(↑画像はお借りしました)
生きる意味なんか、初めからない。
あるとしたら、むしろ家畜だと思う。
それは仕事のやりがいを、会社が用意しているはずだと期待していることに等しい。
何もしなければ、それまでのこと。
初めから備わっている「意味」など、ない。
ただし、若いうちは、大いに悩んだらいいと思う。
人に言われて、そうですか、と納得できる類のものではないから。
ゼロで生まれて来て、何もしなければ、ゼロで死ぬだけ。
でも、他人にとやかく言われる筋合いも、もちろんない。
自分でダメだと思う必要も、全く、ない。
時間を無駄にするほど、贅沢なことはないのだから、そんな贅沢もできる時に楽しんだらいいと思う。
ただ、何かすることだけが、生きることではない。
昼過ぎまで寝て、のそのそ起きて、時代劇の再放送見ながら、なんか食べて、また寝て。10代の良き思い出だ。確か、午後2時から「子連れ狼」だから、それまでには起きなきゃいけなかった。娯楽の少なかった、昭和の春休みあるある、である。
ただ、生きる理由は、ある。
自分で見つける。
私が生きる理由は、夫と築いて来た何かを、続けるべきだと思うから。
私は、検証したいのだ。
一人になっても消滅しない何かが、あったはず。
それとも、一人では、もうダメになるのか。
歳の離れた夫から、長い間、多くを学んだ。私の頭と心に、受け継がれているはずの、何か。
私はそれを確かめたい。
やっぱり一人ではダメだったなら、その時はその時。
夫の精神、思考の展開、流れに身をまかす時はまかす。はっきり言う時は言う。人生を楽しむ。人に優しく。彼の考え方と生き方が私の中に根付いているから、不思議な一体感は、ある。
いつも一緒な気がするのだ。
彼の魂がそばにいて、いつも見守ってくれている、というのとは、少し違う。
鍼灸に例えると、東洋のツボと、西洋のトリガーポイントくらい、同じことを指しているようで、違う。
死別を体験して気づいたことだが、急にスピリチュアルな話で決着をつけさせられそうになることに、非常に抵抗がある。
私はこれまで通り、論理と科学で証明できることを基盤に置くし、
死別後に一緒にいる感覚があることについても、それで、説明できるはずだと思っている。
残っているのは、彼の意識ではなく、思想。
それらをひっくるめて、抽象的な意味での「魂」、と呼ぶのなら、良い。ここははっきりさせておきたい。
これが消えてしまうものなのか、それとも普遍的なものなのか。私次第なのか。
それを検証するのが、私の生きる理由。
それから、まだ楽しいのだ。
彼のことを思い出すのが。
もう少し、こうしていたい。
