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リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

腎臓病と不安神経症で生活保護者。社会やニュース、その他、様々なこと、思ったこと、感じたこと色々なことをブログ記事にしていきたいと思っています。

 【アメリカのオバマ大統領は2016年5月27日、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した。オバマ氏は現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問。原爆投下国として、広島と長崎を含む第二次世界大戦のすべての犠牲者らに哀悼の意を示すスピーチをした。】



 このたびのアメリカ大統領初の広島訪問をまずは評価したい。これをきっかけに約10年ごとの日本開催サミットの時でもいいからアメリカ大統領の広島、または長崎訪問が当たり前になってほしい。

しかし、正直私は今回の広島訪問についてはオバマ大統領の『ノーベル平和賞受賞者としてふさわしい人間であることを示して大統領の職を辞したい』という計算があるのではないかと疑いを持っていた。ロシアとの核兵器を今までより廃棄するという話し合いに成功したことでノーベル平和賞を受賞したが、その受賞後にアフガニスタンへの軍介入で、オバマ大統領への失望が広がった。海外の人のコメントの中に『ノーベル平和賞は他のノーベル賞と比べて価値が低い、何故ならオバマ大統領が受賞しているからだ。』という意見をネットで読んだことがある。私もアフガニスタンに兵を送ったときは、『ノーベル平和賞を与えたノルウェーはどう思っているだろう。受賞させたのを後悔しているんじゃないか』と考えたものだ。

このアフガニスタンへの軍事介入から世界のオバマ大統領への関心は急激に低下したように思える。俺自身は、オバマ大統領の初の日本訪問時に、天皇に会ったとき、お辞儀をしたのを見て、一気に彼に対しての評価が高速急降下した。『戦争の責任を取っていない天皇に頭を下げるとは情けない。こういう卑屈なところがあるから黒人は差別されるんじゃないのか?』と私自身が黒人差別を心の中で思うほどこの大統領を軽蔑した。この天皇への頭を下げた行為はアメリカでも問題となり、2度目に日本に来て天皇に会ったときはオバマ大統領夫妻は天皇と握手をして頭を下げなかった。アメリカ国内での批判が身に染みたのだろう。

評価が下がったまま突然発表されたのがこのたびの三重サミットでの広島訪問だ。だから私は最初疑念を払しょくできなかった。しかし、オバマ大統領の広島でのスピーチを見てその考えは相当無くなった。スピーチを読んで、オバマ大統領の核のない世界を望んでいる本気度が良くわかった。本心、『今の世界は核の力で平和が保たれている。この現在の世界を変えなければいけない、そして外交、話し合いを中心とした世界平和を築かなければいけない、そのためには我々の心を変えなければいけない、という意味の、【私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。】』という内容に、オバマ大統領が核を持っている国しかわからない苦労と現実、それに核のない理想の世界観があり、それが正しい考えであると私は共感した。

しかし、スピーチは、17,8分で、原爆被害者に会ったりした割には、原爆資料館には10分しかいなかったということに、『言ってることは正しいと思うけどほんとに言ったことを実践しようと思ってるのかな?』とまだ信用しきれていない。何故なら原爆資料館は見て周るとゆうに1時間はかかるといわれているからだ。ほんとに核をなくすことを生涯の仕事と考えているなら原爆資料館はじっくり見るはずだ。民主党の人気がなかったカーター大統領も、不倫で汚点を残したクリントン大統領も、大統領後に、現職時より人気が上がっている。大統領任期後の行動で。

オバマ大統領も今年任期が終わったからといって終わりではない。【私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。】という行動は、核を現実に落としたアメリカ自身が、まず、核を自ら減らすという恐怖にたち向かわなければ行けない。核を落とした国が、核を落とした場所でこの言葉を言った以上、実行するのはアメリカ以外にない。北朝鮮もイランも他の存在も、アメリカが大量に核を保有しているから核武装をしようとするのだ。それをスピーチをしたオバマ大統領自身、任期が終わった後もこの【核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。】という言葉を実現する行動をアメリカ国内で生涯をかけて実現するように努力するべきだ。そうやって人生を終えて、初めて今回のスピーチが、歴史的なスピーチになり、オバマ大統領自身、ノーベル平和賞受賞者にふさわしい人物として評価されるのではないだろうか。

【オバマ大統領の広島スピーチ全文】

アメリカのオバマ大統領は5月27日、広島市の平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した。
オバマ氏は現職のアメリカ大統領として初めて被爆地・広島を訪問。原爆投下国として、広島と長崎を含む第二次世界大戦のすべての犠牲者らに哀悼の意を示すスピーチをした。その中で「核なき世界」を主導する責任についても言及した。
献花には安倍晋三首相が同席した。オバマ大統領のスピーチは以下のとおり。
■オバマ大統領「広島と長崎が教えてくれたのです」
71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と炎の壁がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。
なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?
私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。
私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の人々、12人のアメリカ人捕虜を含む死者を悼むため、ここにやって来ました。
彼らの魂が、私たちに語りかけています。彼らは、自分たちが一体何者なのか、そして自分たちがどうなったのかを振り返るため、内省するようにに求めています。
広島だけが際立って戦争を象徴するものではありません。遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。フリント(編注・岩石の一種)から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。
どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。
多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。
広島と長崎で残酷な終焉へと行き着いた第二次世界大戦は、最も裕福で、もっとも強大な国家たちの間で戦われました。そうした国の文明は、世界に大都市と優れた芸術をもたらしました。そうした国の頭脳たちは、正義、調和、真実に関する先進的な思想を持っていました。にもかかわらず、支配欲あるいは征服欲といった衝動と同じ衝動から、戦争が生まれたのです。そのような衝動が、極めて単純な部族間同士の衝突を引き起こし、新たな能力によって増幅され、新たな制限のないお決まりのパターンを生んでしまったのです。
数年の間に、およそ6000万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子供、私たちと何ら違いのない人たちがです。射殺され、撲殺され、行進させられて殺され、爆撃で殺され、獄中で殺され、餓死させられ、毒ガスで殺されました。世界中に、この戦争を記録する場所が数多くあります。それは勇気や勇敢な行動を綴った記念碑、言葉では言い表せないような卑劣な行為の名残でもある墓地や空っぽの収容所といったものです。
しかし、この空に立ち上ったキノコ雲の映像を見た時、私たちは人間の中核に矛盾があることを非常にくっきりとした形で思い起こすのです。
私たちの思考、想像力、言語、道具を作る能力、そして人間の本質と切り離して自分たちを定めたり、自分たちの意志に応じてそうした本質を曲げたりする能力といったものを私たちが人類として際立たせること――まさにそうしたことも類を見ない破滅をもたらすような能力を私たちに与えられることによって、どれだけ悲劇をもたらす誘発剤となってしまうか。
物質的な進歩、あるいは社会的な革新によって、どれだけ私たちはこうした真実が見えなくなってしまうのか。
より高い信念という名の下、どれだけ安易に私たちは暴力を正当化してしまうようになるのか。
どの偉大な宗教も、愛や平和、正義への道を約束します。にもかかわらず、信仰こそ殺人許可証であると主張する信者たちから免れられないのです。
国家は犠牲と協力で人々が団結するストーリーをこしらえ、優れた功績を認めるようになります。しかし、自分たちとは違う人々を抑圧し、人間性を奪うため、こうしたものと同様のストーリーが頻繁に利用されたのです。
科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになりました。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうるのです。
現代の戦争が、こうした現実を教えてくれます。広島が、こうした現実を教えてくれます。
技術の進歩が、人間社会に同等の進歩をもたらさないのなら、私たち人間に破滅をもたらすこともあります。原子の分裂へとつながった科学的な変革には、道徳的な変革も求められます。
だからこそ、私たちはこの場所に来るのです。
私たちは、この街の中心に立ち、勇気を奮い起こして爆弾が投下された瞬間を想像します。
私たちは、目の当たりにしたものに混乱した子どもたちの恐怖に思いを馳せようとします。
私たちは、声なき叫び声に耳を傾けます。
私たちは、あの悲惨な戦争が、それ以前に起きた戦争が、それ以後に起きた戦争が進展していく中で殺されたすべての罪なき人々を追悼します。
言葉だけでは、こうした苦しみに言葉に表すことはできません。しかし私たちは、歴史を直視するために共同責任を負います。そして、こうした苦しみを二度と繰り返さないためにどうやってやり方を変えなければならないのかを自らに問わなければなりません。
いつの日か、証言する被爆者の声が私たちのもとに届かなくなるでしょう。しかし、1945年8月6日の朝の記憶を決して薄れさせてはなりません。その記憶があれば、私たちは現状肯定と戦えるのです。その記憶があれば、私たちの道徳的な想像力をかき立てるのです。その記憶があれば、変化できるのです。
あの運命の日以来、私たちは自らに希望をもたらす選択をしてきました。
アメリカと日本は同盟関係だけでなく、友好関係を構築しました。それは私たち人間が戦争を通じて獲得しうるものよりも、はるかに多くのものを勝ち取ったのです。
ヨーロッパ各国は、戦場を交易と民主主義の結びつきを深める場に置き換える連合を構築しました。抑圧された人々と国々は解放を勝ち取りました。国際社会は戦争を防ぎ、核兵器の存在を制限し、縮小し、究極的には廃絶するために機能する組織と条約をつくりました。
それでもなお、世界中で目にするあらゆる国家間の侵略行為、あらゆるテロ、そして腐敗と残虐行為、そして抑圧は、私たちのやることに終わりがないことを示しています。
私たちは、人間が邪悪な行いをする能力を根絶することはことはできないかもしれません。だから、国家や私たちが構築した同盟は、自らを守る手段を持たなければなりません。しかし、私の国のように核を保有する国々は、勇気を持って恐怖の論理から逃れ、核兵器なき世界を追求しなければなりません。
私が生きている間にこの目的は達成できないかもしれません。しかし、その可能性を追い求めていきたいと思います。このような破壊をもたらすような核兵器の保有を減らし、この「死の道具」が狂信的な者たちに渡らないようにしなくてはなりません。
それだけでは十分ではありません。世界では、原始的な道具であっても、非常に大きな破壊をもたらすことがあります。私たちの心を変えなくてはなりません。戦争に対する考え方を変える必要があります。紛争を外交的手段で解決することが必要です。紛争を終わらせる努力をしなければなりません。
平和的な協力をしていくことが重要です。暴力的な競争をするべきではありません。私たちは、築きあげていかなければなりません。破壊をしてはならないのです。なによりも、私たちは互いのつながりを再び認識する必要があります。同じ人類の一員としての繋がりを再び確認する必要があります。つながりこそが人類を独自のものにしています。
私たち人類は、過去で過ちを犯しましたが、その過去から学ぶことができます。選択をすることができます。子供達に対して、別の道もあるのだと語ることができます。
人類の共通性、戦争が起こらない世界、残虐性を容易く受け入れない世界を作っていくことができます。物語は、被爆者の方たちが語ってくださっています。原爆を落としたパイロットに会った女性がいました。殺されたそのアメリカ人の家族に会った人たちもいました。アメリカの犠牲も、日本の犠牲も、同じ意味を持っています
アメリカという国の物語は、簡単な言葉で始まります。すべての人類は平等である。そして、生まれもった権利がある。生命の自由、幸福を希求する権利です。しかし、それを現実のものとするのはアメリカ国内であっても、アメリカ人であっても決して簡単ではありません。
しかしその物語は、真実であるということが非常に重要です。努力を怠ってはならない理想であり、すべての国に必要なものです。すべての人がやっていくべきことです。すべての人命は、かけがえのないものです。私たちは「一つの家族の一部である」という考え方です。これこそが、私たちが伝えていかなくてはならない物語です。
だからこそ私たちは、広島に来たのです。そして、私たちが愛している人たちのことを考えます。たとえば、朝起きてすぐの子供達の笑顔、愛する人とのキッチンテーブルを挟んだ優しい触れ合い、両親からの優しい抱擁、そういった素晴らしい瞬間が71年前のこの場所にもあったのだということを考えることができます。
亡くなった方々は、私たちとの全く変わらない人たちです。多くの人々がそういったことが理解できると思います。もはやこれ以上、私たちは戦争は望んでいません。科学をもっと、人生を充実させることに使ってほしいと考えています。
国家や国家のリーダーが選択をするとき、また反省するとき、そのための知恵が広島から得られるでしょう。
世界はこの広島によって一変しました。しかし今日、広島の子供達は平和な日々を生きています。なんと貴重なことでしょうか。この生活は、守る価値があります。それを全ての子供達に広げていく必要があります。この未来こそ、私たちが選択する未来です。未来において広島と長崎は、核戦争の夜明けではなく、私たちの道義的な目覚めの地として知られることでしょう。

The Huffington Post  |  執筆者: 吉川慧

藤村美里  | フリーランスライター、TVディレクター http://rpr.c.yimg.jp/im_siggRW9h0nRBKr6zSJNd9UyY.Q---x64-y64/yn/rpr/fujimuramisato/profile-1424703129.jpeg2016年5月30日 23時0分配信

9年前、私が妊婦になった頃は、まだ知らない人の方が多かったマタニティマーク。その後、認知度が上がり、電車内で席を譲ってくれることもあると聞いていたのだが、最近その状況は大きく変わっている。
認知度が高まったが故に、妊婦さんたちは「妊婦だと知られることが怖くて、安易には付けられない」というのだ。
Twitterのまとめサイトには、妊婦だということで『故意に足をかけられた』『お腹を殴られた』『ホームに突き落とされた』と、信じられないようなコメントが並ぶ。そのほとんどが、誰もが乗る公共交通機関での出来事だ。
1年ほど前から話には聞いていたが、ごく一部の人が経験したことが、SNSで大きく広がっているだけだと思い込んでいた。しかし、少なくとも首都圏においては、そうではなかった。

なぜ付けないのか?妊産婦さんたちが語る、その理由は

先日、別の取材に関連する形で、FBを通じて妊産婦さんたちに問い掛けた。『怖い思いをするからとマタニティマークを付けなかったという妊婦さん、ご存知ですか?』と。あくまでも友人限定のFB。それなのに、実際に怖い経験があったり、マタニティマークは付けない(付けなかった)というコメントが並んだのだ。
そして、何よりも驚いたのは、彼女たちが萎縮していて『妊婦で申し訳ない』という気持ちを持っていたことだ。彼女たちは会社員として働いていたために、電車通勤をするしかなかった人たち。何も悪いことはしていない。
「1人目妊娠中には付けてましたが、2人目の時は隠したりしてました。1人目の時、優先席で立っていたら、座ってる元気そうなアラフィフくらいのご夫婦に『絶対譲らないからな、何様のつもりだ!』とブツブツ言われ続けたので…。」
そう話すのは、1人目を2011年、2人目を2013年に出産したAさん。
「そんなことがあったので、2人目の時は、優先席付近にはあまり行かなかったかもしれません。座ってる方も、優先席だと譲らなきゃならないと思う人が多いけど、普通席なら譲らなくてもいいと思いそうなので、その方が気が楽でした。譲ってもらえた時も、なんだか申し訳ない気持ちがあって、ひたすら目をつむって寝てました。また何か言われそうで。」
譲ってもらっても申し訳ない、譲ってもらうことになってしまうから優先席の近くには座らないというのだ。妊婦を含め、立っているのが辛い人のための優先席だというのに…。この意見はかなり多く、Bさんも同じ意見だった。
「1人目の時は普通に付けていたけれど、3ヶ月前に出産した第2子の時は、”マタニティマークは危険!?”という記事を読んで怖くなったこともあって、見えないように隠して付けていました。優先席に座れた時だけ見えるようにして。特に危険な目にあったことはなかったけど、何かあってからじゃ遅いですから。
座った後、見えるようにしていたのは『妊婦なので譲れません』よりは『妊婦なので座らせてもらってます』『理由なく座ってるわけではないです』って気持ちだったから。でも、マークを付けていても、優先席に座るのはやっぱりなんだか気が引けて、基本的には優先席ではなく普通の席に座っていました。座れなくて席の前に立つときは必ず、マタニティマークを隠していました。前に立たれた人は、譲って!ってプレッシャーを感じてしまうかも?と思っていたので。お腹が目立つようになってからは普通の席の前にも立たず、ドアの横に立っていましたね。ほんと悲しい世の中です…。」

病院では「危ないから付けないように」という指導も

また驚いたことに「付けない方が良い」というアドバイスを受けたという人もいる。
「私が通っていた病院では、マタニティマークは付けないようにと指導されました。自治体からの配布はありましたが、トラブルが多いということもあって、『すぐに出せるようにしておいて、ものすごく具合が悪くなったときのみ出すように』という指導でした。私自身も、妊娠中に電車内で60代位の女性達に『妊婦だからって甘えて座るな!』と怒られたり、酔っ払った会社員から、代わってと頼みもしないのに「妊婦だろ、座りたいなら土下座しろ」と言われたりしました。座っていたのは優先席ではなくて、普通席なのですが…。トラブルに巻き込まれたくないので、すぐに立って次の駅で降りましたが、こうなると電車に乗れなくなります。」
そう語るCさんは、公共交通機関でのトラブルが続き、途中からは電車を使わずに、タクシーで移動するようになったという。
また、経産婦さんのコメントには、数年前に出産した時とは空気感が違うという意見も目立つ。2人目、3人目と続けて出産している彼女たちは、ここ数年で社会の雰囲気が変わっていく様子を感じ取っていた。
「5年前、1人目の頃はマタニティマークが普及し始めたばかりで、喜んでつけてました。雑誌の付録にも目立つ大きめのものがついてたりして。でも、去年出産した2人目の時は、基本的にはカバンの内側に付けるようにして、優先席に座らせてもらった時だけ見えるように外側に垂らしてました。一部のマナーの悪い妊婦さんの話(無理やり席を譲らせる等)がネットやテレビで話題になって、それからマタニティマークを付けているだけで『妊婦様』などと揶揄されることが増えた気がします。1人目と2人目の間の4年間で、ずいぶん変わりました。」
「私は3人とも付けてました。1人目の時は2010年で、そこから2年おきに3人出産していますが、マタニティーマーク付けると怖い目にあうっていう話は、少しずつ広まってきていると思います。SNSが浸透したことも影響しているのでしょうか。悪い話はすぐ広まるのかなと思います。付けていたとしても席を譲ってもらえるか分かりませんし…。ただ、悪阻でしゃがみこむ時があって、そういう時にマークを見て気づいてくれる人もいたので、付けていて良かったと思っています。」
そもそも、マタニティマークは『席を譲ってください』と訴えるためのものではない。急に体調が悪くなった時など、いざという時に妊婦だと分かってもらえるように、付けるためのものだったはずだ。何かあったら怖いから、申し訳ないから、という理由で付けない人が増えたら、本末転倒である。
それにしても、約10年前は認知度も低かったマタニティマークが、ここ数年で一気に有名になり、疎まれるようになったのは、一体なぜなのだろうか。

『卵子の老化』が話題になり、妊婦に対する視線が変化した

自身も一児の母で、ここ10年、不妊治療の第一線で働いてきた香川則子さんは、その理由をこう話す。
「都内は特に、35歳初婚でそこから妊活しても、思うようには妊娠に辿り着けない女性が多いのかもしれません。男性も、パートナーとしてそれなりにストレスはあるでしょう。2012年以降は『卵子の老化』という言葉も独り歩きして、未経妊女性にストレスをかけています。また、ここ10年間、丸ノ内線も優先席には男性サラリーマンが目立ちます。妊娠してなくても仕事で疲弊していたり、不妊で精神疾患レベルまで追い詰められている勤労女性も少なくないように見えます。非正規労働者も増えて、生活に余裕のない人も増えました。
子育て世代が多い地区ではまだ市民権があるような気がしますが、年配の方が多い地域では、総じて子連れや第二子妊婦の乗車には冷たい目線を感じます。私の妊娠時は既に妊婦にキビシイ時代に入っていた2014年でしたから、マタニティマークは”場所に応じて出したり引っ込めたり”して利用していました。」
確かに、数年前に『卵子の老化』というニュースが駆け巡ったが、このような事実が正しく伝わること自体は悪いことではなかったはずだ。しかし、その事実を突きつけられたからこそ、女性が感じるストレスが増したとも考えられる。ここ数年で、以前にも増して”妊娠”というプレッシャーを感じる状況を作り出してしまった。
誰もが20代で産み終えていた時代とは違い、今は40代から出産に臨もうとする人も少なくない時代。その多様さも、妊婦さんに対する複雑な心境を作り出しているのかもしれない。
さらに、妊婦さんの一人はこんな話をしてくれた。
「そもそも、産休に入ることで職場に迷惑をかけているという気持ちもあるのです。だから、なんとなく『妊婦で申し訳ない』という感覚が根底にあるのかもしれません。」
超少子高齢化が進み、未だにその対策ができていない日本。いま適齢期である団塊ジュニアの女性たちが出産しないことには、さらにひどい状況になると言われている。
だが、妊娠中の女性たちが危険を感じ、申し訳ないと萎縮しながら恐る恐る過ごす社会で、出生率が上がるのだろうか。
海外から東京に戻ると、妊婦や子連れに冷たい雰囲気に驚くことも多い。
少子化対策を充実させることは、もちろん急務に違いないが、もう少し社会の目が温かくなる日が来ないものかと強く思う。

都立国分寺高校、早稲田大学卒業後、テレビ局入社。報道情報番組やドキュメンタリー番組でディレクターを務める。2008年に女児出産後、児童虐待・保育問題・周産期医療・不妊医療などを母親の視点で報道。2013年より海外在住。海外育児や国際バカロレア教育についても、東京と海外を行き来しながら取材を続ける。テレビ番組や東洋経済オンラインなどの媒体で取材・執筆するほか、日経DUALにて「働くママ1000人インタビュー」などを連載中。働く母たちが働く母たちが集まる場「Workingmama party」「Women’s Lounge」 主宰。Global Moms Network コアメンバー

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【14日、台湾メディア・風傳媒は、旧日本軍の慰安婦とされた台湾の鄭陳桃さんが11日、肺炎のため亡くなったと報じた。写真は台湾の馬英九総統と面会した鄭陳桃さん(馬総統のフェイスブックより)。】

2016年1月14日、台湾メディア・風傳媒は、旧日本軍の慰安婦とされた台湾の鄭陳桃(ジョン・チェンタオ)さんが11日、肺炎のため亡くなったと報じた。享年94歳。

鄭さんは19歳の時に学校に向かう途中で日本兵によって車に乗せられ、インド洋の小島で慰安婦にさせられた。これまで日本政府を相手に数度にわたって訴訟を起こしており、最後まで謝罪の言葉を待ち望んでいたという。

慰安婦問題をめぐって日本は韓国と先月下旬に合意したが、台湾と協議する計画は現時点ではないとされている。(翻訳・編集/野谷)
2016年2月10日、中国新聞網によると、中国・海南省の「慰安婦」被害者だったリー族の黄珍妹(ホアン・ジェンメイ)さんが7日、自宅で死去した。享年104歳。遺体は10日、家族により出棺された。

元慰安婦を支援するボランティア活動を長く続けてきた陳厚志(チェン・ホウジー)さんによると、1940年3月、当時28歳だった黄さんは他の女性と共に旧日本軍から性暴力被害を受け、慰安所を離れるまで1年近く虐待を受けた。

上海師範大学中国慰安婦問題研究センターの蘇智良(スー・ジーリアン)主任によると、中国国内の元慰安婦のうち、今も健在なのは二十数人だという。陳氏によると、そのうち保亭リー族ミャオ族自治県と陵水リー族自治県の生存者は10人に満たないという。(翻訳・編集/柳川)


【最後の中国人慰安婦24人、1年で4人死去―中国メディア】イメージ 1
 【写真は重慶の慰安所跡地。】
 2015年10月26日、澎湃新聞は記事「最後の中国人慰安婦24人の肖像、過去1年で4人が死去」を掲載した。

アジア人全体で40万人、中国人だけでも20万人以上が旧日本軍の従軍慰安婦とされたが、現在存命している中国人はわずかに24人だけだという。うち20人が中国本土、4人が台湾に在住している。

今年のユネスコ記憶遺産では従軍慰安婦関係の資料を申請したが落選した。国際諮問委員会は他国の慰安婦資料と共同で申請するよう勧告しており、次回の審査では韓国など他の被害国と共同申請することが検討されている。(翻訳・編集/増田聡太郎) 
                        
フィリピン人元従軍慰安婦と支援者ら数百人は1月27日午前、マニラ首都圏にある大統領府近くで抗議集会を開き、慰安婦問題の解決を求めて訪比中の天皇に訴えた。
 炎天下の中、集まった元慰安婦は6人。日本政府に対し①公式謝罪②歴史事実の認定③補償の3点を要求した。85歳の元慰安婦、ナルシサ・クラベリアさんは「天皇よ! あなたの国の首相に問題解決に向けて話をして欲しい。我々の正義が回復するように」とマイク片手に語り、身振り手振りで訴えた。そして大統領府で天皇と会見中のアキノ大統領に対しても、天皇に働きかけるよう呼び掛けた。
 昨年末に世論を騒がせた日韓の元慰安婦問題の「最終解決」を受け、アキノ大統領は先に、天皇の訪比に合わせて問題提起する可能性を示唆した。このため比国内で元慰安婦問題解決に向けた機運が高まっていた。 
 元慰安婦のフェリシダッド・デロスレイエスさん(87)も「天皇は目を覚ませ! 日本政府は果たすべき責任があるのに寝たふりをして耳を貸そうとしない。今までずっと闘い続けてきたが、一度たりとも正義は回復されていない」と声を振り絞った。

補償実現せぬまま高齢化する元従軍慰安婦ら

 フィリピン人元従軍慰安婦に対する補償問題は、名乗りを上げた元慰安婦46人が1993年、日本政府を相手取って総額9億2千万円の損害賠償請求訴訟を東京地裁に起こしたことに始まる。しかしその10年後の2003年末に最高裁で敗訴が確定しており、司法による救済の道は閉ざされている。このため、立法措置による救済の道が比国内で模索され、アキノ大統領も就任直後はその可能性に言及していたが、それから5年以上が経過した現在も実現には至っていない。
 元慰安婦を支援する民間団体「リラ・ピリピナ」のエクストレ・マドゥーラ代表(63)は、元慰安婦の日韓合意を引き合いに出し「日本政府は韓国政府の意向を受け入れた。フィリピンの慰安婦問題も同様に取り組まれるべきで、日本政府はもはや何の言い逃れもできない」と力説した。
 この日の抗議集会は1時間以上続き、暑さと疲労のために途中で座り込んでしまう元慰安婦女性もいた。
 リラ・ピリピナが設立された1992年当時、所属していた元慰安婦は174人。しかし老衰でこれまでに104人が他界し、現在は70人と半分以下になった。毎年の終戦記念日に合わせて開かれる抗議集会も、高齢化のために参加者が減り続けているのが現状だ。
 終戦から70年が経ち、今年は日比国交正常化から60年という節目の年。日韓合意問題という引き金に加え、天皇、皇后両陛下の訪比という条件が揃ったこのタイミングを逃してしまったら、残された70人が日の目を見ることはないかもしれない。天皇訪比で日比の友好親善が深まる一方、元慰安婦問題は今後も両国に影を落とし続ける。
3verygoodreasons http://edge.liveleak.com/80281E/u/u/flags/ca.gif
太平洋戦争において、もっとも凄惨だった戦いの内の一つがペリリューの戦いだ
日本軍はこれまでの戦法を一新、これが戦局の変化を告げていた・・・
以下にフルドキュメンタリー

ペリリューの戦い
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘をいう。
要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

損害
日本軍
  • 戦死者 10,695名
  • 捕虜 202名
  • 最後まで戦って生き残った者34名
アメリカ軍
  • 戦死者 2,336名
  • 戦傷者 8,450名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。(陸軍歩兵第81師団だけで2,500名)
一般人民
  • 陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。
ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。
日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている。

当初は「3ヶ月程度の戦い」と言われていたのが、実際には2ヶ月以上にも及んだ
日本側は11,000の兵力のうち、生存できたのはたったの202名
このペリリューの戦いで、アメリカの勝利は明らかなものとなった
そして、太平洋地域に於いてもっとも論争を呼ぶ戦いともなった・・・
亡くなられたすべての方々に捧げたい
[ 833字|2016.1.7http://www.manila-shimbun.com/images/ico_poto.gif|社会 ]
http://www.manila-shimbun.com/image.php?file=221294l.jpg&pass=381fde2c8f00f5607a547ed22fd44535 日韓合意を受け、他国の慰安婦問題についても話し合うよう求める比の元慰安婦たち=ハリー・ロケ事務所提供
 日韓両国が昨年12月、慰安婦問題で「最終的かつ不可逆的に解決する」ことで合意に達したことを受け、フィリピンの元慰安婦らは「被害を受けた他国の元慰安婦についても議論をすべきだ」と憤りをあらためて示し、問題風化に強い懸念を表明した。また、比政府に対し、日本政府との間で慰安婦の実態について突っ込んだ協議を行うよう訴えた。
 比人元慰安婦の支援団体「マラヤ・ロラズ」(ルソン地方パンパンガ州)は6日、首都圏マニラ市で会見した。
 同団体を代表し、元慰安婦らとともに会見に臨んだ弁護士で比大法学部教授のハリー・ロケ氏は「なぜ日本は、韓国との間のみで慰安婦を問題化し、比や他国の元慰安婦を議論に上らせないのか。旧日本軍から性的暴行を受けた比人女性たちは、韓国の元慰安婦よりも人として軽くみられるのか」と不満を表明した。
 また、これまで日本政府が表明してきた談話やおわびの書簡では「日本政府が慰安婦に性行為を強要した事実はなかったともとれる」ことなどから、今回の合意内容の詳細を確認するため、さらなる情報の開示を求めた。
 一方、別の比人元慰安婦支援団体「リラ・ピリピナ」(首都圏ケソン市)のレチルダ・エクストレマドゥーラ代表(63)は「被害者が望んでいた合意内容ではない」と落胆を示した。エクストレマドゥーラ代表は「今回の合意によって、今後一切、慰安婦問題が触れられなくなる可能性がある」との懸念を指摘。「被害者の女性も高齢化しており、問題が忘れられてしまうことを懸念している。比人元慰安婦たちが求めているのは謝罪と正義だ」と強調した。また、慰安婦問題の議論化を避けている比政府の支援を引き出すため、今後も抗議活動を続けるとした。
 昨年12月28日のソウルで行われた日韓外相会談で決まった「日韓合意」では、日本政府が韓国の元慰安婦支援のため、韓国政府が創設する財団に約10億円を拠出することや、韓国がこの問題を二度と蒸し返さないことなどを約束した。(立田成美)
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2016年明けましておめでとうございます。
2015年は世界的にテロが起きたり、日韓で従軍慰安婦の解決の条約が結ばれたり、中国の景気減速、アメリカで数年ぶりの0金利解除など色々あったが、従軍慰安婦については政治家同士では解決の条約を締結したが、ネットでの日本人、韓国人ともに大反対で、この「不可逆的な条約締結」と言っているが両国民が大反対している人が多いのを見ると、あと5年間ぐらい様子を見ないと今回の条約が本当に従軍慰安婦の終わりを告げる条約となるかどうかは現時点では判断したくない。従って従軍慰安婦の解決したとのこのたびの条約がほんと
にそうなるかどうかは5年後ぐらいにどうなっているかを見てからはっきりと方向性を見極めたいと考えている。
兎に角、今年1年、テロや虐殺などがない、世界的に平和な年になってほしい。
個人的には、今年1年無事に年末を生きているように。そして世界中の全ての国の大変な思いで生きている人々が少しでも幸福になれるように祈りたい。天や神、御本尊の加護がこの地球にあらんことを。

スマイス報告 農業調査

南京地区における戦争被害  1937年12月―1938年3月 都市および農村調査
二、農業調査

 農業調査では、南京周辺に集合して一つの自然的・伝統的単位をなしている六つの県を網羅しようとした。二つの県すなわち江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県・高淳県がある。附録で調査の組織とその方法にかんして説明しておいた事情のために、三月中に高淳県と六合県の半分は調査することができなかった。

 この調査に含まれている四・五県にはそのとき、最高一〇八万人の農民がいたが、戦前にはおそらく一二〇万から一三五万はいたであろう。このなかには市場町もいくつか入っているが、それ以前の人口はおよそ二七万五〇〇〇人であった(1)。

 以前には南京市は一〇〇万の人口を擁していたが、三月にはおよそ二五万にまで減少していた。このように四・五県の全人口は三月現在ほぼ一五〇万であった(しかし、市場町の住民はこの調査の範囲外である)。


南京市の常態としての人口と陥落前の人口には大きな違いがあるようである。常態100万人については肯定派、否定派とも見解が相違している訳ではない。「1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は、市内の常住人口について、ほぼ完全な統計資料をずっと保存している。1935年ではじめて百万人の大台を突破し、1937年の前半に至るまで、南京市の常住人口はずっと百万人以上を保ち続けてきた」。

 南京特務機関「南京市政概況」というのがあるようであり、これに南京城区の人口・戸数の変化が次のように記されている。南京攻略戦前後で南京城区の人口・戸数が大きく変化していることが判明する。但し、この減少は、移動と虐殺との両面から考察される必要がある。

1937年3月 101万9667人 20万810戸 (首都警察庁調べ)
1937年12月 南京攻略戦
1938年2月末 20万人 (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
1938年10月末 32万9488人 8万2195戸 (南京市自治委員会調べ)
1939年10月末 55万2228人 13万2403戸 (南京特別市政府調べ)
1941年3月末 61万9406人 14万439戸 (南京市政府調べ)



 「文藝春秋 第十六巻 第十九號」〈1938年(昭和十三年)11月特別號〉の「従軍通信 上海より廬州まで 瀧井孝作 P193」に、次のような貴重な記述がある。「九月二十三日。晴。南京にて。午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり」(渡辺さんより提供)。
 つまり、「八・一三」事変(第二次上海事変)以後、日本軍は絶えず飛行機を飛ばして南京を爆撃し、約20万人の比較的裕福な南京の商人や市民が戦火を逃れて南京市の外に避難して逃げた。10月に国民政府が重慶に遷都を決定するや、次々と政府機関員たちは疎開した。11月20日、国民政府は遷都の声明を発表した。見積もりによると、この政府の西への移転につき従った軍民は約20万人である。また、この他に南京で仕事をしていた出稼ぎの人たちがおり、戦乱を避けるために出身地に帰った人たちが約数万人いた。南京市の人口は激減したが、しかし多くの人たちは生活に追われ南京を離れることができなかった。
 この点について、日本の上海駐在の岡本領事が1937.10.27日に広田外相に宛てた秘密の手紙の中で次のように書いている。「南京市内の公務員と軍人の家族はすでにみな避難し、人口は激減している。警察庁の調査によると、現在の人口は53万人余りであり、それらはすべて、各機関の公務員、財産を移転することができないものや現地の商売人等、とことんまで南京に居続けなければならない人たちである」。
 以上の資料と、南京市政府が1937.11.23日、国民政府の業務部に宛てた公文書で「本市の現在の人口を調べたところ約50余万人」であるとしていることを踏まえれば、12.13日の南京の陥落に至るまでずっと、南京在住の戸籍上の人口は依然として50余万人であったということになる。
>>>>ということで南京大虐殺の当日付近の人口は50余万人。難民特区の20万人を引いても30万人虐殺は可能。俺は約20万人は虐殺したと思っている。