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Ilya Efimovich Repin:Leo Tolstoy ploughing in the fields, c1887.

 

 

 

 

 


 

 

〔6〕 「ザスーリチ草稿」

 

 

 レヴューの最終として、はじめに予告しておいたように、「ザスーリチ草稿」に関する部分を深読みしてみたいと思います。

 

 この部分では、マルクスのさまざまな典拠と、同時代者との論駁、また、さまざまな論者の解釈を引いて議論しているので、斎藤さんの論旨を追うのはなかなか骨が折れます。そこで、『マルエン全集』を図書館から借り出して、勤労感謝の日に一日かけて、「ザスーリチ草稿」をきっちりと読みこみました。そのうえで斎藤さんの該当部分を再読したところ、なるほど、そういう読み方もあるのかと、いろいろな面で教えられました。

 

 マルクスは、ヴェラ・ザスーリチから質問の手紙を受け取ってから、1か月足らずの間に膨大な返信の草稿を書き、3回書き直した後で、清書したものをザスーリチに送っています。分量は、2回目の草稿(「第1草稿」と慣用上呼ばれる)がもっとも長く、3回目、4回目になると、枝葉を伐られて原形をとどめないほど短く簡単なものになってしまいます。実際に送られた返書は、草稿として書かれた研究レポートのかんたんな抄録といってよいものです。

 

 しかし、4通の草稿は、それまでにマルクスが積み重ねていた前近代共同体社会に関する研究のまとめとも言えます。そこに関係するモルガン『古代社会』やチェルヌィシェフスキーまで遡って読んだほうが、「草稿」の意味はより明らかになるはずですが、今回はそこまで踏み込めませんでした。

 

 

 

〔7〕 『資本論』論争――

ロシア農村社会の再生をめぐって

 


『マルクス主義に特徴的なさまざまな生産力主義のアプローチは、人新世の経済危機と環境危機に適切に対応するには不十分であることが判明した。加速主義やエコモダニズムは〔…〕資本主義の非民主的で消費主義的な支配・従属関係――「帝国的生活様式」――を再生産してしまう。

 

 さらに、伝統的な唯物史観の想定とは異なり、資本主義的発展が、資本主義的生産様式の矛盾を止揚してくれるとは限らない。なぜなら「掠奪の技法」としての「資本の生産力」の発展は、〔…〕労働者たちの主体性を剥奪し、自然環境を破壊する。要するに、「資本の生産力」が未来社会への物質的基盤を提供することはない。〔…〕

 

 「実質的包摂」の分析を通じて「資本の生産力」の問題に注意を向けるようになってから、〔…〕マルクスは、資本主義の進歩的性格に関するそれまでの想定を徹底的に見直すことを強いられるようになったのだ。〔…〕

 

 〔ギトン註――かつて〕『共産党宣言』の〔…〕マルクスは、資本主義のもとでの生産力の発展を歓迎し、自然を征服することで全世界が文明化し、人類の解放が実現することを期待した〔…〕

 

 たしかに〔…〕イングランドの植民地主義は、インドの村落に対して「破壊的」に作用する。とはいえ、鉄道、蒸気機関、灌漑システムといった新技術をインドへと持ち込むことで、西欧資本主義は、アジア社会を「再生」するという「〔ギトン註――「破壊」と「建設」の〕二重の使命を果たさなければならない」とマルクスは主張した。つまり、近代工業化が、共同体的土地所有を解消して、私的土地所有へ置き換え、カースト制を解消するという点に、イギリス植民地主義の進歩的役割を認めているのだ。〔…〕

 

 マルクスは、インドの村落共同体は外界との交わりが皆無であるために、不変なままで停滞してきたと考えた〔…〕このため、インド人は、帝国主義の介入という外からの強制を必要としているとされるのだ。

 

 史的唯物論には「生産力主義」と「ヨーロッパ中心主義」という2つの特徴がある。〔…〕生産力の発展が歴史的進歩の主要な原動力だとされるため、資本主義的発展を加速させることが、人間的解放に向けた最も効率的な変革の道とみなされるのである。〔…〕

 

 生産力の高い西欧資本主義諸国は、非西欧諸国や非資本主義諸国と比較して歴史のより高次の段階に位置しているとみなされ〔…〕非資本主義諸国も〔…〕ヨーロッパと同じ資本主義的工業化の道を歩まなければならないと推論される。』

 

 しかし、1860年代になると、『マルクスは資本主義のもとでの生産力の増大を歓迎する姿勢を捨て、〔…〕生産力の発展は短期的利益と無限の資本蓄積のために人間と自然を内延的にも外延的にも浪費し、掠奪する傾向を強化していく』ことを認識するようになる。『「物質代謝の亀裂」を修復するには、別の経済システムが必要になる。〔…〕

 

 生産力主義からの決別は、「史的唯物論」〔…〕をゆるがすものであった〔…〕。より大きな生産力を有しているというだけでは、もはや西欧資本主義が非西欧社会や非資本主義社会と比較して、より高い歴史的段階にあることを〔…〕保証してくれない〔…〕破壊的な技術の発展が、自由で持続可能な人類の発展に向けた「発展」と言えるかどうかは、まったくもって明らかではないからだ。』

斎藤幸平『マルクス解体』,pp.249,258-261,268-269,266-267.  

 

 

ヤースナヤ・ポリャーナ。農民服で散策するトルストイ O.Ignatovich /Sputnik

 

 

 1872年に『資本論』のロシア語訳が出版されると、ロシアでは、マルクスの考え方をロシア社会にも適用できるかどうかをめぐって、かなり激しい論争が展開されました。

 

 というのは、ロシアではもともと、ツァーリ帝政のもとで抑圧されていた農奴の境遇に同情する知識人が多く、農奴の「ミール共同体」を、ロシア人の魂の故郷として称讃する「汎スラヴ主義」思想も、一般に広く信奉されていたからです。たとえば、「ロシア社会主義の父」とされるアレクサンドル・ゲルツェンは、農奴たちを、帝政の抑圧からも、資本主義の流入による弊害からも解放することを訴えていました。1861年には、ゲルツェンの影響もあって「農奴解放令」が実施されましたが、きわめて不徹底なもので、農奴は、自分の耕作地を「買い戻す」ための莫大な土地代金の負債に苦しみ続けました。

 

 論争の「争点は、資本主義の段階を経ることなく、ロシアに社会主義を樹立することができるかという問題であった。」封建制から資本主義を経て社会主義に移行するというマルクスの「唯物史観」の定式からすれば、それはできないことになります。『資本論』では、資本主義が農民の「共同体」を打ち崩して、自由で無所有なプロレタリアの大群を生み出す「原始的蓄積」の過程が、繰り返し強調されているのです。

 

 ミハイロフスキーというナロードニク(人民主義者)は、「ツァーリ政府の政策と資本主義の破滅的影響のために苦しむロシアの小農・を救おうとするゲルツェンらの必死の訴え」に対して、マルクスは否定的な見解を述べているとして非難しました。多くのロシアの革命家、社会主義者がこれに賛意を表明しましたが、マルクス/エンゲルスと親しかったニコライ・シーバーというウクライナ出身の経済学者は、これに反論して、「マルクスの歴史記述は普遍的に適用可能であり、ロシアも例外ではない」と主張して『資本論』を擁護しました。つまり、シーバーによれば、資本主義が農村の古い「共同体」を解体して農民を土地から引き離すのは「歴史的必然」なのだから、それに抵抗して「共同体」を守ろうとするのは、むしろ社会の進歩に逆行することだ。シーバーは、そう述べて、スラヴ主義とナロードニキを批判したのです。(pp.278-279)

 

 じつは、この『資本論』ロシア語訳は、1867年出版のドイツ語版初版を底本とする・古いヴァージョンの『資本論』だったのです。マルクス自身は、この 70年代には、初版当時とは考えが変化していました。↑上記されているように、生産力至上主義の「唯物史観」とは決別していたのです。ところが、ロシアの読者は、古いヴァージョンにしたがってマルクスを批判し、また擁護したので、マルクスは論争に対して、複雑な対応をしなければならなくなっていました。つまり、現段階では、マルクスの考えは、シーバーのような「進歩主義」よりも、伝統的な農村「共同体」の優れた点を評価するナロードニキのほうに近づいていたのです。

 

 そこで、この論争が行なわれたロシアの雑誌の編集部にあてて、マルクスは、自分の現在の見解を表明する手紙を書こうとしました。その要点は、『資本論』は、西ヨーロッパに限定された歴史的経緯のスケッチにすぎない。人類の普遍的な「社会発展の法則」を述べるつもりはなかったのだ、ということです。

 

 ロシアにはロシアの発展のしかたがあるでしょう。それは、あなたがたが議論してください。『資本論』は、縛りにはなりませんよ、というわけです。

 

 

西ヨーロッパでの資本主義の創生にかんする私の歴史的スケッチを、〔…〕あらゆる民族が、不可避的に通らなければならない普遍的発展過程の歴史哲学的理論に転化する

斎藤幸平『マルクス解体』,2023,講談社,p.279.  

 

 

 ……のは不当である、私のスケッチは西ヨーロッパだけの話だよ、という手紙を下書きしました。

 

 しかし、この手紙は送られませんでした。マルクスは、心の中では「史的唯物論」を否定するに至っていたけれども、あれだけ偉そうにぶち上げてしまったものを、いまさらひっくり返したら、社会主義運動にどんな混乱が起きるかわからない――と思ったのかもしれません。(pp.280-281)

 

 

日本橋、1919年。

 

 

 

〔8〕 50年後の日本では――「日本資本主義論争」

 

 

 ところで、1870年代といえば、日本ではまだ明治初年です。そして、『資本論』をめぐるロシアでの論争は、『資本論』の日本語訳が出た 50年後に、日本でも繰り返されることとなりました。ただ、日本での論争がロシアと大きく違ったのは、古い農業共同体の評価をめぐってでした。日本では、一方が、①明治維新によって日本は資本主義となった以上、今すべきことは社会主義革命である、と主張したのに対し(労農派)、他方は、②明治以来の近代化はきわめて不徹底なもので、形骸的な資本主義のもとで半封建的地主制が農村を支配している。そこでわれわれの当面の課題は、封建制の残滓を一掃して政治を民主化することであり、社会主義革命は、その先にのみ展望することができる(講座派)、との「二段階革命論」を唱えました。

 

 つまり、ロシアのゲルツェンのようなナロードニキ(人民主義)の考え方が、日本には無かったのです。1911年に石川啄木は、

 


『われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、
 また、民衆の求むるものの何なるかを知る。
 しかして、我等の何を為すべきかを知る。
 実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。
 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、
 ‘V NAROD!’ と叫び出づるものなし。』

石川啄木「はてしなき議論の後」  

 

 

 と記していますが、こうした状況は、当時の青年に根性がなかったせいではないのです。ロシアでの革命論議から隔たること 50年の間に、資本主義は西ヨーロッパのみならず世界を覆うようになっており、農村の古い結合に依拠して資本主義への抵抗を構築することは、より困難になっていました。


 日本での「資本主義論争」は、②講座派が優勢になり、第2次大戦後の日本共産党と社会科学者の大部分は、その信奉者でした。「当面は民主革命」という・その路線は、高度経済成長の時代にはすでに時代遅れになっていたと言えますが、民主化の徹底を求める政治運動の領域では、おおいに力を発揮しました。が、高度成長が終り、経済の領域で資本主義の勝利が明らかになるとともに、この「革新」の流れが先細りになってしまうのも、避けられませんでした。

 

 

〔ギトン註――ロシアの雑誌編集部への手紙で〕マルクスは、封建主義から資本主義への移行という西欧の経験を過度に一般化し、それをもとにして世界史を分析するようなアプローチを戒め、それぞれの社会の歴史的特殊性を分析することの重要性を指摘した。というのも、「このように、驚くほど類似した出来事が異なった歴史的環境のなかで起こったが、まったく異なる結果をもたらした」からだ。例えば、共同的土地所有の解消がただちに資本主義的な私的所有につながるわけではない。古代ローマなどで起きたことを見ればわかるように、〔…〕

 

 マルクスは〔…〕手紙の草稿で次のように自らの暫定的な結論を表明している。「〔…〕もしもロシアが 1861年〔農奴解放――ギトン註〕以来歩んできた道を今後も歩みつづけるならば、ロシアは、歴史がこれまでに一国民に提供した最良の機会〔資本主義化に妨げられずに社会主義へ向かうチャンス――ギトン註〕を失ってしまい、資本主義の有為転変のすべてにさらされることになるであろう」〔…〕

 

 西欧では、資本主義の形成過程は共同的土地所有の解体による小農のプロレタリアへの転化を伴なっていたが、同じことが他の地域でも必然的に起きるわけではない。多数のプロレタリアートが存在しないかぎり、ロシアが西欧と同じ資本主義発展の法則に従うこともないだろう。ミールが残存している限りで、資本主義成立を回避するチャンスはまだある。だからこそ、ロシア人はただちに蜂起するべきだと、マルクスは訴えたのだった。

斎藤幸平『マルクス解体』,p.279-281.  

 ※註「古代ローマで起きたこと」: マルクスがここで述べている例によると、古代ローマでは、西ヨーロッパで近代初頭に起きたのと同様に、大土地所有の形成によって、一方には大貨幣資本が、他方には耕作地を失った大量の無産者の群れが生み出された。ところが、彼らは賃労働者とはならず、名望貴族の提供する「パンとサーカス」で養われる「惰民(Mob)」となり、大貨幣資本と大土地所有は、戦争捕虜を給源とする奴隷制大経営を発展させた。すなわち、資本主義とはまったく異なる事態を結果した。〔『マルクス・エンゲルス全集』,第19巻,p.117.〕




少年啄木像 盛岡市大通2丁目

 

 

 ロシアの「資本論論争」への介入を断念した後、1879-1881年の3年間に、マルクスは、インド、ジャワの農村共同体を集中的に研究します。ヨーロッパ人の植民地化によって解体に向かう以前、それらの共同体が、いかに強固な「持続的生命力」で住民たちを結びつけてきたか、「長年にわたって所有権を規制してきたか」を認識し、ときには、それらの共同体が「イギリスの支配と衝突し」植民地支配に対する抵抗の基盤となったことに関心をいだいています。(pp.281-283)


『マルクスは、もはやヨーロッパ社会の優位性を賞賛したり、歴史の進歩の名のもとにアジアへの植民地介入を正当化したりすることはなかった。〔…〕

 

 「マルクスはアジア史とヨーロッパ史に対して違った考察を行なうことを支持し、〔…〕西欧のモデルで展開された構造的概念を、インド的関係やアジア的関係に単純に転用することそのものに対して、反論を展開したのだ」〔Hans-Peter Harstick: "Karl Marx über Formen vorkapitalistischer Produktion", 1977.〕

 

 これらの発展のおのおのを別個に研究し、しかるのちに、それらを相互に比較するならば、人はこの現象を解く鍵を容易に発見するでありましょう。しかしながら、超歴史的なことがその最高の長所であるような普遍的歴史的哲学理論という万能の合鍵によっては、けっしてそこに到達しえぬでありましょう。〔『マルクス・エンゲルス全集』,大月書店版,第19巻,p.117.〕

斎藤幸平『マルクス解体』,2023,講談社,pp.283-285.  

 


 このことは、マルクスが『資本論』刊行に先立って、「唯物史観」の図式(アジア的→古典古代的→封建的→資本主義→社会主義・生産様式の継起的発展の法則)を否定したことからの、必然的帰結であったと言えます。もっとも……


 

『そのことは、資本主義の一般法則を否定するわけではない。「商品」「貨幣」「資本」といった一般的な経済的カテゴリーは、私たち個人の意識や各地域の歴史的・文化的特殊性にかかわらず、いかなる資本主義社会にも客観的に妥当するのだ。つまり、これらの「経済的形態」は、資本主義的生産様式が存在するかぎり、どこにいても、どんな文化的・地理的背景をもっていても一般的に通用するのである。

 

 〔…〕このような資本主義的システムを分析する一般的な理論的枠組みがなければ、資本主義的発展の歴史的ダイナミズムを明らかにすることができなくなってしまうだろう。〔…〕

 

 マルクスは、資本主義的発展の一般法則とその特殊的状況〔西欧/非西欧を問わず、それぞれの特殊状況――ギトン註〕との間の矛盾が、人間と自然の物質代謝における持続可能性の条件をどのように劣化させるかを考察しようとした〔…〕さらには、それが資本主義システムそのものに亀裂を入れる可能性を認識するために、非西欧社会を研究したのだ。

斎藤幸平『マルクス解体』,pp.285-286.  


 

 資本主義以前の継起的「歴史法則」の存在は否定されるのに、「資本主義」の諸「形態」だけは、場所を選ばずに普遍的に通用するのは、なぜなのでしょうか?

 

 ひとつの解決は、ウォーラーステインのように、「世界資本主義」という単一の実体を想定し、それが西欧の一角に発生したのち、全世界に広がったと考えることです。たしかに、どこでも同じ論理が通用すること、しかも中心部と周縁での資本主義の作用に違いがあることを説明できます。しかし、この考え方には欠点もあります。たとえば、日本の江戸時代(鎖国中!)の問屋制マニュファクチャーのような・非ヨーロッパの自生的な資本主義発展の可能性を軽視することになり、植民地侵略を正当化することにもなりかねない、という問題です。

 

 斎藤さんの考え方は、明確に打ち出すには至っていませんが、むしろ、そのような「世界資本主義」アプローチではなく、資本主義というものの性質として、普遍的な「経済的形態」の「物象化」を伴なう、‥そのように考えておられるようです。

 

 

蘭領東インド(ジャワ島)強制栽培制度 監視するオランダ人と収穫する農民たち

 

 

 

〔9〕 『資本論』論争の再燃――革命女傑からの質問状

 

 

 1881年、マルクスは数年前の「資本論論争」に関連して、こんどは、ナロードニキの女性革命家ザスーリチから直接、論争点について質問する手紙を受け取ります。

 

 

『ザスーリチは、その手紙のなかで、『資本論』がロシアで大きな人気を博していること、ロシアの農業問題や村落共同体についての革命家たちの討論のさいにも『資本論』がある役割を演じていることを書いていた。〔…〕手紙はつづけて次のように述べている。

 

 「〔…〕最近では、村落共同体〔「ミール共同体」を指す――ギトン註〕は古代的な形態であって、歴史〔…〕によって没落すべき運命に定められているという意見を、私たちはしばしば耳にします。そういう説を唱える人々は、あなたのほんとうの弟子、〔マルクス主義者〕だと自称しています。〔…〕市民よ、この問題についてのあなたのご意見に、われわれがどんなに深い関心を寄せているか、

 

  わが農村共同体のありうべき運命に関する、また世界のすべての国が資本主義的生産のすべての段階を通過することが歴史的必然であるという理論〔つまり、史的唯物論――ギトン註〕に関する、あなたの考えを述べていただくならば、われわれにとっていかに大きな助けとなるか、これでお分かりと思います。」

斎藤幸平『マルクス解体』,p.285; 『マルクス・エンゲルス全集』,第19巻,大月書店,1968,p.599.  



 そして、ザスーリチは、マルクスから回答を受け取ったら公表したいと言うのです。この依頼に対してマルクスが送った返答は、けっきょくのところ、数年前に雑誌編集部に宛てて出そうとした手紙と同じ要旨でした。『資本論』に書いたのは、西ヨーロッパではこうだったという、歴史過程の叙述にすぎない。ロシアの「共同体」の運命については、そこからは何も言えませんよ、ということです。

 

 ところが、その返信を書くまでの約1か月間に、マルクスは4次にわたる膨大な草稿を書いています。こちらの〔16〕で触れたとおりです。「草稿」の内容は、ロシアの農村「共同体」問題に大きく踏みこんでいて、ナロードニキの見解にかなり近いものだったと言えます。にもかかわらず、清書されて送られた手紙には、その膨大な考察の大部分が除去されていました。

 

 そこでまず、じっさいに送られた手紙文を見るとしましょう:

 

 マルクスは、まず『資本論』フランス語版の一節を引いて(この手紙じたいフランス語で書かれています)、「原始的蓄積」(耕作者からの土地・生産手段の収奪→賃労働者への転化)は、西ヨーロッパに限定された運動だと明示していることを示します:

 

 

『このように〔ギトン註――西ヨーロッパに〕限定した理由は、〔ギトン註――『資本論』〕第32章の次の一節の中に示されています。

 

「自己労働に基づく私的所有〔…〕は、やがて、他人の労働の搾取に基づく賃金制度に基づく資本主義的私的所有によってとって代わられるであろう。」

 

 こういう次第で、この西ヨーロッパの運動においては、私的所有の一つの形態から私的所有の他の一つの形態への転化が問題になっているのです。これに反して、ロシアの農民にあっては、彼らの共同所有を私的所有に転化させるということが問題なのでしょう。

 

 こういうわけで、『資本論』に示されている分析は、農村共同体の生命力についての賛否いずれの議論に対しても、論拠を提供してはいません。

『マルクス・エンゲルス全集』,第19巻,大月書店,1968,pp.238-239.  

 

 

 「農村共同体の生命力」うんぬんとは、ロシアの「ミール共同体」は、資本主義の侵入に対して抵抗力があるかどうか:かんたんに崩壊して農民をプロレタリアの群れに変えてしまうのか、それとも、頑強に抵抗して、農民生活の拠点として残っていくのか。ロシアでの論争のひとつの争点が、そこにありました。

 

 

 

 

 

 つまり、『資本論』は、どちらの肩も持ってはいませんよ、と、論争に担ぎ出されるのを回避しているような態度です。これが、マルクスの回答の主要部なのです。

 

 もっとも、注目される部分はあります。西ヨーロッパでの変化は、「共同体」の解体⇒賃労働者の創出 ではなく、小生産者社会の分解⇒資本と賃労働者の創出 だと言っている部分です。『資本論』の「否定の否定」のクダリ(⇒ゼロからの資本論(3)〔9〕)でも言っていたように、マルクスの構想では、社会主義、つまり《アソシエーション》社会とは、「個人的所有」――みずから労働する個人の小生産者所有――の「再建」なのです。そうすると、資本主義に先立つ「小生産者」社会という段階が必須のようにも思えてきます。ロシアに関するマルクスの考えは、はたして、「共同体」から――「小生産者」を経由しないで――直接に社会主義へ、ということだったのかどうか? ここには大きな問題があります。

 

 しかし、これだけではあまりにも素っ気ないと思ったのかもしれません。マルクスは続けて、自分の現在の見解を、ごく簡単に書いています:

 


『しかしながら、私はこの共同体について特殊研究を行ない、〔…〕その結果として次のことを確信するようになりました。すなわち、この共同体は、ロシアにおける社会的再生の拠点であるが、それがそのようなものとして機能しうるためには、まずはじめに、あらゆる側面から、この共同体に襲いかかっている有害な諸影響を除去すること、ついで自然発生的発展の正常な諸条件をこの共同体に確保することが必要であろう、と。

 

           親愛な市民よ、あなたの忠実な

                 カール・マルクス』

『マルクス・エンゲルス全集』,第19巻,p.239.  

 

 

 「除去」すべき「有害な諸影響」というのが何なのか、まったく書かれていません。しかしこれは、当時のロシアでの論争でも盛んに言われていたことで、ひとつは、ツァーリ政府の専制的支配と重い貢税負担による圧迫、もうひとつは、資本主義の侵入による貧富の格差拡大、高利貸付、農民の共同意識の喪失、といったことです。これらは、あえて言わなくてもザスーリチには通じたのでしょう。

 

 したがって、注目すべき部分があるとすれば、最後の約1行です。「自然発生的発展の正常な諸条件」を整えてやることが必要だ、と。

 

 つまり、「有害な諸影響」を除去した後で、さらに、「ミール共同体」の「自然…発展の…条件確保」が必要だと言っているのです。悪い影響をなくすだけではだめで、そのあと、さらにプラスして何かが必要だと言っていることになります。

 

 

アレクサンドルⅡ世の暗殺(1881) 農奴解放令などの近代化改革を実施したが、

ポーランド、ウクライナ等の独立運動も激化し、

ポーランド人ナロードニキの手投げ弾で暗殺された。

 

 

 「自然発生的発展」とは、いったいどんなことを言おうとしていたのでしょうか? 「自然」という言い方から想像すると、「共同体」の外部から知識階層や官僚が入りこんで強力に指導するとか、農民たちを統制するとか、古い因習を改革する、といったことではなさそうです。むしろ、農民たち自身のイニシアチブで、古い共同体がそのまま発展するに任せようという発想に見えます。

 

 そして、この2段階の施策が実施されたのちには、「ミール共同体」は、「ロシアにおける社会的再生の拠点」「として機能」するであろう、と言うのです。

 

 つまり、農村の「共同体」は、ロシアの近代化の “お荷物” どころではない。これまでの鉄道建設も、株式取引所の開設も、「ミール共同体」から搾り取った莫大な富を原資としてはじめて行ないえたのだ。

 

 したがって、これからは、搾り取った富を、資本主義の導入――結果として「共同体」を破壊することとなる――に使うのではなく、「共同体」の富を「共同体」自身に返し、「共同体」をロシア「再生の拠点」として、農村「共同体」の自然発生的発展が、ロシア社会全体の経済的蘇生・恢復・発展をもたらすようなやり方を展望すべきである。マルクスの短い指摘の含意は、このように敷衍して言うことができるでしょう。

 

 もしもそうだとしたら、半世紀後に実際にソ連が行なって失敗した「農業集団化」との比較で、マルクスは、「マルクス=レーニン主義」とは違う重要な提言をし(ようとし)ていたのかもしれません。

 

 マルクスは、具体的に、どんなことを考えていたのか? 次から3回にわたって、その答えを「草稿」の中に探ってみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

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