Aさんと夫は50年来の友人で、夫の後輩である。
奥さんを亡くし、子どもがいなかった。
アメリカ西海岸在住のアメリカ人で、2、3年に一度、日本へ会いに来てくれていた。
夫もアメリカ人だったが、そういえば、このブログに書くのは初めてだ。私たちはすごく似ていたので、あまり違いを感じなかった。なに人であるとか、そういうことは些細なことだった。
Aさんに初めて会ったのは、奥さんを亡くされて一年後くらいの頃だった。
物静かで知的な感じで、今から思えば、すごく傷ついた心を抱えて、夫に会いに来ていた。
その時、グリーフケアを受けていると言っていたのが記憶に残っていた(保険でカバーされていると言っていたので、一般的なケアとして、少なくとも20年以上前には、すでに確立されていたようである)。
何年か経つうち、ある時から彼はどんどん元気になって、夫と同じような、明るく陽気なアメリカ人という印象に変わっていった。彼女も出来た。
3月、夫に来ていたメールに、大変体調を崩していることを返信して、やりとりが始まった。
このAさんこそが、ICUでの怒涛の1週間を過ごした、半狂乱の私を、根底から支えてくれた人だ。
私が駆けつけた時にはもう意識不明で、あれほど私の顔を見たがっていた夫に、顔を見せてやれなかった、体を引き裂かれるような、気も狂わんばかりの嵐の只中にいた私に、Aさんは魔法のような言葉をかけ続けてくれた。
「たとえそばにいなかったとしても、彼は愛する人がすぐ近くにいると知っていた。」
私は、この言葉を頼りに、ICUでの時間に耐えることができた。
私の人生で、最初で最後の、突出して、筆舌にしがたいあの時間を思い出す度、胸が張り裂けんばかりの苦しみを、頭が勝手に再現するその後に、なにか、優しさに包まれてもいた、そんな感覚を添えてくれた。
また、不思議な感覚だが、どんな姿でも、夫と二人でいると、落ち着いて幸せを感じられたので、よくよく思い出すと、ICUでの時間は、最後の至福の時でもあった。
Aさんとのメールのやり取りは、その後3、4週間に渡って、30通を超えていった。
この前、メールが紛れてしまわないように、プリントアウトして、大切にしまった。
すべての答えが、あの中にある。
Aさんは、たとえ、いつかどこかで、一人で野垂れ死のうとも、その時でも、奥さんの愛を感じるだろう、と書いてくれた。
これほど、私を安心させた言葉は、ない。
そんな幸せが、あるだろうか。
私がこの残りの人生で望むことがあるとしたら、まさに、ただ、それだけだ。
夫は、Aさんが来日する度、必ず家に呼んだり、私を同席させたりした。Aさんの出発の日、夫が二日酔いで、最年配を言い訳に起きて来なかったこともある(本当は、人工肛門の付け替えに時間がかかるので、午前中はよく外出できなかった。それを、二日酔いなんですぅ、と周りには言ってたんだったな)。
私だけ待ち合わせ場所に行き、午前中の買い物と、お昼に付き合い、お見送りしたもんだ。冷やし中華を食べたんだったっけ。夫や彼の友人、親戚たちは皆、ラーメンが大好きで、通は冷やし中華にもトライする。
彼は、Aさんがいつか、私の助けになると、わかっていたのだろうか。いや、あの人は、そんな画策をする人ではなかった。旅行がしづらい体だったので、来てくれる人は誰でももてなした。
私の意識しない間に、長年かけて、夫とAさんとの繋がりは、私にとっても、大切なものになっていった。
年の離れた夫は、私にとって、人生のメンターだった。
今度は、夫のことを慕っていたAさんが、始まったばかりの私の悲しみの旅路を照らしてくれている。
この、悲しみの旅路、という呼び方も、Aさんから教わった。
ごまかしは言わない。通り抜けるしかない、本物の旅が今始まったばかりだ、と。
暗い森の中で、向こうの方で、Aさんが灯りを持って、待っていてくれる。
でも、そこまで這っていくのは、私にしか、できないのだ。
(↑画像はお借りしました。)
達成すべき目標があれば、とことん我慢して頑張ることは得意だが、というより、
これまでそうせざるを得なかったが、今は目標が明確ではないなあ、
などという考えがよぎる。
まあ、この森の中に置き去りされているのが、大切な夫ではなく、
私でよかった。
本当によかった。
しかし、なにこの無理ゲー。私ロールプレイングゲームしないんだけど。もう視力悪いおばさんなんだけど。
よくわかんないけど、あなたと仲良しだったAさんが、
通り抜けなきゃしょうがないと言うんだから、
這って行くことにするよ。
