南京大虐殺の南京人口 | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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スマイス報告 農業調査

南京地区における戦争被害  1937年12月―1938年3月 都市および農村調査
二、農業調査

 農業調査では、南京周辺に集合して一つの自然的・伝統的単位をなしている六つの県を網羅しようとした。二つの県すなわち江浦県と六合県は揚子江の北側にあり、その南側には江寧県(南京はその中に位置している)・句容県・溧水県・高淳県がある。附録で調査の組織とその方法にかんして説明しておいた事情のために、三月中に高淳県と六合県の半分は調査することができなかった。

 この調査に含まれている四・五県にはそのとき、最高一〇八万人の農民がいたが、戦前にはおそらく一二〇万から一三五万はいたであろう。このなかには市場町もいくつか入っているが、それ以前の人口はおよそ二七万五〇〇〇人であった(1)。

 以前には南京市は一〇〇万の人口を擁していたが、三月にはおよそ二五万にまで減少していた。このように四・五県の全人口は三月現在ほぼ一五〇万であった(しかし、市場町の住民はこの調査の範囲外である)。


南京市の常態としての人口と陥落前の人口には大きな違いがあるようである。常態100万人については肯定派、否定派とも見解が相違している訳ではない。「1927年に国民政府が南京を首都に定めて以降、南京市政府は、市内の常住人口について、ほぼ完全な統計資料をずっと保存している。1935年ではじめて百万人の大台を突破し、1937年の前半に至るまで、南京市の常住人口はずっと百万人以上を保ち続けてきた」。

 南京特務機関「南京市政概況」というのがあるようであり、これに南京城区の人口・戸数の変化が次のように記されている。南京攻略戦前後で南京城区の人口・戸数が大きく変化していることが判明する。但し、この減少は、移動と虐殺との両面から考察される必要がある。

1937年3月 101万9667人 20万810戸 (首都警察庁調べ)
1937年12月 南京攻略戦
1938年2月末 20万人 (難民区人口を南京市自治委員会と特務機関が推定)
1938年10月末 32万9488人 8万2195戸 (南京市自治委員会調べ)
1939年10月末 55万2228人 13万2403戸 (南京特別市政府調べ)
1941年3月末 61万9406人 14万439戸 (南京市政府調べ)



 「文藝春秋 第十六巻 第十九號」〈1938年(昭和十三年)11月特別號〉の「従軍通信 上海より廬州まで 瀧井孝作 P193」に、次のような貴重な記述がある。「九月二十三日。晴。南京にて。午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり」(渡辺さんより提供)。
 つまり、「八・一三」事変(第二次上海事変)以後、日本軍は絶えず飛行機を飛ばして南京を爆撃し、約20万人の比較的裕福な南京の商人や市民が戦火を逃れて南京市の外に避難して逃げた。10月に国民政府が重慶に遷都を決定するや、次々と政府機関員たちは疎開した。11月20日、国民政府は遷都の声明を発表した。見積もりによると、この政府の西への移転につき従った軍民は約20万人である。また、この他に南京で仕事をしていた出稼ぎの人たちがおり、戦乱を避けるために出身地に帰った人たちが約数万人いた。南京市の人口は激減したが、しかし多くの人たちは生活に追われ南京を離れることができなかった。
 この点について、日本の上海駐在の岡本領事が1937.10.27日に広田外相に宛てた秘密の手紙の中で次のように書いている。「南京市内の公務員と軍人の家族はすでにみな避難し、人口は激減している。警察庁の調査によると、現在の人口は53万人余りであり、それらはすべて、各機関の公務員、財産を移転することができないものや現地の商売人等、とことんまで南京に居続けなければならない人たちである」。
 以上の資料と、南京市政府が1937.11.23日、国民政府の業務部に宛てた公文書で「本市の現在の人口を調べたところ約50余万人」であるとしていることを踏まえれば、12.13日の南京の陥落に至るまでずっと、南京在住の戸籍上の人口は依然として50余万人であったということになる。
>>>>ということで南京大虐殺の当日付近の人口は50余万人。難民特区の20万人を引いても30万人虐殺は可能。俺は約20万人は虐殺したと思っている。