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嵐 山  渡 月 橋     京都市西京区嵐山~右京区嵯峨天龍寺

 

 

 

 

 

 

 

以下、年代は西暦、月は旧暦表示。  

《第Ⅰ期》 660-710 平城京遷都まで。

  • 667年 天智天皇、近江大津宮に遷都。
  • 668年 行基、誕生。
  • 682年 行基、「大官大寺」で? 得度。
  • 690年 「浄御原令」官制施行。
  • 691年 行基、「高宮山寺・徳光禅師」から具足戒を受ける。
  • 694年 飛鳥浄御原宮(飛鳥京)から藤原京に遷都。
  • 701年 「大宝律令」完成、施行。首皇子(おくび・の・おうじ)(聖武天皇)、誕生。
  • 702年 遣唐使を再開、出航。
  • 704年 行基、この年まで「山林に棲息」して修業。この年、帰郷して生家に「家原寺」を開基。
  • 705年 行基、和泉國大鳥郡に「大修恵院」を起工。
  • 707年 藤原不比等に世襲封戸 2000戸を下付(藤原氏の抬頭)。文武天皇没。元明天皇即位。行基、母とともに「生馬仙房」に移る(~712)。
  • 708年 和同開珎の発行。平城京、造営開始。行基、和泉國大鳥郡に「神鳳寺」、若草山に「天地院」を建立か。
  • 710年 平城京に遷都。

《第Ⅱ期》 710-730 「長屋王の変」まで。

  • 714年 首皇子を皇太子に立てる。
  • 715年 元明天皇譲位。元正天皇即位。
  • 716年 行基、大和國平群郡に「恩光寺」を起工。
  • 717年 「僧尼令」違犯禁圧の詔(行基らの活動を弾圧。第1禁令)。藤原房前を参議に任ず。郷里制を施行(里を設け、戸を細分化)。
  • 718年 「養老律令」の編纂開始? 行基、大和國添下郡に「隆福院」を起工。「僧綱」に対する太政官告示(第2禁令)。
  • 720年 藤原不比等死去。行基、河内國河内郡に「石凝院」を起工。
  • 721年 長屋王を右大臣に任ず(長屋王政権~729)。元明太上天皇没。行基、平城京で 2名、大安寺で 100名を得度。
  • 722年 行基、平城京右京三条に「菅原寺」を起工。「百万町歩開墾計画」発布。「僧尼令」違犯禁圧の太政官奏を允許(第3禁令)。阿倍広庭、知河内和泉事に就任。
  • 723年 「三世一身の法」。藤原房前興福寺に施薬院・悲田院を設置。
  • 724年 元正天皇譲位。聖武天皇即位長屋王を左大臣に任ず。行基、和泉國大鳥郡に「清浄土院」「十三層塔」「清浄土尼院」を建立。
  • 725年 行基、淀川に「久修園院」「山崎橋」を起工(→731)。
  • 726年 行基、和泉國大鳥郡に「檜尾池」を建立、「檜尾池」を築造。
  • 727年 聖武夫人・藤原光明子、皇子を出産、聖武は直ちに皇太子に立てるも、1年で皇太子没。行基、和泉國大鳥郡に「大野寺」「尼院」「土塔」および2池を起工。
  • 728年 聖武天皇、皇太子を弔う為『金光明最勝王経』を書写させ諸国に頒下、若草山麓の「山坊」に僧9人を住させる。
  • 729年 長屋王を謀反の疑いで糾問し、自刹に追い込む(長屋王の変)。藤原武智麻呂を大納言に任ず。藤原光明子を皇后に立てる。「僧尼令」違犯禁圧の詔(第4禁令)。

《第Ⅲ期》 731-749 孝謙天皇に譲位するまで。

  • 730年 光明皇后、皇后宮職に「施薬院」「悲田院?」を設置。平城京の東の「山原」で1万人を集め、妖言で惑わしている者がいると糾弾(第5禁令)。行基、摂津國に「船息院」ほか6院・付属施設(橋・港)7件を起工。
  • 731年 行基、河内・摂津・山城・大和國に「狭山池院」ほか4院・付属施設8件(貯水池・水路)を起工。山城國に「山崎院」ほか2院を建立。藤原宇合・麻呂を参議に任ず(藤原4子政権~737)。行基弟子のうち高齢者に出家を許す詔(第1緩和令)。
  • 733年 行基、河内國に「枚方院」ほか1院を起工ないし建立。
  • 734年 行基、和泉・山城・摂津國に「久米多院」ほか4院・付属施設5件(貯水池・水路)を起工ないし建立。
  • 736年 審祥が帰国(来日?)し、華厳宗を伝える。
  • 737年 聖武天皇、初めて生母・藤原宮子と対面。疫病が大流行し、藤原房前・麻呂・武智麻呂・宇合の4兄弟が病死。「防人」を停止。行基、和泉・大和國に「鶴田池院」ほか2院・1池を起工。
  • 738年 橘諸兄を右大臣に任ず。諸國の「健児」徴集を停止。
  • 739年 諸國の兵士徴集を停止。郷里制(727~)を廃止。
  • 740年 聖武天皇、河内・知識寺で「廬舎那仏(るしゃなぶつ)」像を拝し、大仏造立を決意。金鍾寺(のちの東大寺)の良弁が、審祥を招いて『華厳経』講説(~743)。藤原広嗣の乱聖武天皇、伊賀・伊勢・美濃・近江・山城を巡行し、「恭仁(くに)」を都と定め造営開始。行基、山城國に「泉橋院」ほか3院・1布施屋を建立。
  • 741年 諸国に国分寺・国分尼寺を建立の詔。「恭仁京」の橋造営に労役した 750人の出家を許す(第2緩和令)。
  • 742年 「紫香楽(しがらき)」の造営を開始。
  • 743年 墾田永年私財法」。紫香楽で「大仏造立の詔」を発し、廬舎那仏造立を開始。「恭仁京」の造営を停止。
  • 744年 「難波宮」を皇都と定める勅。行基、摂津國に「大福院」ほか4院・付属施設3所を起工。
  • 745年 「紫香楽」に遷都か。行基を大僧正とす。「平城京」に都を戻す。
  • 746年 平城京の「金鍾寺」(のち東大寺)で、大仏造立を開始。
  • 749年 行基没。聖武天皇譲位、孝謙天皇即位。藤原仲麻呂を紫微中台(太政官と実質対等)の長官に任ず。孝謙天皇、「智識寺」に行幸。

 

 

吉 田 神 社 と 吉 田 山      京都市左京区吉田神楽岡町

 

 


【86】 行基集団を朝廷に公認させた報告書:「天平十三年記」

 

 

 「天平十三年記」は、行基がこの年までに行なった建設事業を、橋、直道、池、溝、樋、船息、堀、布施屋に分類して、各所在(一部のものには寸法・存廃も)を記したものです。井上光貞氏によれば、805年「菅原寺」作成の寺牒に引用されたものが泉高父の眼にとまって、『行基年譜』に搭載されたとされます。(『日本古代の国家と仏教』,p.82,註(5).)

 

 したがって、史料の成立は 805年より早く、じっさいに「天平13年〔741年〕」に行基集団が、朝廷の求めに応じて提出した報告書の梗概ではないかと思われるのです。『行基年譜』には、

 

 

『聖武十九―(天平十四―壬午〔742年〕、)二月廿九日、秦堀河ノ君足をして大菩薩遊行事一巻を記録せしむ。同四月五日、大僧位に任ず。』

『行基年譜』,in:大阪狭山市教育委員会・編『行基資料集』,2016,大阪狭山市役所,p.96. ( )は原文中の割註。 

 

 

 とあります。「大僧位〔大僧正〕に任ず」は、『行基菩薩伝』から引き継いだ誤記載。行基が「大僧正」に任命されたのは、正しくは 745年です(続日本紀)。

 

 「大菩薩遊行(ゆぎょう)事」は、「菅原寺」の行基弟子たちが粉飾した書名のようで、もとは官庁への報告書らしい名前がついていたでしょう。「天平13年記」は、その報告書、ないしは抜粋した梗概と考えられるわけです。

 

 

橘 諸 兄      twitter - ロック@PPMRock

 

 

 おそらく、橘諸兄らは、行基行基集団を審査して、聖武天皇に、信頼に足る団体として紹介するために、これまでに行なってきた事業の「報告書」を提出させ、その内容を「秦・堀河の君足」に検査させたのでしょう。そこで、諸兄の派閥に属する官吏と思われる「秦君足」という人の役割が、たいへんに重要になります。

 

 

『『年譜』は天平13年の行幸前回【85】①~⑤――ギトン註〕の際、(1)行基が諸院建立の次第を述べ、これに対し、(2)天皇は院堺地を官司が摂録しない旨をのべたという。井上光貞氏はこれについて、(1)は「まさしく天平十三年記の作成に関連する」、(2)は「朝廷が養老以来の禁令〔717年第1禁令から 730年第5禁令まで――ギトン註〕を破って行基とその徒衆の営造した諸施設を合法としたこととよく合致する」とし、「以上の諸点から、天平十三年記は、朝廷がそれまでの対行基禁令をやめ、その私的土木事業を公認するにあたり、官に提出を命じた、もしくは、官みずから作成した公的な記録であるとみなすのである」とされた。

 

 行基の活動の公認が天平13年〔741年〕にあったという指摘〔…〕

 

 秦堀河君足が派遣されて、行基の経歴行状を記録したことが述べられている。「天平十三年記」が「官に提出を命じた」「公的な記録」であるとしたら、官は翌 14年に官人・秦堀河君足を行基のもとに遣わして、提出された「天平十三年記」についてその虚実を検査したものと解される。


 秦堀河君足〔…〕が官側の検査人となったのは、行基の「遊化行事」〔『行基年譜』原テキストには「遊行事」とある――ギトン註〕について、虚実を判定する知識を有していたからであろう。そうした知識とは、秦堀河の氏名(うじな)が示すように祖先の蓄積した土木工事のそれであり、また大井院の建設を通じて行基と接触してえたものであったにちがいない。大井院の建設には、所在地の秦氏の協力を得たものと想定される。』

吉田靖雄『行基と律令国家』,1986,吉川弘文館,pp.242-243,207.  

 

 

 「大井院」は、山城國――現在の京都市――にあった行基集団の「院」ですが、この地方は古くから渡来系「秦氏」の勢力圏であり、「秦堀河」氏はその分枝族として土木工事の経験を蓄積してきた一族であったことが考えられます。

 

 「秦氏」といえば、山城國が本拠地です。先祖の重要人物に、聖徳太子の配下だった秦河勝(⇒:馬子と聖徳(11)【27】)がいます。

 

 「行基集団」は、山城國における「院」等の建設事業を通じて、現地の「秦氏」と交流を深めてきたことが、朝廷の公認を獲得するにあたって、大きな力となったことが考えられるのです。

 

 そこで次節では、これまであまり触れてこなかった山城國における「行基集団」の事業を一瞥しておきたいと思います。

 

 

広 隆 寺      京都市右京区太秦蜂岡町

 


【87】 「行基集団」と 秦氏

 

 

 「長屋王政権」倒壊後の 731年に、行基集団は、①山城國葛野郡に「河原院」「大井院」を起工し、②同國紀伊郡深草郷に「法禅院」、③同國乙訓郡に「山崎院」を建立しています。

 

 ①の「葛野郡」は、現・京都市右京区の嵐山~太秦(うずまさ)のあたりで、太秦には現在、秦氏の氏寺「広隆寺」があることからも判るように、秦氏の勢力圏の中心地でした。渡来系秦氏は、この地域を開発して、農業・養蚕と手工業を振興させていました。

 

 「大井河(大堰川)」は、桂川の上流部の名称で、嵐山付近の両岸に「大井里・大堰里」の地名がありました。現在の嵐山「渡月橋」北詰には「葛野大堰」がありました。「葛野大堰」の建設に、行基集団が関与したかどうかは確定しませんが、「大井院」が営まれたのは、この嵐山周辺であり、おそらく桂川の北岸でした。

 


『この地は殖産興業的氏族として著名な秦氏の繁栄した土地であるから、大井院の建立に秦氏が関与したことが考えられてよい。』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.132. 

 


 他方、「河原院」は場所不明ですが、名称からすると、やはり桂川の沿岸と思われます。桂川西岸にある「西芳寺(苔寺)」には行基開基伝承があるので、これを「河原院」の後身とする見解もありますが、出土遺物等の証拠がまだ不十分です。

 

 ②の「深草」は、京都市伏見区「伏見稲荷大社」と JR藤森駅のあいだの地を指す地名です。南限の深草谷口町で、昭和初年の工事の際に古瓦片・仏像破片が出土しています。「おうせんどう廃寺」と称され、民間ではしばしば行基「法禅院」の址と主張される場所ですが、残念ながら調査されることなく破壊され、遺物も散逸しているので、もはや確かめることはできません。

 

 「伏見稲荷大社」は、社伝によると 711年「忌寸(はた・の・いみき)」氏の創建であり、9世紀初めの記録に紀伊郡の郡司・官人として「忌寸」の名が多く見出されます。他方、「行基十弟子」のひとり「延豊」は氏の出身であり、大野寺「土塔」の建造参加者を示す陰刻瓦にも氏が6点発見されています。したがって、

 

 

『法禅院の創建には秦氏の援助協力が想定される』

吉田靖雄『行基――文殊師利菩薩の反化なり』,2013,ミネルヴァ書房,p.131. 

 


 ③については、こちらで詳しく述べたように、「秦氏」の陰刻瓦が多数出土しており、造営に参加した「知識」の有力グループとして秦氏のいたことが明らかになっています。

 

 

伏見稲荷大社      京都市伏見区深草藪之内町

 

 

 以上は 『行基年譜』731年の記事ですが、その後 734年には、④山城國愛宕郡に「吉田院」が建立されています。「吉田院」の推定場所は、現在の吉田神社と吉田山のあるあたりで、鴨川左岸、京都大学キャンパスの東側にあたります〔↑上方・年表下に写真〕

 

 この吉田山の西麓には、奈良時代の「若狭街道」が南北に走っており、日本海岸の若狭・小浜から、「吉田院」前を通り、南下して「法禅院」→「泉橋院」を経て平城京「菅原寺」に達する交通路が開けていたと考えられます。(吉田靖雄『行基と律令国家』,pp.225-226)

 

 このようにして、「行基集団」による山城國内諸地域での「知識」結い事業は、殖産興業に関心の高い地元「」系氏族との協力のもとに展開されたと思われます。そこで培われた信頼関係と経験の蓄積が、742年「堀河君足」による行基天平十三年記」事績調査と、その結果の聖武天皇への推挙となって結実したのです。

 

 以上、前回【85】から述べてきた「行基集団」公認に至る経緯をまとめますと:

 

① まず、橘諸兄行基を訪ねて、朝廷の行なう事業(おそらく「大仏造立」)への協力・提携を要請する。

 

 この時点(741年3月)で、すでに行基集団は、新都「恭仁京」の造営に協力して架橋等工事中であり、行基は、工事監督のために木津川岸の「泉橋寺」に滞在中でした。したがって、新たに要請する “協力” とは、単なる労力奉仕のレベルを超えた・全面的な事業推進役としてのコミットだったと思われます。

 

 しかも、「大仏造営」であれば、行基とは異なる宗旨の「華厳教」に基づく事業ですから、これに行基集団がコミットすることは、朝廷・行基集団の双方にとって飛躍と決断が必要だったのです。

 

② 会談の席で、諸兄行基に対して、“協力” の交換条件として、「崑陽施院」の設立承認、他院すべての寺領安堵、「封戸」の賜与などを提示する。これらがいずれも経済的利権の付与であることは注目すべきです。『行基年譜』が伝える「清談の風」とは異なって、交渉の内実は政治的取引なのです。まさに「政談」であり、政治家橘諸兄の面目躍如、これに応じうる行基の政治家的資質も見逃せません。

 

③ 諸兄の申し入れに対する行基の回答は、すぐには出なかったのかもしれません(回答を遅らせて相手の一層の譲歩を促す・行基側の作戦かもしれません)。同年6月、諸兄行基に対して、交換条件の一部(食封 50戸,仏像などの施与)を前倒しして実施します。「色良い返事を待ってるぞ」という催促なのでしょう。

 

④ 同年(天平13年)中に、行基から基本的受諾の回答があったのでしょう。諸兄は提携の手続を進めるために、行基に対して、これまでに行なってきた寺院建立・灌漑・架橋等事業の概要を、正式の報告書として提出するよう要請します。その提出が、行基側からの正式の受諾となり、朝廷はこれを審査して、問題がなければ提携成立となります。

 

⑤ 翌 742年、行基集団から報告書「天平十三年記」の提出があったので、諸兄は、行基集団の事業にかかわった経験があり事情に詳しい部下・秦堀河君足に命じて、その内容を検査させた。書いてあることが事実かどうか、内容が、「行基集団」に提携主体の能力があることを証明しているかどうか、に関する審査です。審査の過程で、「溝」の「長・広・深」の寸法を記載せよ、といった修正指示が入ったかもしれません。

 

⑥ 検査を通った報告書は、太政官公卿の審査、聖武天皇の親裁にかけられ、最終的に行基集団」の公認と事業提携が成立する。

 

 このように見ると、一連の手続過程は、じつに実務官僚的に遺漏なく進められていることがわかります。実務型政治家橘諸兄が、この締約交渉の中心にいることは明らかだと言わねばなりません。

 

 

大 宰 府 政 庁 址        福岡県太宰府市観音寺4丁目

 

 


【88】 藤原広嗣の乱――批判者の行く末

 

 

 そこで、740年初めに時間を戻します。聖武天皇が河内「智識寺」に詣でて約半年後、「藤原広嗣の乱」が勃発します。と言っても、この「乱」がほんとうに反乱だったのかどうか、私は疑問に思います。むしろ、朝廷のほうで勝手に「乱」と決めつけて攻めたために、広嗣らは行動を起こさざるを得なくなったように見えるのです。

 

 「藤原4子」がパンデミックの犠牲となって次々に没したあと、彼らの子どもたちはまだ若くて官位が低く、朝廷の政治を任せられるような者はいませんでした。そのために、あるいはそれを奇貨として、「橘諸兄政権」が誕生した経緯は、すでに述べました。

 

 橘諸兄という人は、調べれば調べるほど興味をそそる政治家です。この人独自の政策とか傾向といったものはあまり感じられません。聖武天皇の言うがままにも見えるのですが、しかし単なるイエスマンではない。諸兄以外の人であったら実行できなかったろうと思うような決断力をしばしば発揮します。天皇のどんな奇妙な意向にも気まぐれにも、柔軟に即応してそれを完璧に実現してしまう。私心を見せず、しかも権力的謀略手段を厭わない狡猾な執事のような存在です。権勢欲がないようで、じつは相当にある。

 

 「藤原広嗣の乱」の初発の対応には、諸兄の意志が濃厚に感じられます。

 

 藤原広嗣は、「4子」のひとり宇合(うまかい)の長子で、「4子」病死直後の 9月に3階位特進して従五位下に叙爵されています。国政の頂点にあった「藤原4子」が一度に倒れた衝撃は、藤原氏一族だけでなく、朝廷全体にとって深刻でした。そのために、残った子孫の昇進を速めようとする圧力が働いたのでしょう。

 

 「諸兄政権」も、官僚支配体制を復元するためには、まず藤原氏の再起を促さなければならないと考えていました。“藤原氏が落ちぶれた機会を利用して‥” などという考えは、諸兄も聖武天皇も持ってはいなかった。そんな余裕はなかったといえます。

 

 宇合没後の3階位特進から察すると、広嗣は、「4子」子孫のトップに立ったひとりで、藤原氏内外から一族再興の期待を寄せられていたことが分かります。式部少輔〔式部省の第3位。≒文部省次官〕に叙せられ、翌 738年4月には大和國守〔≒東京都知事。従5位上相当〕を兼任しています。ところが、同年 12月、突然「太宰少弐」〔大宰府の第3位。従5位下〕に配転されているのです。

 

 この配転を左遷と考えるかどうかについて、研究者の見解は分かれています。僧・玄昉と皇太夫人・宮子のあいだに肉体関係があると誹謗したので左遷された、という見解もあります。しかし、『続日本紀』などの同時代史料にそう書かれているわけではありません。広嗣については、良くも悪くも没後の伝説は誇大で数多い。それらを信じることはできないでしょう。

 

 また、格下げとも言えません。広嗣の位階は従5位下であり、叙任された「太宰少弐」は従5位下相当で、まさに相当の待遇なのです。その前に兼任していた「大和守」(従5位上相当)が、異例の厚遇だったのです。

 

 「乱」中 9月29日の聖武天皇の「勅」を、左遷説の根拠にする人もいます(遠山美都男『彷徨の王権 聖武天皇』,1999,角川選書,pp.125-126)。しかし、聖武は単に「京中で親族を誹謗するので、反省させるために遠くに遷した」と言っているだけです。むしろ、広嗣を「式部省少輔」に補任したのは、父・宇合が「式部卿」だったことによるもの。「太宰少弐」への転任も、宇合が晩年に「太宰帥〔大宰府の長官〕を兼任していた先例を踏襲した措置といえます。

 

 当時、大宰府の「帥(そち)」は宇合没後空席であり、「大弐」〔大宰府の次官〕の高橋安麻呂は中央の右大弁と兼職のため遥任〔現地に行かない官。事実上の名誉職〕でしたから、広嗣は現地職員のトップでした。しかも「律令」法上、大弐・少弐の権限は帥と同じでしたから、広嗣は「長官代行」の地位にあったと言ってよいのです(だから、「乱」の過程で九州各國の兵を自由に動かすことができたといえます)。広嗣の大宰府派遣は、対・新羅の防備を固める特命を帯びていたとする見解もあります。

 

 

大 宰 府  水 城・東 門 址      福岡県太宰府市国分2丁目

「水城(みずき)」は、両側に濠を具えた防禦用土塁。いわば城壁で、

大宰府に入る官道を塞ぎ、その通過点に門を設けていた。

 

 

 ところが、広嗣のほうは、これを左遷、ないし政権批判をしてウザいので遠ざけられたと理解したようです。740年8月29日、広嗣は、大宰府で上表文を書いて朝廷に送ります。

 

 

『太宰少弐・従五位下・藤原朝臣広嗣、表を上(たてまつ)りて時政の得失を指(しめ)し、天地の災異を陳(の)ぶ。因て僧正・玄昉法師、右衛士督・従五位上・下道朝臣真備を除くを以て言とす。』

青木和夫・他校註『続日本紀 二』,新日本古典文学大系 13,1990,岩波書店,p.365. 

 

 

 時局の政治を批判して、「天地の災異」を述べたといいます。「天地の災異」は自然災害だけでなく、日蝕や惑星の会合のような異変もふくみます。それらの異変は、帝王の人徳や政治が悪いと起きるというのが当時の通念でしたから、広嗣の上表は、文面にか言外にか、聖武天皇その人に対する批判を含んでいたことになります。じつはこれだけでも、職制律32条の「指斥乗輿」〔天皇を名指して非難する罪〕に該当して「斬刑」とされる余地があります。以前に、元明太上天皇が薨じた際に、穂積老という人が「指斥乗輿」の罪で斬刑の判決を受けたのを、皇太子時代の聖武が嘆願して助命した話を (4)【12】でしました。覚えておられるでしょうか。

 

 しかし、広嗣の主意はその帰結にあって、悪いのは「玄昉」と「吉備真備」だから、この2人を除け、というのです。現代の慣用では「吉備真備」と呼ぶならわしですが、この人のフルネームは「吉備下道朝臣真吉備(きびしもみち・の・あそん・まきび)」といいます。「吉備下道」氏は「吉備」一族の宗家的な氏。

 

 橘諸兄政権が、から帰国したばかりの玄昉・真備を抜擢して重用したのは事実でして、広嗣の上表の意図は、この2人を非難することによって、間接的に橘諸兄を批判することにあったと思われます

 

 広嗣は、大宰府赴任を左遷と解して、政権トップの諸兄に怨恨を持ったようです。私には、それは誤解としか思えません。左遷どころか、ふつうなら彼の官位ではありえないような・事実上の「長官代行」の任務を与えられたのです。しかもそれは、彼の父が負っていた職務を継がせるものです。広嗣としては、むしろ信認の重さを感じてよかったのではないでしょうか。しかし、広嗣の唐突な玄昉・真備批判は、そこに諸兄政権による “左遷” を恨んでの憤りを読まなければ、理解できません。

 

 当時の「律令」体制を前提とすれば、いきなり天皇批判と見なされかねない上表文を送った広嗣の行為は、どう考えても軽はずみというほかありません。広嗣にそれをさせたのは、自分に対する “冷遇” を恨む激情であったでしょう。


 しかし、もう少し広嗣の側に立ってみると、本人ひとりの利害にこだわっていたわけではない。「4子政権」倒壊以後、どうなるか分からない藤原氏一門の運命を憂いていたのかもしれません。一族の先頭に立つ自分が、左遷されるようでは、一族の再興はもはや望めないではないか‥‥という切羽詰まった思いだったのかもしれません。

 

 もっとも、これとて相当の自惚れによる錯誤だったことは否定できません。広嗣は当時、藤原氏一門の完全なトップではありませんでした。官位でいえば、広嗣の上位には、武智麻呂の子息(広嗣の従兄)がいました。

 

 

 

 

 

 

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