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〔8〕 「亀裂の修復」――

「コモンの再建」と《アソシエーション》 

 

 

『先進国の放埓な生活は、その代償を途上国や新興国に押し付けています。〔…〕これを「外部化」といいます。

 

 ブラジル国内のアマゾンの森林や、セラードと呼ばれる草原地帯の多くは、急速なペースの樹木の伐採や整地により、牧草地や農地に姿を変えています。なぜでしょうか? 先進国の食卓にのぼる、輸出用の牛やその飼料を生産するためです。あるいは、スマホやパソコンには、南米やアフリカで産出される大量のレアメタルが使われています。しかも、しばしば奴隷労働や児童労働のような人権侵害を伴なって(現代には 5000万人もの奴隷状態の人々がいると ILO〔国際労働機関〕は推計しています)。

 

 もちろん、日本でも外部化は行なわれています。例えば、日本は世界第2の木材輸入国として、膨大な木材を〔…〕東南アジア諸国、あるいはシベリアから輸入してきました。ここでの矛盾は、日本の国土の約7割が森林で、〔…〕森林資源に恵まれているにもかかわらず、〔…〕安いからという理由で〔…〕木材を海外から大量に輸入し、国内の林業を衰退させていることです。〔…〕他国の森林を破壊してきたのです。

 

 〔…〕人間と自然の物質代謝は、地球規模で大きく歪められていきます。〔…〕『資本論』第3巻の草稿のなかでマルクスは、「物質代謝の亀裂」について次のように書いています。

 

 大土地所有は、社会的な物質代謝と 自然的な、土地の・自然諸法則に規定された物質代謝の連関のなかに、修復不可能な亀裂を生じさせる諸条件を生み出すのであり、その結果、地力が消費され、この消費は商業を通じて自国の国境を越えて遠くまで広められる(リービヒ)。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,pp.136-137.  

 

 

 文中引用のマルクス草稿は、化学者リービヒの著書からの要約です。資本主義的大農経営によって地力が消耗してしまい、豊穣だった土地が貧困化しつつある現状を告発しています。産業革命と資本主義の発展によって、都市住民や賃労働者の食糧需要が増え、市場が拡大したことから、農村でも、市場向け大量生産のための大農経営が(家族経営の農民を廃業させて)さかんになり、農地は酷使されて疲弊するのです。

 

 こうした現象の発祥地はイギリスですが、穀物輸入と工業製品(衣料など)・肥料の輸出という国際商業を通じて、ドイツ・東欧などに波及していきます。波及先では、(農業の資本主義化の条件が乏しいので)「再版農奴制」によって農村社会を中世に逆戻りさせながら、そこでもやはり大農経営(ユンカー経営)によって農地を疲弊させていくのです。こうして、資本主義は「外部化」によって、「物質代謝の亀裂」を世界中に拡散させます。

 

 「外部化」とは、先進国の発展した資本主義が、外国、および将来世代に対して、市場「価値」の増殖を目的とした生産活動のツケを押し付けることです。

 


『資本主義の終りなき運動は、一部の国の一部の人たちが有利になるような独占的な形で世界中を商品化していきます。〔…〕資本主義は価値の増殖を「無限」に求めますが、地球は「有限」です。資本は常にコストを「外部化」しますが、地球が有限である以上、「外部」も有限なのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.137.  

 

 

インドネシアの埋め立て地で働く子供たち via Shutterstock


 

『アソシエートした生産者が、盲目的な力に支配されるように 自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し、自分たちの共同的な制御のもとに置くということ、つまり最小の力の消費によって、自分たちの人間性にもっともふさわしく、もっとも適合した条件のもとでこの物質代謝をおこなうこと〔『資本論』第3巻草稿〕


 〔…〕資本主義に代わる新たな社会において大切なのは、「アソシエート」した労働者が、人間と自然との物質代謝を合理的に、つまり、短期的に食い潰してしまうのではなく、長期にわたって持続可能な形で制御することだ、と。

 

 アソシエートするとは、共通の目的のために自発的に結びつき、協同するという意味です。その中身については、〔…〕「環境社会主義」的な視点が入っていることが〔ギトン註――↑引用のマルクス草稿から〕はっきりとわかるでしょう。


 しかし、「どうやって」それを具現化し、「亀裂」を修復するのかについては、『資本論』には具体的に書かれていません。私も大学1年生の冬休みに意気揚々と『資本論』に挑んでみたものの、未来社会の姿について全然説明がなくて、肩透かしをくらったのをいまでもよく覚えています。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.147-148.  



 ↑引用部分は、環境社会主義(エコ・ソーシャリズム)の観点に中心があり、そのためにかえって、ポスト資本主義の社会のイメージ(経済や所有関係)が見えにくくなっているかもしれません。その点に関係するワードは「アソシエート(アソシエーション)」だけです。その意味内容は、斎藤さんによれば、「共通の目的」「自発的結合」「協同」ということですが、やはり漠然としています。《むら》や家族のように・生まれたときからあって運命的にそこに属してしまうような集団ではなく、ある目的に共鳴する人が集まって組織する団体、つまり「ゲゼルシャフト」らしいということはわかります。また、斎藤さんは書き落としていますが、成員のあいだの「平等性」、「民主的」意思決定のしくみ、成員の「自発性と創意」を維持する仕組みも必要でしょう。

 

 しかし、そうしたことが、↑上の草稿文から読みとれるわけではありません。

 

 

  

 

 

 

〔9〕 〈コモン〉の再生 ――『資本論』では? 

 

 

 そこで、『草稿』ではなく、マルクス自身が完成して公刊した『資本論』第1巻のほうから、対応する箇所を見ておきましょう:

 

 

『否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球大地 Erde――ギトン註〕と 労働によって生産された生産手段 をコモンとして占有すること を基礎とする 個人的所有を再建するのである。〔『資本論』, MEW XXⅢ, S.791.〕


 〔…〕「否定の否定」とは、資本の本源的蓄積原始的蓄積――ギトン註〕によって「否定」され、生産手段と自然を掠奪された労働者が、資本の独占を「否定」し、解体して、生産手段と地球を「コモンとして」取り戻す、ということです。「コモンとして」とは、共有財産として、ということです。〔…〕なぜか。「地球」は誰のものでもないからです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.197-198.  

 

 

 「原始的蓄積」が始まった頃には、まだ大きな企業はなく、「小生産者」、つまり親方とその家族が自分で働き、雇い人を1人か2人入れた程度の工場 こうば が大部分でした。それでも、生産手段(工場、機械、原料)は親方の所有です。自作農家も、農地を私有する「小生産者」ですが、入会地 いりあいち ・放牧地として〈コモン〉(共有地,共同用益地)を必要とします。そういう「小生産者」の「私的所有」財産と〈コモン〉を、資本家企業が奪い取って大農経営や大工場経営を行なうのが、第1の「否定」――つまり「原始的蓄積」です。

 

 第2の「否定」、つまり「否定の否定」は、資本家企業の所有を否定して、社会主義化することです。しかし、その場合に、「否定の否定」だからといって、「小生産者」の「私的所有」が復活する(再建される)わけではない、というのです。なぜなら、資本主義の結果として、親方家族でやっていたような町工場は統合されて、さまざまな機械が並んだ工場になっています。それをまた分割して、溶鉱炉のテッペンは労働者Aの私有、いちばん底は労働者Bの私有、途中は輪切りにして労働者C,D,Eに分ける。転炉はFのもので、圧延機はGのもの、‥‥というようにすることはできないからです。そんなふうにバラバラにしたら大工場は操業できなくなってしまいます。だから、「私的所有を再建」は、しない。

 

 それでは、どうするか? マルクスは、「個人的所有をつくりだす」と言うのです。その「個人的所有」を説明しているのが、引用の後半ですが、文構造が複雑なので(ドイツ語だと、もっと分かりやすいのですが)、↓図示してみます:

 

 

 「原始的蓄積」によって否定された「私的所有」の対象は、「大地」つまり〈コモン〉と、「生産手段」でした。これらは社会主義では「コモンとして占有」されます。そして、「協業」が行なわれます。このような編制が、労働者(生産者)たちの「個人的所有」だというのです。

 

 たしかに、これなら、溶鉱炉がバラバラになったりはしない。溶鉱炉、転炉、圧延機などを含んだ工場全体が労働者(生産者)たちの〈コモン〉として「占有」され、いままでどおり「協業」が行なわれるので、鉄の生産活動に支障はありません。

 

 

 (【補足】「個人的所有」: マルクスは↑「個人的所有を再建する」と書いています。「再建」とは、かつて有ったけれども破壊されてしまったものを、ふたたび建てることです。では、「個人的所有」は、いつ・どのような形で、かつて存在したのか?‥それが、親方の町工場や自作農家による「私的所有」です。そういう「個人的所有」を、未来社会では「再建」するのだという。ただし、かつて有った「私的所有」という形では「再建」しないのだと。

 

 それでは、どんな形に「再建」するのかというと、↑引用の『資本論』では、「協業と…共同占有」としか言っていないのでわかりにくい。じつは、マルクスは自分で「『資本論』の入門書」を書いていて、そこでは、「大地と、労働そのものによって生産される生産手段 とを 共同占有する 自由な労働する人びとのアソシエーション」と言っています(大谷禎之介・訳『マルクス自身の手による資本論入門』,2009,大月書店,p.162)。つまり、再建されるのは、「自由で・みずから労働する・生産者たち が結び合った アソシエーション」なのです。

 

 ここからわかるように、マルクスは未来社会の構想において、資本主義によって破壊されてしまった「個人的所有」を再建することに、たいへんこだわっていたと言えます。彼が、親方や農家の「個人的所有」に、ここまでこだわったのは、それがかつて、「みずから労働する人が、生産手段にたいして持つ私的所有」という形で、「労働する各人の・自由な個性の発展」を可能ならしめる条件であった――と考えていたからです(op.cit.,p.163)マルクスの構想は、哲学的な目標が先行しているのでわかりにくいのですが、そこから推論すれば、「アソシエーション」の実質内容も、個人の自由な活動と創意が、協同の生産活動と経営のなかで(抑えられたり切り捨てられたりしないで)そのまま発現されるような組織でなければならない、――ということが推察できます。)

 

 

 しかし、やはり全体としてたいへん抽象的で、いまひとつ、どういう実態になるのやらイメージが湧きません。とりわけ、生産者たちが、工場を「コモンとして占有する」という、その生産者たちの組織は、いったいどういうものなのか? それが「アソシエーション」なのか? 協同組合のようなものなのか? ‥‥名目は「共同占有」でも、前世紀の《むら》のように、誰か親分のような人がいて牛耳っていたら、時代遅れの資本主義と変らなくなるでしょう。あるいは、実際には、ソ連や北朝鮮の国営企業のような組織で、党や国家の官僚に支配されて、個々の労働者は「所有者個人」として持ちあげられながら厳しいノルマを課されて苦しむかもしれません。

 

 ですから、社会主義というのは、具体的な実態にまで踏み込んで検討しなければ、じっさいにどんな社会になるかはわからないのです。「個人的所有」「共同占有」などといった法制的な用語で、解ったような気になってはいけません。


 そこで、ここはいったんマルクスの「古典」から離れて、じっさいに 20世紀に行なわれた「社会主義国家」という壮大な「実験」――惨憺たる失敗――を振り返ってみる必要があります。それを、斎藤幸平さんとともに、次節で行ないます。

 

 

 

 

 

〔10〕 ソ連は「社会主義」 だったのか?

 


『読者のみなさんは、「コミュニズム」や「社会主義」という言葉を聞くと、ソ連や中国、キューバや北朝鮮を思い浮かべるのではないでしょうか。

 

 たしかにそうした国々では「共産党」や「労働党」が権力を握っていますし、しばしばマルクス主義の理論を使って自らの改革や政策を正当化しています。〔…〕でも、独裁とか、処刑とか、飢餓とか、ネガティブなイメージも多いですよね。

 

 以下では、〔…〕ソ連や中国を「社会主義」とみなす考え方を批判し、マルクス=レーニン主義に永久の別れを告げたいと思います。なぜなら、それでは〔ギトン註――「社会主義」を、ソ連や中国のようなものだと思っていたのでは〕マルクスの「コモンの再生」という未来社会のプロジェクトは全然理解できなくなってしまうからです。〔…〕


 では、現存した歴史上の社会主義と、マルクスのコミュニズムは、どう違うのでしょうか。

 

 たしかに、ソ連においては、最低限の医療の保障、教育や保育の無償化、諸個人の最低限の生活の保障(家賃・日用品の低価格、公共交通機関の低料金)のような措置がとられていました。労働時間も短く、賃金や社会進出については、ジェンダー平等も一定程度は実現されていた〔…〕こうした措置は必ずしも悪いものではありません。

 

 それでも、人々がソ連や中国の社会主義について否定的な印象をもつ大きな理由の一つが、民主主義の欠如です。「社会主義」と呼ばれる国々では、共産党の一党独裁がしかれており、それが深刻な被害をもたらしてきました。

 

 例えば、スターリンの独裁下で、多くの囚人が集中収容所(グラーク)で苛酷な強制労働に従事させられ、体制批判者が裏切り者として刹されたのは、厳然たる事実です〔スターリン時代だけでなく、戦後の冷戦時代まで続いた。――ギトン註〕〔…〕1930年代の大虐刹においては、従順な人たちさえも〔…〕、一般市民まで、少しでも目をつけられると、反乱分子やスパイとして片っ端から処刑されたのです〔密告のノルマがあったので、例えば、当時ソ連に亡命していた日本共産党員・野坂参三は、仲間の日本共産党員を何人も無実で密告して処刑させた。――ギトン註〕〔…〕800万人から 1000万人が刹されたと言われています〔ナチス・ホロコーストの犠牲者は 600万人。――ギトン註〕〔…〕

 

 このような、想像を絶するような刹戮が可能だったのは、民主主義が欠如していたからです。〔…〕

 

 同じような悲劇は、中国の文化大革命や天安門事件でも起きています。〔…〕民主主義なき一党独裁に、めざすべき未来社会の姿はないのです。〔…〕

 

 民主主義がないので、当然、言論の自由や結社の自由も認められていません。〔…〕現存する「社会主義国家」では、マルクス主義の理論を使って労働者と連帯することが、非常に危険な行為になっている〔例えば、北京大学のその種の学生サークルが逮捕され、一部の学生は行方が分からなくなった――ギトン註〕。これは、もはや皮肉としか言いようがありません。

 

 〔…〕現在の中国を訪れて、社会主義国家だと感じる人が、どれくらいいるでしょうか。〔…〕日本やアメリカ以上の資本主義社会のようです。〔…〕社会主義らしい特徴を見つけようとすれば、〔…〕銀行、土地、公社などが、かなり高い割合で国有化されていることくらいではないでしょうか。もちろん、この特徴はソ連にも当てはまります。

 

 そのため、一般的な理解によれば、社会主義はしばしば所有形態によって定義されるのです――資本主義は私有、社会主義は国有というように。〔…〕

 

 

 

 

 

 とはいえ、この社会主義の定義は非常に問題含みです。なぜなら、生産手段の国有化は、労働者たちを解放しないからです。

 

 国有化された場合、誰が社会全体の生産を計画するのでしょうか。労働者? いえ、そんなことはありません。現実には、社会全体を見渡すことができる党と官僚ということになります。資本家の代わりに官僚が生産の意志決定権を握っている。そして、彼らの指令のもとで、労働者は働くことになるのです。

 

 〔…〕労働者たちの視点から見れば、資本家と官僚、民営企業と国営企業という違いはあれど、結局、他人の指揮・監督のもとで働かされるという点では、大きな違いはないのです。

 

 しかも、国営企業が大きくなり、その数が増えるほど、官僚が持つ権力は巨大なものになっていきます。〔…〕社会主義を建設するという大義のもとに、官僚は、労働者たちの剰余労働を吸い上げて、新部門への投資を行なっていく。この過程を通じて、官僚は特権階級となるのです。

 

 こうして、党と官僚の支配は絶対化されていくとともに、〔…〕民主主義も脅かされてしまいます。生産手段の国有化によって計画経済を導入しようとする試みが、独裁を生むのは、けっして偶然ではないのです。〔…〕

 

 要するに、現存した「社会主義国家」とは、資本家に取って代わって官僚が労働者の剰余価値を搾取していく経済システムにすぎません。だから、マルクス経済学者の大谷禎之介は、ソ連を「国家資本主義」と呼んでいます。

 

 ソ連にはたくさんの国営企業が存在し、〔…〕それらが計画経済のもとで管理されていました。〔…〕各々の企業の目的は、剰余価値〔=利潤――ギトン註〕を最大化することでした。要するに、資本を増やすことをめざしていたわけです。これは、資本主義の本質的特徴〔…〕を端的に示しています。

 

 一方で、労働者たちには、自分たちで生産手段を管理することは許されませんでした。つまり彼らは、国営企業やコルホーズなどに自分の労働力を販売し、剰余価値を生産する賃労働者だったということです。〔…〕資本主義とほとんど変わりません。

 

 たしかに、ソ連の労働者たちの雇用は安定していたかもしれません。けれども、逆にいえば、自由に転職や移動ができませんでした。また、商品の買い手としても著しく制約のかかった状態だった〔…〕強引な価格統制や計画経済が押し付けられることで、企業のイノベーションは起きにくくなり、労働者たちのモチベーションも下がってしまった。これは効率の悪い資本主義であって、アメリカとの競争は必然的に不利になっていきます。

 

 そうしたなかで、なんとか西側に負けないようにと、コスイギン改革、ペレストロイカ〔1980年代後半、ゴルバチョフの改革――ギトン註〕などを通じて、より一般的な資本主義の姿に近づいて行きます。けれども、〔…〕やっぱりうまくいかずに、最終的に 1991年、ソ連は崩壊しました。

 

 逆に、中国では、鄧小平の指導体制で始められた改革開放がうまくいったと言えるでしょう。けれども、それはそれで、資本主義と変り映えのしない社会を生み出す結果になったのです。

 

 

 

 

 同様の問題は、〔…〕ベトナム、キューバ、エチオピアのように』植民地支配から独立した国々にも見られます。『独立後に社会主義を掲げながら工業化をめざすと、〔…〕非民主的な「開発独裁国家」になってしまうのです。

 

 開発独裁国家のもとでも、国民自身が生活していくのに必要』なぶんを越える『「剰余労働」の成果は、官僚たちによって吸い上げられ、工業化を推し進めるために再投資されていきます。〔…〕そのような国民経済計画を立案しているのは一握りの党官僚にすぎないわけで、実態は「搾取」以外の何ものでもないのです。

 

 だから、20世紀を代表するマルクス主義社会学者のイマニュエル・ウォーラーステインは、次のように指摘しました。資本主義が「世界システム」として成立してしまっているなかで、ソ連や中国、アフリカの国々がめざしたことは、資本主義を別のやり方で発展させ、近代化と経済成長を推し進めることにほかならなかったのだと。


 〔…〕ですから 20世紀に社会主義を掲げた国の実態は、労働者のための社会主義とは呼べない単なる独裁体制にすぎなかった。それは、資本家の代わりに党と官僚が経済を牛耳る「国家資本主義」だったのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.156-165.  

 

 

 

 

 

 

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