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リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

腎臓病と不安神経症で生活保護者。社会やニュース、その他、様々なこと、思ったこと、感じたこと色々なことをブログ記事にしていきたいと思っています。

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http://www.allposters.co.jp/-st/Boxing-Posters_c399_p6_.htm
「反省ない」亀田批判収まらず
「スポニチアネックス」にも亀田父子の会見終了と同時にたくさんの意見が寄せられた。大半は亀田一家に対する批判で「まず内藤に謝罪するのが先。ただのパフォーマンスなのでは」(67歳男性)、「全然反省していない。証拠のVTRもあるのに、信じられない」(40歳女性)、「いったい誰に何を謝罪しているのか、全く理解できない」(30歳男性)と厳しい言葉が集中した。「彼らなりの精いっぱいの会見だと思う」(65歳女性)と擁護する意見もあったが、少数派だった。
[ 2007年10月18日付 ]

世間は亀田家に厳しいね。僕も見ていたけど、あの抱え込みの投げは驚いたが試合は結構面白かった。亀田大毅は今まで弱い相手しか戦ってなかったし、ボクシングも兄の興毅に比べて荒かったので、「弟はアニキより才能無いな」と思っていたので、チャンピョン内藤と倒れないで打ちあっているのを見て「前に見たときよりずいぶん上手くなったな。」と驚いた。それに、体ががっちりしてパンチも結構重そうで、将来性を感じることができた。それに今回の出来事で、アニキの興毅と同じくらい注目を集めるなるだろうから期待できるな。大毅の1年間のライセンス剥奪はブランクが大きくなるが、復帰戦から注目を集めるだろう。

その後は興毅・大毅とも、試合は世間の注目を集めるだろうから、一時期貴乃花・若乃花でにぎわって相撲界を引っ張った花田兄弟のように、ボクシング界を引っ張るのではないだろうか。だから今は逆境に置かれているが、内藤選手を投げたとき、骨折、最悪再起不能の大怪我をさせてもおかしくないところを、何も怪我が無かったことは、大毅選手がボクシングの神様から見放されていない、運があるという証拠だから、今回の反則を2度と起こさないよう深く反省して、復帰してからは、兄弟3人でボクシング界を盛り上げて我々国民を楽しませてほしい。

それにしても福田総理が試合を見ていないで「反則はいかんね」と大毅を批判していたけど、総理大臣なら、『今回のことを深く反省してこの逆境を糧として大きく育ってほしい。』ぐらいの励ますコメントを言ってもらいたい。国民が批判して総理大臣が駄目を押す事は無いだろう。それとTBSよ、今逆境だからといって亀田家を手放すと大毅復帰後後悔するよ!亀田父と一緒に頭を下げていた金平会長にように、今は頭を下げても亀田家を追ったほうが良いと思うよ!とにかく今回のことで兄弟共に期待したいので頑張ってほしい

元陸軍特務機関員が語る「南京大虐殺」

・「虐殺のなかった戦争などありえません」。第二次世界大戦当時、陸軍の特務機関員
 だった男性が、南京での虐殺の様子を初めて語りました。

 「今のうちに話しておかないと、私の知っている人たちも何もしゃべらないで死んで
 しまった」

 中谷孝さん、85歳。今の政治状況が70年前の戦争当時と変わらないと強い危機感を
 覚え、自らの戦争体験を語ることを決意したということです。
 その中谷さんは、様々な議論のある『南京大虐殺』はあったと主張します。

 「非常に興奮した(日本軍の)兵隊たちは、怪しいと思う住民を全部引っ張った。やった人が
 言っていたが、『怪しいやつは、皆殺せ』ということで、殺してしまった。これが事実です」(中谷孝さん)

南京大虐殺については、すでに何度も話してきたが、日中戦争の最中、1937年12月から1月にかけて、当時の中国の首都南京とその周辺で数十万人単位の人々が旧日本軍により虐殺された事件だ。虐殺された人々の中には、投降した兵士、女性、子供などの一般市民も含まれる。中には、便衣兵(平服を着替えたゲリラ兵)と間違えられ殺された市民もいた。

 殺戮とともに日本兵による性暴力も頻繁に行われ、中には性病で死んだ女性もいた程だ。この事件を巡っては、「つくる会の教科書」はもとより、様々な書籍や雑誌で「まぼろし説」が流布されているが、それは事実誤認と憶測によって創りあげられたものであることは以前の記事で説明した。ほとんどは非専門家による情報源を明示せず、都合のいい部分だけを強調したイデオロギーと歴史認識を混同した結論ありきの代物である。

 記事を書くと決まって気付いたことは、繰り返しのように「まぼろし説」を唱える人がいる一方、なぜ、こんな大虐殺が起きたのかという質問をする人々も意外に多い。理由は大きく2つある。1つは、大部隊を短期間に出兵させたため、物資などの補給が追いつかず、兵士自らが占領地で略奪をしてまでも食料などを調達しなければならなくなり市民に被害を与える結果になったことと、もう1つは、激戦と軍隊内での厳しい階級制度から主に下級兵士達が人間性を失い弱い市民を自らの欲求不満のはけ口にせざる得なくなる状況に陥ったことだ。南京に限らず、現代の戦場でも起こっている現象である。

 証言集会の案内は、埼玉新聞と毎日新聞の地方版で取り上げられたため、多くの人々が集まっていた。まず、南京大虐殺に至るまでの歴史的背景と、最近発見された旧日本軍陸軍第百一師団所属の元兵士・故今村守之氏が残した日中戦争の生々しい記録写真を主催者である「ノーモア南京」の会の人が説明。日本刀で中国人が殺される直前の姿など含まれており、写真は戦場の生々しい光景を物語っていた。

周辺地域の被害について

 その後、中国から新聞記者の載袁支さんが講演。南京大虐殺に関しては、南京市内でのことはかなり研究されてきたものの、周辺地域の被害についての研究は十分でないことから、最近ようやく周辺地域の住民からの聞き取り調査により、実態が、まざまざと分かってきたことなどを報告した。

 載さんが調査した湖山村というところでは、61人の村民が虐殺され、その中には三歳の子供も含まれていたと語った。また、日本兵は村民の衣服に糞や尿をかけるなどの嫌がらせをして苦しめたということが分かった。このことは、イラクにおいて米兵がしている行為に非常に似通っており、古今東西、戦場における蛮行のパターンというものが変わらないことを知らしめた。

二人の生存者が問いかけるもの
 
 次に、中国の南京から来られた2人の生存者による証言が始まった。最初に話をしたのは、陳広順(85歳)という方で、目の前で自分の村人が虐殺されるのを目撃したことを事細かに涙ながらに語った。日本軍が自分の家に押し入り、食料を奪った上、奪った食料を自分に運ばせたこと、23人もの村民が校庭に集めさせられ機関銃で撃ち殺されたかと思うと、その後に、銃剣で倒れた人々を息の根を絶つため刺していったこと。

 数ヶ月経って、村人の埋葬をしようとしたが、腐乱してぼろぼろに崩れてしまい、その上、村が焼き尽くされたため、棺桶を作ることさえままならなかったこと。自分は運良く助かったものの、その記憶が決して脳裏から離れず、これまでつらい思いをしてきたこと。まるで、それが68年もの昔とは思えないほどに刻銘に語り続けた。

 次に話したのは、陳秀華さん(77歳)という女性で、母親が目の前で殺され、自らも被弾したことなどを語った。日本兵から身を隠すため便所の穴に潜ったこと。母が死んだことで兄弟で3日3晩泣き崩れたこと。大黒柱だった母を失ったため、苦しい生活を強いられ、13歳の時に労働力として嫁入りしたことなどを語り、語る中で、陳秀華さんは日本軍のことを「鬼」とか「奴ら」という風に呼んだ。陳秀華さんにとっては、「日本」という言葉だけでも、憎しみがこもるほどで、日本に来て証言をすることはとても辛く勇気のいることであったことを知らされた。

加害者側の元日本兵は次のような証言をしている。

* 悪いことし放題じゃった。十人おって九人まで強姦しとらん奴はおらん。自慢話にもなっとる。慰安婦、慰安婦いうて、三十人くらいの女をたいがいの部隊では連れ歩いておった。pp276
* (強姦した中国の女性は)十人じゃきかんわと、三十人くらいじゃろうか、ようは覚えとらん。それは勘弁してくれ・・・・・。第一線部隊はそんなもんじゃ。(『南京戦』松岡環編より)

南京城内の敗残兵が、「便衣兵作戦」というものを計画していたとか、城内で日本軍が私服による戦闘行為に遭遇したという記録はない。

「便衣兵」とは、日中戦争当時の用語では「便衣隊」という。
「便衣」とは平服という意味であり、「便衣隊」と呼ばれるものには
1.一般市民が武器を取って抵抗するもの
2.軍隊が一般市民に偽装して作戦を行うもの
の2種類がある。

当時の国際法では、敵軍が突然侵入してきた場合に一般市民が武装して抵抗することは許されている(ハーグ陸戦規約第2条)。軍人が市民の服を着てはいけないという国際法はないが、軍隊が一般市民を装って敵を安心させて攻撃することは禁じられている。(ハーグ陸戦規約 第23条ロ号)

南京城内の「便衣兵」とは、一般の兵士が逃げ場を失い、日本軍に捕獲されても殺されると考えて、軍服を脱いで、市民に紛れ込もうとしたものであった。ひとまずは命が助かりたいための処置であり、計画的に実行された形跡はない。また、実際に「便衣隊」としての交戦行為が行われた記録もない。

南京城内には「便衣の兵士」はいたが、「便衣隊の隊員である兵士」はいなかったと考えられる。

信夫淳平『戦時国際法講義2』
「便衣隊とは--、交戦者たるの資格をみとめざる常人にして自発的に、又は他の示唆を受け、敵兵殺害又は敵物破壊の任に当る者を近時多くは便衣隊と称する。」
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/a...


ハーグ陸戦規約
【第2条】(群民兵)
 占領せられさる地方の人民にして、敵の接近するに当り、第一条に依りて編成を為すの遑なく、侵入軍隊に抗敵する為自ら兵器を操る者か公然兵器を携帯し、且戦争の法規慣例を遵守するときは、之を交戦者と認む。
【第23条】(禁止事項)
 特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。
ロ 敵国又は敵軍に属する者を背信の行為を以て殺傷すること
http://www1.umn.edu/humanrts/japanese/J1907c.htm


奥宮正武『私の見た南京事件』p60
(戦史家、元海軍航空参謀、当時海軍大尉として南京攻略戦に参加)
 私の知る限り、彼らのほとんどは、戦意を失って、ただ、生きるために、軍服を脱ぎ、平服に着替えていた。したがって、彼らを通常いわれているゲリラと同一視することは適当とは思われない。
http://nagoya.cool.ne.jp/whitecray/doc_okumiya.htm...

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ハードディスクを交換したら、前より起動が早くなって使いやすくなった☆それはいいのだが、印刷が故障する前より文字や画像が悪くなった。「名前をつけて画像を保存」でやると、画像はパソコンの画像を保存できる。でも印刷だと明らかに画像が落ちる。修理に出す前は印刷でもパソコンの画像がほぼそのまま印刷できたのに、ハードディスクを変えたとたん、画像も文章も悪くなった。ぼやけるというかピントがぼけてるような画像になる。メーカーに方に聞いたけど、印刷は「マイクロソフトオフィスドキュメントイメージライター」だからマイクロソフトに聞いて欲しいと言われて、電話で聞いたらよく分からなかった。これを見たどなたか解決の心当たりはありますか?教えてください。

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アメリカ軍に収容された沖縄婦女子

?H3>鳥飼行博研究室 沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑 2005 から引用続き

http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html


「自決」とは、軍人が全力をつくして戦ったのち、戦局が挽回できない、捕虜になるのを避けるなどの理由のために、「軍人が自ら死を選ぶ」軍隊用語であり、軍人の責任をもってする自殺である。つまり、戦争の犠牲になり,死に追い詰められた沖縄住民は、「自決」の語は適切ではないとも考えられる。

住民の「自決」という表現は、皇民育・軍国主義教育、日本軍の作戦指導によって死に追い込まれたという要素を取り去ることになり、沖縄戦の日本軍の責任を免責することになる。換言すれば,沖縄戦の本質を見誤らせることになるという批判がある。そこで,「集団自決」に替えて「集団死」と表現する場合も出てきた。(⇒強制的集団死および「集団自決」と集団死」引用)

集団死は,慶良間列島の渡嘉敷島では329人、座間味島171人、慶留間島53人の集団死をはじめ、伊江島100人、読谷村84人以上、喜屋武半島数百人などが起こり、日本軍による住民殺害は、渡嘉敷島11人、久米島20人、伊江島6人、伊是名島5人、大宜味村約30人、喜屋武半島24人、久志村約40 人、今帰仁村5人と言われる。 

一憶総特攻の中,日本人に捕虜となって生き残る道を与えてはならない。終戦を期待させてはならない。「生か死か」の二者択一の中で,将兵・民間人は死ぬまで徹底抗戦しなければならないという日本軍の規律があった。将兵も民間人も捕虜となれば処刑されるから,徹底抗戦が叶わなければ自決すべきである。こうした,日本人の軍国主義的規律があって,日本兵・住民の「集団死」が導かれた。

米軍は,1945年4月1日,沖縄本島に上陸した。その直後,慶良間列島と同様,捕虜になれば虐待・処刑されるという恐怖心に支配された本島住民が,避難所で集団死,集団自決した。特に,読谷村チビチリガマ(洞窟)では,避難した民間人140人の内、83人が非業の死を遂げた。  

家族や壕の避難民単位で行われた集団自決は、日本軍の支配地域であった。本島南部、慶良間諸島、伊江島,読谷の共通点は,集団自決と日本軍配備が一致しているという事実であるという。


沖縄の集団自決に日本軍が関与したかどうかは、軍幹部が言ったか言わなかったで判断すべきではない。それで判断してしまうと、『1』の記事にあった座間味村での梅澤少佐の件や曽野綾子女史が調べた赤松大尉の例などから、返って、「軍の命令は無かった」として、今回の教科書検定の削除理由になりかねない。日本軍が関与したから集団自決か起きたかどうかは、日本軍が来る前に沖縄に集団自決が、習慣などであったかを調べることだ。しかしパソコンで調べる限り沖縄の集団自決を調べると出てくるのは、太平洋戦争の集団自決だけ。

要するに、日本軍が来る前は、沖縄で集団自決の事例は無い、ということになる。ということは、集団自決は、日本軍が沖縄に来なければ今までの沖縄の歴史をみれば起きなかったことは明らかで、集団自決に日本軍の関与は明白である、という結論が出る。

では、百歩譲って、軍幹部の命令が無かったとして、何故沖縄の人たちは戦時下で集団自決をしたのか。それは、『1』の記事にもあるとおり

1944年9月、座間味島に日本軍が駐屯,島に特攻艇の秘密基地が設けられた。そこで,漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。また,日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊と交流した。その中から「戦陣訓」を学び、在郷軍人(退役軍人) から中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐行為が伝えられ、敵に捕まったときの惨めさが語られた。日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,日本軍将兵はその事実を沖縄住民に伝えた。国策上も,鬼畜米英のプロパガンダが行われていた。このような状況で,沖縄住民,守備部隊将兵は,米軍も日本軍同様に捕虜を処断し、女は辱めを受けると信じ込んでいた。捕虜となれば悲惨な末路を遂げる,このな認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。

ということが理由だあろう。即ち、日本軍が、実際に中国やフィリピンで行った捕虜への残虐処刑を聞いて、集団自決した方が良い、という結論になった、ということだ。

しかし、集団自決の状況は生易しい死に方ではなかった。鳥飼行博研究室の記録を見ると、

1945年3月28日夜半,渡嘉敷島北端に野営していた米第77師団第306連隊の兵士たちは、遠くで爆発音が鳴り苦痛の悲鳴があがるのを聞いた。翌朝,兵士たちは,小さな谷間で,死体や死にかかっている日本人150名以上がうずくまっているのを発見したが,その大半は住民であった。父親たちは,自分たちの家族一人ずつの喉をかき切り,その後,短刀や手榴弾で自らの命を断った。1枚の毛布の下に、父親,幼い子供2人,祖父母が身体を一緒に着物の帯で縛り、離れないようにした上で自殺していた。

米兵も医療班も最善を尽くした。住民は,侵攻してくる「鬼畜ども」が,殺人とレイプをすると思っていたが,アメリカ人が食食糧と医薬品を提供してくれたので,大変驚いて見つめていた。わが娘を殺したというある老父は後悔の念から泣き伏した。(→米軍陸軍公式戦史Seizure of the Kerama Islandsを邦訳紹介した大田昌秀・前沖縄県知事講演「戦後沖縄の挑戦」)

渡嘉敷村の歴史」戦争体験に記載された渡嘉敷島の少年(当時14歳)による住民集団自決体験談

アメリカが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(26日)防衛隊が「敵が上陸して危険だから移動しろ」と、いう事で、シジミチ山で一晩すごしました。

僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。誰が音頭をとったか知らないが、”天皇陛下バンザイ”と三唱やった事を覚えている。しばらくして、母が、振子のような”カッチ、カッチ”と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。やがて、静かになったと思って顔をあげると、周りは、血だらけで倒れている人、死んでいる人でいっぱいだった。僕らの家族、おばの家族と母の兄弟の子どもたち7名全員無事だった。 その後は、ごろごろ死んでいる人、傷を受けた人たちは、ものすごい悲鳴をあげている。

沖縄キリスト教短大金城重明名誉教授は、沖縄戦で住民が互いに殺しあう『集団死』を体験した。

1945年3月26日、金城さんが住む渡嘉敷島に米軍が上陸。圧倒的な兵力を前に成す術がない住民たち。旧日本軍から見放され、行き場所をなくし極限状態の彼らは捕虜となったら死ぬ以上の苦しみを受けると教えられ、米軍を恐れていた住民は集団死に追い込まれた。「紐を使ったり棍棒を使ったり刃物で頚動脈を切ったり…何でも手に取る物は凶器になった」

当時16歳だった金城さんは、両手に持った石を何度も母親の頭に打ち下ろした。妹と弟の命も自らの手で絶った。「自分たちだけ生き残ったらどうしようと。早く死ななくちゃ、という状況で、ある一人の少年がここでこんな死に方するよりは米兵に切り込んで死のう、と」。棒切れ一つで米兵に挑んだ金城さん、しかし、捕虜となり生延びることとなった。


というように集団自決は大変悲惨である。しかし、考えてみれば、沖縄の人たちは、このような悲惨な自決の方が、アメリカ軍の捕虜になったより良い、と思ったから自ら自決したことになる。ということは、沖縄の人たちを自決に追う込んだきっかけとなった日本軍の捕虜虐殺は、自決するより以上に悲惨なことをしてきた、という証拠に他ならない。

即ち、【沖縄の人たちが、日本軍の捕虜虐殺を聞いて自決を決意した、ということは、まさに、日本軍が、中国や朝鮮・フィリピンなど東南アジアの捕虜に対し、悲惨な虐殺をした、という確かな証拠になる。】何故なら日本軍が普通に(銃や銃剣だけで)捕虜を殺していたのなら、集団自決で親が自らの手で我が子を殺すことなどするはず無いからだ。

日本軍人の太平洋戦争での虐殺行為について、未だに無かったことにしようとする国民や政治家・有名人等がいるが、【この沖縄での集団虐殺は正に日本軍が、アジアの人たち虐殺行為をしてきたという事実を示すことになることを我々日本人は知らなければならない。】

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なぜ軍人よりも住民の死者が多いのか


<沖縄>集団自決で検定意見撤回求め県民大会 11万人参加

 太平洋戦争末期の沖縄戦で起きた住民の集団自決を巡る文部科学省の教科書検定意見の撤回を求める沖縄県民大会が29日、宜野湾市の宜野湾海浜公園であり、約11万人(主催者発表)が参加した。超党派の大会としては、約8万5000人が参加した95年の少女暴行事件に抗議する大会を大幅に上回り、歴史認識を巡る沖縄と政府の対立軸が改めて鮮明になった。

大会は旧日本軍の命令、強制、誘導などの表現が削除された教科書検定を厳しく批判。検定意見の撤回と集団自決を巡る強制性の記述回復を求める決議を採択した。

 県議会など22団体でつくる実行委が主催。実行委は10月15、16日にも上京し、福田康夫首相や渡海紀三朗文科相に決議を渡す。
 壇上には仲井真弘多知事と41市町村中、首長36人、議長27人が並び、県選出国会議員らも出席した。
 
 県市長会長の翁長雄志(おなが・たけし)那覇市長は「国は県民の平和を希求する思いに対し、正しい過去の歴史認識こそが未来のしるべになることを知るべきだ」と訴えた。また、登壇した高校生代表は「うそを真実と言わないでください。私たちは真実を学び、子供たちに伝えたい」と訴えた。

 一方、集団自決があった座間味(ざまみ)村で、沖縄戦当時、村助役だった男性(故人)の妹が「兄は軍の玉砕命令が下りたと言っていた」など軍の命令をうかがわせる新たな証言をするなど、生存者の証言も相次いで出てきた
毎日新聞

  【ことば】◇集団自決と教科書検定◇ 来春から使用される高校日本史の教科書検定で、沖縄戦で起きた集団自決について、従来認めていた日本軍の強制を趣旨とする記述に「沖縄戦の実態について誤解する恐れがある」と検定意見がついた。教科書会社は強制性に関する記述を削除、修正した。この結果「日本軍に集団自決を強制された人もいた」が「集団自決に追い込まれた人々もいた」(清水書院)など記述が変わった。文部科学省は検定意見について、集団自決を命令したとされる元日本軍少佐が裁判で命令を否定する証言をしていることなどを指摘し「最近の学説には命令を否定する記述もある。片方の通説だけではバランスが取れない」としている。


?H3>鳥飼行博研究室 沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑 2005 から引用

http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html


座間味島と渡嘉敷島のいずれにおいても、以下のとおり、日本軍による集団自決命令がなかったとの訴訟が梅澤元少佐より起こされた。
ここでは,1945年3月25日に米軍の攻撃があった際、座間味村の幹部5人が梅澤少佐を訪ね、「集団自決させて欲しい、駄目なら手榴弾が欲しい。小銃があるから実弾を下さい。」と懇願したが、梅澤少佐に「生き延びてくれ、弾薬は渡せない」と拒絶された。しかし、村民らは、梅澤少佐の説諭にもかかわらず、次々と集団自決を決行し、凄惨な最期を遂げた。

梅澤少佐の集団自決命令については、神戸新聞が昭和60年7月30日、61年6月6日付で、架空のものであったことを報道し、62年4月18日では「遺族補償を得るために『隊長命令に』」とその真相を報道し、さらに東京新聞は昭和62年4月23日「大戦通史 勇気ある訂正」「弟が証言補償得やすくするため」と報じた。

赤松大尉の集団自決命令には曽野綾子著『ある神話の背景』で,曽野綾子が現地に足を運び、関係当事者に直接取材するなどの徹底した調査を行い、昭和48年のこの著作で、赤松大尉による集団自決命令があったことを支持する証拠がないことを明らかにしたと主張する。(⇒沖縄集団自決冤罪訴訟引用)

第34回司法制度改革審議会議事次第(平成12年10月16日)での曽野綾子女史の証言は次のようなものである。
「激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。 」(⇒第34回司法制度改革審議会議事次第の曽野綾子女史の証言引用)


母は、どうして座間味村の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったのか、その真相について私に語りだしたのは、1977年だったと思う。

戦傷病者戦没者遺族等援護法(いわゆる援護法)の適用を受け、座簡味村では1953年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから3年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。

「援護法」(戦傷病者戦没者遺族等援護法)は、軍人・軍属を対象に適用習されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。

その「隊長命令」の証人して、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。母とともに、梅澤隊長のもとを引き揚げ四人全員が「集団自決」で亡くなってしまっため、戦後、母が“証言台”立たされたのである。

母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材・財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の個所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。

1980年の暮れ、母は梅澤元隊長と那覇市内で再会した。本土の週刊誌に梅澤隊長が自決を命令したという記事が出で以来、彼の戦後の生活が惨澹たるものであるということを、島を訪れた元日本兵から聞かされていた母は、せめて自分が生きているうちに、本当のことを伝えたいと思っていたからである。(→母の遺言 宮城晴美女史引用)


防衛庁の防衛研究所戦史室の記録は、「この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由であろう。…小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた。」

集団死,集団自決を「崇高な犠牲的な精神の発露」とするのは,大日本帝国の末端の沖縄県の,標準語も話せない二等臣民という前提で,沖縄住民が、本土の「大和民族」として認められるため,兵士の邪魔にならないように、率先して自決したと考えたいからであろう。 

水上特攻を任務としていた勇敢な特攻隊員は,慶良間列島山中に隠れて生き残ったが,なぜ愛国心のために、自らの命を絶つことがなかったのか。特攻隊が敵の捕虜となればどのような待遇を米軍から受けると思っていたのか。捕虜となることの恐ろしさを証言してほしいと思う。

沖縄の日本軍は,戦闘の時,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,利敵行為をすることを恐れた。これは,敵への情報提供,捕虜になり,道案内・通訳として働くこと,日本軍の配備上方をもらすこと,捕虜となり生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡り、士気が低下すること,などである。日本軍は,「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」との考えを,住民にも警告的に流布していた。

沖縄では,鬼畜米英を撃滅するために,日本軍による住民の食糧徴発・統制,防衛隊への徴集,住民の勤労奉仕への要請がされた。住民にも,鬼畜米英は卑劣な行為をし,民間人への虐待,処刑を行うとの認識が広められていた。

「集団自決の命令」とは,日本軍守備隊による住民への自殺命令の布告という形態ではなかったようだ。しかし,軍、政府の住民指導、プロパガンダが利敵行為につながる捕虜,虐待・処刑される捕虜となってはいけない、捕虜となれば暴行・殺害されるという恐怖の心理に住民も兵士も追いやった。軍・政府も方針が、集団死を促したことは間違いない。

生き残った人々,集団死を身近に感じた人々からしてみれば,政府・軍の「鬼畜米英」のプロパガンダと作戦指導に基づいて行動した結果,集団死を選択せざるを得なかった。このような人々は,事実上,軍の指示・命令によって殺されたに等しいと考えた。

1944年9月、座間味島に日本軍が駐屯,島に特攻艇の秘密基地が設けられた。そこで,漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。また,日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊と交流した。その中から「戦陣訓」を学び、在郷軍人(退役軍人) から中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐行為が伝えられ、敵に捕まったときの惨めさが語られた。

日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,日本軍将兵はその事実を沖縄住民に伝えた。国策上も,鬼畜米英のプロパガンダが行われていた。このような状況で,沖縄住民,守備部隊将兵は,米軍も日本軍同様に捕虜を処断し、女は辱めを受けると信じ込んでいた。捕虜となれば悲惨な末路を遂げる,このな認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最期のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。母は息も詰まらんぱかりのショックを受けた。

いつ上陸してくるか知れない米軍を前に、梅澤隊長は住民どころの騒ぎではなかった。隊長に「玉砕」の申し入れを断られた五人は、そのまま壕に引き返したが、女子青年団長であった母は、どうせ助からないのだから、死ぬ前に仲間たちと軍の弾薬は運びの手伝いをしようと、有力者たちとは別行動をとることになった。その直後、一緒に行った伝令が各壕を回って「忠魂碑前に集まるよう」呼びかけたのである。

伝令の声を聞いたほとんどの住民が、具体的に「自決」とか「玉砕」という言葉を聞いていない。「忠魂碑」の名が出たことが、住民たちを「玉砕思想」へと導いたようだ。海を一面に見下ろせる場所に建てられた忠魂碑は紀元2600年(1940年=神武天皇即位以来2600年--)を記念して、座間味村の在郷軍人会、青年団によって1942年に建立された---

結果的には、住民は激しい艦砲射撃のため、忠魂碑に集まることができず、それぞれの壕で一夜を明かしたものの、翌日、上陸した米軍を見て住民がパニックを起こして家族同士の殺し合いが始まった---。

住民の集団自決は「生きで捕虜になるよりは、死んだほうがいい」という戦陣訓と、「敵につかまると女は強姦され、男は八つ裂きにして殺される」という皇民化教育や在郷軍人会の教えによるものであった。(→母の遺言 宮城晴美女史引用)

私の考えの記事は『2』の方でします。

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米国は27日、反政府デモの武力制圧に踏み切ったミャンマー軍事政権の幹部14人を対象に、資産を凍結する追加制裁を発動した。

 ブッシュ大統領は声明を発表し、関係国が軍政への圧力強化に加わるよう呼びかけるとともに、軍政の後ろ盾になってきた中国の楊潔チ(よう・けつち)外相に影響力を行使するよう要請した。(「チ」は竹かんむりに「褫」のつくり

 新たな制裁はブッシュ大統領が25日、国連総会の一般討論で発動の方針を明らかにしていた。米財務省によると、対象は軍政トップのタン・シュエ国家平和発展評議会(SPDC)議長、マウン・エイ副議長ら。財務省当局者は制裁強化について「軍政が抑圧と脅迫で人々を黙らせようとするのを傍観しない」と述べており、デモ弾圧停止を求める米国の強い決意を示したものと言える。

直ちに制裁考えず=福田首相
 福田康夫首相は28日昼、民衆の抗議デモを武力で弾圧するミャンマー政府への対応について「日本の援助は人道的な部分も多いので、いきなり制裁ではなく、他国とも相談しながらやっていかなければいけない」と述べ、経済制裁を直ちに発動することには慎重な姿勢を示した。
 首相はまた、ジャーナリストの長井健司さんが銃撃され死亡したことについて「本当にお気の毒なことだ。誠に残念であり、ご遺族にお悔やみ申し上げたい」と語った。首相官邸で記者団の質問に答えた。

ミャンマー軍事政権のデモ鎮圧で日本人1人を含む死者が出たことを受け、日本政府は28日、同国に対する追加制裁の検討を始めた。政府は同国で軍事クーデターが起きた88年以降、円借款を停止するとともに、無償資金協力の新規案件を中止しており、同国公務員の出入国の制限などが検討対象になるとみられる  (新聞各紙)
 

情けない!どうして日本政府はこういう時スパッと制裁の踏み切らないのか。ブッシュ大統領は医らク戦争でアメリカ国民のみならず世界中空も批判されているけど、こういうときのアメリカは的確な対応をすぐ取るから凄い。「根本的な中心軸はずれていない」と感じる。

それに対して日本がすぐ制裁に踏み切れないのは、太平洋戦争での日本軍国主義体制を国内で【悪】だと総括していないことから来ると僕は思っている。日本は先の侵略戦争だった「太平洋戦争」のことを、いまだにアジアを開放する「大東亜戦争」だったと自己批判できない国民や政治家、評論家が多い。そしてそれがいまだにできない根本的な原因は、日本人自身が天皇に対して戦争責任の要求を戦後62年経っても出来ないことからきていると僕は思っている。天皇に太平洋戦争の戦争責任を取らさせることが、日本がミャンマー軍事政権に「NO!」を突きつけられる国になることができる最要点だと僕は確信している。



いやぁ~、やっとパソコンが治ったよ☆先週金曜日にいきなりシステムダウンして、完全に故障。富士

通の方の電話して、調べてもらったら、ハードディスクがやられていて、交換、修理代手数料、送料、梱

包、すべてセットで4万6千2百円!おまけにハードディスク交換だから、今までのデーターは全て消去

という厳しい故障でした。CDのやDVDにデーターを移さなければいけなかったんだが、故障のせいか

操作が下手なせいか、少ししか移せずほとんど消去。殆ど消えても良かったが、中にはどうしても保存し

たい情報があったのに、全て消えてしまった(泣)。おまけにカードで支払い借金がまた増えてしまった

(泣)しかし、しばらく故障したまま使っていたので、修理に出した後はすっきりした☆土曜日に出して火

曜の午前中に届いたので、早くて驚いた。しかし届いた後もインストールしたエクスプローラー7が起動

せず、すぐフリーズするのでまた相談する羽目に。その結果僕のパソコンは富士通2004年冬(12月)

モデルで、ビスタ用のエクスプローラー7は合わないので、7は削除してエクスプローラー6に戻したほ

うが良いとのこと。言われたとおりに7を削除して6で使ったが、また急にフリーズする症状が出たの

で、またまた相談したら(しかし富士通は10回までの相談は無料だがそれ以上は相談料金を取られる@_

@それが理由か分からないが大変懇切丁寧に教えてくれるが。。)、「初期化したほうが良い」とのこ

と。それで、相談しながらリカバリーディスク、アプリケーションディスク1、2などを使って初期化す

ることにした。

思えば、このパソコンは、昨年3月ごろ買った中古パソコン。しかし、発売されてから1年ぐらいしか経

っていなかったので、結構高かった。後2万も出せばコジマで新品が買えるほどであったが、どうしても

TV内蔵が欲しくてこの中古にしたのだった。(本体のTVとパソコンの二つでTVを見るというのが理

想だったが、家の前に高い集合住宅が建ってしまって景色のみならず、アンテナ障害も生じたためパソコ

ンTVは全く駄目で、無駄な機能と化している^^;)しかし、この中古にしたことがアダとなって、結

局、高くついてしまった。

しかし、1つだけ良いことがあって、実はこのパソコン、中古だったので、説明書が、全て印刷で、しか

も、リカバリーやアプリケーション等の初期化するディスクの説明書が全くなく、パソコンが始めての僕

は、ディスクで初期化することも分からず、前の人が使ったままの状態で今まで使っていた。その為、前

の人の家族に写真とか、変な絵のパーツとか入っていて、消そうとしても、なかなか操作が上手くいか

ず、気になりながらも、使い続けていたのだ。それが今回のことで、富士通の人に聞きながらディスクで

初期化したので、前の人の情報も全て消えてしまって、中古ながらも、ハードディスクも一新して、やっ

と自分のパソコンになることができた☆お金はかかったけど、情報は消えてしまったけど、とてもすっき

りした気持ちを今感じている☆そして初期化してせいか、エクスプローラー6も、故障する前より良くな

った。中古だから気は抜けないけど、とりあえずは、修理に出して良かった、と思っている☆
法王、米国務長官との会談拒否=イラク政策に反発?-BBC
 【ロンドン19日時事】英BBC放送(電子版)は19日、バチカン(ローマ法王庁)幹部の話として、ローマ法王ベネディクト16世が8月、中東、イラク問題について話し合いたいとするライス米国務長官の会談申し入れを拒否したと報じた。
 BBCによると、法王はこの時イタリア国内で休暇中で、同幹部は、法王は通常、休暇中に会談の申し入れを受け入れないと説明している。
 ただしBBCは一方で、バチカンがブッシュ米政権を冷遇していることの表れだとするイタリア紙の指摘を紹介。2003年3月のイラク開戦直前、武力行使に反対するローマ法王ヨハネ・パウロ2世(当時)特使の呼び掛けに同政権が耳を貸さなかったことなどが背景にあるとしている。


ローマ法王ベネディクト16世は、レベルの低い人間のようだな。前にブッシュと会談したとき、自分に対する敬意が足りなかったことが気に入らなかったのだろうか。そうだとしても、法王たるものがそういうことを気にすること自体レベルが低い。
今回ライス米国務長官が中東、イラク問題について話し合いたいとする会談申し入れを拒否した理由が、「法王はこの時イタリア国内で休暇中で、法王は通常、休暇中に会談の申し入れを受け入れない」ということだが、休日中の医師でも、急患が出たら休日を返上し病院に駆けつけるものだ。ライス長官が、話し合いたいという内容は、毎日のように犠牲による死者が出ているイラク問題。ある意味、急患が出た以上の、急を要する重要問題。キリストの慈悲を説くローマ法王が「休暇中に会談の申し入れを受け入れない」などと、ライス長官とのイラクについての会談を拒否するとは、到底レベルの高い人間ならするはずのない行動だ。ローマ法王がこのレベルでは、到底国のリーダーを諌め、導くことはできないだろう。
そもそも今回、ライス長官がローマ法王との会談を申し込んだのは、イラク問題に悩みを抱えている、ブッシュ大統領の代わりに来た可能瀬がある。本来ならブッシュ大統領自身が相談に来ることが良いのだが、ビンラディンやイスラム原理主義者、特にアメリカ国民に、「大統領は悩んでいる」というメッセージの伝わるような弱みを見せるわけにもいかず、自分の代わりにライス長官を派遣した可能性がある。もしそうなら、ローマ法王はライス長官を通じてブッシュにイラク戦争を中止させて、これ以上、アメリカ、イラク双方に犠牲者が出ないように導くことができたかもしれない。仮に、ライス長官が大統領と関係なく相談に訪れたとしても、ライス長官を通じてブッシュにメッセージを送ること駕できる。いずれにしても

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朝晩少し涼しくなってきたとはいえ、まだ少し蒸し暑い日がありますね☆


今の時期、こういうところで涼めればいいなぁ~


疲れが取れて癒されそう☆

今日の散歩はちょっと危なかった^^;

まったく俺が馬鹿だったんだが、もうちょっとで倒れるところだった。

今日夜8時頃散歩の途中で、久しぶりに見たコンビニに入ったら内装が替わっていて、大きい手作りにおにぎりシリーズがテーブルに並んでいた。手作りで大きいけど一つ220円~240円で高かったのでやり過ごそうと思ったが、「手作りのシリーズものだし、あまり来ないマイナーなコンビにだし、今度来るときは無くなっているかもしれない」と考えて、高かったけど、「シャケ」と「かねふく明太子&昆布」の二つを買って、帰りながら食べようと、シャケのおにぎりを団地の蛍光灯の下で食べたところ、手作りでシャケでなかなか美味しかったので、一気に半分ぐらいパクついてしまい、のどに引っかかってしまった。

飲み物がなかったので、何とか飲み込もうとしたけれど、どうしてものどに引っかかって胃の落ちない。胸をどんどんたたいて団地の小さな公園に、水飲み場がなかったかな、と行って見たが、ない!「家まで持つかな」、胸を叩きながら歩いていたが、だんだん苦しくなってきた。「このままだとやばい!」とあせってきて、「確かこの団地のごみ置き場に水道があった気がする」とそこを探したら、ちょうど蛇口の水道があったので、水を飲んで事なきを得た。

「危なかったぁ~、こんなこと初めてだ。バカな事したなぁ~」と反省するとともに、飲み物がなくてものを食べることがこんなに大変なことだとは知らなかった。今まで普通のコンビニおにぎり1つなら飲みものがなくてもこんなことは起きなかったが、今日は、美味しくて急にパクついてしまってのでやばいことになってしまってのだろう。飲み物がない時は、唾液が出るようによく噛んで食べなければならなかったのだ。