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〔14〕 「革命」から「改良」へ――トップダウンではなくボトムアップを

 


 『共産党宣言』(1848年)から、『資本論』第1巻刊行(1867年)までのあいだに、マルクスの改革構想には大きな変化が現れます。ひとことで言えば、「トップダウン型」の革命から「ボトムアップ型」の改良へ。ヨーロッパ諸国を席巻した 1848年「3/4月革命」敗北の経験が、マルクスの見込みに反省を迫り、彼の改革思想そのものを変えたと言えます。

 

 えっ? 革命はボトムアップではないの? ‥と思われるかもしれません。私も若い頃には、革命というのは、下からの大衆の動きによって起こるものだと思っていました。当時の日本のインテリや学者たちの常識が、そうだったから、それを鵜吞みにして信じていたのです。

 

 しかし、よく考えてください。「革命」とは何をするものでしょうか? もちろん、社会を変えるものです。どんな「革命家」も、社会を変えようとするのであって、単に騒ぎを起こしたいとか、破壊をしたいというのは、「革命」ではありません。では、どのようにして「変える」のか? 民衆が立ち上がって政府庁舎や監獄を襲撃すると、自動的に社会が変わる――などということはありえません。

 

 「革命派」が政権を握って、「上から」法律や統制や政策の実施によって「変える」――「革命」思想とは、そういうトップダウンの社会改革構想なのです。暴力で政権を奪取するにせよ、選挙によって民主的に掌握するにせよ、改革そのものは、政権を取った後で「上から」行なうほかないのです。つまり、「革命」とは、「トップダウン」の思想です。

 

 これに対して、「ボトムアップ」による改革をめざすなら、「改良」思想にならざるをえません。「下から」の要求によって、少しずつ制度を変えていくよりほかないのです。下からの「ボトムアップ」型で、一気にすべてを変えることは不可能だからです。「ボトムアップ」は、忍耐強い「改良」運動としてのみ、遂行可能なのです。

 

 (当時、フランスの作家サルトルカミユのあいだで「革命か?レジスタンスか?」という論争がありました。多くの人がサルトルに賛同しましたが、私は革命を主張するサルトルにどうしても馴染めず、カミユに親近感を覚えました。まだ中高校生だった私には、どうして自分がそう感じるのか分かりませんでしたが、今ははっきりとわかります。サルトルは、結局はトップダウンの考え方であり、カミユはボトムアップ思考だったのです。)

 

 しかしながら、そうは言っても、「忍耐強い」ことは、「我慢する」ことではありません。「忍耐強い」改良運動とは、実現を先延ばしにする「今は我慢せよ」式の欺瞞とは真逆のものです。

 

 すべては政権奪取後に革命派政権がやってくれるから「欲しがりません、勝つまでは」――というのが「革命」思想です。それとは逆に、「ボトムアップ」の「改良運動」は、最初からすべての実現を求めてよいのです。「まずは社会主義建設、そのあとで共産主義の理想へ」などというお行儀のよい定式には従わなくてよろしい。もちろん、実現するのは少しずつです。が、最初から、「脱商品化」「貨幣の排除」を目指してよいし、またそうしなければ何ひとつ進みません。

 

 1848年までのマルクスは「恐慌待望論」を抱いていました。「恐慌」に打撃を受けた労働者・大衆の蜂起に乗じて政権を握り、「上から」の改革で社会主義を実現しようと考えていました。しかも、ヨーロッパ各国で同時にそれを行なおうとしました。――「万国のプロレタリア、団結せよ!」

 

 たしかに、「恐慌」の到来をきっかけとする「1848年革命」は、フランスからドイツへ、他の諸国へと、燎原の火のように飛び火しました。ここまでは、マルクスの見込みは当たっていたのです。マルクスより2年若いエンゲルスは、早速ドイツに帰国して武装蜂起に加わり、プロイセン政府と戦いますが、敗北してスイスに亡命します。「革命」全体も敗北し、フランスは「ナポレオンⅢ世」の帝政となり、ドイツでは一旦できた国民議会も解散され、以後、プロイセンの主導で「統一」と「ドイツ帝国」建設が進んでいくこととなります。

 

 この経過から判るのは、「1848年革命」は市民革命の性格が強いということです。たしかに、市民革命――封建制を倒して資本主義にする革命――は、「上から」の改革によって、かなり成果を上げられるのです。なぜなら、すでに支配層のなかにブルジョワジーが相当数入りこんでいるからです。

 

 しかし、「プロレタリア革命」は、そうはいきません。労働者の運動は、「ボトムアップ」で徐々に待遇を良くしてゆく「改良主義」で行かざるをえない。それが、マルクスの得た教訓だったのです。

 

 

マルクス自身も、まだ若かった『共産党宣言』の段階では、恐慌をきっかけとして国家権力を奪取し、生産手段を国有化していく「プロレタリアート独裁」を掲げていました。けれども、『資本論』〔…〕に、そのような恐慌待望論は見当たらなくなるのです。〔…〕

 

 むしろ、〔…〕『資本論』のマルクスは労働時間短縮や技能訓練に力点を置いていました。革命の本である〔※〕にもかかわらず、重視されるのは資本主義内部でのアソシエーションによる改良なのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,p.179.  

 ※註: 『資本論』の段階では、マルクスの路線変更はまだ不徹底です。「プロレタリア独裁」という語こそ出て来ないが、その考え方は残していたと言われています。マルクスの死後に、国家主義的な労働運動や「マルクス=レーニン主義」が出てきた原因は、そのあたりにもあるようです。

 

 

 


 しかも、特徴的なのは、『資本論』のマルクスは、賃上げよりも「労働時間短縮」を重視していることです。

 

 

『マルクスは、賃上げよりも労働時間短縮を重視したわけですが、これも、物象化という視点から考えるとその理由がわかります。時給を上げることにももちろん意味はありますが、労働者たちは、より長く働いて貨幣を手に入れようという欲求からは解放されません。〔ギトン註――労働者たちは、賃上げによって〕むしろますます貨幣に依存するようになっていく。欲望は無限〔所得が増えれば増えただけ、いろいろな商品を買いたくなる――ギトン註〕だからです。

 

 実際、西欧福祉国家は労働時間短縮を採用しました。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.180.  

 


 とはいえ、労働者に余暇ができても、日曜日にショッピングセンターや賭博場(競馬,競輪,カジノ,‥)が開いて、ヒマのできた人びとから貨幣を吸収しようと待ち構えていたら、資本主義の呪縛から逃れることはできません。そこで、日曜日には、デパート、ショッピングモールなど、貨幣消費の場所は休みになる。余暇は、おカネから離れた過ごし方をする習慣が、西欧「福祉国家」では定着しているのです。前回〔12〕2 で述べたとおりです。

 


〔…〕スポーツチームでサッカーをする人もいる。庭や農園の手入れをしてもいい。デモやボランティアをする人もいます。

 

 まさに、脱商品化と結びついた余暇が、非資本主義的な活動や能力開花の素地を育むわけです。それが、さらなるアソシエーションの発展や脱商品化の可能性を広げていくことにもつながっていきます。こうして、コスパ思考〔「費用・対・効果」の最大化を追求する資本増殖の論理によって、人間の日常生活や人生を裁断しようとする、資本主義末期の転倒した思考原理――ギトン註〕に回収されない、社会の富の豊かさが醸成されることになるのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.181.  

 

 

 

〔15〕 「福祉国家」の限界

 


 こうした西欧型「福祉国家」にも、もちろん限界はあります。資本主義を社会の維持発展の原動力として、経済成長に努めながら、その枠内で、資本主義の「物象化」を抑えようとすること自体、本来的に矛盾をはらんでいます。矛盾を承知のうえで、少しでも良くしていこうというのが「改良」運動ですが、究極的には「福祉国家」を超えてゆく必要があります。

 

 最後に、「福祉国家」の限界を、4点ほど挙げておくこととしましょう。

 


『第1に挙げられるのが、官僚制の肥大化という問題です。〔…〕さまざまな財やサービスが国家のもとで提供されていくなかで、官僚制はしだいに大きくなっていきます。〔…〕ソ連と程度は違えど、官僚支配と非効率という問題が浮かび上がってくることになります。

 

 一方、国民の側も、アソシエーションへ自らが自覚的に参加していた状態から、大きな労働組合の幹部に任せっきりで、国家が提供するサービスを受益するだけの受動的な状態へと変っていってしまいました。しかも、』その『過程で、自らも資本主義的な価値観〔その最たるものが、↑上記の「コスパ思考」――ギトン註〕を内面化するようになったのです。そうすると、アソシエーションの力は弱まっていきます。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.182.  

 


 つまり、労働者の自発的な《アソシエーション》運動としてはじまった互助保険や災害・失業救済が、「福祉国家」に取り入れられると、たしかに内容的には完備したものになっていきましたが、国家官僚の支配に依存する側面が強くなっていきます。労働者は自発性を失ない、《アソシエーション》はかえって衰退してしまうのです。これが、第1の問題点です。


 

  

Peter Bjerg            

 

 

『福祉国家の第2の限界は、南北問題です。つまり、いくら労働者階級の生活を脱商品化したように見えたとしても、それはあくまでも先進国の一国内(あるいはEUのような1地域内)の話であって、それ自体が、外部としての途上国や旧植民地国からの膨大な搾取に依拠していました。にもかかわらず、労働者たちも、より弱い立場の者からの搾取』の上に胡坐 あぐら をかいて『資本主義の恩恵を享受して満足し〔…〕てしまった。これを、〔…〕ウルリヒ・ブラントとマルクス・ヴィッセンは「帝国的生活様式」と呼んで批判します。

 

 こうした暮らしの本質は、収奪と外部化〔資本主義が矛盾を、領域的/時間的な「外部」に転嫁して、内部の調和と発展を維持すること――ギトン註〕です。このことが第3の問題を生みます。〔…〕労働者階級の生活改善が優先されるなかで、大量生産・大量消費のライフスタイルが普及し、〔…〕自然環境はその犠牲になったのです。〔…〕

 

 第4の問題が、福祉国家の家父長的性格、つまり、ジェンダー不平等を再生産してしまったという問題です。労働運動は、結局、マジョリティとしての男性の運動へと矮小化されていきました。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.183-184.  

 

 

 「ベルリンの壁・崩壊」直前の時期に、私はドイツから東欧にかけて「1日10ドル旅行」をしていました。西ドイツ、オーストリアと比べて、旧・社会主義国には、ただひとつ、はっきりと眼に見える美点がありました。それは、女性の社会的進出度が高くて、街角の男女比は半々に見える。警官や国境官吏、管理職の役人にも女性が多くて、男性との地位格差が目立たないことでした。そして、チェコから国境を越えて西ドイツに戻ると、ここは中年男性の支配する社会だ、ということが、皮膚感覚としてひしひしと感じられたのです。

 

 

『こうした福祉国家の限界に、私たちはしっかりと向き合わなければなりません。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.184.  


 

 

〔16〕 フラース、マウラー、ザスーリチ

 


『なぜマルクスは将来社会像を具体的に描かなかったか。〔…〕それは、将来社会を想像するさいに、現在の価値観や常識を無批判的に投影してしまう〔…〕リスクがある〔…〕こと。つまり、今の社会の欲望とか、ジェンダー観とかをベースにして、将来社会の働き方や自由・平等を構想してしまうという誤りを犯す可能性がある。未来社会はその時々の人々が自分たち自身で作り出すものだと考えたから、マルクスはあえて具体的に描かなかったのです。

 

 ですから、私たちは、マルクスに頼りきってしまうのではなく、自分たちでどのような社会を作るのか、いろいろ試行錯誤しなければなりません。

 

 ところが、マルクス研究者たちは、ソ連という「社会主義」を掲げる体制があったことに甘えて、ポスト資本主義の可能性を真剣に考えてきませんでした。そんななかでソ連崩壊を迎えたため、その後は資本主義以外の社会像を想像することが、ますますできなくなってしまった。〔…〕

 

 2000年以降、〔…〕マルクス主義を名乗る人の多くが、もう「コミュニズム」を掲げていないのです。「行き過ぎた」資本主義を批判しているだけ、〔…〕それでは、マルクス主義の〔…〕存在意義が疑われても仕方がないし、衰退するのもやむをえないでしょう。

 

 やはり、私たちは、コミュニズムという〔ギトン註――実現可能な〕ユートピアを想像するために、『資本論』を読むべきなのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.186-187.  

 


 とはいっても、『資本論』の未来社会叙述が、たいへん抽象的なものにとどまっていることは否定できません。『資本論』執筆段階のマルクスは、経済成長(生産力増大)、革命、プロレタリア階級による権力の奪取といった図式に、まだ囚われていました。そうしたマルクスの固定観念が変化したのは、リービヒの農芸化学を学んだのと並行して、フラースによる・人類の歴史的な自然破壊の考察、また法制史家マウラーによる・古代ゲルマン共同体社会の研究などを詳しく検討したことによります。

 

 とくに、マウラーの「マルク共同体」研究にマルクスは深く触発され、これを皮切りに、古代ローマ、アメリカ先住民の「イロコイ連邦」、ロシアの「ミール」などの共同体から、インド、中国、南米の社会にまで考察を広げていきます。その過程で、日本の農業についても「物質代謝」の観点から高く評価する論考を残しています。


 

 

 

 マルクスは、そうした晩年の研究と再考の成果を、『資本論』に代わる新しい著作に結実させるには至りませんでした。しかし、彼が残した草稿類のなかで、マルクス独自の考察がまとまった形で残されているものとして注目されるのが、「ザスーリチ草稿」です。ヴェラ・ザスーリチは、ロシアのナロードニキに属する女性革命家で、マルクスに書簡を送って、ロシア社会の変革の可能性について質問していました。

 

 そこでの問題は、「ミール」というロシアの農耕共同体が、①貴族による抑圧支配さえ取り除けば、ナロードニキの考えるように、社会主義ないしコミュニズム社会として再生できるのか? それとも、②「史的唯物論」が教えるように、社会主義への直接移行は不可能で、そのような共同体は、資本主義の「原始的蓄積」の犠牲となって解体するほかはない、それが「社会発展」の鉄則――なのか?‥‥という問題です。

 

 マルクスがザスーリチに送った返答は、たいへん短く簡単なものでしたが、20世紀になってマルクスの遺稿のなかから、ザスーリチ宛て返書の大量の下書き稿が発見されました。しかもその内容は、②よりもむしろ①の方向――ナロードニキの革命方針――に近く、一定の条件を付けたうえで「直接移行」の可能性を肯定するものだったのです。とはいえマルクスは、じっさいにザスーリチに送った返書の数倍を超える考察を行ない、草稿を何度も書き直しながら、結局それらを破棄して、②に近いそっけない回答だけを送っています。それは、なぜなのか? そのこと自体に謎があるのです。

 

 そこで、「ザスーリチ草稿」についても、さまざまな解釈が唱えられています。ある人たち(日本では太田秀道廣松渉ら一部のマルクス主義者)は、実際に送った返書は無視して、マルクスは「直接移行」を肯定した、と断言します。斎藤幸平さんも、かなりそれに近いでしょう。しかし、別の見方もありえます。長い考察の果てに、「直接移行」は不可能ではないけれども様々な困難があることを認識し、その困難さを相手にも解るように説明するのは、とうてい手紙などでは無理だと考えて、簡単な返書で済ませてしまったとも考えられます。私はむしろ、こちらの見方を採りたく思います。



『晩年のマルクスが熱心に研究していたテーマが〔…〕、資本主義以前の西欧、あるいは当時の非西欧社会にまだ存在していた「共同体」です。〔…〕

 

 マルク協同体をはじめとする「原古的 アルカイック な」共同体では土地が共有物として扱われ、人々が「平等」に暮らしていた〔…〕

 

 自然科学と共同体を同時進行で研究していたマルクスは、やがて自然の「持続可能性」と、人間社会における「平等」の、強い連関に気づきます。

 

 というのも、富が偏在すれば、そこに権力と支配―従属の関係が生じ、それをさらに強固なものにしようと、人間や自然からの掠奪が始まってしまうからです。その結果、資源が枯渇することになれば、今度は奪い合いの争いが起きる。〔…〕到底、社会の繁栄を実現することができません。

 

 だからこそ、前資本主義社会のさまざまな共同体は、伝統や宗教、土地の共同所有、くじ引きによる割り振りなどさまざまな手段を使いながら、富の偏在化を防いでいたのです。

 

 実際、共同体社会では、他人に無理やり言うことをきかせることができません。相手は気に入らなければ、その共同体を出て行ってしまうかもしれない〔…〕このように、権力による支配関係が不在の状態、それが、平等だということです。こうして、一般的な共同体社会のイメージとは裏腹に、むしろ、個人は主従関係なしで、自律的に振る舞うことができていたのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.189-191.  

 


 原古の共同体の内部では、成員間の格差・不平等は少なく、リーダーの役割も、経験や資質を買われた長老的な人が担っていて、他の成員との間に貧富や権力の差はあまりない。これは、思想的考察だけでなく考古学的実証によっても広く認められていることです。

 

 そのような原古共同社会の「平等性」は、「唯物史観」や古い考古学の見解では、まだ生産力が低いために「剰余生産物」が乏しかったからだ。いわば、余るものがない以上、取り合いにはならず、貧富の差も生じないと説明されました。

 

 

 

 

 

 これに対して、最近の文化人類学など未開民族の社会を研究した成果から、共同体は、むしろ「剰余」を生じさせないためのさまざまな規制手段や伝統習慣を備えて、「平等」性の恒常的な存続を図っている――ということが明らかにされてきました。「ポトラッチ」のような制度的浪費、また神へのお供えや祭りに多大の出費をすることがその例です。あるいは、「平等」の秩序から外れようとする者を、直接に指弾したり追放する「平等」維持の仕組みも無くはありません。

 

 つまり、原古共同体の「平等」は、生産技術が未熟だから自然にそうなっているというようなものではなく、むしろ積極的な内部規制・内部結束によって「平等」な編成を維持している、そういうものだと考えられるのです。

 

 そうすると、そこで大きな問題が生じます。「平等」な原古共同体社会は、はたして「自由」でもあったのか?…という問題です。

 

 

『共同体社会では、他人に無理やり言うことをきかせることができません。〔…〕権力による支配関係が不在の状態、それが、平等だということです。〔…〕個人は主従関係なしで、自律的に振る舞うことができていたのです。

 

 

 斎藤さんが述べている・このような原古共同体のイメージは、理想化しすぎではないだろうか? たとえ「権力者」は不在であっても、共同体という集団と成員とのあいだには「権力による支配関係」がある。それなくしては、「平等」も集団そのものも、維持しがたいのではないか? ‥そういう疑問が生じます。そこに、ユートピア思想の「落とし穴」はないだろうか?

 

 しかし、ここで急いで結論を出す必要はありません。斎藤さんの行論を追って行きましょう。

 


『原古的共同体は、なぜ「持続可能性」と「平等」を両立させることができていたのでしょうか。そこには、資本主義とはまったく異なる仕方での人間と自然の物質代謝の営みがあったからです。〔…〕

 

 こうした共同体では、毎年基本的には同じような生産活動が繰り返されていました。決まった時期に、決まった作物を植える。作付けや収穫は祭りや儀式と結びつけられ、共同体全体の事業として管理されていました。〔…〕共同体は「伝統」に依拠した経済システムだったのです。

 

 共同体では、「富」が一部の人に偏ったり、奪い合いになったりしないよう、生産規模や、個人所有できる財産に強い規制をかけていました。こうすることで、人口や資本、生産や消費の総量が変らないまま推移する「定常型経済」を実現していたのです。

 

 また、〔…〕自給自足に近い形で、「循環型経済」を実現していました。だから、飛躍的な生産力の増大も、土壌を疲弊させることもなく、自然に必要以上の負荷をかけることもありませんでした。〔…〕

 

 そのような共同体は、〔…〕マルクスの同時代にもありました。〔…〕ロシアの農耕共同体であるミールに、マルクスは〔…〕西欧社会と比較して「経済的優位性」さえも認めています。〔…〕それは、ミールがまさに定常型の共同労働・共同所有を実現していて、そのことが、平等と持続可能性の源泉になっていたからです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.191-193.  

 


 このへんになると、斎藤さんも、古い考古学や「唯物史観」ではなく、「平等」と持続可能な「自然との代謝」を維持するために、「共同体」が、さまざまな伝統的な強制や慣行を備えて成員を規制する面に注目しています。

 

 もちろん、それをそのまま未来の社会でも実現しようとか、近代的な個人の「自由」を圧殺して、原古共同体の厳しい規制を復活して縛りつけよう、などと斎藤さんは考えてはいないと思います。しかし、それならば、未来の「コミュニズム」ないし「コモン」の社会は、原古の息苦しい「共同体」とは、どこがどう異なるのか? 《アソシエーション》の社会である・未来の「コミュニズム」は、原古共同体の伝統的「強制」によることなく、どうやって、自然との「持続的代謝」と、社会の「平等」とを、維持してゆくことができるのか? ‥‥もしも、「原古共同体」から未来の「コモン」への移行が可能なのだとしたら、資本主義のなかで芽生えた個人の「自由」という成果を、そこに取り入れて、「共同体」そのものの性格を変えていく必要があるはずです。それは、どのようにすればできるのか? 具体的に、ロシアなど非西欧諸国の「共同体」は、並行して存在する資本主義世界から、何を取り入れ、何を取り入れないことが必要なのか? ‥‥そういった問題群が、ただちに浮上してくるのです。

 

 

 

 

 

〔17〕 「共同体の復活」――

えっ⁉ ‥‥それでいいの?

 

 

『一般的なマルクス理解によれば、生産力を発展させていくことが、歴史をより高い段階へと進めていく原動力だとされています。これを「唯物史観」と呼びます。

 

 ところが、そのような歴史観は容易に、技術革新の進んでいる先進国が、世界で最も先進的な地域である〔…〕「野蛮人」を啓蒙するために資本主義による「文明化」が必要だ、という形で、植民地支配が正当化されてしまう〔…〕「唯物史観」が人種差別の原因になってしまうわけです。〔…〕

 

 しかし、マルクス自身はロシアやほかの非西欧共同体を研究するなかで、そのような歴史観と決別するようになるわけです。つまり、西欧が失った平等や持続可能性をいまだに保持している共同体社会の可能性を高く評価するようになり、コミュニズムの基盤になるとさえ言うのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.193.  


 

 そこで、↓つぎに引用されているのは「ザスーリチ草稿」の一部です:

 

 

 『ヨーロッパでただひとつ、ロシアの共同体は、いまなお、広大な帝国の農村生活の支配的な形態である。土地の共同所有が、それ〔ロシアの共同体――ギトン註〕に集団的領有の自然的基礎を提供しており、またそれの歴史的環境、すなわちそれが資本主義的生産と同時的に存在しているという事情が、大規模に組織された協同労働の物質的諸条件を、すっかりできあがった形でそれ〔ロシアの共同体――ギトン註〕に提供している。それゆえ、それはカウディナの軛 くびき 〔降伏した敵兵をくぐらせた屈辱の門――ギトン註〕を通ることなしに、資本主義制度によってつくりあげられた肯定的な諸成果を自らのなかに組み入れることができるのである。〔…〕現在の状態のもとで正常な状態におかれたあとでは、近代社会が指向している経済制度〔社会主義ないしコミュニズム――ギトン註〕の直接の出発点となることができ、また自刹することから始めないでも〔コモンの解体→資本主義という道を通らないでも――ギトン註〕、生まれかわることができるのである。〔大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』, 19, p.408;斎藤幸平・改訳,以下同〕

 

 〔…〕つまり、資本主義を無理やり導入して共同体を破壊したりする必要はない。そのような外的な強制力なしに、ロシアの共同体は西欧資本主義の果実をうまく取り込みさえすれば、自分たちの力で、コミュニズムを打ち立てることができるというのです。

 

 このような発言は、マルクスが〔…〕自ら歴史観を大きく変えたことを示唆しています。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.194-195.  


 

 そうすると、マルクスが認識した問題の中心部――「移行」の困難性の中心――は、次の点にあったと言えます: ㋐「資本主義を導入」するという「外的な強制力」によることなく、㋑「共同体を破壊」することもなく、㋒「ミール」共同体が「西欧資本主義の果実をうまく取り込」むことは、どうしたら可能か? また、㋓取り込むべき「果実」とは何なのか? ……そこに、重要な問題があるのです。

 

 ここで、比較として日本の近代史を考えてみますと、まず、㋐「資本主義の導入」は、明治政府による「〔「むら」共同体に対して〕外的な強制力」を駆使して行なわれました。㋑明治以後の政府は、「むら」共同体を〔英国の「エンクロージャー」のように〕直ちに破壊したわけではなく、低賃金労働の基盤として温存しつつ徐々に破壊してゆく政策をとりました。㋒こうして、共同体と「コモン〔「入会地」など〕」が破壊され「原始的蓄積」が進行するのと並行して、「自由」「自立」「個人主義」といった「果実」も、徐々に日本の社会に浸透していきました。

 

 しかし、ロシアの「ミール」の場合には、このような「破壊」過程を経ることなく、「果実」だけを取り入れることができるのでしょうか? ここには大きな問題があります。

 

 

 

 

 『資本主義は西欧でも、アメリカ合州国でも、労働者大衆とも科学とも、またこの制度の生み出す生産力そのものとも闘争状態にあり、ひとことで言えば危機のうちにある〔…〕その危機は、資本主義制度の消滅によって終結し、また近代社会が、もっとも原古的な類型のより高次の形態である集団的な生産および領有へと復帰することによって終結するだろう。〔op.cit., 19, p.393〕


 ここでは、むしろ西ヨーロッパのほうが、自らの危機を解決するためにはミールに見られるような共同体社会に「復帰する」必要がある、と言われているのです。〔…〕

 

 ここで、共同体社会が、伝統に依拠した定常型の持続可能な社会であったことを思い出してください。ということは、西ヨーロッパの社会もそのような社会に移行する必要があると、晩年のマルクスは考えていたのです。

 

 マルクスがミールを参照しながら目指していた豊かさは、個人資産の額やGDPで測れるようなものではありません。〔…〕近代化や経済成長だけを重視するあり方から脱却して、人間と自然の共存を重視し、富の豊かさを取り戻すことを要求していたのです。


 〔…〕そのような「高次の」共同体社会を実現するために、無限の経済成長は必要ありません。生産力を無限に上げていく必要もないのです。だから私はこれを「脱成長」型経済と呼んでいます。〔…〕これこそが、〔…〕ソ連や中国とはまったく違う、ポスト資本主義社会の可能性を切り開くのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.195-197.  

 

 

 人間と自然との持続可能な「物質代謝」、それを維持するための「脱成長型経済」といった斎藤さんの提言は首肯できるものの、「個人」「自由」という「資本主義の果実」をいかにして取り入れるのか? という・さきほど指摘した問題には、解答が与えられていないと見なければなりません。むしろかえって、「伝統に依拠した定常型の持続可能な社会」・そのような「共同体社会に復帰する必要がある」と述べられています。

 

 だとすると、それは「伝統的な規制」を絶対不変のものとして強制する社会と、どう異なるのか? 個人の「自由」と「自律」を抑圧せずに、どのようにして実現可能なのか? ‥‥そういった疑問は、何ら答えられずに放り出されているのです。

 

 ここで、ロシア革命以後に、じっさいにロシア農村がたどった歴史的経過を想起しておきたいと思います。

 

 革命戦争が「赤軍」の勝利に終わった後、レーニンがまず打ち出した経済政策はNEP(ネップ)でした。ただちに社会主義化するのではなく、革命後に国有化された企業の一部を民営に戻し、小規模な私企業の設立を許容し、農産物の市場販売を自由にしました。こうした緩和策の結果、「ネップマン」と呼ばれた実業家が輩出しましたが、農村でも「クラーク」と呼ばれる富農が成長したのです。

 

 ところが、レーニンの死後、スターリンの執権期になると「農業集団化」が強力に進められるようになります。「クラーク」は資本家として、共産党と政府から激しく攻撃され、「クラーク」という語じたいが「悪者」と同義にされます。「クラークの撲滅」が目標とされたのです。こうして、独立性のある富農経営者は農村から姿を消し、「農業集団化」の結果として、1930年代には「ミール共同体」の復活が広汎に起こったと云われています。

 

 半世紀後、「社会主義」諸国の崩壊とともに、ソ連でも他の「社会主義」国でも、真っ先に解体したのは集団農場でした。「農業集団化」は、「社会主義」の諸施策のなかでも、最も無残に失敗した最悪のものであったのです。

 

 「集団農場」は、なぜこのように崩壊したのか? そもそも「農業集団化」には、どんな問題点があり、どんな無理があったのか? 今もって十分な研究も論評も行なわれているとは言いがたい。実証的な情報の収拾も不十分で、理念的な議論だけが先行して空回りしているのが、現状ではないでしょうか。

 

 

 

 

 ここでの私の結論を端的に言いますと、偽称「社会主義」諸国での「農業集団化」は、斎藤幸平さんの言う《アソシエーション》とはまったく異なる・愚策の最たるものだったのです。

 

 たしかに、初期の「ネップ」政策が「富農育成」の方向へ進んだのは、かつてマルクスが、「小生産者の個人的所有」の「再建」を《アソシエーション》の基礎だと考えたことに合致していました。なのに、その方向を逆転させ、国家統制を強めて「富農」を根絶しようとした・スターリン治下の「農業集団化」は、その結果として、個人の「自由」と創意を圧殺し、共同体もろともロシア帝国の専制支配そのものを復活させてしまったと言ってよい。このようなやり方では、〈コモン〉は復興しないし、まして、伝統と因習に縛られない創意ある《アソシエーション》を興してゆくことなど、到底できはしないのです。

 

 残念なことに、現在までのところ、「農業集団化」の失敗は、反省も検討もほとんどされていません。資料と情報が集約されていないし、関係の研究者は、いまだ「社会主義」の幻影から脱していないようです。むしろ、かつて「社会主義」崩壊以前の段階では、非(反)マルクス主義研究者によるすぐれた仕事が輩出していたのと対照的です。「社会主義」崩壊後、旧ソ連の機密文書が公開され、研究の条件ははるかに良くなったのに、逆に、実証的な研究は潰滅してしまっているのです。

 

 しかし、斎藤さんは「マルクス=レーニン主義」との全面的対決を宣言されているので、「ザスーリチ草稿」の・より根本的な検討を含めて、彼の研究の今後の進展には、大いに期待したいと思っています。

 

 

 

 

 

 

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       Horace Vernet: Mazeppa aux Loups,1826