ベプリンゲンの戦い(1525年5月12日)は、「ドイツ農民戦争」の
勝敗の岐れ目となった。 © Bauernkriegsmuseum Böblingen.
【29】 ウルリヒ公とトルーフゼス――
農民軍を利用する者、鎮圧する者
『こうして3月初めには、6つの陣営に約3万ないし4万の上シュヴァーベン〔≒ 西南ドイツ――ギトン註〕反乱農民が武器をとっていた。これら農民勢の性格はきわめて雑多であった。革命的――ミュンツァー的――党派は、どの農民勢でも少数だった。にもかかわらず彼らは、どの農民勢でもその中核であり支柱であった。農民大衆は、〔…〕譲歩が保証されさえすれば、いつでも領主らと協定を結ぶ肚 はら だった。そのうえ彼らは、〔…〕諸侯軍が押し寄せてくると戦争をするのがいやになり、〔…〕大部分が家に帰ってしまった。そればかりか、農民勢には浮浪人のルンペン・プロレタリアートがおおぜい加わっており、軍紀を乱し、農民を堕落させ、たえず出たり入ったりしていた。このことだけでも、農民勢が〔…〕諸侯の軍隊には決して太刀打ちできなかった理由を説明できるのである。』
フリードリヒ・エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, in:『マルクス・エンゲルス選集』,第10巻,1966,新潮社,pp.66-67.
行動する大衆を蔑視し、「前衛党」を英雄化して、革命を遂行する「主体」に祭り上げるエンゲルスの考え方が、よく表れています。わずらわしいので今後はいちいち指摘しませんが、成果があれば「前衛党」の功績にする、失敗すれば農民大衆のせいにする、そういう偏頗な思考が、エンゲルスの交戦過程の叙述には随所に現れます。
さて、農民軍への加勢を買って出た「ウルリヒ公」は、各処の農民勢がまだ集結を続けているあいだに、先に集結していた「ヘーガウ勢」の一部に自分の傭兵軍隊をつけて、ヴュルテンベルク州に侵入しました。領国ヴュルテンベルクを奪還して公に返り咲くべく、州都シュトゥットガルトを目指したのです。
鎮圧側の有能な指揮官トルーフゼスは、「シュヴァーベン同盟」軍を率いて防戦し、3月中にシュトゥットガルトを確保したうえ、ウルリヒの軍を州外に押し返しました。その一方で、「上・下アルゴイ勢」「バルトリンゲン勢」「湖畔勢」とは休戦して交渉を進め、「事態の解決の期限をユディカの日曜日(4月2日)と取決め」ました。この間、トルーフゼスの傭兵が、農民に向かって進むことを拒否して反乱したので、一時は混乱しましたが、トルーフゼスはこれを鎮めて、こんどは、新手の農民戦士が集結し始めていた「ライプハイム勢」を抑えるべく、ウルム市に向かいます。
かくて、鎮圧諸侯側「シュヴァーベン同盟」は、四方の農民軍の動きを一応抑えて「行動の自由を獲得し、第1期分の」軍費分担額も集め終え、こうして、いつでも攻勢に出られる状態を確保したうえで、農民勢の動向を注視する態勢に移ったのでした。
農民,手工業者,傭兵が、騎士と修道士と法王を
たたき刹している。1525年頃の木版画
【30】 西南ドイツ――農民軍のプログラム
この間、農民側は、どうしていたでしょうか? 各地の農民勢にとって、休戦中の活動のかなめとなるのは、自分たちの要求項目の「箇条書き」をまとめあげることです。その出来不出来によって、どれだけの範囲の大衆を集められるかが決まり、内部の結束と士気の高さをも大きく左右します。またそれは、彼らが目的とする改革のプログラムでもありました。
「シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢」が 1524年秋のうちに「16箇条」をまとめて帝国地方裁判所に提出したことは、前回述べました。
「上アルゴイ勢」は、1525年3月7日メンミンゲン市で「12箇条」をまとめ、これは、「上・下アルゴイ勢」「バルトリンゲン勢」「湖畔勢」の共通の要求項目となりました。これが、「農民戦争」の農民軍プログラムとしてよく知られることとなった「メンミンゲン12箇条」です。
『彼らは、ユディカの日曜日に行なわれる審理のために、〔…〕有名な 12箇条の文案を作っていた。彼らがそこで要求したのは、共同体〔Gemainde 村落、都市の街区など――ギトン註〕による聖職者の選任と罷免、小十分の一税〔1年間に増えた家畜に課される――訳者註〕は廃止し、大十分の一税〔作物に課される――訳者註〕は司祭の給与を差引いた残りを公共の用途に充てること、農奴制、漁撈・狩猟権、死亡税の廃止、法外な賦役・租税・および地代の制限、共同体や個人から力づくで奪った森林・牧地・および諸特権の返還、そして裁判と行政における専横の排除であった。
これを見ると、農民勢のあいだには、温和な協調派がなおきわめて優勢であった。
革命党(die revolutionäre Partei)は、すでにこれより前に「箇条書簡 Artikelbrief」の中に、その綱領を出していた。この・全農民階級に宛てた公開状は、〔…〕一切の負担〔Lasten 貢納・賦役・租税など――ギトン註〕を排除するための「キリスト教同盟兄弟団」に加入することを彼らに求め、拒否する者は全員「世俗的破門」に処す、すなわち社会から閉め出す、同盟員との一切の交際を禁止すると脅していた。すべての城、修道院、準修道院も、貴族・坊主・修道僧が進んでそこを立ち去って「キリスト教同盟」に加入しないならば、同じく「世俗的破門」に処すとしていた。――〔…〕この急進的宣言が述べているのは、何よりも革命、すなわち〔…〕諸支配階級の完全な打倒なのであり、「世俗的破門」に指名されているのは、もっぱら、叩き刹さるべき抑圧者と裏切者、焼き払わるべき城、没収さ〔…〕るべき修道院と準修道院なのである。
しかし、農民たちが彼らの 12箇条を正式の仲裁者に提出するところまでいかないうちに、シュヴァーベン同盟が休戦協定を破って軍隊を差し向けてきたとの情報が入った。農民たちは、急いで対策を講じた。〔…〕公式の 12箇条〔農民たちが起草した↑12箇条 ≒「メンミンゲン12箇条」――ギトン註〕のほかに、〔ギトン註――「革命党」の〕箇条書簡が彼らの戦争遂行の準則となり、和平締結の日と定められていたユディカの日曜日が全面的蜂起の日となった。〔…〕
ドイツの3分の2をおおう地域に、農民一揆がわずかのあいだに続々と起った。〔…〕再洗礼派その他の密使を使ってこの運動を組織してきた人々〔つまり、ミュンツァーの指導する「革命党」――ギトン註〕が、その先頭に立っていたことは、個々の一揆がすべて同時に起こったという事実が証明している。』
エンゲルス,藤原浩・他訳「ドイツ農民戦争」, im selben,pp.67-68.
つまり、エンゲルスの言うところでは、農民軍のなかで、いっさいの負担の除去という徹底した要求を提示していたのは少数の「革命党」――その首領がミュンツァーだと――だけで、彼らの働きかけで、農民は立ち上がった。しかし、「前衛党員」以外の大部分の参加農民は、付和雷同の烏合の衆で、党の呼びかけにはけっきょく耳を貸さず、温和で妥協的な要求を出して支配階級の顔色をうかがっていた。そのせいで、農民軍は、諸侯の奸策で分裂し、粉砕されてしまったのだ、というわけです。
1525年、西南ドイツ。城を襲う農民軍。
©DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.
【31】 西南ドイツ――現代の「農民戦争」史像
現在のドイツの歴史学界での「農民戦争」史像は、以上と大きく異なっています。
エンゲルスとは、人物・勢力の評価が違うだけでなく、基礎となるナマの事実の認識そのものが、変ってきているのです。これは、19世紀以来の地道な史料発掘と考証検討の成果です。とくに西南ドイツに関しては、戦後、西ドイツ領域での地方史研究の隆盛によって、エンゲルスの描いた「農民戦争史」は、大きく塗り替えられました。
詳細に立ち入る余裕はありませんが、ごく一部を引用しておきましょう↓。
『農民戦争は、〔…〕農民的宗教改革の展開であった。12箇条第12条に明言された・福音を絶対的な社会規範とする「神の法」原理に媒介されて、この農民的宗教改革の運動は、文字通り広域的に展開する。』
前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,九州大学出版会, 1998,p.147.
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ここで言われている「神の法」とは、私の理解するところでは、憲法のようなものだと思います。法律は、その時々の社会的必要や世論に応じてさまざまに変更されますが、憲法は、法律の上にある規範です。憲法も改正は可能ですが、「国民主権」「三権分立」「人権の基本原則」のような核心となる部分は変えることができないとされています。「農民的宗教改革」に立ち上がった農民たちの考えでは、聖書の「福音書」が、そうした憲法の基本原則に当たるものであり、「神の法」なのです。憲法違反の法律が無効であるのと同様に、「神の法」に反する道徳も、世俗の法律も(カトリックの教会法はすべて)無効です。「12箇条」の第12条では、この箇条書の各条項は、「神の法」に反すると判明した場合には無効になる、もしくは変更されなければならない――と定めているのです。
なお、この時点で西南ドイツ各地の農民のあいだに現出した「12箇条」は、地域ごとに多少の相違があり、発掘された写本・活字本は多種にわたります。それらのなかで、「メンミンゲン12箇条」という名称が有名で、これら「12箇条」の総称としても通用しているようです。が、個々の史料の成立場所や系譜関係については、今も論争が続いているのが実情です。
前間氏が下↓で述べるように、数多くの「12箇条」のうち主要なものが、「シュヴァーベン農民の12箇条」と「シュヴァルツヴァルトの12箇条」の2種なのです。おおざっぱに言いますと、「メンミンゲン12箇条」≒「シュヴァーベン農民の12箇条」と思ってよいようです。
『ここからさまざまの抗議書が生まれ、さらにより普遍的なシュヴァーベン農民の12箇条や、シュヴァルツヴァルトの12箇条(同盟条例)が成立する。〔…〕
シュヴァーベンとシュヴァルツヴァルトに2つの 12箇条が存在したことは疑いなかろう。しかも両者は、互いに密接な関連をもっていたのである。ここから、農民戦争の広域的展開と、各地域間の相互交流、相互援助は十分に理解される。』
前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,p.147.
つまり、エンゲルスのように、多数の場所で同時に一揆が起きたからといって、「革命党」が指導していたからだ、などと考える必要はない。(そう言える証拠もない)。各地域の農民グループのあいだの相互の連絡・相互援助を想定するだけで、同時蜂起は十分に理解できる現象だ。知識人が農民を指導する「革命党」などというものは、どこにも存在しなかった――と現代の歴史家は考えるのです。
『これらの文書、あるいは農民的宗教改革の思想が、ツウィングリ,ミュンツァー,〔…〕等、様々な神学者あるいは俗人説教師の影響を受け、彼らの援助で成立したことは言うまでもないが、しかし、これらの思想は農民団の中で生まれ、基本的に農民、あるいは平民の思想であった。
ツウィングリ思想の影響の下に、「神の法」原理が最初に発生した地域は、クレットガウ,アルゴイ,上シュヴァーベン中部であったと言われる。』
前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,pp.147-148.
すなわち、前回の地図に示した農民勢の成立地域で言えば、「シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢」「上・下アルゴイ勢」「バルトリンゲン勢」となります。これらの地域各地では、1524年11月から 25年2月までに、さまざまな農民団の抗議書・批判文書が書かれていますが、いずれも「神の法」原理を主張の根拠として打ち出しているのです。これらの農民的な泥臭さを残す文書類は、整理され昇華されて、まもなく「シュヴァーベン農民の12箇条」「シュヴァルツヴァルトの12箇条」という2文書を成立させます。(pp.148-149.)
1525年、西南ドイツ。城から騎士を拉致する農民たち。
© DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.
『ブリックレ※の表現を借りれば、「指導的な・反乱を動機づける理念は、反乱する平民自身によって展開された。1525年の知識人の役割は、彼らが平民の側に加担した限りであるが、むしろ産婆的な機能である。彼らは、反乱者たちの目的を明瞭に表現し、簡明な形にまとめた。しかし、彼らは革命の[先駆的思想家 Vordenker]ではない」。
〔…〕宗教改革初期の社会福音主義的なパンフレットは、農民戦争期の 12箇条や同盟条令に連なり、これらは、農民戦争敗北後の状況の中で、ガイスマイアーやヘルゴットのユートピア思想へと飛躍する。この農民的あるいは平民的宗教改革の思想は、さらに歴史的遺産として再洗礼派の財産共同体や相互扶助の思想として継承されるのである。しかも、これらの思想の担い手は、一貫してブリックレの言う「平民」であり、換言すれば農民と都市の手工業者であった。
我々が新しい 12箇条論争から学ぶべきことは、平民の平民による平民のための宗教改革の展開であ』る。
前間良爾『ドイツ農民戦争史研究』,p.149.
※註「ブリックレ Peter Blickle 1938-2017」: ドイツの近世史家。ザールブリュッケン大学・ベルン大学教授を歴任。旧西ドイツの史家のなかで、東ドイツの研究者と交流・論争を続けた稀な存在だった。その際に彼の関心は、史的唯物論に対抗する概念を見いだすことにあった。「ドイツ農民戦争」に関する業績が多い。『農民戦争――平民の革命』1998. など。上記引用は、1982年の論文「農民戦争における 12箇条の成立再考」。
【33】 中部ドイツ(フランケン)の蜂起
現在、国際空港のある「フランクフルト(マイン河畔)」を中心とする中部ドイツ地方は「フランケン」と呼ばれています。「フランケン」とは、4-5世紀の民族大移動で東から来てフランク王国を築いた「フランク人」のことです。「フランクフルト」の「フルト」は浅瀬で、フランク人は、今のポーランド方面からやってきて北フランスに定住したので、その途中で大河を渡った地点が「フランクフルト」なのです。東でオーデル川を渡った浅瀬が「フランクフルト(オーデル河畔)」、そのあと、ライン川・マイン川の合流点付近を渡った場所が「フランクフルト(マイン河畔)」です。
さて、1525年4月の西南ドイツ・農民勢の一斉蜂起は、ただちにフランケン地方に波及しました。フランケン地方でも、各地で蜂起した農民軍が、移動しながら貴族の諸城と諸都市を陥れていきます。細かく見れば 10個、エンゲルスによれば 6個の農民勢を数えることができます。農民軍は、はじめ数百の村々でそれぞれ立ち上がった集団が、地域の中心都市に集結して農民勢となり、さらにいくつかの農民勢が合体しているので、農民勢がいくつあるかは、数え方によって異なります。
しかし、エンゲルスの叙述を追いかけていくには、ネッカー川沿いハイルブロン市周辺の「オーデンヴァルト勢」と、やや遅れて、ヴュルテンベルク州都シュトゥットガルトに近い「ウンネンシュタイン山」に陣取った農民勢の2つに注目しておけば足ります。
フランケン地方の農民勢は、農民綱領(改革プログラム)の面では、独自性がありませんでした。多くの農民勢は、西南ドイツの「12箇条」(メンミンゲン12箇条) をそのまま使っていたのです。一部の農民勢は、それを有産市民向きに薄めて穏和化してさえいました。
しかし、フランケンの独自性は、農民勢の組織性と軍事能力の高さにありました。もともとこの地方の一部の領地では、諸侯・領主が農民に軍役を課しており、農民は軍事訓練を受けていました。そうした農民たちは、槍の穂先を向け変えるだけで、諸侯の軍隊に十分太刀打ちできる部隊になりえたのです。
そこへさらに、貴族騎士の一部が農民勢に加わってきました。彼らは、政治的な面では(諸侯・領主に迎合しないように)農民に監視されながら、もっぱら軍事指揮官として農民勢を強化しました。名前を挙げれば、「貴族であり、かつてホーエンローエ伯の官房長だったウェンデル・ヒプラー」、「フランケンの騎士フロリアン・ガイヤー」、ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンなどです。
ゲッツは、のちに文豪ゲーテの戯曲『鉄腕ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』で、まるで農民の英雄であるかのように描かれます。事実は、この男は、れいのウルリヒ公と組んで追い剥ぎや強盗を日常稼業にしていたヤクザ騎士でした。「オーデンヴァルト勢」は、ゲッツを首領にしたとたんに堕落してしまいます(エンゲルスの言う「堕落」とは、貴族・有産市民と妥協して穏健化すること)。
ゲッツと対照的なのはフロリアン・ガイヤーで、彼は臣従していた上級貴族たちに理不尽な扱いを受けてきたために貴族全体を恨むようになり、自分で福音書を読んで、封建制を否定する「革命神学」に近づき、そうした思想的確信を抱いて農民勢に加わったのです。
ほかに、「オーデンヴァルト勢」には平民の指導者もいました。メッツラーとロールバハです。この2人は宿屋〔Gasthaus 居酒屋と宿屋を兼ねたもので、ドイツに多い――ギトン註〕の主人でした。
「ドイツ農民戦争 1524-25」――フランケン地方要図
「オーデンヴァルト勢」がゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンを首領にすると、農民勢の雰囲気が大きく変わってしまったので、内部の・より急進的な2派が、ガイヤーとヒプラーを首領にしてそれぞれ分裂し、本隊とは別行動の遊撃を続けます。ガイヤーの部隊は「黒部隊」と呼ばれ、それに対してゲッツらの本隊は「白部隊(明るい農民勢)」と呼ばれました。
各農民勢の進軍・遊撃は、街道筋や川筋に沿って、沿道の都市を陥れながら進み、修道院や貴族の居城を焼き討ちして行きます。都市のほうでも、農民勢が近づいてくると自分で市門を開いて明け渡したり、市当局が応じなくとも、平民・下級市民が市門を開いて迎え入れる場合が大部分でしたから、攻防戦にはなりません。オーデンヴァルトの本隊「白部隊」のように穏健化した部隊は、貴族の居城は攻撃せず、修道院だけ襲って所蔵の財宝を掠奪しました。
諸侯・領主貴族も、逃げ出す場合が大部分でしたが、なかには徹底抗戦して、自領地の農民を手当たり次第に虐刹する領主もいました。こちらのトップ画のヘルフェンシュタイン伯爵もその一人で、19世紀の画家の描いたこの想像画は、史実と違っておそろしくお手柔らかです。事実は、ヘルフェンシュタインは「槍追いの刑」で処刑されています。最後に串刺しにされて息絶えるまで槍で追いかけ回す刑で、公開処刑というより公開笑刹です。ふつうは奴僕にしか執行されない不名誉な刑でして、そうやって辱めて楽しんだのです。おまけに、伯爵お抱えの笛吹きが処刑の BGM を吹奏して興 きょう を沸かせたといいますから、ヘルフェンシュタインは、自分の手下からも、よほど怨まれていたことになります。(エンゲルス,マルエン選集10,pp.68-71)
ヘルフェンシュタインの処刑を執行したのは、「オーデンヴァルト勢」のもう一人の貴族指揮官ウェンデル・ヒプラー(分裂前)でした。ヒプラーは、思想的にはガイヤーより穏健で、封建制を否定して完全平等のユートピアに突進するタイプではなく、現実的な政治思考のできる人でした。彼は、のちに(といっても蜂起約1か月後の5月半ば)「ベプリンゲンの決戦」で農民側が諸侯軍に敗北すると、農民勢の綱領を作り直して、より穏健なブルジョワ改革中心のものに改めます。これは、後代のイギリス「名誉革命」や、「フランス革命」のジロンド党の先駆と言ってよい市民的改革プログラムとして、高く評価されています(ハイルブロン改革綱領)。しかし、このプログラムも、「農民戦争」では結局実現しませんでした。(pp.77-78)
西南ドイツの「農民戦争」:城になだれ込む農民軍。
© DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.
フランケン中央の司教都市ヴュルツブルクでも、4月はじめ以来、農村蜂起の情勢が周辺に及んできました。諸侯であるヴュルツブルク司教は、堅固なマリーエンベルク砦(「笛吹きハンスの乱」で、ハンスが幽閉された)に立て籠もり、領邦議会を召集して市民・農民と話し合うと見せかける一方で、諸邦に密書を送って鎮圧の救援軍を要請していました。が、どこでも、領内の農民が蜂起しているのは同じですから、他領を救援する余裕のある諸侯などいるわけがありません。そのうち、密書が市民・農民側にばれてしまい、司教は 5月5日に砦を脱出して逃亡。残された司教派と、激昂した市民・農民とのあいだで戦端が開かれます。そこへ、フロリアン・ガイヤーの「黒部隊」と、ローテンブルク方面の「タウバー勢」が到着し、農民側に加勢して全面戦闘になっています。
ライン河畔のファルツ選帝侯領でも反乱農民勢が優勢で、選帝侯は、領邦議会を開いて農民勢の要求にしたがった改革を行なうことを約束しています。
ヴュルテンベルク州(州都シュトゥットガルト)内では、一足早く 3月末以来各処で農民が蜂起していました。その後、「オーデンヴァルト勢」の・ロールバハに率いられた分派や、西南の「ライプハイム勢」の一部が入ってきて、彼らの影響下でも農民が蜂起しています。この州を統治していたオーストリア大公は、「まったくの窮地に陥った。大公の政庁にはカネがなく、軍隊もごくわずかしかなかった。都市と城には守備兵も弾薬も無かった。〔…〕政庁は、各都市の召集軍を集めて事に当たらせようとした。」ところが、召集された都市軍の一部は、集結地に向かう途中で、農民勢を攻撃するのを嫌がって、反乱を起こしたのです。
4月16日、シュトゥットガルトに向かっていた召集軍は進軍を拒み、ウンネンシュタイン山で「そこで急速に勢いを増していた市民・農民陣営の中核になってしまった。同日、〔…〕いくつかの修道院と城が徹底的に劫掠された。」
こうして、1万名を超える反乱農民らの「ウンネンシュタイン勢」が、州都シュトゥットガルト目近 まぢか のウンネンシュタイン山に陣を張って、州都征服の機会を窺う情勢となったのです。
4月18日と20日、シュトゥットガルトの政庁は、ウンネンシュタイン山の農民勢に使者を送って2回の交渉をしたが、農民勢は「12箇条」の承認を要求したので決裂。農民軍は市壁のすぐ近くまで進軍した。「シュトゥットガルトでは、市参事会員〔門閥貴族〕の大多数が逃げてしまい、市民委員会が市政を掌握した。」しかし、市民層は、「門閥、市民的反対派〔有産市民〕、革命的平民の間に党派的分裂があった。4月25日、後2者が農民たちに市門を開き、シュトゥットガルトはたちまち占領されてしまった。」彼らは今や「キリスト教大農民勢」と自称して完備した組織を整え、「給料の支給、掠奪品の分配、給養等について一定の規則」を定めて、それにしたがって実施する体制を、参加農民・市民のあいだに成立させた。(pp.71-73)
ヴュルテンベルク州に侵入したウルリヒ公を撃退した後、しばらくシュトゥットガルトを離れていたトルーフゼスは、この間、ウルム方面に転戦していました。鎮圧側「シュヴァーベン同盟」諸侯軍は、いまや、この有能な指揮官の働きもあり、同盟諸都市諸侯からの拠出金も集まってきて、ようやく農民勢への反撃態勢を整えていました。そこで「シュヴァーベン同盟」は、シュトゥットガルトを農民勢に奪われたとの報に接するや、ただちにトルーフゼスにシュトゥットガルト奪還と州の支配回復を命じたのです。
トルーフゼスの指揮する騎士と傭兵の軍隊が、ヴュルテンベルク州奪回に向けて、ライン川・ファルツ方面から進軍してきます。これに対して、シュトゥットガルトを占領した「ウンネンシュタイン勢」は、州内各地の農民勢を集め、トルーフゼスを迎え撃つべく、西に向かいます。(pp.74,76)
こうして、両軍の衝突「ベプリンゲンの戦い」(5月12日) は、「農民戦争」の勝敗を分ける決戦となったのでした。
西南ドイツの「農民戦争」:城になだれ込む農民軍。
© DEFA_Stiftung_Manfred_Klawikowski 1956.
《1524.10.-1525.4.》 「農民戦争」前半の主な経過
- 1524年10月6日 西南ドイツ・シュテューリンゲン伯領の農民がハンス・ミュラーを隊長として蜂起、要求箇条をコールしながらシュヴァルツヴァルトを北へ進軍、沿道数百人の農民が加入。(「シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢」の結集。「農民戦争」の開始)
- 10月初旬 ミュンツァーとプファイファー、ニュルンベルクに到着。
- 12月~1525年1月 ミュンツァー、チューリヒに近い独瑞国境のクレットガウ村に滞在し、農民戦争を支援。『12箇条』成立に関与か?
- 1525年2月14日 西南ドイツ・ケンプテン修道院領の農民が「キリスト教兄弟団」を結成(「上アルゴイ勢」の結集)。
- 2月10日過ぎ 西南ドイツ・バルトリンゲン村で1万人の一揆農民が結集(バルトリンゲン勢)。
- 2月21日 ボーデン湖畔で「湖畔勢」の結集。
- 2月23日 ウルリヒ公、自領ヴュルテンベルク奪還のため独瑞国境ボーデン湖畔からシュトゥットガルトに向け進軍するも、配下の傭兵に離反され、シュトゥットガルト直前で退却(3月3日)、トルーフゼスに阻まれヴュルテンベルクを放棄(3月17日)。
- 2月末 メンミンゲン市で『農民12箇条』成立(メンミンゲン12箇条)。
- 3月初め ウルム市・アウクスブルク市近郊で 5000人の農民と 250人のライプハイム市民が結集(ライプハイム勢)。
- 3月初めまでに、西南ドイツ6ヵ団の一揆農民勢合計4万人以上〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,1969,未来社,p.79. による〕。
- 3月22日 フランケン地方・ローテンブルク近郊で農民大隊結成(タウバー谷勢)。司教座のあるヴュルツブルクへ進軍。
- 3月26日以降 フランケン地方・ネッカー谷各処で農民軍が結集(オーデンヴァルト勢)。
- 4月6日 「シュヴァルツヴァルト=ヘーガウ勢」の再蜂起。
- 4月16日 オーデンヴァルト勢、ヘルフェンシュタイン伯配下の騎士勢に勝利し、ヘルフェンシュタイン伯を捕えて処刑。
- 4月中旬 ヴュルテンベルク州で召集兵の反乱、ウンネンシュタイン山に立て籠もり、州都シュトゥットガルトを占領(4月25日)。
- フランケン農民勢のうち「オーデンヴァルト勢」「タウバー谷勢」「ビルトハウゼン勢」「ウンネンシュタイン勢」の合計3万9000人以上〔ベンジング/ホイヤー『ドイツ農民戦争』,pp.97,144. による〕。
- 5月12日 ベプリンゲンの戦い。トルーフゼス麾下の「シュヴァーベン同盟」軍、ヴュルテンベルク農民軍(ウンネンシュタイン勢)に勝利。
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