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Ralph Chubb - La forêt enchantée, 1925

 

 

 

 

 

 

 

 

〔11〕 革命も政権奪取も、「国家資本主義」を生むだけ!

――「マルクス=レーニン主義」の悲惨な末路

 

 

『ここまでの議論をまとめましょう。

 

 〔…〕私的所有を廃棄しさえすれば社会主義に移行できる』との誤った教義〔これが「マルクス=レーニン主義」――ギトン註〕のもとに『国有化を推し進め〔…〕ても、労働者は、資本を増やすために過酷な条件で搾取され、市場では大量の商品が貨幣によってやりとりされ続けるでしょう。さらに、官僚の支配によって、民主主義は否定され、国家権力が暴走してしまう。


 〔…〕その内実は「国家資本主義」にすぎないのです。つまり、〔…〕労働者たちの自由や権利を犠牲にしながら、国有化と近代化を推し進めただけ〔…〕

 

 そもそも、生産手段の私的所有こそが資本主義の根本問題だという考え方は、〔…〕表層的な資本主義理解にとどまっています。マルクスが、「労働」に重きを置いていたことを思い出してください。

 

 資本主義の本質は、商品の等価交換の裏に潜んでいる・労働者の搾取による剰余価値生産にあります。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,pp.166-167.  

 

 

 ここで、「剰余価値」「剰余価値生産」「剰余労働」ということを、かんたんに説明しておきます。

 

 江戸時代を思い浮かべてください。江戸時代には、「百姓は、生かすな、殺すな」という格言がありました。収穫高に対する年貢の割合は「5公5民」、つまり 50%がふつうだったと言われています。それより多く取ると、農民は飢えて死んでしまう。取り方が少ないと、農民は贅沢が身についてしまう。生存できるぎりぎりのぶんは残して、それ以外は全部取れ、というのが「生かすな、殺すな」の意味です。

 

 この・生存に必要な部分、それを生産する労働が「必要労働」。「必要労働」を超える部分が「剰余労働」です。「生かすな、殺すな」は、「剰余」の部分(剰余価値)を全部搾り取れ、ということです。

 

 このように、封建制(農奴制)や小作制度の場合には、「剰余価値」の部分が、年貢や小作料として眼に見える形で現れるので、たいへんにわかりやすい。しかし、資本主義の場合には、そこがはっきりと眼には見えません。見えないけれども、「剰余価値」部分を資本家(会社)が手に入れていることは、役員報酬や株主配当、企業の内部留保を考えてみればわかります。

 

 労働者は、自分の労働を売って賃金をもらっている。得られた賃金で生活に必要な物を買う。いずれも等価交換をしているように見えるのに、資本家の手もとに「剰余価値」が残る(利潤が発生する)のは、なぜなのか? ‥経済理論的な説明は、いろいろありますが、ここでは述べません。マルクスの説明は、斎藤さんの本の2~3章を読むか、ほかのマルクス経済学の本を見てください。

 

 (ちなみに、マルクスが著述したのは「経済学」ではなく「経済学批判〔経済学に対する批判〕」です。剰余価値の生産にかんする・有名な労働力生産費説も、マルクスが考えた理論ではなく、リカードー左派の経済学者による説明なのです。)

 

 

 

 

 ただ、注意してほしいのは、資本家は、得られた「剰余価値」を全部自分の贅沢のために使ってしまうわけではない、ということです。むしろ、身近な社長さんや商店主を見ればわかるように、資本家というものは、みなたいへんに倹約家です。なみのサラリーマンよりずっと倹約家、悪く言えばケチンボです。すぐれた経営者ほど、おカネの使い方にうるさい。

 

 なぜかというと、彼らは、得られた「剰余価値」をできるだけたくさん、「資本」に付け足して「資本」を増やそうとするからです。たとえば、設備投資をして工場を大きくする、前の期よりも多くの原料を仕入れ、多くの人を雇い、あるいは新しい機械を入れて、もっともっと儲けようとするのです。おカネを使うことよりも、増やすこと自体が生きがいに、つまり自己目的になっています。

 

 おそらく同じことは、年貢の一部を使って、用水工事や交通の整備を行なう江戸時代の殿様にも言えるでしょう。そればかりでなく、「社会主義」という名の諸国の官僚(ノメンクラトゥーラ)たちも、同じなのです。彼らだって、「剰余価値」をできるだけたくさん搾り取って、「社会主義建設」の名のもとに、ダムを造ったり、核兵器を開発したりします。つまり、それらの国は、マルクスの理論で粉飾していますが、じつは「社会主義」どころか「国家資本主義」なのです。

 

 

『この問題を解決するためには、単に私有から国有へと、所有の形を変えるだけでは不十分です。〔…〕資本主義を乗り越えるために必要なのは、搾取のない自由な労働のあり方を生み出すことなのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,2023,NHK出版新書,p.167.  

 


 とはいっても、「剰余価値」が不要になるわけではありません。新規設備投資やイノベーションのためには、生活に必要な部分を超える「剰余価値」を注 つ ぎ込まなければならないことは、資本主義だろうと、ほかのどんなシステムだろうと同じことです。しかし、コミュニズムは、それを、資本家でも国家官僚でもなく、労働者自身が、(たとえば一つの工場や農場のなかで)共同の意思決定によって行なおうというのです。

 


『繰り返し述べれば、国営企業のもとでも、他人の剰余労働の搾取を前提とした賃労働は存在します。国有とは、共有〔マルクスの云う「コモンとして占有すること」――ギトン註〕を実現するものではないからです。むしろ、「ノーメンクラトゥーラ」と呼ばれる支配層を生み出したのが国有化でした。その結果、労働者は自分の意のままにならない・他人による生産手段や生産物の所有に直面したのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.167-168.  

 

 

 

 

『では、国有化と社会主義を結びつける議論は、なぜ根強いのでしょうか。一つには、国有化への移行なら、政治の力で達成できる、ということが大きいでしょう。〔…〕労働者たちが自分たち自身で変えていくのではなく、国家や政治権力で解決しようとするのが、「国家資本主義」の特徴なのです。

 

 マルクスは、その危険性に気がついていました。彼は、表層的な資本主義理解〔生産手段の私有が資本主義の本質だという誤った理解――ギトン註〕に陥ると、革命や選挙などによって政権を奪取し法律を変えればよいという「法学幻想」が生まれてしまう、と警告しています。

 

 ところが、現存した「社会主義」は、まさにそのような幻想に陥ってしまったのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.168.  

 

 

 

〔12〕 〈コモン〉の復興 ―― 4つのステップ 

 

 

 それでは、革命も選挙もダメだとしたら、いったいどうすればよいのでしょうか? 「社会主義」もコミュニズムも、夢のユートピアでしかないのか? ‥

 

 ここで、マルクスによるコミュニズムの処方箋を書いておきましょう。ちなみに、マルクスは、「社会主義」(国家資本主義ではない本物の)と「コミュニズム(共産主義)」、この2つの語を、区別せずに使っています。

 

 それにしても、マルクスが、こんなにわかりやすい処方箋を書いていたなんて、仰天ですが、……斎藤さんの読解力・まとめる力には舌を巻くほかないのです。

 

  •  1 「物象化」に着眼する

 

  •  2 「脱商品化」に努める

 

  •  3 《アソシエーション》をあちこちに創る

 

  •  4 《アソシエーション》の連合を結ぶ

 

 

 1 まず最初に、資本主義の問題点を、中心をはずすことなく正しく把える必要があります。中心とは「物象化」です。〈コモン〉の《富》が奪われて「商品化」され、「商品」と資本の力が人間を(資本家をも、労働者・消費者をも)振り回していることです。

 

 

 

 

 この第1段階で間違えると、あとはもう努力すればするほど、おかしなほうへ行ってしまいます。資本家が労働者を(あるいは地主が農民を)搾取しているのが悪い。だから、革命を起こして資本家の政府を乗っ取って、悪者を退治すれば良くなる‥‥というのが(若干マンガですが)間違えの典型でしょうか。その結果がどうなるかは、中国の「人民裁判」を見ても、ソビエト治下ウクライナの大量餓死を見ても、北朝鮮を見ても明らかなので、繰り返しません。

 

 「権力奪取」「政権奪取」という「国家主義」志向とは、この最初の段階で決別しておかねばなりません。

 

 そうすると、資本主義の問題の中心が「物象化」にあるとすれば、コミュニズムがなすべきことは、この「物象化」の力を抑えることです。しかも、権力にたよらずに、日常的に徐々に抑えてゆく必要があります。

 


マルクスによれば、法や制度より根幹にあるのが、商品や貨幣が人間を支配するような力を振るっているという現実そのものです。人間とモノの関係性の転倒をマルクスが「物象化」と呼び、批判したのを思い出してください。


 資本主義に抵抗するうえで重要なのは、国家権力の奪取や政治体制の変革ではなく、経済の領域でこの物象化の力を抑えていくことなのです。そう言うと難しく感じるかもしれませんが、要するに、商品や貨幣に依存せずとも生きていけるように、日々の選択の余地を広げていくということです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.168-169.  



 2 「物象化の力を抑える」と言っても、具体的にどうすればいいのでしょうか? ここで、斎藤さんがドイツ留学で体験した例を見ましょう。


 ドイツの大学は学費が無料なだけでなく、1学期(年2学期制です)2万円ほどで、学生証をフリーパス付きにしてもらえます。これがあれば電車もバスも乗り放題。学生証で学食は1食数百円、美術館やコンサートの割引もあります。学生寮は月3万円程度。だから、大学を4年で卒業する人は珍しく、6年以上は当たり前。日本のような、新卒学歴の特典がないのです。これなら、生活費を稼ぎながら学生を続けても苦労しないでしょう。博士課程まで、20年くらいかかってのんびりやっている人もいます。

 

 もし日本で、こういうことができたら、フリーターや引き籠もりの相当部分は、学生として社会的ステータスを認められた存在になるでしょう。鬱の人も減るはずです。

 

 学生だけが恵まれているわけではありません。ドイツでは、医療は原則無料、介護サービスも手厚く、失業者手当、職業訓練も充実しています。

 

 

『子育てにもお金がかからないし、老後までに 2000万円貯める必要もない。そうなると、いやな仕事でも必死に堪 こら えないといけないというプレッシャーは弱まります。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.170.  

 

 

 ドイツはじめEU諸国は 21世紀になってから「新自由主義」のほうへ相当に傾いたとはいっても、「福祉国家」の基盤がそのまま残っていて、社会の基本的な生活を支えています。しかし、ここで注目すべきは、社会保障が充実している、といったことではありません。そんなことよりも、「医療費無料」のように、貨幣取引を介さないサービスや現物給付が多い点に、日本との違いを見るべきです。

 

 逆に、日本やウソアと比べて、最初は不便に思われることもあります。たとえば、日曜・祝日は、デパートもショッピングセンターも休みです。休日は、美術館や教会、友人たちとのパーティーやスポーツで過ごすべき時間だからです。こうやって、人びとは、「商品」と貨幣の出番を、できるだけ減らそうとしているのです。そういう意識があることが重要です。

 

 日本人は、幸福・イコール・おカネだと思っている。その態度を改めなければ、永久に資本主義の呪縛を逃れられません。

 

 しかし、これは心がけや道徳の問題ではありません。「福祉国家」の諸施策も、そのもとを質 ただ せば、かならず 19世紀――マルクスの時代――のアソシエーション(協同組合や互助会)に行き着きます。

 

 

 

 

 日本で私たちが習うのは、ドイツ帝国宰相ビスマルクのもとで、社会保険などの労働者保護立法が制定された、ということです。しかし、ビスマルクの政策は結果にすぎません。それ以前に、労働者の組合や互助組織による相互扶助が行なわれ、資本主義の「物象化の力」を少しでも緩和しようという努力があったのです。ビスマルクは、それを国家政策として取り入れたにすぎません。

 

 ドイツやヨーロッパの人びとが、「商品」と貨幣の領域を限定しようとする志向を今でも持っているのは、そうしたアソシエーションから、労働者保護立法へ、さらに「福祉国家」へ、……という歴史的経験を背負っているからなのです。

 


『これこそが、福祉国家の研究者であるイエスタ・エスピン=アンデルセンが「脱商品化」と呼んだ事態です。つまり、生活に必要な財(住居、公園)やサービス(教育、医療、公共交通機関)が無料でアクセスできるようになればなるほど、「脱商品化」は進んでいきます。これらの財やサービスは、必要とする人に対して、市場で貨幣を使うことなく、直接に医療や教育といった形で現物給付されるわけです。


 現物給付の結果、私たちは、貨幣を手に入れるために働く必要が弱まります。福祉国家は、もちろん資本主義国家です。けれども、脱商品化によって、物象化の力にブレーキをかけているのがわかるでしょう。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.170.  



 3 こうした「脱商品化」は、労働者のアソシエーションによって生産とサービスが担われるときに、もっとも力を発揮します。地域や企業、有志といった小さなまとまりでアソシエーションを作っていくことが、第3のステップです。

 


『ソ連も教育や医療などを無償化していたので、福祉国家との違いがわかりづらいかもしれません。けれども、ソ連では、先行していたのは国有化のほうです。

 

 それとは反対に、福祉国家の場合、先に〔より早い段階に――ギトン註〕あるのは物象化の力を抑えるための社会運動です。マルクスはこれを「アソシエーション(自発的な結社)」と呼びます。

 

 実は、マルクス自身は「社会主義」や「コミュニズム」といった表現はほとんど使っていません、来るべき社会のあり方を語るときに、彼が繰り返し使っていたのは、「アソシエーション」という言葉なのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.171.  

 

 

  

 

 

『労働組合、協同組合、労働者政党〔西欧型の――ギトン註〕、どれもみなアソシエーションです。現代で言えば、NGOやNPOも当てはまります。マルクスがめざしていたのは、ソ連のような官僚支配の社会ではなく、人々の自発的な相互扶助や連帯を基礎とした民主的社会なのです。


 アソシエーションの重要性は、福祉国家で提供されているさまざまなサービスの歴史的な形成過程を見ればわかるでしょう。

 

 例えば、失業保険は、労働者自身が給料の一部からみなでプールしていたものです。仕事が欲しくて安い給料で働く人が出てきてしまえば、労働運動の足並みが乱れてしまう。そのため、一定の水準以下で働かないように、失業してしまった労働者たちの生活を自分たちで支える仕組みができたわけです。

 

 それ以外にも、社会保険や年金から公共図書館や公共医療まで、その発端にさかのぼれば労働組合、近隣互助組織、協同組合などの実践に行き着きます。資本の力を前に人々が自分たちの生活を守り、豊かにするために、自発的な相互扶助のシステムを作り上げていたということです。〔…〕これらはすべて、脱商品化に向けたアソシエーションの運動であり、

 

 それが 20世紀に入ってから、労働者たち自身ではなく、国家によって税金を使った普遍的な形で、国民に対して提供されるようになったのです。つまり、アソシエーション運動は、〔…〕国家資本主義とは順序が逆です。あくまで、普遍的なサービスとしての国有化は、アソシエーションが発展した後にやってきたものなのです。〔…〕

 

 福祉国家には、マルクスが考えていたビジョンと重なるところがあります。〔…〕ソ連や中国といった「社会主義国家」』『労働組合運動を禁止して、国有化のもとで官僚が意思決定を独占する』体制『よりも、資本主義のもとでの福祉国家のほうが、マルクスの考えに近いのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.171-173.  



 しかし、19世紀に始まった資本主義を克服する運動――アソシエーション――も、20世紀になって資本主義の力が強大化するにつれて萎んでいきます。が、それと並行して、国家が官僚主導でとりいれるようになり、資本主義の矛盾を緩和する秩序維持策として用いられました。それが、「福祉国家」です。その一方で、ロシアの革命家レーニンは、マルクス主義のふりをして、ロシアで起きた市民革命を簒奪し、労働者や農民のイニシアチブを圧 お し殺して「国家資本主義」の強権体制を築き上げました。

 

 このような経緯から、マルクスの時代にさかんだったアソシエーション運動は、ロシア革命以後は、左翼勢力からも忘れられてしまったのです。こうして‥‥



『20世紀の歴史においては、東側ではソ連型社会主義が、西側では福祉国家型資本主義が確立され、〔…〕西側も東側も、生産力を上げるために国家が中心となって経済を管理していくという成長モデルに収斂していきました。』

 

 本来は、資本主義の行き詰まりを打開するためにオルタナティブ〔異なる選択肢――ギトン註〕を求めた志向が、双方において、『成長主義の枠組みへと矮小化されて、〔…〕国家権力志向が強まるにつれ、〔…〕見失われてしまったのが、最晩年のマルクスによる〈コモン〉の思想だったのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.207.  

 

 

 つまり、西側では、当初のアソシエーション運動は、国家によって取り込まれて西欧型「福祉国家」となり、「国家資本主義」に近づいていきます。他方、東側では、マルクスの名を騙 かた ったレーニンによる「ロシア革命」横取りと、統制・国有化によって、「国家資本主義」体制が支配しました。こうして、西側も東側も、国家が主導して経済成長と生産力発展で相手を圧倒しようと鎬 しのぎ を削ったのです。

 

 20世紀の終りに、東側の「国家資本主義」体制が先に倒れましたが、西側でも「国家資本主義」の維持は困難になり、「新自由主義」という転倒した理論のもとで先祖返りし、原生的な凶暴な資本主義に戻りつつあるわけです。EUの「新自由主義」は、福祉国家が福祉を切り捨て、「アソシエーション」の母斑をかなぐり捨てて、無国籍化(グローバル化)した国際資本に屈服してゆく現象にも見えます。

 

 4 第4のステップ:「アソシエーションの連合」については、マルクス晩年に起きた「パリ・コミューンの乱」を見る必要があるので、次回にまわします。


 

 


 

 

〔13〕 「法学幻想」――BI、ピケティ、MMTの死角 

 

 

 「新自由主義」の掛け声高らかな 21世紀といえども、「国家資本主義」そのものは後退する気配すらなく、「小さな政府」どころではありません。

 


『労働運動が停滞し、アソシエーションが弱まるなかで、国家の強い力を利用した資本主義の改革案が、再び打ち出されるようになっているのです。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,p.173.  

 

 

 「ベーシック・インカム」「トマ・ピケティの再分配税制」「MMT」「グリーン・ニューディール」など、耳目に新しいのではないでしょうか。しかし、これらに共通する欠点は、「資本のストライキ」〔資本が再分配政策を嫌って国内生産をやめ、海外に逃避すること――ギトン註〕を克服して再分配を実現する手立てがないことです。「ストライキ」を起こされないように、資本のご機嫌を損ねない形でやろうとすれば、たとえば日本の場合、利権の温床を拡大するだけで終わる可能性があります。最近も、「太陽光発電」が利権の温床になって、横領罪の逮捕者を出しましたね。同様の腐敗は、「洋上風力発電」にも及んでいます。

 


『資本は、国家を超えて好きなところで好きなものに投資できる、という自由をもっていて、この自由が、移動できない労働者や国家に対する、資本の権力や優位性の源になっています。この自由を盾に「資本のストライキ」を発動しようとするのです。だから、BI〔ベーシック・インカム――ギトン註〕を導入するには、国家がこの資本のストライキに打ち勝たねばなりません。そのためには相当な力の社会運動が、後ろ盾として必要となるでしょう。〔…〕

 

 ところが、そもそもBIという提案が出てきた背景には、労働運動が弱体化し、不安定雇用や低賃金労働が増大していることが挙げられます。労働運動が頼りないので、代わりに国家が貨幣の力を使って、人々の生活を保障しようとするのがBIなのです。〔…〕

 

 BIの考え方は、貨幣が力を持っている現在の状況を、かなり素朴に前提としています。その場合、私たちはBIを導入しても、商品や貨幣の力に振り回され続ける〔…〕物象化の力は全然弱まらない〔…〕こうしたやり方は生産のあり方には手をつけないため、資本が持つ力を弱めることはできません。そのため、BIを求める勢力が、資本のストライキにどれほどの力をもって立ち向かえるか、心許 こころもと ないわけです。〔…〕

 

 もし社会運動の側にそれほど強大な力があるなら、国家が貨幣を配る以外の社会変革の道を追求することができるはずです。例えば、医療や高等教育、保育・介護、公共交通機関などをすべて無償化して、脱商品化するというように。〔…〕


 物象化の力を抑え込もうとしたマルクスは、貨幣や商品が力を持たない社会への変革をめざしていました。もちろんこのゴールは、貨幣の力をどれだけ使っても達成することができません。

 

 貨幣の力から自由になるためには、貨幣なしで暮らせる社会の領域を、アソシエーションの力によって増やすしかないのです。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.174-175.  

 


 そこで、一種の標語にして言うならば:

 

 カネのちからで、カネの呪縛を解くことはできない。


 ――このように言うことができると思います。

 

 

  

 

 

『同様の「法学幻想」〔だという批判――ギトン註〕は、『21世紀の資本』の著者でフランスの経済学者トマ・ピケティの税制改革案にも当てはまります。〔…〕

 

 彼のやり方は、所得税や法人税、相続税を大きく上げていくことで大胆な再分配を実現することです。例えば、所得税や相続税の最大税率を9割にして、それを原資に、あらゆる成人へ1千数百万円ずつ与えることを提唱しています。〔…〕

 

 そのような大型増税を、資本の側が嫌い、必死の抵抗をするのは、目に見えています。〔…〕結局、ピケティのような良心的なエリートが、社会全体のためを思って制度をトップダウンのやり方で設計していくという「法学幻想」は、うまくいきません。

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.175-176.  



 日本では「れいわ新選組」の目玉政策としてよく知られるようになった「現代貨幣理論(MMT)」は、どうでしょうか?

 

 

『MMTは、自国通貨を発行できる政府は、財政赤字を拡大しても債務不履行にならないので、財政赤字でも国は過度なインフレが起きない範囲で支出を行なうべき、という主張をして、注目を集めました。

 

 MMTの掲げる大胆な財政出動は、政府が最低賃金で雇用を用意し、望む全員に仕事を提供する「雇用保障プログラム」とセットで生活を保障します。その際には、環境にやさしい持続可能な社会への転換のために必要な仕事を積極的に創出しながら、経済成長をめざしていくとされます。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.176-177.  

 

 

 「財政出動」「積極財政」「経済成長」――資本にとっても、投資先が増えて旨味のある政策に思えなくはありません。その一方で雇用も保障され、環境保護や脱炭素目標も達成できるのならば、こんなにいいことはない。しかし、‥‥

 


『積極財政であっても、公共投資に比重が移って、何に投資をすべきかを政府に決められてしまうことを、資本はやはり嫌うでしょう。投資をするかしないかの自由な判断権を、自らの手に完全に掌握しているというのが、資本の権力の源泉であり、その力を守るために必死に抵抗するのです。

 

 けれどもMMTにとって、公共投資による資本の管理は重要です。ただ貨幣をばら撒くような形になってしまえば、〔…〕軍事や無駄な公共事業に使われてしまうかもしれないからです〔実際にそうなっているのが、現状自公政権による公共投資と補助金――ギトン註〕。あるいは、ばら撒く過程で利権が生まれて、大企業ばかりが儲かるようになってしまうかもしれません〔利権は自民党の票田をうるおし、国家官僚に天下り先を提供している現状は、さらに深刻に経済を歪めています。――ギトン註〕

 

 〔…〕政府の市場介入が大きくなり、脱炭素や人権擁護などの規制を徹底すればするほど〔現状の自公政権は、この面の規制はほとんど無いに等しい。――ギトン註〕、資本の側からの反発も強くなります。そうすると、資本は国内投資から引き揚げはじめ、通貨は売られてインフレ圧力が高まる〔円安によるインフレ。現状は金利差が原因で起きているが、「資本のストライキ」がはじまると、もっとひどくなると。――ギトン註〕かもしれない。〔…〕そうした資本のストライキに打ち勝つような力は、MMTの経済政策のうちにはありません。


 結局、トップダウン型で大胆な政策を実行しようとしても、国家が資本のストライキにまけないようにするために、相当程度のアソシエーションの力が必要になるわけです。その際、アソシエーションに求められるのは、労働者たちが、何に投資をするか、どうやって働くか、などを自分で決められるような・生産の実権を握るということです。

 

 もちろん、そのような〔…〕改革が非常に困難なのは自明のことですが、だからといって、資本と賃労働のパワーバランスを変えるという根本課題から目を逸らしてはなりません。』

斎藤幸平『ゼロからの資本論』,pp.177-178.  

 

 

 つまり、全産業の1割でも2割でも、ある程度の部分が「協同組合企業」になっていて、MMT政策を行なう政府を支持していないと、MMTが所期の効果をおさめるのは難しいだろう、というのです。

 

 このような・「アソシエーション」を作るという視点は、BIにもピケティにもMMTにもありません。それは偶然ではない。それらはみな、「階級闘争なき時代にトップダウンで行なえる政策」として浮上してきたわけで、そもそもの議論の根底に無理があるのです。それらは、政策や法律の議論が先行する「法学幻想」にとらわれている、いわば机上のプランです。政府と議会が法律を作って実施すれば、書かれている通りに実現する――というお花畑のファンタジーなのです。

 

 たとえ回り道で時間がかかっても、「アソシエーション」のネットワークを広げていって、その支持のうえで行なうのでないと、こういった大胆な政策は、実現困難かもしれません。

 

 

José Júlio de Souza Pinto (1856-1939)

 

 

 さて、日本の現状では、財界も、財界と結びついた国家官僚も、MMTを嫌っています。(均衡財政がどうとか言っているのは、お題目にすぎません。本当の反対理由は、↑斎藤さんが述べているようなことです。)もしも仮に、選挙で「れいわ」が勝って、山本太郎首相がむりやりMMTを実施した場合、日本の政財界の特殊機構のもとでは、「資本のストライキ」以前に、政府の財政出動自体が歪められてしまい、例によって「利権と天下り」を一層うるおす結果に終わる恐れが大きいと、私は思います。

 

 残念ながら、それに対処する政策は、現状の「れいわ」には無いことを認めなければなりません。ただ、アソシエーションを広げる(これについては後述)以前でも、政府かぎりで取れる対策はあるので、「れいわ」は、その方面をもっと研鑽していく必要があると思っています。


 

 

 

 

 

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