ありがとうの奇跡!! | クラブ・ミッドナイト:正伝!! =Sの称号= 第2章

クラブ・ミッドナイト:正伝!! =Sの称号= 第2章

TYPE Rの称号を与えられなかったもう一つの悲運の車

 今日、ココが生まれて初めて、真冬の時期に脱走しました。

このままではココの生死に関わるという事で、オヤジは靴下も履かず、Tジャツのまま軽く上着を着て外に、ココの救出にかけずりまわりました。


 おかげでココはやはりとても寒い外に堪らないと思い、すぐに家に戻って来てくれて、一大事にならないで助かりました。








 もう。本当に焦ったよ。ココ。これから良い子にしてくれよ!!

ホッと一安心のオヤジです。


 さて、前回のブログの


オヤジはここで、今日のホテルで読んだ新聞に出ていた本を買った。

この本がこの後のオヤジの考えに大きな影響を与える事となるのだ。



という文章に、多くの人が興味を示してくれたので、きょうはこの話をば。

(と、言ってもたった二人だけども・・・・・)


また、今日は娘にも関係ある事なので抽象的な話や、不快な文章が出てくると思われるので、不快感を覚えた人は読まないで欲しい。


 さてさて、買った本は・・・・・・




 この本です!!・・・・・・・


というのは冗談で、実はこの本が僕がこの半年間経験した話に、非常に似ていたので、今の僕にかなりの影響をかなりおよぼしているのだ。




 まず、最初に僕はこの方の妄信的信者でもないし、またこの本を買ったほうが良いとも進めないので、その節の方がいらっしゃったら、勘違いをなさらないでほしい。


 それでは、まず、この本との出会いのほうなのだが。


ホテルをチェツクアウトをする1時間ぐらい前に、僕はロビーにある北海道新聞に軽く目を通していた。

 そこにこの本の紹介が出ていたのだが、通常、北海道は新刊発売の記事が出ていても、3日間後の本屋に入庫することが多い。

 だから、この段階ではまだ発売はされていないと思っていた。

更に最悪な事に、本のタイトルさえうろ覚えであった。


 そして本屋に行った時に、

「すいません。今日、道新(北海道新聞)の出ていたという本なら、まだ発売されていませんよね。」と、店員に聞いてみた。

「いや、もしかしたら増刊の場合は、もう発売されているかもしれません。」

「タイトルは何という本ですか??」


「確かあいさつは魔法の言葉。(この段階で、かなりタイトルがかなり違っていた。)みたいなような本だと思います。」


店員さんはかなり一生懸命に、本の検索をしていたが、残念ながら探していた本にはヒットしなかった。

店内はかなり混み始めてきたので、僕も悪いと思って、

「いや。もう良いですよ。もう一度きちんとタイトルを調べて見ます。」と言いって、その場を立ち去ろうとした。


 通常ならこのようなめんどくさいお客の僕に、

「そうですね。残念ですが、またタイトををきちんと調べてみてください。」というとこなのだが、この店員さんは、諦めきれずに一生懸命に本の検索をしてくれていた。

 

 その時に、隣にいた店員さんが、レジを打ちながら、

「それは確か、(あいさつの奇跡)でない?」と探している人にアドバイスを与えた。

 しかし、残念ながらそのタイトルも、探している本とはヒットしなかったのだ。

 が、更にその店員さんは、奇跡という言葉のキーワードから検索を初めて、

ある、一冊の本を僕に差し出してくれた。


 それが、この本であった。


 僕は人と人の他にも物とにも縁があると思っている。

 縁が無いのに無理やり購入しても、それはやはりすぐにその人の元から、離れていくと思っている。


 また、この本にも偶然が2度重なったら、それを行うほうが良い。とも書かれていたので、僕はこの本が買いたい。という気持ちになり、タイトルが違っていても僕の為に探してくれた店員さん。という偶然が何回か重なって、今僕の手元にある。


さて、この本の内容だが、恐ろしい事に、


「ありがとう」を2万回言えば奇跡が起きる。しかもそのありがとうには感謝の気持ちを込めなくても単に言えばいいだけである。


 ふと、今気が付いたらこの言葉は、仏教のひたすら念仏を唱えれば、御弥陀さまは必ず私たちを救ってくれる。という、教えともも似ているような気がする。


とか、人間の人生にはすでにシナリオが決まってあり、努力をしてもしなくても、結果は同じ人生を歩む。という、「努力とは成功の歩みである。」というのを、座右の銘にしている主(あるじ)さんが読めば、激怒ものの内容がかかれてあったりする。

 その為、世の中には偶然は一つもな無く、すべてが必然である。という事も書かれてあり、この本にもトイレ掃除を楽しんで行う人は、お金に不自由しない。という事も書かれていた。


僕が一番感銘を受けたのは、


 ネガティブ思考をする人には神様は遠ざかり、常に周りに対して、人のみならず、物に対しても感謝をすることで、神様は必ず手を貸してくれる。という言葉であった。


  実際、この話を次女にすると、


「お父さん。それって完全に洗脳されているよ。ましてこれから受験をする人間に、努力をしてもしなくても、結果は同じ人生を歩む。という事は言うべき言葉ではないでしょ。」と、ぼくがあまりにも熱く語るで、怒られてしまった。


 簡単に読み漁ったので、かなり間違った解釈もあるかもしれないが、およそそんな内容だと思う。



 さて、僕が何故、この話に興味をもったのかは、


僕は今、このブログでオヤジという役を演じ、また子供達は娘1号、2号。という役を演じさせている。

 また僕は優しいお父さんで、子供達は親思いの良い子という設定である。


  半年前、まず娘1号の長女が、暗い出口の無いトンネルに迷い込んだ。

それに伴い、僕もそのトンネルに迷い込み、僕は彼女の為だと思い込み、毎晩のように深夜まで食事もとらずに、彼女に言葉の暴力を与え続けた。


 当時の彼女は本当に出口が見えないで、かなりキズついていたであろう。


僕も彼女の本質を理解できないでいた。


 当時は「神様はこの世に乗り越えられない試練は与えられない。」とい言葉は信じられず、何故、神様はこの子から母親を奪った上に、さらに試練を与えるのだろう?と呪っていた。


実際、当時は下の子が旅立ったら、上の子と一緒に。という良からない考えを横切った事も何回かあった。



 そして最近はこう思うようになった。


 神様はこの世に乗り越えられない試練は与えられない。のではなく、今の置かれている人生を精一杯生きようとしている人にだけに、ほんの少しだけ手を貸してくれるのではないだろうか


  八方塞がりで暗闇の中で出口が見つからないでもがいていた僕と娘に、1ヶ月ほど前にある人が偶然現われた。


 多分、それは偶然では無く神様が手を貸してくれた必然だったのだろう。


その人のお蔭で、僕は彼女の本質を知ることがほんの少しだけ判り、理解をしようと努めている。


 そして今、僕たちは一筋の希望の光が見えている。


その道はまだまだ歩むには非常に険しいとは思うが、今の僕たちにはそんなものは全然関係ない。

 その希望の光に向かって真っすぐに突き進んでいけば良いだけである。


 

 かみさんが亡くなった時、長女との問題があった時、「神様。仏様。」と頼んでも何も起こらなかった。


 まして、バイク乗り達の呪いの言葉。「チャック・チャック・イェーガー!!」と叫んでも何も解決できなかった。


 これからも色々と困難な道が現われると思う。しかし、常に周りに感謝を行い、「ありがとう。」という言葉を言い続ければ、きっとまた神様は僕たちが困った時だけ ほんの少しだけ手を差し伸べてくれるのではないかと思う。



 今回は非常に僕自身のメンタルな事と長女のこともあり、コメントは控えさせてもらいます。





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