(N100)日本プロ野球「永久欠番」一覧 | BLUEのブログ

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今日はプロ野球の「永久欠番」を一覧にした内容を書いてみます。

 

最近だと2016年に広島の黒田博樹投手の「15」が永久欠番になったのが記憶に新しいと思います。やはり他の選手には重過ぎると判断したのでしょう。…というよりも「黒田」という名前自体が凄すぎて誰も付けたがらないのではないでしょうか?

 

なお、現時点で永久欠番に指定されているのは17人です。

  永久欠番

【セ・リーグ】

 

阪神

10:藤村富美男(三塁手)

制定日:1958/11/30(阪神初の永久欠番)

着用期間:1936~38、43~58(19年)

 

初代「ミスタータイガース」で、戦前から阪神を支えた功労者。「あぶさん」のモデルの1人とされており、「物干し竿」のバットは藤村の代名詞だったという。なお、長嶋さんはこの藤村に憧れて三塁手になろうと思ったらしい。

 

阪神球団史上で背番号「10」はこの藤村しか着けた人がおらず、これは永久欠番の例としては唯一である。

 

11:村山実(投手)

制定日:1972/11/2(現役引退表明時に制定)

着用期間:1959~72、88~89(16年)

 

「ザトペック投法」という投げ方で巨人のライバルとして君臨した阪神史上最高の投手。何よりも凄かったのは防御率であり、1シーズンの0.98及び通算の2.09は共にセ・リーグ記録である。

 

なお、永久欠番に制定された後にも監督として「11」を着けた時期があった。

 

23:吉田義男(遊撃手)

制定日:1987/10/13(昭和最後の永久欠番)

着用期間:1953~69(17年)

 

現役時代は昭和の「牛若丸」と呼ばれ、守備の上手さで知られる選手だった。打撃成績自体は特に目立ったものはないが、350盗塁は赤星に更新されるまで球団記録だった。

 

なお、監督時代はこの「23」を着けていない。第2次政権では球団史上で唯一の日本一(1985年)と最低勝率(1987年)の両方を記録しており、まさに天国と地獄を経験している。

 

巨人

1:王貞治(一塁手)

制定日:1989/3/16(平成初の永久欠番)

着用期間:1959~88(30年)

巨人監督時代:347勝264敗39分 勝率.568(650試合)

 

第1回WBC代表監督。一本足打法で現役時代に868本塁打を放ち、世界記録保持者として未だに君臨しているため「世界の王」と呼ばれている。シーズン55本塁打は長らく「聖域」とされ、2013年にバレンティンが60本塁打を放った現在でも球団記録として残っている。なお、国民栄誉賞は日本国籍でない王さん(台湾国籍)のために制定されたとされている。

 

巨人退団時で着用年数は30年に達しており、これは山本昌広が更新するまで最長記録であった。なお、王さんと山本昌は着用年が5年程度被っている。

 

3:長嶋茂雄(三塁手)

制定日:1974/11/21(監督就任時に制定)

着用期間:1958~74、2000~01(19年)

着用成績(監督):153勝120敗2分 勝率.560(275試合)

 

ご存知「ミスタープロ野球」。現在は「終身名誉監督」という位置付けらしい。人気だけなら歴代でもダントツだと思われ、監督解任時は読売新聞不買運動まで起きるほどの社会的な影響力があった。そんな長嶋さんだが、国民栄誉賞を与えるのは遅すぎたかもしれない(存命中だったのが幸いか)。

 

なお、永久欠番に制定された後にも監督として「3」を着けた時期があった。

 

4:黒沢俊夫(外野手)

制定日:1947/7/9(日本初の永久欠番)

着用期間:1944~47(4年)

巨人時代:打率.300 3本塁打 82打点 32盗塁(166試合)

 

どうやら戦前に活躍した選手らしい。しかも巨人生え抜きではないという。永久欠番の選手では最も謎が多い。

 

14:沢村栄治(投手)

制定日:1947/7/9(前述の黒沢と同時に制定)

着用期間:1936~37、40~41、43(5年)

 

実質的な最優秀投手賞である「沢村賞」の沢村はこの投手から取っている。戦没者では唯一の永久欠番。球速については諸説あり、中には160km/h前後は出ていたとの証言もある。

 

なお、ロッテの澤村拓一投手は巨人時代にこの沢村を超える存在になるように「15」が着けられていた。

 

16:川上哲治(一塁手)

制定日:1965/1/18(背番号変更時に制定)

着用期間:1938~42、46~64(24年)

着用成績(監督):292勝240敗12分 勝率.549(544試合)

 

現役時代は「打撃の神様」と呼ばれ、プロ野球史上初の2000安打を達成した選手である。その打撃技術を物語る「ボールが止まって見えた」という発言は伝説とされている。なお、架空の話では「巨人の星」の星飛雄馬が川上監督時代に「16」を着けている事になっている。

 

後にV9達成の監督となったが、その前に背番号を「77」に変更している。

 

34:金田正一(投手)

制定日:1970/4/2(引退試合の日に制定)

着用期間:1965~69(5年)

巨人時代:47勝31敗 防御率2.83(130試合)

 

史上唯一の400勝かつ左腕の完全試合達成投手で、本人曰く「180km/hは出ていた」という速球を持った色んな意味で豪快な人物。しかし、巨人では50勝もしていない。それでも左投手では歴代No.1だったと思われるほどの実績は残しており、引退時にはすでに国鉄がなくなっていた事もあり、巨人の永久欠番になったと思われる。

 

ちなみに、ロッテでの監督時代も「34」を着用していた。

 

広島

3:衣笠祥雄(三塁手)

制定日:1987/9/21(現役引退表明時に制定)

着用期間:1975~87(13年)

着用成績:打率.277 339本 958打点 171盗塁(1690試合)

 

2215試合連続試合出場の日本記録を持つ「鉄人」。引退当時は世界記録であり、国民栄誉賞も受賞している。なお、「3」を付けたのは1975年からで、それまでは「28」を着けていた。なお、この「28」が鉄人28号と重なるため衣笠本人も「鉄人」と呼ばれるようになったという。

 

しかし、引退後は指導者になる事がなく、2018年に71歳でその生涯を閉じた。

 

8:山本浩二(外野手)

制定日:1986/10/27(広島初の永久欠番)

着用期間:1971~86、2001~05(21年)

着用成績:以下の通り

  • 打撃(1971~86):打率.296 502本 1379打点 201盗塁(2036試合)
  • 監督(2001~05):317勝369敗18分 勝率.462(704試合)

第3回WBC代表監督。現役時代は「ミスター赤ヘル」と呼ばれていた。大卒では最多の536本塁打を放っているが、その7割以上は30歳を過ぎてから打ったものである。

 

なお、永久欠番に制定された後にも監督として「8」を付けた時期があった。

 

15:黒田博樹(投手)

制定日:2016/11/1(平成入団初の永久欠番)

着用期間:1997~2007、2015~16(13年)

日本時代:124勝105敗1S 防御率3.55(321試合)

 

セ・リーグに所属した事がある投手で初めて「日米」200勝を達成した。大卒(または社会人出身)の「先発のみで」200勝は黒田が唯一であり、二度と登場しないかもしれない。2014年末に21億円を蹴って4億円で広島と契約した逸話はもはや伝説の領域に入っており、2016年に優勝して引退というのも凄い話だ。

 

今後、指導者として広島に復帰した場合はやはり「15」を着用するのだろうか!?

 

中日

10:服部受弘(投手)

制定日:1960/3/20(引退試合の日に制定)

着用期間:1939~41、46~58、77(17年)

 

現在でいう「二刀流」選手として投打共に大活躍をしたらしく、投手として100勝しながら本塁打王を獲得した事もあるという。当初のポジションは捕手だったが、選手不足もあって時には投手として、または内野手・外野手としてフル回転していたとか。これは流石に大谷翔平でも出来ないだろう。

 

1977年に二軍監督として復帰した際もこの「10」を着用した。

 

15:西沢道夫(一塁手)

制定日:1959/3/15(中日初の永久欠番)

着用期間:1949~58、63~66(14年)

着用成績:以下の通り

  • 野手(1949~58):打率.303 186本 758打点 43盗塁(1148試合)
  • 監督(1964~66):181勝159敗6分 勝率.532(346試合)

中日の創立時からチームを支え、シーズン打率の球団記録を持つ強打者。しかし入団当初は投手であり、20勝(1940年)と40本塁打(1950年)の双方を達成したのはこの西沢だけである。日本球界ではもう二度と見る事のない不滅の記録として残り続けるだろう。ちなみに、大谷はMLBで2021年に46本塁打を放ち、2022年には15勝33本塁打で規定投球回+規定打席W到達とある意味でこの西沢を超えている。

 

なお、西沢は最終登板が1947年であり、背番号「15」着用時に登板した試合はない。

 

【パ・リーグ】

 

西武

24:稲尾和久(投手)

制定日:2012/7/1(生誕75周年の際に制定)

着用期間:1956~72(17年)

西鉄監督時代:128勝242敗20分 勝率.346(390試合)

 

西武(所沢移転後)に在籍した経験がないにも関わらず、「ライオンズ」の伝説的投手だからって永久欠番に指定されたらしい。確かにシーズン42勝、日本シリーズ4勝は永久不滅の大記録だが…。しかし、これを永久欠番にしたら何でもアリなような気がしてならず、それならば大魔神・佐々木やゴジラ松井も…っていう話も出てきそうな予感がする。

 

なお、西武になってからは秋山幸二や平野謙など黄金時代を象徴する名選手が着用していた。

 

楽天

10:該当者なし

制定日:2004/12/17(21世紀初の永久欠番)

 

ファンのための番号とされている。「10人目のスタメン」という意味を込められているらしい。ただし、球団マスコットの「クラッチ」がこの「10」を着けており、本当に永久欠番なのか?と思ったりしている。

 

77:星野仙一(監督)

制定日:2018/3/26(監督初の永久欠番)

着用期間:2011~14(4年)

楽天時代:262勝254敗20分 勝率.508(536試合)

 

「闘将」の異名を持つ楽天の初代優勝監督。就任直後の「3.11」を乗り越えて3年目には日本一を達成したが、これは2004年に消滅した近鉄でもなし得なかった事であり、パ・リーグ史上初めて日本一球団が6つ揃う事になる大偉業であった。なお、中日阪神でも優勝を経験しており、まさに「優勝請負人」にふさわしい人物といえる。三木谷オーナー曰く「77番は永久の宝物として取っておく」との事。

 

星野元監督に関する詳しい内容は下記のリンクを参照して欲しい。

 

 

日本ハム

100:大社義規(オーナー)

制定日:2009/2/1(殿堂入りと同時に制定)

 

日本ハムの創業者であり、ファイターズの初代オーナー。本業では2002年に一線を退いていたが、オーナー職は2005年に亡くなるまで務めており、球団の北海道移転にも大きく貢献した人物である。なお、背番号「100」は1981年の初優勝の時に胴上げする際に着用していた事によるもの。

 

2019年に球団初の育成選手が誕生したが、この永久欠番自体は引き継がれる。

 

【失効した永久欠番】

DeNA

100:該当者なし

制定日:1997/11/11(20世紀最後の永久欠番)

失効日:2011/12/2(球団がDeNAに譲渡)

 

「球団に対して貢献のある複数の著名人」への永久欠番とされていた。親会社がマルハ⇒TBSになっても扱いはそのままとされたが、2011年オフにDeNAへ譲渡された際に失効した。

 

2023年現在、この番号は育成選手の蓮が着けている。

 

近鉄

1:鈴木啓示(投手)

制定日:1985/7/31(パ・リーグ初の永久欠番)

失効日:2004/11/30(球団がオリックスと合併)

着用期間:1966~85(20年)

 

プロ野球で最後の300勝投手(1978年のシーズン25勝も含む)。長らくこの永久欠番はパ・リーグ唯一のものとして重宝されていたが、近鉄が2005年にオリックスと合併した際に失効した。これは当時オリックスで背番号「1」を後藤光尊内野手が着けており、鈴木本人に確認したところ永久欠番を継続しない事を了承したためである。

 

しかし、監督としては野茂を筆頭に確執が相次いだ。そのためか、1995年に退団して以降一度も指導者としてグラウンドに立った事がない。

 

【KBOでNPB在籍経験がある選手の永久欠番】

 

◆起亜

7:李鍾範(外野手)

日本在籍期間:1998~2001(4年)

日本時代:打率.261 27本 99打点 53盗塁(311試合)

 

「韓国のイチロー」として中日に入団し、1999年のリーグ優勝に大きく貢献した選手。後述の宣銅烈を慕って来日し、中日在籍時はサムソン・リーと共に「韓国三銃士」として親しまれた。なお、韓国時代はショートだったが、日本で外野手にコンバートしている。

 

なお、息子の李政厚(イ・ジョンフ)は1998年に名古屋で誕生している。

 

18:宣銅烈(投手)

日本在籍期間:1996~99(4年)

日本時代:10勝4敗98S 防御率2.70(162試合)

 

韓国史上最高投手の名を引っ提げて来日し、クローザーとして一時代を築いていった。中日時代は背番号20を着用して「名古屋の太陽」として親しまれ、1999年には胴上げ投手にもなった。1999年を最後に引退したが、あと2セーブで外国人選手初の100セーブだった(郭源治は100セーブ達成時ですでに日本国籍を取得)ため当時は惜しまれた。150km/h超のストレートと2種類のスライダーを駆使した投球術はMLBでも通用したとされ、現代でもこのクラスの投手はなかなかいないはず。

 

その後もKBOからは非韓国系を含めて何人か来日したが、未だに宣銅烈を超える投手は現れていない。一番近かった投手としては林昌勇(元ヤクルト)と呉昇桓(元阪神)が挙げられ、こちらはMLBに挑戦してセーブを記録した事がある。

 

◆LG

9:李炳圭(外野手)

日本在籍期間:2007~09(3年)

日本時代:打率.254 28本 119打点 1盗塁(265試合)

 

韓国時代は「赤兎馬」の愛称で知られたらしい。ただ、中日時代はレギュラーには定着したものの助っ人としては物足りない成績であった。来日時で32歳だった事を考えると、すでに全盛期を過ぎていたと考えるべきか。

 

今の選手に当てはめると、タイプ的にはちょっと調子が悪い時の佐野(DeNA)になるだろうか。


◆ロッテ

10:李大浩(内野手)

日本在籍期間:2012~15(4年)

日本時代:打率.293 98本 348打点 0盗塁(570試合)

 

韓国時代は三冠王を2回記録し、194cm130kgという助っ人の中でもかなりの大柄な体格を持った長距離打者。オリックスソフトバンクの主軸として活躍し、2015年には韓国人初の日本シリーズMVPを受賞。2016年にはMLBにも挑戦してそこそこの活躍を見せた。現役全体を通じて大きな故障もなく野球人生を全うした選手の1人。

 

そういえば、オリックスのラオウ杉本ってこの李大浩に似てるような気がするのだが…。

 

◆ハンファ

23:鄭珉哲(投手)

日本在籍期間:2000~01(2年)

日本時代:3勝2敗 防御率4.70(12試合)

 

韓国時代は毎年2ケタ勝利を記録していたが、巨人では外国人枠に阻まれてあまり活躍出来なかった。まあ、あの時代は長嶋監督の「欲しい欲しい病」が発動していたのである意味仕方なかったと言えるのだが。

 

ちなみに、巨人時代は同時期に「鄭珉台」というよく似た名前の韓国人投手が在籍していた。

 

52:金泰均(内野手)

日本在籍期間:2010~11(2年)

日本時代:打率.265 22本 106打点 0盗塁 (172試合)

 

「TAEKYUN」の背ネームで知られたパワーヒッター。日本には2年しかいなかったが、その時の瞬間風速は凄まじかった。2010年の日本一に貢献した事は間違いなく、ロッテはそれから日本シリーズに進んでいないため今でも覚えているファンは少なくないはず。

 

ただ、その「下剋上」がきっかけで阪神の「33-4」ネタが生まれてしまったのは事実なのだが…。

 

◆サムスン

36:李承燁(内野手)

日本在籍期間:2004~11(8年)

日本時代:打率.257 159本 439打点 18盗塁(797試合)

 

2003年にアジア記録(当時)の56本塁打を放ち、これを引っ提げて日本球界へ飛び込んだ「アジアの大砲」。事実、2005年は千葉マリンを本拠地にしながら30本のアーチを放ち、2006年には巨人で41本塁打を記録するなど実力は本物であった。なお、日本時代はロッテ巨人オリックスと渡り歩いたが、韓国人プレーヤーで3球団在籍したのは李承燁が唯一である。一時期はペ・ヨンジュンの「ヨン様」になぞらえて「スン様」と呼ばれた事もあった。

 

韓国ではアジア人最多本塁打記録を持っている(2022年に「村神様」が降臨するまでは単独だった)事から英雄として扱われており、2018年の平昌五輪では開会式にて旗手の1人を務めていた。

 

  準永久欠番

 

次に、準永久欠番となっている番号はこんな感じでしょうか。

【セ・リーグ】

 

DeNA

25:筒香嘉智(外野手)

着用期間:2012~19(8年)

DeNA時代:打率.287 196本 590打点 4盗塁(925試合)

 

DeNA在籍時は4番打者として活躍し、2016年には44本塁打を記録。2019年のオフにポスティングシステムでMLBに挑戦して現在に至る。

 

ちなみに、アメリカでは鳴かず飛ばずの状態が続くが、球団曰く「現役の間は空けて待つ」との事。

 

阪神

6:金本知憲(外野手)

着用期間:2003~12、16~18(13年)

阪神選手時代:打率.283 232本 813打点 44盗塁(1394試合)

 

2003年に広島から移籍して引退までクリーンナップとして活躍。そして、2010年途中までに1492試合連続フルイニング出場を果たしたもう1人の「鉄人」。なお、2016年の監督就任の際にもこの背番号「6」を着用した。

 

一時は永久欠番にする話もあったが、本人が固辞している。

 

22:藤川球児(投手)

着用期間:2005~12、17~20(12年)

着用成績:51勝26敗240S 防御率1.55(665試合)

 

「JFK」の一角として火の玉ストレートを武器に活躍したリリーバー。日米通算245セーブに加えて164ホールドを記録しており、2022年になって特例での名球会入会が認められた。なお、1シーズンでの80試合登板、46セーブは達成当時は日本記録だった。背番号「22」をクローザーの番号として定着させた功労者。

 

ちなみに、第5回WBCでは阪神在籍の湯浅が「22」を着用していたが果たして…。

 

31:掛布雅之(三塁手)

着用期間:1974~88、2016~17(17年)

 

1985年に日本一に輝いた時の4番打者。バース・掛布・岡田の「バックスクリーン3連発」は現在でも語り継がれている。1979年の48本塁打は現在でも日本人における球団記録。なお、2016年に二軍監督として「31」を復活させた時は大いに沸いたという。

 

一時期は移籍選手や外国人選手にも与えられていたが、バースの「44」とは異なり基本的には大事にされているようで、現時点で着用している選手はいない。

 

【パ・リーグ】

 

オリックス

7:福本豊(外野手)

着用期間:1972~91(20年)

着用成績:打率.292 186本 794打点 919盗塁(2119試合)

 

NPB史上唯一のシーズン100盗塁、そして通算1000盗塁を記録した「世界の盗塁王」。1983年に国民栄誉賞を打診されたが、「立ちションもできんようになる」というしょーもない理由で受賞を辞退したという逸話を持つ。

 

ちなみに、現在の盗塁世界記録はリッキー・ヘンダーソンの1406個である。

 

51:イチロー(外野手)

着用期間:1992~2000(9年)

日本時代:打率.353 118本 529打点 199盗塁(951試合)

 

 

本名「鈴木一朗」。日本在籍がわずか9年でありながらその活躍は異次元そのもので、7年連続首位打者は二度と破られる事がないだろう。1994年に210安打という衝撃を見せ、その10年後にはMLBでも新記録(262安打)を作ってしまったのだから凄い。上の写真は2019年の東京ドームでの「引退試合」だが、たった1人でこれだけの客を集めてしまう……そしてそれだけの価値があったのがこの「イチロー」なのである。

 

オリックスでは2000年の退団以降「51」を誰も着けておらず、近鉄との合併後も欠番のままとなっている。本人曰く「誰も僕の番号を着けたがる選手はいないでしょうね」と語っている。

 

ソフトバンク

15:藤井将雄(投手)

着用期間:1995~2000(6年)

 

1995年に社会人からドラフト入団すると「炎の中継ぎ」として活躍し、1999年の初優勝に貢献。しかし、翌年の2000年に31歳で病死してしまう。当時のエースだった工藤を含め、この藤井を慕う選手も多かった模様。

 

2005年に球団がダイエーからソフトバンクになったが、現在に至るまで欠番のままとなっている。なお、福岡ドームの15番通路は「藤井ゲート」とされている。

 

89:王貞治(監督)

着用期間:1995~2008(14年)

ホークス時代:968勝854敗35分 勝率.531(1857試合)

 

1995年にダイエーの監督に就任し、2000年には当時の長嶋監督との「ON対決」が話題となった。就任当時は弱小だったホークスも今や「絶対王者」となり、その基礎を作ったのがこの王さんである。現在でもソフトバンクの球団会長を務め、巨人ではなくホークスのイメージを持つ人も少なくないはず。

 

2008年の勇退以降誰も「89」を着けておらず、永久欠番化も検討されたが本人が辞退している。

 

ロッテ

9:福浦和也(一塁手)

着用期間:1998~2019(22年)

着用成績:打率.284 112本 912打点 10盗塁(2168試合)

 

投手から野手へ転向して名球会まで上り詰めた選手で、イチローの次に首位打者を獲得したのがこの福浦である。千葉移転後に初めて「生え抜き」で2000本安打を達成した功績を讃え、現役中に「準永久欠番」として指定した。

 

なお、福浦本人は現在、入団時の「70」に戻している。

 

26:ファンのための番号

 

ベンチ入りの25人の選手に次ぐ「26番目の選手」の意味。2005年から現在のような扱いとなった。楽天とは異なり正式な永久欠番とはなっていないが、これはこれまで着用した選手への「気持ち」を表すのだろう。

 

日本ハム

11:ダルビッシュ有(投手)

着用期間:2005~11(7年)

日本時代:93勝38敗 防御率1.99(167試合)

 

11:大谷翔平(投手)

着用期間:2013~17(5年)

日本時代:以下の通り

  • 投手:42勝15敗 防御率2.52(85試合)
  • 打撃:打率.286 48本塁打 166打点 13盗塁(403試合)

 

侍ジャパンにも選ばれた大谷・ダルビッシュ級のスター候補生のために空けてあるらしい。ただ、流石にこのクラスの素材はなかなかいないだろう。ダルビッシュは日本時代に通算防御率1.99という前述の村山実を上回る衝撃の数字を記録しており、大谷は「二刀流」選手として日米でMVPを受賞したりと、もはや漫画の主人公かラスボスの部類に入っている。バトルゲームにしたらやはり吉田沙保里を出さないと勝てないか。

 

そして、エスコンフィールド北海道にある「TOWER11」という施設では、この大谷とその前に「11」を着けていたダルビッシュを称えている。

 

86:大沢啓二(監督)

着用期間:1976~84、1993~94(11年)

日本ハム時代:586勝609敗92分 勝率.490(1287試合)

 

北海道移転前における唯一の優勝監督(1981年)で、一般的に「親分」の愛称で知られていた。晩年は張さんとの「喝」でお馴染みだったが、2010年に惜しまれつつも亡くなった。

 

球団史上、背番号「86」はこの大沢親分しか着けた人がいない。

 


 

以上です。日本だけでもこれだけのボリュームとなりました。なお、MLBではジャッキー・ロビンソンの「42」が全球団で永久欠番となっており、ニューヨーク・ヤンキースでは「0」以外の1ケタ番号が全て永久欠番で着けられないといった事例が発生しています。

 

今日はここまでとします。なお、現在の欠番一覧は以下のリンクを参照して下さい。