生まれる時を選べなかったように、死ぬ時もきっと選べない。
それは自然の摂理。
だから、その日一日一日を精一杯、全力で生きること。
その積み重ねがあれば、
最後に物理的にどうであったかを超えることができるはず。
彼がどう思っていたか答え合わせはしていないが、私は時々、自分に言い聞かせて来た。
そうやって、結構長年、二人で生きてきた。
でも、3月に、私が目を背けたくなったことは、誰も責めないが、
私だけが知っている。
(きっと今度も大丈夫)、目をつぶろうとした。
何もかもが後手後手にまわっていて、
私は失敗した。
まわりは、私はよくやったというが、
私が失敗したことに変わりはない。
21世紀になって医師が神にでもなったのなら別だが、同じ人間である以上、明治時代とやっていることは大して変わっていないと思っている。不老不死の薬なんてないのだから。
だからこそ、私が気がついてあげなければならなかった。
彼には、私の心の動きがすぐにわかる。電話でしか話せなかったが、
いつもトーンの端々で、正確に読み取る。
「僕に家に帰って来て欲しくないんだ!」
なんであんな気持ちにさせてしまったのか。
不安でいっぱいだったのだろう。
一人でさみしかったのだろう。
彼は、私が彼に隠そうとした、なにか躊躇のようなものを、感じ取った。
そうじゃないということを、それでも私は全力で介護するつもりだったということを、実際に家に受け入れるという形で証明してあげたかった。
彼の本物の危機感。私は答えてあげられなかった。
もうすぐ退院ということだけは伝えられたけれど。
肝心のところで、全力を尽くせなかった。
力が及ばなかった。
今ならわかる。
全力で生きるということは、できるだけ、することではない。
もうだめ、本当にもうだめだ、という時に、その時にこそ、立ち上がること。
絶対、立ち上がれるから。へんな力、出るから。立てっちゅうねん。
全力で生きてきたつもり、なんですけど、力が及ばなくて、ってか?
なんやねんそれ。
そんなんで高齢の夫が守れるか。
誰が何と言おうと、私はこのことを、うやむやにしたくはない。