沖縄集団虐殺は日本軍の虐殺行為を証明した【2】 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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アメリカ軍に収容された沖縄婦女子

?H3>鳥飼行博研究室 沖縄戦での住民集団死・集団自決と捕虜処刑 2005 から引用続き

http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kerama.html


「自決」とは、軍人が全力をつくして戦ったのち、戦局が挽回できない、捕虜になるのを避けるなどの理由のために、「軍人が自ら死を選ぶ」軍隊用語であり、軍人の責任をもってする自殺である。つまり、戦争の犠牲になり,死に追い詰められた沖縄住民は、「自決」の語は適切ではないとも考えられる。

住民の「自決」という表現は、皇民育・軍国主義教育、日本軍の作戦指導によって死に追い込まれたという要素を取り去ることになり、沖縄戦の日本軍の責任を免責することになる。換言すれば,沖縄戦の本質を見誤らせることになるという批判がある。そこで,「集団自決」に替えて「集団死」と表現する場合も出てきた。(⇒強制的集団死および「集団自決」と集団死」引用)

集団死は,慶良間列島の渡嘉敷島では329人、座間味島171人、慶留間島53人の集団死をはじめ、伊江島100人、読谷村84人以上、喜屋武半島数百人などが起こり、日本軍による住民殺害は、渡嘉敷島11人、久米島20人、伊江島6人、伊是名島5人、大宜味村約30人、喜屋武半島24人、久志村約40 人、今帰仁村5人と言われる。 

一憶総特攻の中,日本人に捕虜となって生き残る道を与えてはならない。終戦を期待させてはならない。「生か死か」の二者択一の中で,将兵・民間人は死ぬまで徹底抗戦しなければならないという日本軍の規律があった。将兵も民間人も捕虜となれば処刑されるから,徹底抗戦が叶わなければ自決すべきである。こうした,日本人の軍国主義的規律があって,日本兵・住民の「集団死」が導かれた。

米軍は,1945年4月1日,沖縄本島に上陸した。その直後,慶良間列島と同様,捕虜になれば虐待・処刑されるという恐怖心に支配された本島住民が,避難所で集団死,集団自決した。特に,読谷村チビチリガマ(洞窟)では,避難した民間人140人の内、83人が非業の死を遂げた。  

家族や壕の避難民単位で行われた集団自決は、日本軍の支配地域であった。本島南部、慶良間諸島、伊江島,読谷の共通点は,集団自決と日本軍配備が一致しているという事実であるという。


沖縄の集団自決に日本軍が関与したかどうかは、軍幹部が言ったか言わなかったで判断すべきではない。それで判断してしまうと、『1』の記事にあった座間味村での梅澤少佐の件や曽野綾子女史が調べた赤松大尉の例などから、返って、「軍の命令は無かった」として、今回の教科書検定の削除理由になりかねない。日本軍が関与したから集団自決か起きたかどうかは、日本軍が来る前に沖縄に集団自決が、習慣などであったかを調べることだ。しかしパソコンで調べる限り沖縄の集団自決を調べると出てくるのは、太平洋戦争の集団自決だけ。

要するに、日本軍が来る前は、沖縄で集団自決の事例は無い、ということになる。ということは、集団自決は、日本軍が沖縄に来なければ今までの沖縄の歴史をみれば起きなかったことは明らかで、集団自決に日本軍の関与は明白である、という結論が出る。

では、百歩譲って、軍幹部の命令が無かったとして、何故沖縄の人たちは戦時下で集団自決をしたのか。それは、『1』の記事にもあるとおり

1944年9月、座間味島に日本軍が駐屯,島に特攻艇の秘密基地が設けられた。そこで,漁のため小舟を出すにも軍の許可証を必要とした。また,日本軍の駐屯で、ほとんどの家が兵隊の宿舎となり、住民たちは裏座敷に住みながらも、兵隊と交流した。その中から「戦陣訓」を学び、在郷軍人(退役軍人) から中国戦線で日本軍が中国人を相手に行った残虐行為が伝えられ、敵に捕まったときの惨めさが語られた。日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,日本軍将兵はその事実を沖縄住民に伝えた。国策上も,鬼畜米英のプロパガンダが行われていた。このような状況で,沖縄住民,守備部隊将兵は,米軍も日本軍同様に捕虜を処断し、女は辱めを受けると信じ込んでいた。捕虜となれば悲惨な末路を遂げる,このな認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。

ということが理由だあろう。即ち、日本軍が、実際に中国やフィリピンで行った捕虜への残虐処刑を聞いて、集団自決した方が良い、という結論になった、ということだ。

しかし、集団自決の状況は生易しい死に方ではなかった。鳥飼行博研究室の記録を見ると、

1945年3月28日夜半,渡嘉敷島北端に野営していた米第77師団第306連隊の兵士たちは、遠くで爆発音が鳴り苦痛の悲鳴があがるのを聞いた。翌朝,兵士たちは,小さな谷間で,死体や死にかかっている日本人150名以上がうずくまっているのを発見したが,その大半は住民であった。父親たちは,自分たちの家族一人ずつの喉をかき切り,その後,短刀や手榴弾で自らの命を断った。1枚の毛布の下に、父親,幼い子供2人,祖父母が身体を一緒に着物の帯で縛り、離れないようにした上で自殺していた。

米兵も医療班も最善を尽くした。住民は,侵攻してくる「鬼畜ども」が,殺人とレイプをすると思っていたが,アメリカ人が食食糧と医薬品を提供してくれたので,大変驚いて見つめていた。わが娘を殺したというある老父は後悔の念から泣き伏した。(→米軍陸軍公式戦史Seizure of the Kerama Islandsを邦訳紹介した大田昌秀・前沖縄県知事講演「戦後沖縄の挑戦」)

渡嘉敷村の歴史」戦争体験に記載された渡嘉敷島の少年(当時14歳)による住民集団自決体験談

アメリカが上陸するまでは、西側(部落の)壕にいたが、その夜(26日)防衛隊が「敵が上陸して危険だから移動しろ」と、いう事で、シジミチ山で一晩すごしました。

僕らは、手榴弾なんか持ってなかったけれど、隣りに座っていた人たちや他の人たちは持っている人もいた。誰が音頭をとったか知らないが、”天皇陛下バンザイ”と三唱やった事を覚えている。しばらくして、母が、振子のような”カッチ、カッチ”と、いう音を聞いて同時に、あっちこっちで爆発しはじめ、僕らは、びっくりしてうつぶせになった。やがて、静かになったと思って顔をあげると、周りは、血だらけで倒れている人、死んでいる人でいっぱいだった。僕らの家族、おばの家族と母の兄弟の子どもたち7名全員無事だった。 その後は、ごろごろ死んでいる人、傷を受けた人たちは、ものすごい悲鳴をあげている。

沖縄キリスト教短大金城重明名誉教授は、沖縄戦で住民が互いに殺しあう『集団死』を体験した。

1945年3月26日、金城さんが住む渡嘉敷島に米軍が上陸。圧倒的な兵力を前に成す術がない住民たち。旧日本軍から見放され、行き場所をなくし極限状態の彼らは捕虜となったら死ぬ以上の苦しみを受けると教えられ、米軍を恐れていた住民は集団死に追い込まれた。「紐を使ったり棍棒を使ったり刃物で頚動脈を切ったり…何でも手に取る物は凶器になった」

当時16歳だった金城さんは、両手に持った石を何度も母親の頭に打ち下ろした。妹と弟の命も自らの手で絶った。「自分たちだけ生き残ったらどうしようと。早く死ななくちゃ、という状況で、ある一人の少年がここでこんな死に方するよりは米兵に切り込んで死のう、と」。棒切れ一つで米兵に挑んだ金城さん、しかし、捕虜となり生延びることとなった。


というように集団自決は大変悲惨である。しかし、考えてみれば、沖縄の人たちは、このような悲惨な自決の方が、アメリカ軍の捕虜になったより良い、と思ったから自ら自決したことになる。ということは、沖縄の人たちを自決に追う込んだきっかけとなった日本軍の捕虜虐殺は、自決するより以上に悲惨なことをしてきた、という証拠に他ならない。

即ち、【沖縄の人たちが、日本軍の捕虜虐殺を聞いて自決を決意した、ということは、まさに、日本軍が、中国や朝鮮・フィリピンなど東南アジアの捕虜に対し、悲惨な虐殺をした、という確かな証拠になる。】何故なら日本軍が普通に(銃や銃剣だけで)捕虜を殺していたのなら、集団自決で親が自らの手で我が子を殺すことなどするはず無いからだ。

日本軍人の太平洋戦争での虐殺行為について、未だに無かったことにしようとする国民や政治家・有名人等がいるが、【この沖縄での集団虐殺は正に日本軍が、アジアの人たち虐殺行為をしてきたという事実を示すことになることを我々日本人は知らなければならない。】