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アルブレヒト・デューラー「フリードリヒ賢公の青年像」

 

 

 

 

 

 

 

 

【35】 テューリンゲンの「農民戦争」

 


ミュールハウゼン市民は、〔…〕3月中旬、〔…〕市民投票で、一般市民の3分の2が、箇条書の要求に従って「永久市参事会」を選出することを可決した。〔…〕これ以後ミュールハウゼンは、キリスト教的民主政の都市となり、ここでは説教師が決定的な影響力を持つこととなった。〔…〕

 

 すでに 1524年の夏、ハインリヒ・プファイファーは市門を超えて農村領域へ彼の宣教を広めていた。〔…〕最初の間は成功しなかった。しかし〔ギトン註――翌1525年にかけての〕冬の間に、彼と彼の支持者たちは、市の広い周辺領域の農民を煽動することに成功した。

 

 やがて、秘密同盟、貢租や賦役の拒否、とりわけ教会や司祭館での暴行に関する〔ギトン註――領主・教会側の〕情報が増え始めた。〔…〕

 

 このような土壌の上に、南ドイツ農民の 12箇条がすでにきわめて早い時期に広まっていた。ミュールハウゼンの住民は、われわれはシュヴァルツヴァルト〔西南ドイツの先行反乱地域――ギトン註〕の農民と了解をつけており、彼らはわれわれのキリスト教的兄弟となり味方となることを願っている、と言っていた。〔…〕やがて彼〔ミュンツァー――ギトン註〕は、彼の同盟に 1500人の加盟者を得たといわれている。

 

 このようにして、ミュンツァーとミュールハウゼン住民は、計画的に蜂起の準備をした。蜂起を誘発するには、ほんの些細な衝撃ですでにこと足りた。この衝撃は〔…〕外から来た。

 

 復活祭の次の週〔4月17日~23日、蜂起はフルダテューリンゲンの西隣り・ヘッセン地方の司教都市――ギトン註〕から〔…〕おし寄せ、アイゼナハを中心とする〔…〕ザクセンの諸管区に燃え移っていた。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,1989,未来社,pp.368-370.

 ※註「復活祭の次の週」: 復活祭の日付は年によって異なる。1525年の復活祭は 4月16日(日曜日)。したがって、「次の週」は 4月17-23日。なお、フルダで蜂起が起きたのは 4月18日。(これらはみなユリウス暦による日付。西方教会がグレゴリオ暦を採用したのは 1582年。)

 

 

「農民戦争」要図――テューリンゲン周辺


 

 こうして、農民の蜂起はまたたくまにテューリンゲンと周辺全域に広がりました。とはいえ、蜂起した地方の多くでは、暴力的な襲撃の激しさにひきかえ、農民・市民の要求内容は穏健なものでした。ミュールハウゼンは急進的すぎると言って、応援に来たミュールハウゼン農民軍の入市を拒む都市もあったほどです。したがって、ミュールハウゼンのミュンツァー,プファイファーの「神との永久同盟」は、テューリンゲン全体のなかでは、過激な少数派だったと言えます。

 

 

ミュールハウゼン住民は、まもなく〔周辺全域が立ち上がると――ギトン註〕軍団のなかでは少数派にすぎなくなったはずであるが、それでも彼らは指導権を握っていた。』

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,p.371. 

 

 

 これまでに見てきた西南ドイツ,中部ドイツ(フランケン地方)と比べて、テューリンゲンを中心とする北東部の「農民戦争」の特徴は、ミュンツァーら急進派の精神的影響力と指導力が大きかったこと、および農民勢が――特にフランケンと異なって――軍事的に弱体であったこと。この2点にまとめられると思います。

 

 について言えば、ミュンツァーの “革命党” が、少数の “前衛” として、一揆を先頭に立って指導した、というエンゲルスの主張も、テューリンゲンに範囲を限るならば、ある程度妥当していると言えます。

 

 重要なのはで、そのためにミュンツァーの農民軍は、下級貴族(騎士)を軍事指揮官として雇い入れる、ということをしています。フランケン地方では、貴族の一部が農民勢に共感して、あるいは私の目的に利用することを計って加わり、指揮官を務めたケースが目立っていました。しかし、テューリンゲンの場合には、騎士の参加はもっと受動的なものでした。

 

 あるいは、もう少し自主的に、農民勢の要求を受け入れて同盟した領主貴族も、この地域にはかなりいました。一揆の発火点となったフルダ司教領の領主もそうでした。21年に追放された修道院長に代わって 18歳で領主になったこの修道院長補は、農民蜂起を利用してキリスト教職から足を洗い、温情的な世俗領主になろうと目論んでいました。(ベンジング/ホイヤー,瀬原義生・訳『ドイツ農民戦争』,pp.165-166.)

 

 中・南ドイツに見られない同盟領主がこの地域に出現した理由はいくつかありますが、ひとつは、農民軍の要求が同盟しやすいものであったことです。彼らは、中・南ドイツの農民勢とは異なって、個別の要求事項にはこだわらず、もっぱら原則的主張を掲げました。領主が農民との同盟を承諾し、ごくおおざっぱに、「神が解放したまうもの〔封建的負担。ただし範囲は不明〕を、取り除くであろう」と宣誓すれば、それだけで農民たちは、一揆は成功した、と安堵して解散してしまう地方もあったほどです。(ベンジング/ホイヤー,pp.169-170,176.)

 

 

ドイツ農民戦争 1524-25 「農民は野良で蜂起した」

 

 

 ミュンツァー自身、5月時点になると要求を4箇条に絞って、より広範な層の結集を狙った可能性があります。ミュンツァーらの農民勢と諸侯軍との決戦となる「フランケンハウゼンの戦い」の直前、フランケンハウゼン市の農民軍は、ミュンツァーら改革派の説教の自由、森林・川沼・牧草地の解放、領主・貴族は自分の城を破壊し称号を捨てること、その代わり、領内の聖職領を没収して彼らに与え、また質入れされた所領を返還すること、という4箇条のプログラムを掲げていました。

 

 つまり、貴族に対して、“名を棄てて実を取る” ことを求めたわけです。実際、2名の伯爵が、この要求に同意して誓約を行なっています。「ミュンツァーはもう一度、世俗の君主に彼の救済論を支持させようと試みたわけである。」ギュンター・フランツ『ドイツ農民戦争』,pp.379-380.)

 

 おそらくミュンツァーの意図は、これら最小限の項目によって、さまざまな制約をかかえる農民勢をまとめあげて諸侯側の攻撃に対抗し、あわせて「布教の自由」を確保することにあったと思われます。農民勢が鎮圧されてしまうことを防ぎ、「布教の自由」を確保しておけば、回り道にはなりますが、徐々に「革命神学」を広めて北東農民全体を急進化させ、ゆくゆくは所期の「キリスト教革命」を実現することができる。そのような構想だったのではないでしょうか。

 

 ところで、最近の社会史研究によれば、西南ドイツが「農民戦争」の発火点となったのは、そこで起きていた「封建反動」に対する農民の抵抗に原因があったと考えられています。エンゲルス冒頭で述べていたように、当時、国際交易路の沿線にあったこの地域では、商品経済の発展にともなって、貴族・領主層は経済的に苦しくなっていました。彼らが、農民からの収奪を強めて、この危機を乗り切ろうとしたのが、「封建反動」と呼ばれる一連の動きです。これに対して、農民のほうでも、とくに富農層は、発展する商品経済のなかで、特産の麻等の工芸作物・商品作物の栽培、牧畜生産や手工業兼営に向かったので、収奪と規制を強めようとする領主側と衝突する場面が増えていったのです。

 

 「封建反動」とは、農奴制を強め、農奴の身分的束縛と土地への緊縛、共同体的規制の強化、貢租・賦役負担の累増・過重によって、経済発展の成果を農民から奪い、領主側に吸い上げようとする封建時代末期の政治的・経済的な一連の動きです。

 

 しかし、テューリンゲンなどの北東ドイツでは、まだ「封建反動」のような事態はなく、農民と領主のあいだには、昔ながらの信頼関係が強く残っていたのではないでしょうか。そのために、この地域では、おおざっぱな原則を誓約するだけで、領主と農民が和解できたことが考えられます。

 

 また、同じ事情から、北東ドイツの純朴な農民は、ミュンツァーらの掲げる原理主義的なスローガンには惹かれやすいものの、じっさいに領主とぶつかる場面になると、現実の経済欲求に急迫性がないために、いまひとつエネルギーと持続性に欠けていたかもしれません。

 

 北東ドイツで「封建反動(再版農奴制)」が起きるのは、ずっと後代の 18-19世紀のことです。

 

 

 

【36】 ザクセン公家

 

 

 北東ドイツの「農民戦争」を特徴づけた要因としては、さらに、この地域の支配者のなかで決定的な権威・権力を持っていた「ザクセン公家」の事情があります。

 

 当時、ザクセン公家のトップにいた選帝侯フリードリヒ賢公は、開明的君主としてルター派を保護しただけでなく、ミュンツァーと農民反乱に対してまでも、寛容をおよぼすことを厭わなかったのです。

 

 

フリードリヒ賢公  1509年、46歳の肖像。   

 

 

『選帝侯フリードリヒ賢侯は、蜂起についての最初の報告を受け取るとただちに、弟のヨハンに、暴力で農民を攻撃することを思いとどまるよう勧告した。選帝侯の見解は、貧民がこのような挙に出るきっかけをつくったのはもしかすると自分たちであるかもしれない、貧民は彼らの聖・俗統治者にひどく苦しめられており、〔…〕平民が統治することが神の御意志であるならば、そういうことになるであろう、〔…〕ということであったからである。「われわれは神にわれわれの罪のお赦しを願い、神の御決定におまかせしよう」と彼は書いている。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』, 1989,未来社,pp.381-382.

 

 

 驚くべき英明さですが、この賢公がもう少し長く生きていたら、宗教改革の歴史は変っていたのではないか、とさえ思われます。

 

 「ザクセン公家」のなかでは鎮圧を主張する者ももちろんいましたが、選帝侯の絶大な権力と広い人望のために、表立っては逆らえなかったようです。ルターは早くから、ミュンツァー一派を弾圧するよう進言していましたが、彼はフリードリヒに匿われている身です。ルターが何を言おうと、彼の生殺与奪の権を握っている賢公が首を縦に振らない以上、耳を貸す者はいなかったでしょう。かつてアルシュテットからミュンツァーが追放されるきっかけを作ったザクセン公ゲオルクは(⇒:(7)【24】)、武力鎮圧論の急先鋒でしたが、じっさいに動けるほどの手勢を持ってはいませんでした。

 

 ゲオルク公は、自分の領地のライプチヒではルター派さえ弾圧していました。そのため、ライプチヒのルター派は、農民軍とミュンツァーに味方しようと願い、彼らの軍が攻めて来るのを、いまかいまかと待ち焦がれていたほどです。ギュンター・フランツ,p.373.)

 

 そういうわけで、テューリンゲンでもその周辺でも、「農民戦争」が始まると、貴族たちは城に閉じこもって嵐が過ぎてゆくのをじっと待つほかなかったのです。(ベンジング/ホイヤー,p.177.)

 

 ところが、この事態は、フリードリヒ公の死去(1525年5月5日)によって急展開を迎えます。

 

 5月初め、ルターは主君フリードリヒを臨終の床に放り出して、侯位継承者である侯弟ヨハンをワイマルに訪れ、「農民はことごとく強盗、人刹しである」と説き伏せ、「全力を挙げて農民を攻撃する決意を固めさせた。」ヨハンはフリードリヒ死去の報を受けるや、軍隊をワイマルに集結させて出撃の準備を始めます。ゲオルクも動き出し、ヨハンより早く 5月11日にライプチヒから出撃します。

 

 西から援軍もやってきました。ヘッセン方伯フィリップは、フルダの農民勢を鎮圧した後、テューリンゲンの鎮圧に急行し、12日にはミュールハウゼンのそばを通り過ぎて、ミュンツァーらのいるフランケンハウゼンに昼夜兼行の強行軍で向かいます。

 

 ミュンツァーらは、4月27-29日、テューリンゲン各地の農民団をミュールハウゼンに集めて約1万人の軍団を結成しています。この頃には、他の都市でも農民軍が集結しており、テューリンゲン全体の規模は 6万3000人以上に達していました。(ベンジング/ホイヤー,p.180.)

 

 ミュンツァーらの「ミュールハウゼン軍団」は、アルシュテット近くのフランケンハウゼン市の蜂起を支援するためにそちらに進撃したのですが、ここで、東西からの両鎮圧軍の挟み撃ちに遭うこととなります。西からのエッセン方伯軍、そして、東からのザクセン諸侯軍です。

 

 

ミュンツァーの「最後の戦い」が行なわれたフランケンハウゼン近郊の

「合戦山」。丘上の建物は「農民戦争パノラマ画」を展示するパノラマ美術館。

 

 

 

【37】 「フランケンハウゼンの戦い」

 


 さきほど【35】の末尾でも指摘しましたが、テューリンゲンの農民勢は、現実的な利害の裏付けが乏しい弱みがあり、そのために運動内部の結束がゆるく、ばらばらな人びとの集まりにすぎない脆さをかかえていました。

 


『テューリンゲンの農民運動は、外への広がりは非常に大きかったが、それに見合う内部の強いまとまりはなかった。いたるところで、小規模なグループが修道院や、さらには城を掠奪し、焼き払った。これらのグループはたいてい、近辺の市民と農民の集まりにすぎず、〔…〕掠奪し焼き払うことで満足し、それが終ると地元に帰った。〔…〕獲得した成果を確保〔…〕することは考えなかったのである。テューリンゲンでは――ミュンツァーとミュールハウゼンをのぞけば――一定の政治的あるいは宗教的目的をかかげた本格的な革命は起こらなかった。起こったのは広い範囲の蜂起にすぎず、それは、破壊活動が完了するまで続いただけであった。』

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』,p.376.

 

 

 そのために、テューリンゲンの諸農民勢には――ミュンツァーのグループを除いて――独自の「要求箇条書」が見られません。「福音書は神の法である」という抽象的なスローガンを掲げるか、西南ドイツの「メンミンゲン12箇条」をそのまま持ってくる場合がほとんどでした。

 

 「ザクセン公家」のタカ派の急先鋒ゲオルク公は、西南ドイツの「箇条書」を見て、「こんなものはテューリンゲンの土地柄には役立たない。おまえたちの村や町にはそぐわない代物だ」と一蹴しました。この言は、ある意味で正しかったのです。「テューリンゲンのどこにも〔人身の隷属と緊縛を伴なう奴隷的な〕農奴制は存在していなかったからであり」、教会への「十分の一税」も、農民の大きな不満を惹起してはいなかったのです。

 

 ところで、そうしたテューリンゲンではめずらしく、独自のプログラムと、結束性の高い農民軍団が成立したのが、「アルシュテットのすぐ近くの塩業都市〔岩塩鉱山がある〕フランケンハウゼン」でした。軍団は「まもなく 6000人を数え」、テューリンゲンの都市で最大となり、しかも戦闘態勢にあった。プログラムは、ミュンツァーが思い切って絞り込んだ「4箇条のプログラム」でした。「テューリンゲンでは、この軍団だけが〔独自の〕プログラムを持っていた。」(ギュンター・フランツ,p.379.)

 

 ミュンツァーは、早くからフランケンハウゼンに対して武力支援を約束していましたが、他の都市への救援が優先されたり、ミュールハウゼンの「同盟」内部で意見がまとまらなかったりして、先延ばしになっていました。「5月12日、いよいよ彼はミュールハウゼンから出撃してフランケンハウゼンに到着した。」彼に従ったのは、最親密の同志わずか 300名であった。

 

 

フランケンハウゼン。戦場へ向かうミュンツァー。虹の旗を掲げている。

©DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.

 

 

 「フランケンハウゼンミュンツァーはただちに指導権を掌握した。〔…〕ミュンツァーは連日の説教によって軍団を統率した。」今こそ決戦に臨むべき事態が、ますますはっきりしてきたと彼は述べて、大衆を鼓舞した。(ギュンター・フランツ,pp.380-381.)

 

 折から、諸侯側でも、選帝侯フリードリヒの死去を機に情勢は急展開し、西からのヘッセン方伯軍と、東のザクセン諸侯(ゲオルク,ヨハン)軍がフランケンハウゼンに迫っていました。

 

 5月14日昼、フランケンハウゼン近くに到着したヘッセン方伯フィリップの軍は、さっそく前衛の部隊が農民側と小競り合いを始めました。しかし、フィリップは、昼夜兼行の強行軍で疲労したまま戦いに臨むのは得策でないと考え、ひとまず戦闘を中止して退かせました。

 

 これを見たフランケンハウゼン農民軍は、緒戦の防衛に成功したと思いこんで、「勝利の確信を固め〔…〕翌5月15日の朝、〔…〕市の北方にある合戦山(Schlachtberg)に、きわめて有利な陣地をかまえた。ここから彼らは三面にわたって平地を制圧した。」残る一面、つまり陣の背後は山林で、危難の際には退路となるはずでした。(ギュンター・フランツ,pp.382-383.)

 

 その間に諸侯側は、ヘッセン方伯軍とザクセン諸侯軍が合同して、歩兵 4000人以上、騎兵 2300騎以上の軍勢となっています。対する農民軍側は、歩兵 8000人、騎兵数不明ですが、歩兵は訓練を受けていない群衆をかなり含んでいたと思われます。(ベンジング/ホイヤー,pp.193-194.)

 

 

 

【38】 「神は我らとともにあり」――

農民軍の潰滅とミュンツァーの最期

 

 

 有利な陣地を確保したうえで、農民軍は、諸侯らに、「われわれが求めているのは神の正義のみであり、いっさいの流血を避けたいと願っている」と書き送った。それに対して、諸侯側は、「トマス・ミュンツァーとその一味を引き渡せば、他の者は全員赦免し生命を保証する」との巧妙な回答をしてきたのです。

 

 この切り崩し策は、農民軍を大いに動揺させる効果がありました。諸侯側は、軍合同後の整序と大砲の配置に手間取っていたので、農民側と一時的休戦を約し、その間に農民側は、丘の上で全員が車座になって、「ミュンツァー引き渡し」の要求に応ずるか否か、喧々諤々の議論となっていました。

 


 議論が延々と続いたおかげで、諸侯連合軍は、「合戦山」の隣りの高地に手持ちの大砲を据え終えることができた。「さらには騎兵と傭兵も、農民のまわりの高地に配置」した。(ギュンター・フランツ,p.383.)

 

 農民たちの一部はそれに気づいたが、こちらの議論が終るまでは攻撃を始めないだろうと高を括 くく っていた。ミュンツァーら幹部は、自分の首がかかった議論に夢中で、それどころではなかった。

 

 

フランケンハウゼン。戦場にかかる虹。

©DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.

 

フランケンハウゼン。虹に祈り、賛美歌を歌うミュンツァーら農民軍。

©DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.

 

 

 最後に、ミュンツァーが立ち上がって熱弁を振るった。「ミュンツァーの雄弁は、動揺する農民を引き戻し、彼らの抵抗精神を」復活させることに成功した。我々の行動は正しいのだから、我々は必ず勝利する。神は我らとともにおられる(ギュンター・フランツ,p.383)。その証拠に、見よ、神は神自らのしるしを天に示したもうているではないか!

 

 敗戦後捕えられた農民の供述によると、この時、空に虹が出たのは事実であったようです(ベンジング/ホイヤー,p.196.)。農民たちは、戦場にいることも忘れて、虹に向かって一心に祈りを捧げました。虹は、大洪水が終った時にエホバがノアに示した和合のしるしであり創世記9:13-17、ミュンツァーの「神との永久同盟」の旗印でもありました。

 

 諸侯軍にとっては、これはまたとない攻撃のチャンスでした。農民軍団は、戦闘配置から離れて1か所に集まり、しかも虹に気をとられています。

 

 農民たちは、突如として、自分たちが包囲されていることを知り、「4箇条」を誓約して農民側にいた2人の貴族を諸侯軍に派遣して交渉を申し出ます。しかし、諸侯側は、あくまで「ミュンツァーら引き渡し」を要求して撥 は ねつけ、ただちに砲撃を開始しました。(ギュンター・フランツ,p.384)


 ギュンター・フランツが史料に基いて述べている・このような経緯を見ると、「諸侯軍が奇襲した」というエンゲルスの叙述は、フランケンハウゼンの場合にも事実ではないことがわかります。

 

 

 農民たちは、君主どもの砲弾が我々に危害を与えることはできない、とのミュンツァーの言葉を信じていましたが、『最初の命中弾とともに、たちまち彼らの錯覚は崩れ去った。〔…〕みんな算を乱して逃げ出し、〔…〕市壁をめざして一目散に駆け下りた。〔ギトン註――諸侯軍の〕騎兵と歩兵があとを追い、当たるを幸い突き刹した。

ギュンター・フランツ,寺尾誠・他訳『ドイツ農民戦争』, p.384.

 

 

 市門から農民軍が逃げ込むのと同時に、追ってきた敵もそのまま市内に突入しましたから、あとは全市域の狭い路地に至るまで修羅の巷となりました。「およそ 6000人が刹され、600人が捕えられた」(ベンジング/ホイヤー,p.196.)諸侯軍は、6名が戦死しただけだった(ギュンター・フランツ,p.385)

 

 ミュンツァーは、民家の屋根裏に隠れているところを捕えられています。

 

 「テューリンゲンでも、全土の蜂起を鎮圧するには一度の会戦で事足りた。〔…〕いまや反乱派は至るところで支配者の赦しを得ることに懸命となった。」騎兵4000、歩兵8000の大軍がミュールハウゼンに進撃したが、5月25日、ミュールハウゼンは無抵抗で降伏した。プファイファーは夜陰にまぎれて逃亡したが、まもなく捕えられた。(ギュンター・フランツ,p.385)

 

 ミュンツァーは、10日あまりの拷問の後で、5月27日、前日に捕えられたプファイファーとともに処刑されました。

 

 プファイファーは最後まで毅然として節を曲げずに死んでいったのに対し、ミュンツァーの態度については、さまざまに言われていて定説がありません。拷問にくじけ、信奉者たちに罪を着せて罵ったとか、処刑台で自説をすべて撤回し、カトリックに改宗して首を刎ねられたとか、革命指導者にふさわしくない最期が流布されています。ミュンツァーは、その過激な教説にそぐわない小心な男で、死のまぎわに変節したという見解が、昔も今も定説化しているのです。

 

 

処刑台のミュンツァー。©DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.

 

 

 しかし、エンゲルスは、

 

 

『彼はこれまで勇気をもって生きてきたが、それと変わらぬ勇気をもって刑場に臨んだ。』

フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,p.89.

 

 

 と書いてミュンツァーを顕彰しています。そして、最近ようやくドイツの歴史学界でもミュンツァー再評価の気運が盛り上がっており、史料の再検討によって “変節” の事実を否定し、彼の思想と生涯を一貫性あるものとして把え直す見解が有力になってきているのです。

 

 まだ史料の発掘が十分でなく、ミュンツァーに対する低い評価が一般的だった 19世紀の段階で、いち早く彼を評価したエンゲルスの慧眼には、あらためて承服せざるをえません。エンゲルスが、ミュンツァーを近代的に理解しようとするあまり、無神論の革命家のように見なした点、また、彼が「革命党」を率いて農民革命を起こしたという・根拠のない想定で農民戦争史を構成した点など、エンゲルスの数多くの誤りを割り引いても、なおその著作が価値を失うことはないのです。

 

 

《1525.2.~5.》「農民戦争」中葉の主な経過(改訂)

  • 1525年2月下旬 ミュンツァーミュールハウゼンに帰還。28日、聖マリア教会の主任司祭に就任。
  • 2月末~3月1日 西南ドイツ・メンミンゲン市で『農民12箇条』成立(メンミンゲン12箇条)。
  • 3月初めまでに、西南ドイツ6ヵ団の一揆農民勢合計4万人以上〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,p.79. による〕
  • 3月16日 ミュールハウゼンで市参事会が総辞職。17日、「永久市参事会」成立。
  • 4月中旬 ヴュルテンベルク州で召集兵の反乱、ウンネンシュタイン山に立て籠もり、州都シュトゥットガルトを占領(4月25日)。
  • 3月下旬~4月 中部ドイツ・フランケン地方各地で農民勢の蜂起結集。うちヴュルテンベルクほか4団の合計3万9000人以上〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,pp.97,144. による〕
  • 4月18日 フルダとヴェラ谷で農民蜂起。テューリンゲン「農民戦争」の初め。
  • 5月初め時点で、テューリンゲン各地の蜂起農民9団、兵力合計6万3500人〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,p.180. による〕
  • 5月5日 ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公の死。
  • 5月9日 ヴュルテンベルク農民団、総指揮官フォイヤバッハーを解任。
  • 5月11日 ミュンツァーフランケンハウゼン市へ支援のため出撃。
  • 5月12日 ベプリンゲンの戦いトルーフゼス麾下の「シュヴァーベン(都市・諸侯)同盟」軍、ヴュルテンベルク農民軍に勝利。
  • 5月15日 フランケンハウゼンの戦いヘッセンザクセン諸侯連合軍がミュールハウゼンテューリンゲン農民軍を潰滅して勝利。
  • 5月25日 ミュールハウゼン市、諸侯連合軍に降伏。
  • 5月27日 ミュンツァープファイファーの処刑。

 

 


 

 

 

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