ペリリューの戦い | リベラルブログ・生活保護者の色々な記事

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太平洋戦争において、もっとも凄惨だった戦いの内の一つがペリリューの戦いだ
日本軍はこれまでの戦法を一新、これが戦局の変化を告げていた・・・
以下にフルドキュメンタリー

ペリリューの戦い
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘をいう。
要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。

損害
日本軍
  • 戦死者 10,695名
  • 捕虜 202名
  • 最後まで戦って生き残った者34名
アメリカ軍
  • 戦死者 2,336名
  • 戦傷者 8,450名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。(陸軍歩兵第81師団だけで2,500名)
一般人民
  • 陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。
ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。
日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている。

当初は「3ヶ月程度の戦い」と言われていたのが、実際には2ヶ月以上にも及んだ
日本側は11,000の兵力のうち、生存できたのはたったの202名
このペリリューの戦いで、アメリカの勝利は明らかなものとなった
そして、太平洋地域に於いてもっとも論争を呼ぶ戦いともなった・・・
亡くなられたすべての方々に捧げたい