さて、娘の卒業式も無事終わったので、今日はお待ちかねの(誰も待ってなんかいないよ。)前回の続きのバイク歴などを。
えっ??娘2号の試験の結果??
もちろんサクラサクでした。
しかし、その後がひどかった。高校入学の用意が、なんとここ数日で全部やらなければいけないのだ。
たった1日でもみんな一緒に注文できればいいのに、教科書は何日、制服は何日。と指定されているので、休みが決められているオヤジには非常に困ってしまうのだ。しかも週末に十万円単位のお金が動くので、定期を解約してお金を降ろそうにも降ろせないのだ。できれば、週末に休めない人や片親で休めない人の配慮がもう少し欲しいなぁーー。今日ほどかみさんがいて欲しかったことは無かったでした。まあ、ぼやいても仕方がないので、今日はいつものノリノリオヤジでいってみます。
さて、Z400FXを降りたオヤジは新たなる挑戦として、大型自動2輪を受けるべく、教習場に通い始めた。当時、勤めていた会社は、休みは1ヶ月に1回という、ブラックも良いとこの会社であった。だけど、みんながそれが当たり前と思っていたから、それはそれでオヤジは別に文句は無かったのだが・・・・会社にその1回の休みはいらないので、試験当日は休ませてくれ。という条件での入校であった。当時の教習車はCB750 ホライゾンであった。
初めて跨った750ccはやはり大きかった。足はつま先しかつかない。そして何よりも驚いたのは、ハンドル周りが異常に重たいのだ。まるで、ハンドルの上に米袋30kgが乗っているような重さであった。しかも、そこの教習場の道はジャリ道。
急制動は、一本橋のような幅20cmぐらいのコンクリートのラインで行わなければいけなかった。
教習所は北見にしか無かったので、朝、6時に家を出て、7時から1時間練習。8時から網走に走って9時に出社という事が、3ヶ月間続いた。その時買った新車がわずか10日間でオイル交換に出したら、「いったいどこを走ったらこんな距離になるんですか?」と、車屋さんに驚かれたものであった。コース全体が砂利道だったので、流石の運動神経の鈍いオヤジでも、外周はフロントを流しながら走る事ができた。
そんな時であった。オヤジを試験に出せるかどうか、教官がテストをしてくれた。一緒に練習していた中型免許の人は教官と対等に走っていたのだが、オヤジは全然ついていくことが出来なかった。
3ヶ月間、休みもなして朝早くから練習していたオヤジはここでついに心が折れた。大型自動2輪は単に熱意だけではとることは出来ないと思いしった。次の日、オヤジは退学を申しでた。
可愛さ余って憎さ百倍とは良く言ったものだ。あれほど大好きであったバイクであるが、それ以来、忌み嫌う様になっていった。
そして今まで30年もの間、バイクを遠ざけていた。いや、その間、たった1回だけ乗った事があった。偶然見かけたリサイクルショツプで見つけたカワサキGPX250。金額8万円。安さに負けて手を出したオヤジはそいつに乗って近くの峠に行こうとした。
充分に手入れをしていなかったそのバイクは、走り出して20分でミラーが外れて飛び去った。しかも初めて乗る16インチにフロントが落ち着かなくてフラフラして、酔っぱらったように走っていた。結局、その乗り心地が嫌いになり、8万円はわずか20分でお蔵入りとなっていった。
それ以来、50歳近くになるまでオヤジはバイクなるものを遠ざけ、まっとうな人生を送っていた。
7年前に母親が亡くなった。今まで、大金には全く縁の無かったオヤジであるが、その時、少しばかりまとまったお金が手に入った。
当時、オヤジはある事が原因で完全に男として、夫として、父親としての力を失ったオヤジはただ生きて給料を家族の元に送るだけの人間に成り下がっていた。
そんな時であった。大型自動2輪の免許は自動車学校で取れることは知っていたが、今更、50歳近くにもなって、バイク自体興味を失っていた時である。20代の頃にオヤジの会社にバイトに来ていた後輩に出会った。
「実は俺。大型自動2輪の免許を取ったんです。そして今、ZⅡに乗っているんです。」と、ニコニコしながらオヤジに話かけてきた。
「オヤジさんはもうバイクに乗らないんですか?俺、オヤジさんがバイクに乗っていたのに憧れて、バイクに乗ったんですよ。」
その言葉に火が付いたオヤジであった。
オヤジには昔からどうしても叶えたかった夢があった。それは、バトルスーツを着て大型バイクに乗る事であった。
もしかして、大型自動2輪の免許を取って、バトルスーツを着てバイクに乗れば、もう一度、男として、夫として、父親としての力を取り戻せるのではないかと?と思ったのだ。自動車学校には休みの時に行く事として、ほぼ半年、仕事の通勤+バイクの練習で往復100キロ近くの道を走りきった。そして念願の大型自動2輪の免許の取得。また、この時の気持ちを誰かに話したくて、書いたのがこのキリンに憧れての始まりであった。
大型自動2輪の免許を取得したオヤジが次に選んだバイクは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出たばかしのカワサキZX-14Rであった。当時、最高速度300km/hの世界最速と言われたハヤブサを軽々と抜き去る、圧等的なパワー。
当時のオヤジにはそれが強さの象徴のように思えたのだ。
思い込みは恐ろしい。免許が取れれば、とんなバイクでも乗れると勘違いする。オヤジはそのバイクを買うために大切な母親の遺産を使いきった。
当時、オークションで手に入れたバトルスーツを着こみ、このZX-14Rに乗り込んだオヤジは得意満々であった。そして、このバイクの愛称を「レディ」と名付けたのだ。
しかし、その為に大きな犠牲を払っていた。このバイクはオヤジには大きすぎたのだ。止まって跨ってもギァーチェンジが出来ないのだ。初めてバイクが怖いと思った。このバイクに乗ってれば、いつか本当に死んでしまう。とも思った。
そして、数回乗った時に交差点での立ちコケ。左尻の筋肉がブチッと切れる嫌な音がして、オヤジのバイク生命は終わった。このバイクのトラウマはかなりひどかった。もう自分は大型バイクに乗る資格は無い。と思い込み、友人からDT125を買ってこのバイクに乗ろうと当時は思っていた。
その冬のバイクフェスタの時である。ドカディのモンスターに跨がらせてもらったときであった。900ccもあっても普通に跨げたのだ。大型バイクに諦めきれないオヤジはその日からシートの低いバイクを調べ始めた。そして、中学生の時に読んだある1台のバイクを思い出した。
それが2台目のバイク。ビューエルXB9Sであった。ZX-14Rを友人に売ったお金でそのバイクを買い直した。
転倒して大ケガをしても、バイクを降りないオヤジをみてかみさんはあきれ果てていた。
こいつを最初見たときの第一印象はずいぶん小さいバイクだと思った。下手したら原付に見えてしまう。こいつをレディ9(ナイン)と名付けたオヤジは、本当のバイクの楽しさを知った。ハーレー譲りの1,000ccのエンジン。一たび加速すればライダーを振り落とすかの暴力的な加速。小型なので取り回しは抜群に良い。本当にオヤジ好なバイクであった。北海道はどのドライバーも高速並みに通常の道路を走っている。大体が80km/h~100km/hでの巡航速度である。
鈍重なワゴン車がオヤジの後ろに付きあおってくると、アクセル一発でワゴン車の目の前から消え去る加速感にオヤジは惚れていた。
ただ、唯一残念なのは、この小型なボディの為にだれもこのバイクを1,000ccとして見てはくれないのだ。中には露骨にオヤジの横に1300ccのバイクを停めてくるライダーもいた。大きなバイクはオヤジは跨げないし、ただでさえバイクを2台も買わせてもらったオヤジには新しいバイクなんか買う気も全然なかった。
そしてかみさんの急逝。
あの時、オヤジは本当に心の一部を無くしていた。ただ子供達を育てるために必死になっていた。
そんな時であった。北見のレッドバロンに1台の銀色に鈍く光るバイクが置いてあった。それがカタナである。たちまち蘇る20代のあの思い出。カタナはオヤジには手の届かない憧れのバイクであった。
昔、750ccに跨らせてもらったときに、やはり足付性が悪くてすごく大きいバイクという印象があった。ためしに跨らせてもらったら、思ったよりも足つきは良い。そのカタナは定番のカウルに埋め込みウインカーと集合管であった。が、跨いだらフロントのハンドル周りがやたらサビだらけであった。途端にカタナから興味を失って行ったオヤジである。
しかし数日後、どうしても気になっていた。スペックを調べると思ったよりも軽そうなのだ。そして、道内のレッドバロンの電話をしまくったら、北見の他に旭川に1台あるという事が判った。当時、12月。バイクを乗る事なんか夢のまた夢である。
オヤジは跨り、取り回しが重いカタナは自分には乗る事は無理だという事実を確認するために、休日に友人と共にそのバイクを見にいった。
旭川には400ccカタナ。750ccvカタナの2台が展示されていた。がやはりオヤジが感じたあの独特のオーラーは感じなかった。
「ここだ。ここだ。オヤジ」と、奥にいた友人がオヤジを手招きした。
そして、オヤジは一目見たときに、このカタナはオヤジのうちに来る。と直感した。
そのカタナは発売から30年も経つのに未だその輝きを失わないでいた。
あんな思いは生まれてから後にも先にも無かった。支払いの事も考えないで、気が付いたら5分で契約を終えていた。そして12月の暮れも押し迫った時に、オヤジの元にこのカタナが届いた。オヤジはこのカタナが来る前から名前は決めていた。
「レディ。イレブン。」
この名前はオヤジが20代の頃に書いていた小説で、白銀色に塗られたカタナを乗りまわす女性型アンドロイドの主人公に付けていた名前である。
レディイレブンは30年の歳月をかけて、カタナと共にオヤジの元に現われたのである。
そして、あの時絶望を味わったオヤジの元に最後の希望の光が燈り始めた。

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