ぼくらの城
流れにそって、青い生垣に木漏れ陽が
たわむれる;池の水面(みなも)に
ぼんやり落ちる血椈(ちぶな)の赤い影と
白い斑点の隠れんぼ。
おしだまった長い柱廊に
うすぐらい夜の襞が垂れている:
吹いては返すかぼそい吐息
それはまだ生まれぬ王の唱声(うたごえ)。
大理石のはばひろい階(きざはし)に
はるかな古(いにし)えがよこたわる;
あやしげな壁の模様がささやきかける
まだ来ぬ時の言い伝えの数々を。
わたしの魂の奥からしのびよる
よみがえらんとする過去のあし音たち
武者の競いと王の判定(さばき)
祭りの喧騒、声なき殺戮。
やがて――ぼくらの園(その)の悲しみは
苔むした瓦礫と塀とを覆い
ひとりの旅人がおののきながら
真暗な窓を覗きこむだろう。
そして史(ふひと)は年代記のすみに、
はるかな伝説の時代におきた
稀(まれ)なる奇蹟を記すことだろう
それはぼくらが生きていた時のこと。
「血ブナ」はムラサキブナとも云い、セイヨウブナの近種。1年じゅう深紅の葉をつけています⇒:詩文集(3)――血の色ブナ ←この記事を書いたあとでいろいろ見ていると、ブルートブッヘ(血ブナ)はドイツでは珍しい樹種ではないようです。植林にも使われているそうです。↑この詩にあるように、家の庭に植えられることもあるのでしょう。
歴史的というか伝説的というか、ヘッセはいささか大げさな設定で繰りひろげていますがw、「ぼくらの城」とは、「ぼくら」がふたりで過ごしたかけがえのない時間のことだと思います。ホモであれへテロであれ、過ぎ去った濃密な時間は、他人から見れば人生の一齣にすぎないのでしょうけれども、本人たちにとっては、過去にも未来にも類のない「奇跡」としか思えないのです。
その「奇跡」の場が「城」であること、城壁に囲まれ、柱廊や庭園を備えた堅固な砦であることは、ヘッセの特質かもしれません。ヘッセの幸福は、落ちぶれても輝いても、常に、堅固な障壁でかこまれ、外部とは区別された特別な空間の中にあるのです。
それはヘッセ独特のファンタジーではないでしょうか? ドイツのロマンチストがみな、同じイメージを持っているわけではないと思います。
たとえば、同じ時代のカフカが書いた『城』では、主人公 K.は、「城」の中に入って行ってそこに幸福を見いだそうなどとは、まったく考えもしないのです。
カフカの場合には、K.が幸福を見いだそうとする場は「城」の外にあります。K.と情婦フリーダとの愛慾の行為は「城」の外で、村の宿屋で行なわれ、そこには、宿の女将(おかみ)や、「城」が派遣してきた(?)2人の助手が来て、K.とフリーダのセックスを観覧しています。K.は彼らにじろじろ見られてもまったく気にしない‥‥どころかむしろ、見せびらかすことを喜んでいるかのようです。
彼が「城」に達しようとして、あの手この手を尽くすのは、村人たちが絶対的な権威として服従している「城」の“公認”――お墨付きを得たいからであって、それ以外の点では「城」には何の魅力も見いだしていないように見えます⇒:詩文集(8)――カフカの城とヘッセの城。フリーダは、もとは「城」の伯爵の情婦であったのを、K.が横取りした‥‥しようとしているので、K.は伯爵と接触して、フリーダと結婚する認許を得ようと考えているのです。
カフカの「城」は、宗教的な神の“恩寵”を象徴している――というマックス・ブロートによるカフカの古典的な解釈がありますが、かりに、「城」とは、主人公の求める“恩寵”なのだとしても、“恩寵”が得られたあかつきに彼が幸福な生活を見いだす場所は、「城」の中ではありえないでしょう。
K.が、のっぴきならない事情に迫られて、あの手この手で「城」の権威筋との接触を図ろうとしているのに並行して、「城」のほうからも、なにやら異様な気配が伝わってきます。自分は測量士として「城」から呼ばれて来た者だという K.の申し開きを、宿屋の者が「城」に問い合わせると、「城」は即座に否定したかと思うと、まもなく覆して肯定したものの、その辞令書らしき書類は、村長がどんなに探しても見つからないのです。「測量士だ」などという、おそらくは K.が出まかせに口走った言い逃れが、ひとり歩きして混乱を作り出して行きます……
そればかりか、「城」は K.の「助手」なる2人の男――測量については何も知らない――まで送りこんできて K.を監視させるのです……
まるで、「城」は、K.をみずからの支配の末端に繋ぎとめようとしているかのようです。その結果、 K.は、「城」から確実な公認を得られるでもなく、公認を得られず、「城」の支配する村から放逐されるでもなく、まったく中途半端としか言いようのない宙ぶらりんな境遇にとじこめられ、そこから抜け出すことができません。
このような、いわば“宙ぶらりんの恐怖”を、カフカは、『最初の悩み』というごく短い小説で集中的に描いています。この短篇で、カフカは、サーカスのブランコ乗りの若者という設定によって、“宙ぶらりん”の生を描きました。しかし、この短篇は、中篇小説『狩人グラックス』との関連が深いので、もう少し構想が整ってから、両篇をいっしょにご紹介したいと思います。
ともかく、この“宙ぶらりんの恐怖”は、第1次大戦後の時代状況の反映なのでしょう、中期以後のヘッセにもまた、影を落としているように思います⇒:詩文集(29)――大いなる偽善、神の無力:「神を埋葬しつつ」。
↓ヘッセのこちらの詩は、第1次大戦前、ヘッセ初期のものです。やはり、「狭い路地」と生け垣でかこまれた館を、理想の幸福が住まう場所としてイメージしています。「フロレンツ(フローレンス)」は、イタリアのルネサンス都市フィレンツェのことですが、じっさいのフィレンツェとはずいぶん違うw夢のようなファンタジーの町になっています。
北国から
ぼくがどんな夢を見ているかって?
ひっそりと陽に照らされた
丘のつらなり、暗色(くらいろ)の木立ち
黄色な巌(いわお)と白い荘館(やかた)
谷間にはひとつの町がよこたわる:
大理石の白い教会のある町が
ぼくのほうを向いて光っている
それは花の都(フロレンツ)と名づけられた町。
そして狭い路地と柵に囲まれた
荒れ放題の古い庭園
置き去りにされたぼくの幸福が
主(あるじ)の帰りをいまも待っている。
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