよりも愚かな者とし、そうすることで、見かけよりも強い者とするのだ。

 

 「ユーモア」が認定されるのは、ある危機、破綻、または敗北の状況において、あきらかに不相応で、どうでもよい見地や、まったく不十分なふるまい方を打ち建てる場合である。その不相応さは、言葉または振るまいによって意図的に演じられ、危機を、見え透いたバカなやり方で迂回してしまう。こうして、重荷は豪奢として、不快な境遇は戦利品として演じられ、事後的に、ばかげた意味が構築される。クリストファー・フライ:「ユーモアは、絶望からの避難所である」〔…〕

 

 自己または他者にたいするユーモリストの精神的態度について、フロイトは言う。それは、「ユーモリストその人が、心理的アクセントを自我から引き揚げて、それを超自我のほうへ移した、という点にある。こうして膨張した超自我にとっては、自我はとるに足らない小さなものに見える。自我が関わっている利害などは、吹けば飛ぶようなものと映ずるのだ。」』

独語版wiki「Humor」。 

 

 

ジーグムント・フロイト博物館、ウィーン。

 

 

 

【42】 ジーグムント・フロイト――

「超自我」とユーモア

 

 

 以上で準備が整ったので、フロイトの『ユーモア』論文にかかります。

 

 

『月曜日、絞首台に引かれてゆく罪人が、「ふん、今週も幸先 さいさき がいいらしいぞ」と言ったとする。〔…〕このユーモアは彼だけで完結しており、それが彼に・ある種の満足を与えることは明白である。一方、このユーモア〔の状況――ギトン註〕には何の関係もない傍観者である私は、その罪人が覚えるのと同じようなユーモアの快感を感ずるのである。〔…〕

 

 ユーモアからえられる快感がいかにして発生するかを明瞭に知ろうと思ったならば、他人のユーモアを聴いている人〔ギトン註――の心中〕にいかなることが起こるかを見るにしくはない。〔…〕この他人〔ユーモリスト。↑上の話の死刑囚――ギトン註〕は、今にも興奮のきざしを現わしそうに思われる。聴き手は、この男が怒り出すだろう、嘆くだろう、苦痛を訴えるだろう、おじけをふるうだろう、ことによると絶望のどん底に沈むことだってあるだろうと思って息をのんでいる。そして、そうなった場合にはその男に追随して、自分自身の中にもそれと同じ感情興奮をまき起こしてやろうと待ち構えている。

 

 けれどもこの期待はそむかれる。その男は、少しも興奮したようすを見せないで、冗談を言うのである。そして聴き手は、このようにして感情の消費を節約したことが原因となって快感を覚える。これがユーモアによってえられる快感なのである。

 

 〔…〕ユーモアの本質は、四囲の状況からいえば当然起こるはずの興奮を起こさせずにすませ、そのような感情の表出が許されそうな事態を冗談で乗り切ってしまうという点にある。〔…〕聴き手の側に起こることは、ユーモリストの側に起こることのコピーであるはずである。〔…〕

 

 ユーモアには、機知(Witz)や滑稽(Komik)と同じく、なにかしらわれわれの心を解放するようなものがあるのみならず、なにかしら太っ腹のところ、なにかしら魂を高揚させるようなところがある。〔…〕明らかにそれは、自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹に由来する。自我は、現実の側からの誘因によって自らを傷つけること、苦悩を押しつけること・を拒み、外界からの傷 トラウマ を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである。この最後の点こそ、ユーモアにとってまず第一に不可欠な点である。〔…〕

 

 ユーモアの中に含まれているのは諦めではなくして反抗である。それは、自我の勝利のみならず、快感原則の勝利をも意味しており、この場合、快感原則は、自分にとって不利な現実の状況に対抗して自己を貫徹する能力を持っているのである。いま述べたこれら2つの特色、すなわち現実の側からの要求の拒否快感原則の貫徹〔…〕

 

 ユーモアが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能をもつということは、それが、強制的な苦しみを逃れるために人間の心の営みが編み出したあの諸方法の系列、神経症にはじまり、精神錯乱にきわまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境など〔…〕の系列に属するものであるということを意味する。それゆえにこそユーモアには、たとえば機知などには全然見られない一種の威厳が備わっているのである。〔…〕

 

 ユーモア的精神態度の本質は何であろうか。人々はこの態度を持することによってわが身から苦しみを遠ざけ、自我が現実世界によっては克服されえないことを誇示し、堂々と快感原則を貫きとおす。』

フロイト,高橋義孝・訳「ユーモア」, in:『フロイト著作集 3 文化・芸術論』,1969,人文書院,pp.406-408.



Daniel Barkley

 

 

 つまり、「ユーモア」には、「機知(ウィット)」やほかの諧謔にはない特有のものがあります。

 

 何よりもまず、「ユーモア」には、特有の状況設定がある。多くの場合、その状況はユーモリストにとってきわめて不利なもので、絶体絶命の危機的状況と言ってよいものです。例④,⑤の・執行に臨む死刑囚の場合、例③の・圧倒的な敵軍を前に全滅必至の戦いに挑む場合が典型でしょう。

 

 あるいは、そこまで極限的でなくとも、ユーモリストと相手のあいだには、明らかな格差があって、相手のほうが優越した地位にあります。ユーモリストは、その格差のために、本来ならば苦しむ、あるいは驚愕して泣き叫ぶような立場にあるのです。

 

 ところが、その現実的格差を、「ユーモア」は、仮想によって超越してしまい、苦悩や驚愕、悲嘆にかかるエネルギーを節約する。それが「ユーモア」の効用であり、結果として「快感原則」に合致していることになります。

 

 別の言い方をすれば、「ユーモア」は、㋐ユーモリストを現実の状況とは違う仮想的地位に立たせる。相手とのあいだに、現実から見れば全く不相応な関係を設定する。その「ちぐはぐ」(不相応さ)に、笑いの理由があります。

 

 また、㋑「ユーモア」は、現実には格差のある相手との関係を、対等にしてしまう。例⑤の・死刑囚の州知事(恩赦権者)に対する関係がそうです。⑥の・立て札を見る人(侵入者)と地主ないし警察との関係も、そうでしょう。

 一般に、冗談や諧謔は、対象となる人を笑い飛ばして卑下する点に、快感と笑いの源泉があるとされます。しかし、「ユーモア」は、あくまでも関係を対等にして “危機” を打ち消すことに目的があるので、相手を貶めることまでは意図していません。だから、「ユーモア」は、爆笑を誘うようなことは無いかわり、「ユーモア」には、決して誰も傷つけない・誰の尊厳をも侵さない丁重さがあるのです。

 「ユーモア」は、劣位または劣勢にあるユーモリストの境遇を忘れさせる点で、ブロッホの云う「メールヒェン」〔⇒:(4)【9】〕に似ているかもしれません。しかし、メールヒェンは、あくまでも虚構の世界の虚構の物語です。現実にはできないことが、メールヒェンの世界では、やすやすとできてしまう。これに対して、「ユーモア」にはそこまでの現実改変力はありません。あくまでも現実の世界に脚を置いたままで、それを特有の解釈で無害化してしまうのです。

 

 フロイトはここで、「ユーモア」の・「心的態度」としての特質を2点強調しています。ひとつは・↑上で述べられているように、外的現実の危機から自我を保護し、その自立の維持を援護する「超自我」の機能です。「超自我」が生み出すユーモアは、「自我」の尊厳を代表して、いわば「威厳をもって」外界からの危機の侵入に対抗するのです。

 

 

    

 


 もうひとつの特質は、↓以下に述べられることで、そのような「超自我」の威厳に満ちた態度は、どこから来るのか? ‥また、「ユーモア」に表れる「超自我」は、自我に対して一方的に厳しい態度で接するわけではなく、むしろ慰めにみちた態度で元気づけようとする。これは、なぜなのか? ――この2つを説明するのは、フロイトによれば「超自我」の出自、すなわちエディプス・コンプレクスなのです。

 

 

『誰かが他人に対してユーモア的な精神態度を見せるという場合を取り上げてみると、〔…〕この人はその他人に対して、ある人が子供に対するような態度をとっているのである。そしてこの人は、子供にとっては重大なものと見える利害や苦しみも、本当はつまらないものであることを知って微笑しているのである。〔…〕ユーモリストが自らを優越的な地位に置きうるのは、彼が自らをある人の位置に、いわば父親と同一の地位に置き、その反面、他人を子供の地位にまで引き下げるからなのである。〔…〕

 

 けれども〔…〕よりユーモアの本質に近い、より重要な場合』とは、『ある人間がユーモア的な精神態度をわれとわが身に向け、それによって自分の身にふりかかってくるかもしれぬ苦悩を防ごうとする場合である。〔…〕自我なるものは決して単一なものではなく、その中核体として、われわれが超自我と名づけている特殊な監督機関 インスタンツ を内蔵しているのである。〔…〕超自我は、その発生の上からいえば、両親が子供に対して持つ監督機関の役割を受け継いだものであり、自我の独立性をまったく認めない場合も往々にしてある。じじつ、超自我は自我を、かつて幼年時代に両親ないし父親が取り扱っていたように、依然として取り扱うのである。

 

 そこで、ユーモア的精神態度をその力動的機能の面から説明しようとすれば、次のように仮定することとなる。このような態度の本質は、ユーモリストその人が、心理的アクセントを自我から引き揚げて、それを超自我のほうへ移した、という点にあるのだと。こうして、膨張した超自我にとっては、自我はとるに足らない小さなものに見える。自我が関わっている利害などは、吹けば飛ぶようなものと映ずるのだ。そして、ユーモリストの人格の内部における自我と超自我へのエネルギー配分が、このように変化すれば、超自我としては、外界の現実に反応しようとする自我の可能性を、やすやすと抑止してしまうこともできよう。

 

 われわれの使い慣れた用語』でいえば、『心理的アクセントの移動というより、大きな備給エネルギー群の転移というべきである。〔…〕

 

 人間はある一定の状態において、突然その超自我に過分のエネルギーを給付し、この過剰エネルギーをもった超自我を通じて、自我の外界にたいする反応様式を変化させるものである〔…〕と見なしてさしつかえないと思う。〔…〕ユーモアとは、超自我の媒介によって生ずる滑稽であるといってよかろう。

 

 われわれの通念によれば、超自我は口喧 やかま しい主人である。したがってその超自我が、自我にちょっとした快楽でも与えることに甘んずるなどとは、この超自我本来の性格にふさわしくないとの異論が出るかもしれない。事実、ユーモアからえられる快感は〔…〕、腹からの笑いとなって爆発することも決してないし、ユーモア的な精神態度をとる時の超自我が、現実を拒否して錯覚に奉仕することも事実である。

 

 にもかかわらず、われわれはこのあまり強くない快感を、きわめて価値の高いものと考え、この快感が〔ギトン註――機知や他の滑稽と比べて〕とりわけわれわれを解放し高揚させると感ずるのである。〔…〕大切なのは、ユーモアがもっている意図なのである。いわばユーモアとは、ご覧、これが世の中だ。見るからに恐ろしいが、これを冗談で笑い飛ばすのは朝飯前なのだ、と言っているようなものである。

 

 おびえて尻込みしている自我に向って、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかけるのが超自我なのである。〔…〕

 

 

Raoul François LARCHE (1860-1912) :"Vingt ans"

 

 

 人間誰しもがユーモア的な精神態度をとりうるわけではない。それは、まれにしか見いだされない貴重な天分であって、多くの人々は、よそから与えられたユーモア的快感を味わう能力をすら欠いている。〔…〕

 

 超自我がユーモアによって自我を慰め、それを苦悩から護ろうとすることと、超自我は両親が子供に対してもっている監督官の役割を受け継いでいることとは、矛盾しないのである。』

高橋義孝・訳「ユーモア」, in:『フロイト著作集 3』,pp.408-411.〔原文を参照して、訳を一部改めた〕



 フロイトが↑ここで述べているエディプス・コンプレクスによる説明は、額面通りには受け取れないかもしれません。フロイトの時代のドイツやオーストリアの中上流家庭と、現代世界の一般家庭を同列に論ずることはできないからです。

 

 しかし、私たちがこの行論から理解できる点は、「ユーモア」に表れた「超自我」には、「快感原則」に奉仕する「エロス」のみならず、それとは対極にある「タヒの欲動」もまた、「エス」から流れ込んでいるということだと思います。この場合、「タヒの欲動」は攻撃性として外の対象に向ったうえで、再び内向化して、自我を監督・牽制する機能となっています。この・超自我の自我に対する攻撃性は、「快感原則」ないし「エロス」に導かれて中和することによって、「ユーモア」特有の・威厳に満ち・かつ思いやりある態度となって表れていると見ることができます。


 

『《ユーモアには、たとえば機知などには見られない一種の威厳が備わっている。なぜなら機知とは、ただ快感を得るため、ないしはその得られた快感を攻撃欲動の充足に利用するだけであるから》〔『ユーモア』 in:『フロイト著作集3』,p.408.〕

 

 つまり、機知は快感原則にもとづくが、ユーモアはその「彼岸」にある。フロイトは超自我に、抑圧し検閲するものではなく、「おびえて尻込みしている自我に、ユーモアによって優しい慰めの言葉をかける」ものを見いだしている。超自我は、自我を抑えるというより、むしろ自我の自律性を支援するものである。その意味で、検閲官が外から来るものであるのに対し、超自我は内部から来るものだと言ってよい。

 

 とはいえ、それは自我にとって、あたかも外から来たかのように、強迫的に到来する。』

柄谷行人『力と交換様式』,2022,岩波書店,pp.91-92.  

 

 

 フロイトの引用文から、「機知は快感原則にもとづくが、ユーモアはその彼岸にある」と断じている柄谷氏の説明にたいして、『ユーモア』論文を詳細に読んできた私たちとしては、異議を唱えざるをえません。

 

 フロイトによれば、「機知」も「ユーモア」も、いずれも快感原則に基づいているのです。そもそも、あらゆる冗談は「笑い」つまり「快」を目的とするのだから、これは当たり前です。

 

 また、「機知」「ユーモア」ともに、前意識である「自我」に対して、より内奥の無意識が影響を与える場合である。ただ、どこが違うのかというと、「ユーモア」のほうは、無意識(エス)の影響を受けた超自我が、強力に自我を支援し、自我が、そうでなければ外界の危機的状況から被るであろうショックを遮断し、まるで手品のように困難を回避させてしまう点にあるのです。つまり、柄谷氏の言う「自我の自律性の支援」に、「ユーモア」の本質があります。

 

 「機知」の場合には、このような・外界から迫る危機的状況というものが、そもそも想定されていませんから、「機知」のジョークは、たんに自我を楽しませて快感を高めることにのみ奉仕するのです。

 

 つまり、「ユーモア」では、快感原則のみならず、エス内奥の「タヒの欲動」に源を発する攻撃性が内向化した・自我に対する監督・保護機能が、超自我によって発揮されているのです。

 

 

    

T. M. Davy                        

 

 

 柄谷氏は、後期フロイトの言う「超自我」は、「死の欲動」のみに立脚しているかのように、‥そう誤解させかねない言い方をしています。しかし、それはフロイトの考えではない(うえ、柄谷氏の体系にも矛盾をきたす)ので、私たちとしては注意する必要があります。

 

 フロイトは、超自我には、「死の欲動」と「エロス」がともにエスから流れ込んでいると見ています。そのことをはっきりと表明しているのは『ユーモア』論文で、そこではユーモアの効用を、「魂の高揚」「快感原則の勝利」などと記しています。それは、ブロッホの・天へ向かって飛翔してゆく魂、すなわち「まだ意識されないもの」に通じる表現です。

 エディプス・コンプレクスから超自我が形成される場合、エスからは、「死の欲動」も「性の欲動(エロス)」も、ともに影響を与えます。ただ、フロイトは『自我とエス』論文では、エロスは昇華して無力になってしまうので、超自我には、自我に対する攻撃性のみが集中するのだと述べていました。

 

 もしそうだとすると、人類は文明化して「昇華」の方法が多彩になればなるほど、攻撃性は解放されてしまうのではないか? ‥そういうことが考えられます。これは、文明論に深い示唆を与える帰結ですが、一般的に言えば必ずしもそうではない、超自我に流れ込んだ後も、エロスは攻撃性を抑える力をなお保持しうる、と考えたほうがよいと思われます。

 たとえば、歴史上、支配者に対する「狂言」「諧謔」「揶揄」による抵抗は、本物の「反乱」とはトレード・オフの関係に立つと考えられてきました。そのためしばしば、「反乱」を惹き起しそうな峻厳な支配者ほど、民衆が風刺と狂言に明け暮れるのを歓迎したのです。

 

 

『ユーモアには、機知(Witz)や滑稽(Komik)と同じく、なにかしらわれわれの心を解放するようなものがあるのみならず、なにかしら太っ腹のところ、なにかしら魂を高揚させるようなところがある。〔…〕明らかにそれは、自己愛の勝利、自我の不可侵性の貫徹に由来する。自我は、現実の側からの誘因によって自らを傷つけること、苦悩を押しつけられること・を拒み、外界からの傷 トラウマ を絶対に近づけないようにするばかりでなく、その傷も自分にとっては快楽のよすがとしかならないことを誇示するのである。この最後の点こそ、ユーモアにとってまず第一に不可欠な点である。〔…〕

 

 ユーモアの中に含まれているのは諦めではなくして反抗である。それは、自我の勝利のみならず、快感原則の勝利をも意味しており、この場合、快感原則は、自分にとって不利な現実の状況に対抗して自己を貫徹する能力を持っているのである。いま述べたこれら2つの特色、すなわち現実の側からの要求の拒否快感原則の貫徹の2点は、「退行」「反動」等の精神病理現象にも共通する。

 

ユーモアが、自分を苦しめそうな現実をわが身に近づけないようにする機能をもつということは、それが、強制的な苦しみを逃れるために人間の心の営みが編み出したあの諸方法の系列、神経症にはじまり、精神錯乱にきわまり、陶酔、自己沈潜、恍惚境など〔…〕の系列に属するものであるということを意味する。それゆえにこそユーモアには、たとえば機知などには全然見られない一種の威厳が備わっているのである。なぜなら機知とは、ただ快感を得るため、ないしはその得られた快感を攻撃欲動の充足に利用するだけであるから。〔…〕

 

 人間はある一定の状態において、突然その超自我に過分のエネルギーを給付し、この過剰エネルギーをもった超自我を通じて、自我の外界にたいする反応様式を変化させるものである〔…〕と見なしてさしつかえないと思う。〔…〕

 

 私は、機知の発生を考察するにあたって、前意識的な意志が一瞬、無意識による加工に委ねられるのである、したがって機知とは、無意識によって惹起せられる滑稽であると想定せざるをえなかった。これとまったく同じく、ユーモアとは、超自我の媒介によって生ずる滑稽であるといってよかろう。』

高橋義孝・訳「ユーモア」, in:『フロイト著作集 3』,pp.408,410.

 

 

 

 

 

 

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