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司法試験情報局(LAW-WAVE)

司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

刑法 第2版/有斐閣
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結果無価値のテキストは原則的に外すとか言っておきながらなんですが、いきなり結果無価値の大御所のテキストです。

 

ブログの趣旨 にも書きましたが、こうして不要なテキストをわざわざ紹介するのは、必要と不要との間に境界線を引くためです。

 

刑法の総論・各論が一冊に収められたテキストとして、ロー生の間でかなりの人気があります。

どちらかというと未修生のほうに使っている人が多い気がします。

 

コンパクトなので、理由づけなども書かれていないことがあります。

基本書というより概説書に分類すべきテキストです。

ただ、概説書といっても、通読するには些か骨の折れる分量です。


「山口説を封印して一般的な体系・学説で書かれている」みたいな評価も一部にあります。

しかし、そう思って読んでみると、内容はけっこう結果無価値的であることに気づいてしまいます。

その点だけをとっても、本書はあまりおすすめできません。

もっとも、個々の項目・論点の体系的な位置づけなど、細かい部分まで完全に誤魔化しがない点は、さすが刑法学会のエースの著作だなと評価したいところです。

お世辞にも記述が平易とは言えません。

総じて、抽象的で難しい書き方をしている箇所が多いです。

 

受験生に人気のあるテキストなので採り上げたのですが、このように、はっきりと結果無価値的であり、けっして易しくもない本書のようなテキストが、なぜこんなに人気なのか、正直よく分かりません。

見た目のコンパクトさや手ごろ感で選ばれているのかもしれません

個人的には、受験生の支持ほどには使えないテキストだと思います。

おすすめ度⇒C

 

 

 

刑法総論講義 第5版/東京大学出版会
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刑法各論講義 第5版/東京大学出版会
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刑法は、民訴や要件事実と並ぶ、あるいはそれ以上に、受験生がオタク化しやすい危険分野です。

試験対策の観点を忘れて、無意味に趣味的な勉強に突っ込んでいってしまう受験生が多いです。

刑法では特に、教材選択について受験生の意識的な謙抑が求められます

本書は長らく司法試験受験界で人気のあったテキストです。

結果無価値(前田説)で書く受験生が多かった旧司時代はNo.1の人気を誇っていました。

 

横書き・2色刷り・図表多数、そして平易で分かりやすい記述、こうした特徴からも、本書が受験生の人気を獲得していた理由はよく分かります。

 

しかし、すでに時代は変わりました。

時代が旧司→新司へ移行し、受験生の採用する立場も、学説から判例・実務説へと移りました。

 

その影響が特に大きかったのが刑事系科目です。

 

池田前田刑訴 でも書きましたが、新司への移行をきっかけに、刑訴では、いわゆる受験界通説が一気に判例・実務説へ移行しましたし、刑法では前田説(結果無価値)への支持が一気に減少しました。

 

ちなみに刑法では、旧司時代にはそれほど人気がなかった刑法総論講義案 のようなテキストに人気が集まるようになっています。

このような状況の下で、結果無価値をベースとする本書のシェアが大きく後退したのは当然の結果でした。

 

私も、ロースクール時代以降、分かりやすい基本書が増えきた中で、特に本書を選択しなければならない必要性はほぼ完全になくなったと言ってしまってよいと思っています。

 

もちろん、基本書ではなく辞書として使用するなら、依然悪い本だとは決して思いません。

しかし、悪い本じゃないからと言ってどこまでも教材選択の幅を広げてしまうと、辞書選びに制限がなくなってしまいます。試験対策のためには、辞書選びでもどこかに線引きをしたほうがいいと思います。

辞書選びなど、いかなる意味でも受験の本質ではないからです。

こういう本質と外れる部分に時間を費やすのは、無駄以外の何ものでもありません。

 

教材選択の謙抑性の観点から、私は民訴でも新訴ベースのテキストは原則外しました。

同様に刑法においても、結果無価値のテキストは原則的に外したいと考えます。

(とは言いつつ、明日以降も何冊かは採り上げざるを得ませんが・・・)

 

ちなみに、各論 について。行為無価値・結果無価値の対立が少ないのでまずまずおすすめです。

もっとも、意義・法益・主体・客体・行為etc…といった構成要件の形式的整理が徹底されておらず、もっぱら事例・論点をベースになってしまっている点はあまり評価できません。

おすすめ度⇒Bどまりです。

 

おすすめ度⇒C(総論) B(各論)

 

 

 

今日は雑談です。

少し自分のことについて書きます。

 

先日、弁護士の友人に、私が正直に未修入学者であることなどの事実を書いているにもかかわらず、未だに私の属性を知りたがる人が後を絶たないことをボヤいたところ、

 

その友人曰く、

 

「その気持ちも分かる気がする」

「きっとみんな、そんなわけないだろ、って思ってるんですよ」

 

ということでした。

 

つまり、私の方法論は、未修ロー生の常識的レベルを遥かに超えており、経歴自体に嘘があると考えなければ、普通の受験生は納得できないものだということです。

 

よって、「お前はいったい何者なんだ」という疑問が生じるのも無理はない、とのことでした。

 

まあ、そう言われれば、たしかに私は少し(というか、だいぶ)アブノーマルなんでしょう。私のことを直接知っている友人たちは、そういう私の特性を時間をかけて理解してくれたので、中には合格間近の段階になっても、初学者レベルの私にアドバイスを求めてくる人もいました。私のほうも、何の疑問もなく、自分より数段上の実力者に「指導」を与えていました。

 

ちなみに、私自身の経験から、これは試験勉強のみならず人間存在の真実だとさえ思っていますが、属性よりも内容を重んじて、自分より遥かに格下の人間に平気でアドバイスを求められるような人は、受験生云々以前に、人間として極めて優秀です。司法試験でいえば、そういう人は100%合格します。

もちろん
、人の属性が気になって仕方がない人でも、確率的には合格しますので安心してください。

ここが1000人以上も受かる試験の甘いところです。

 

え~と、なんの話でしたっけ・・・あぁ、私がアブノーマルだという話でした。

とにかく、そのことは自分でも自覚しています。

 

以前、コメント欄に、「もの凄く勉強されているのは確かだと思う」みたいなことを書かれたことがあり、こういうコメントを読むと、自分が買い被られている気恥ずかしさとともに、根本的なところから自分が誤解されていることを痛切に感じます。

 

正直いうと、ブログで自分語りみたいなことをするのは趣味ではないのですが、誤解されたままというのも何だか気持ち悪いですし、それ以上に皆さんに申し訳ないので、私がどんな風にアブノーマルなのかを少しだけお話しさせていただきます。

 

その前に、「経験」と「発言権」は有因か無因か というエントリーをご覧いただけると幸いです。

ここで私の見解に賛同できない方がこのブログを読むの時間の無駄です。

なにせ、受かっていない人間が書いてるんですから。

でも、ここまで親切に申し上げても、やっぱり気になって読んでしまう人がいるんですよね。

なんでなんでしょう? 私自身は気に入らないブログを読むことなんてまずあり得ないのに・・・。

そういう人の精神構造は理解できませんが、まあ、やっぱり自分に自信がなくて不安なんでしょうね。


********************


私は大学卒業後、アメリカ留学をしていて時機を逸したこともあり、就活はせずに父親の経営する会社に籍を置きました。仕事は事務関係が中心でした。

 

どうでもいい話ですが、よく法務局に登記をもらいに行ったり、手形の受取に行ったりしてました。

 

年齢にそぐわないお金もらい、休みもたくさんあって、私は趣味に遊びに精を出していました。

言われるまでもなく、相当に恵まれた環境にいたと自覚しています。


ただ、当初から、いつかは独立して何か自由にできる仕事がしたいという希望がありました。

それで司法試験を始めることにしたわけです。もう10年近く前のことです。

伊藤塾の呉先生の基礎マスターを、まずは憲民刑だけとりました。

同時に、既卒者メインで構成されたゼミ(勉強会)に参加しました。

この勉強会、一人だけダブってる東大生を除けば全員が既卒者で、塾講をやっている人から
専業受験生まで身分は様々でしたが、総じて優秀な人が多く、今まで6~7割くらいは合格したかなと思います。

 

ここで私のアブノーマルな部分に火が付きます。

 

生来の凝り性である私は、司法試験についても、誰よりも貪欲に情報の摂取を始めました。

私より何倍も司法試験に詳しい人がたくさんいることが、私の情報への食欲に拍車をかけました。

試験情報・教材情報・予備校情報・勉強方法etc…について、私が玄人レベルに到達するのに1年くらいしかかからなかったと思います。

 

このブログにアップしている教材情報なんて、1年もあれば摂取できるレベルのものです。

別に中身をほとんど読んでいなくても、この程度の内容なら書ける人はたくさんいるでしょう。

 

そうやって、気がつくと私は、ゼミ内でも2番目くらいの司法試験の「玄人」になっていました。

 

もっとも、そのこと自体はいつものことでした。

私は他人よりも些か凝り性な性格で、何か特定の分野に興味を持つと、とにもかくにも情報を摂取し、関連分野の書籍を漁りまくる行動に出るのが常でした。別に司法試験だけに詳しいわけではなく、一言でいえば「そういう奴」なだけなのです。

 

・・・と、ここまでは、まだまだ普通でした。

 

受験界には、こういう司法試験オタクは数多く存在しています。


【勉強法オタクは受かりにくいか?】

司法試験や他の試験で「勉強法オタクは受かりにくい」と言われることがよくあります。

その考え方は、大雑把にいえば次の2つに分類できます。

【1】勉強法無効説

一つ目は、勉強法は無力(無効)だという考え方です。

この説の支持者は、昔ながらの努力至上主義的な考え方をとても大事にしています。

つまり、①方法②努力でいえば、試験の本質は努力(②)にある、というのです。

皆さんの周りにも、口を開けば「しょせん勉強は努力だよ」と言う受験生はたくさんいるはずです。

(1)無効説の支持者は、人生のどこかで努力至上主義によって成功を得た体験がある人が多いです(特に難関私大の出身者)。たった一度の成功体験によって人生の選択の柔軟性を失ってしまうことは、試験に限らずよくあることです。

(2)また、勉強法で一度痛い目をみた(と勝手に思っている)人も無効説の支持者になることが多いです。彼らは、自己の経験則によって勉強法にダメだしをします

【2】勉強法有害説

二つ目は、勉強法を考えると努力をしなくなるため、試験に受かりにくくなる、という考え方です。

つまり、①方法②努力を有因関係と捉え、更に、①から②への悪影響が存在すると考えるのです。

予備校講師がこの有害説を主張することが多いです。彼らは、勉強法に一定の有効性を認めながらも、勉強法に拘ると勉強しなくなるからダメだと警告します。しかし、彼らの大半は、そもそも努力中心主義で合格した勉強法の素人たちです。ゆえに、受験生の方法論的観点からの疑問・批判に対して有効な助言・反論をすることができません。彼らが勉強法の有効性を認めつつもその有害性を強調するのは、本当は、彼らが勉強法を十分に「勉強」していないからなのです。


いろいろ書きましたが、私は【1】【2】いずれの考え方も間違っていると思います。

まず第一に、そもそも勉強法オタクを自認する、あるいは周りから勉強法オタクと呼ばれる受験生のほとんどは、実際には、勉強法を突き詰めて考えているとは到底言えないレベルの人たちだからです。
 

彼らは彼らでずいぶん考えてきたつもりのようですが、今までこういう人を実際に目の前に引き摺り出して・・・じゃなかったお呼び立てして(←こういうことをするから嫌われる)その拘りの方法論をとくと伺ったことが何度もあります。その度に耳に入ってきたのは、およそ方法とは呼べない浅知恵ばかりでした。

 

ネットで一方的に叫んでいるときは、どうやらその程度の浅知恵でも通用すると錯覚してしまうようです。

しかし、現実に目の前にでてくると、無理な強弁やスルー技が使えないので、そのような浅知恵は長くて3分もちません。

残酷ですがそれが現実です。

 

このように、勉強法オタクと呼ばれる人たちのほとんどは、勉強法を本当の意味では極めていない、いわば「なんちゃって勉強法オタク」に過ぎないのです。


第二に、私の周りの数十人の受験生に限っていえば、本当にきちんと自分の頭を使って自らの勉強法を極めた本物の司法試験オタクが、「それでも受かりませんでした」なんて例を、私は今のところただの一例も見たことがないからです。本物の勉強法オタクは、私が知る限り、誰ひとり落ちていません。

 

「本物」とは、その人なりに自らの勉強法を考え抜き、鍛え抜いてきた考え方のことです。もっというと、その人なりの揺るぎない一貫した筋が、目的との関係ではっきりと確認できる考え方のことです。

 

このような考え方に初期段階で到達していた受験生(合格者)もいますし、まさに「勉強法オタク」と呼ばざるを得ないほどに時間をかけて到達した受験生(合格者)もいます。いずれにしても重要なのは、試験の合否と関係するのは、勉強法に費やした時間ではなく、その水準のほうということです。

 

以上の理由から、勉強法をきちんと考えることが合格に役立たない、あるいは合格の妨げになるなんていう話は、少なくとも私には全く信じることができません。

 

そもそも、勉強法オタクは受かりにくいという認識が生じること自体、勘違いである可能性が高いです。

というのは、司法試験のような難度の高い試験では、そもそも普通の受験生だって普通に受かりにくいからです。そんな中で、勉強法オタクが普通の受験生よりも受かりにくい証拠など提出できるはずがありません。

 

おそらく、勉強法オタクが、普通の受験生および予備校講師にとって目障りな存在であることからくる一種の認知バイアスによって、なんとなくそんな気がする(受かりにくい気がする)だけでしょう。

高難度の試験では、勉強法オタク(⇒なんちゃって勉強法オタク)も普通の受験生も、どちらも平等に、そしてどちらも十分に受かりにくいのが実情であるはずです。


繰り返しますが、試験に受かるために必要なのは、

①方法  ②努力

この2つだけです。

 

②は「本気で受かる気があるか」「本当に受かりたいと思っているか」と言い換えても構いません。

いずれにしても、この2つの組み合わせだけで結果はすべて決まります。

①と②を揃えることができれば、誰でも100%合格します。

①が欠ければ、確率的にしか受かりません。

②が欠ければ、絶対に受かりません。

これが今も昔もこれからも変わらない、極めてシンプルな試験の真実です。

勉強法を追求することは、その追及の仕方が正しければ、その受験生の合格の要件のうち、①を確実なものにします。これだけをみても、勉強法の追求が無駄でないことが分かります。

 

もちろん、①だけで合格できるわけではありません。①を揃えても、その受験生に本気で受かる気がなければ、その受験生は合格できません。これも当然のことです。しかし、そのことが、①の有用性を否定する根拠になるわけではありません。

 

このように話はいたって単純なのです。これ以上に話を複雑にする必要を、私は全く感じません。


話を戻します。

当時の私は、そういった司法試験オタクの頂点の一角を占める程度の存在でした。

 

ところが、ここから先に、私がもはや普通の受験生あるいは普通の勉強法オタクに戻れなくなってしまった最大の要因がありました。その要因とは、これは本当に偶然でしたが、同じゼミメンバーの中に、ひとり本物がいたことです。私のように、色々なことに興味があって、たまたま司法試験にも興味を持った人間とは違う、正真正銘の試験オタク、否、試験の権化みたいな人がいたのです。

 

彼の方法論は、当時私が憧れていたⅠ先生やS先生などの方法論をはるかに凌駕するものでした。

論理的な面で徹底されていながら、しかし極めて単純明快な方法論でした。

 

私がこのブログで連日偉そうに「過去問だ」とか「条文だ」とか、まるで自分が考えてきたことのように語っていますが(汗・・)、これらは全部、彼の方法論をそのままオウム返しにしているだけです。

もの凄く自分に贔屓目にいえば、私が彼の方法論を理論化した面もたしかにあるにはあります。しかし、私がやったのはせいぜい発明の商品化のレベルです。発明それ自体に私は関与していません。

「御三家→東大」のようなルートを歩んでいる人の中には、このような試験の権化みたいな人種が、常に現れては(試験の向こう側に抜けて)消えていっているのだろうと想像します。

 

彼の存在は、生来の病的な凝り性を持つ私にとって、またとない触媒となりました。

もう、ほとんど格好の餌食です。待ってましたと言わんばかりです。

 

私は、単なる司法試験オタク、つまり教材情報や予備校情報を豊富に知っているだけの存在から、司法試験をはるかに超えて、ついには試験全般の普遍的な法則を探求していく存在になっていました。

試験に役立つ知識や方法を増やすなんてレベルには飽き足らず、試験勉強全体の理論化・体系化を志向するレベルまで研究は続けられました。

読んだ勉強法にかんする書籍の数は250冊以上になります(お願いだから引かないで・・)。

ちゃんと数えていないので、もう300冊は超えているかもしれません。

 

同時に、広く試験勉強一般から司法試験に至るまで、勉強法のアイデアをメモした勉強法ノート作っていたのですが、この勉強法ノートは丸々4冊になりました(文字びっしりです)。

 

ここまではまだそういう人もいるかもしれません(いや、さすがにもういないかも・・)。

さらに大きかったのは、件の試験の権化との、何十回にもわたる試験談義の繰り返しでした。

その頃は暇だったので、夕方にジョナサンに入って、気がついたら朝まで試験勉強の話をしていた、なんてこともしばしばありました。勉強法の討議に費やした時間は、トータルで数百時間に及びます。

 

こうして、いつの間にか私もまた、ほとんど試験の権化みたいな受験生になってしまったのです。

(3年くらい前には、すでに現在の水準に到達していました)

 

ここで申し上げたいのは、私が些かやりすぎたことは置いておくとして、私が司法試験および試験全般の方法論について揺るぎない自信を持って語っているのは、そのことについて自分が相応の努力をしてきた確信があるからに他ならない、ということです。

 

他の多くの受験生たちのように、「ねえ、私の司法試験観を聞いて」「私、司法試験って○○だと思うの」…といった、酔っぱらった勢いに任せたアイデンティティの発露をしているわけではありません。

 

私としては、単純に、やったことを、やった分だけ、正確に語っている。ただそれだけなのです。

 

あと、もう不要になったのでここに排泄しているのです。

 

私は常日頃から、試験合格に必要なのは、

 

①目的への正しい方向

②目的までの距離を埋める必要最小限の努力

 

この2つだけだと言ってきました。

 

そして、これまで述べてきたように、私の①は、もはや怖ろしいほどに完璧です。

①の領域において、私はもうずいぶん前から受験生でも勉強法オタクでもなくなってしまっています。

私は、別に片意地を張る必要もなく、勉強法においては既にプロの受験評論家レベル、しかも、その中でまずまず優秀な部類に属していると思っています。さすがに和田秀樹と対等な勝負ができるなどと思い上がってはいませんが、勉強法の領域においては、不勉強極まりない司法試験業界の講師のほとんどに、ダブルスコアで圧勝しているはずです。

 

ここで私がやった①を「やりすぎ」と評価することは簡単です。そう言いたい人は多いでしょう。

しかし、そう言うためには、司法試験の講師たちが正しい水準で①を身に付けていることが条件です。

 

今までこのブログでも散々述べてきたように、この業界の講師のほとんどは、法律の内容を分かりやすく教えることしか能のない、車の片輪が破損したような人ばかりです。

本当は、いやしくもプロの指導者を名乗るのであれば、①だってきちんと努力をして、他人に説くに値するだけのものを身に付けていなければならないはずです。しかるに、この業界の講師たちは、①についてまるで何も考えていません。彼らは、①についてはただの怠け者でしかありません

 

私が尊敬するG先生も、①については、間違いなく私の数十分の一以下しか考えていないはずです。

本来はこの程度の努力で人に方法を説くのは、越権行為と言われなければなりません。さしずめ、②を十分に身に付けていない私が、偉そうに予備校の入門講座を担当するようなものです。

 

指導者になろうと思ったら、私と同程度に①をやることは、「やりすぎ」でも何でもありません。

真の意味でプロと呼びうる指導者は、皆この程度はやっています(司法試験にはほとんどいませんが)。

 

一方で、単に合格者になるのでいいなら、私と同程度に①をやるのはもちろん「やりすぎ」です。

なぜなら、現在はすでにこのブログがありますし、試験の権化もすでに講師になっているからです。

方法論についてはこのブログを熟読してもらえれば十分です。それであなたの①は全部おわりです。

こうして私は、①(方法論)だけが先に合格レベル・・・じゃなかった、プロレベルになってしまいました。

もはや、私の①は完璧です。本当をいえばまだまだ探求の余地はありますが、もはやこれ以上①ばかりに意識を向けるのは、さすがに逃避以外の何ものでもないというところにまで来てしまいました。

ここで、私の課題は、②(努力)を残すだけとなったわけです。

 

3年くらい前、方法論の探求が飽和期を迎えたことが認識されるにしたがって、私は今まで目を逸らしてきた②に、いよいよ自分が向き合わなければならなくなったことを覚悟しました。

 

 

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最も大きな転機は、方法論が飽和したこともありますが、何よりたくさんいた受験仲間たちが、合格したり、司法試験を諦めたり、別の道に進んだり、ローに進んだりと、皆それぞれの道に進み終わったことが大きかったです。

 

逆にいうと、私は皆がそれぞれの道に進み終わるまでは、このモラトリアムを満喫していてもよいのだという正当化を無意識にしていたと思います。

 

ともあれ、取り残された感満点になった私は、自分が本気で司法試験に受かる気があるのかどうかを、いよいよ自分自身で確認しなければならない段階になったと悟りました。

 

私は生来の怠け者でしたし、負けず嫌いでもなかったので、友人たちが先に合格していく姿には、焦りも何も感じませんでした。しかし、自分の年齢が大台に差し掛かろうとするいま、ここで最後の決断をしなくてはならないという別の意味での焦りは、はっきりと生じていました。

 

みんな、それぞれの道へ進んだ。いい加減、決断しなければ・・・。

 

桜蔭の女の子 でも書きましたが、それまで勉強という勉強をほとんどしてこなかった私です。

ここから人生最大の苦難が幕を開けることになります。

 

情報から入るのを習慣にしていた私は、まずはここでも書籍の力を借りました。

「やる気がでる○○」みたいな本を何十冊も読み、心理学や行動経済学のテキストも参照しました。

そうして、自分が、東大や司法試験に合格する人とどこが違うのか、なぜ彼らのように努力をすることができないのか、その理屈を学びました。

 

そうやって、できる人・できない人の「理屈」は学んだのですが、そこで次第に分かってきたことは、理屈をいくら学んでも、それを他ならぬ自分に適用するのは簡単ではない、ということです。

 

「こうすればあなたもできるようになる」みたいな自己啓発系の本は何冊もでていますが、頑強な正真正銘の怠け者である私には、中谷彰宏も苫米地英人も全然効きませんでした。

行動経済学を駆使して、なぜ自分に努力ができないかをどれだけ理解しても、何冊もの「やる気本」から処方箋をいくら学んでも、それで自分ができるようになるなんて奇跡は起きませんでした。

 

本を読む、頭で考えるだけでなく、友人にも相談しながら数々の実践にもトライしましたが、それらもすべて上手くいきませんでした。

 

このときの私がどれだけ焦っていたかは、文章からはあまり伝わらないかもしれません。

 

しかし、私だって相応の希望と覚悟をもって入ってきた司法試験受験界です。このまま何もできず不戦敗でこの世界を去らねばならないというのは、筋金入りの怠け者を自認する私にとってさえ、想像するだけで恐怖なことでした。

 

いよいよ追いつめられた私は、最後のカードを切るつもりで、2008年のリーマンショックに乗じて儲けた株の売却益300万円を使って、予備校がすぐ傍にある都内のマンションの最上階の一室を借りました。

そして、その部屋を、TVもPCも置かない、さしずめ牢獄のごとき禁欲部屋にしたのです。

それから数か月、その部屋にひたすら籠るという荒行に出ました。

 

実家にはほとんど帰らず、ケータイのアドレスも変えて無用なメールを断ち切りました。

近くには予備校がありましたから、そこから自習室にも通いました。

 

もうほんとにこれが最後だと思って、TV、PC等々・・普段の自堕落な生活環境を完全排除して、苦しむだけ苦しみました・・・。

 

そして、その結果は、なんと ・・・・・・・・・・・ ただ苦しんだだけに終わったのです ガーン

 

半年以上、マンション住まいを続けましたが、そこから唯一学んだことは、人間は変わらない生き物だということです(それはそれで貴重な経験でした)。

 

 

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こうして、私の手持ちのカードは全てなくなりました。

 

もう少し、あともう少しなのに、どうしてできないんだろう。

こんなに苦しんだのに、友人たちにできたことが、なぜ私にはできないんだろう。

 

もう、自分の側から出せるものは何もなくなっていました。

試せる方法は全て試しましたし、もう何より苦しむことに疲れていました。

 

そんなときです。
 

勝手にふるえてろ (文春文庫)/文藝春秋
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刊行されて間もない、綿矢りさの『勝手にふるえてろ』を読んでいました(ハードカバーのほう)。

 

このお話というのは、簡単にいうと、①と②の二人の男性のうち、長く想いを寄せていた①ではなく、想いを寄せられていた②を主人公が選ぶというストーリーです。

 

この小説の一般的な解釈は差し当たりどうでもいいです。

ただ、そのときの憔悴し切っていた私には、この物語が↓こう訴えかけているように聞こえました。

 

「自分」を基準にして、「自分」の好き嫌い、「自分」の価値判断etc…こういった「自分」から発するものを譲らないままでいる限り、その人の世界が「自分」という枠の外に広がることは永遠にない。

その人の世界は、「自分」という枠の中に永遠に自閉し続ける。

 

それは、「自分」の好きなものを「自分」が選択できるという意味では、自由な生き方だといえるけれども、「自分」の中からしか選択できないという意味では、一切の可能性が消滅した世界だともいえるのではないだろうか。

 

「自分」にとって都合のよいもの、心地よいもの、想像可能なものだけを選択することが、果たして自由と呼べるだろうか。それは究極の不自由そのものではないか。

 

自分の可能性は、自分の<外>にしかないのではないか。

そうやって<外>に出ることが、自由になるということではないか。

 

ここでいう「自由」とは、自分が枠の「外」に出ること。

そういう変化の「可能性」が付与されることです。

 

・・・そのとき、私はふと、それまでの考え方から自由になりました。

 

実は、私の考えには、所与の枠がありました。

それまでは、あくまでもその枠内で自分を何とかしようとしてきました。

 

その枠を無視して考えれば、私にも勉強せざるを得なくなる状況があり得る。

そういう強制力をもたらす方法があることに、私自身、本当は薄々気づいていました。

 

既に友人の一人がその方向に進んでいて、彼は勉強せざるを得ない状況に追い込まれていました。

その光景を私も見ていましたし、私もまた彼と同じ環境に身を置けば、同じように勉強せざるを得なくなるに違いないという事実に、本当は気づいていたのです。

 

私は、気づいていないフリをしていただけでした。

 

私のような怠け者でも、ロースクールに入ってしまえば、嫌でも勉強するしかなくなる

 

そんなことは、本当は分かっていたのです。

 

私のような、自分のペースでやりたいとか言っている怠け者の治療には、スパルタな環境に身を置くという劇薬しかあり得ないことくらい、私自身、とうの昔に心の底では気づいていたのです。

 

しかし、私はその事実に向き合うことを避けていました。

未修進学という選択肢を、無意識に封じ込めていました。

 

何よりロースクールが嫌いでしたし、ロースクールの正当性に疑問を感じていました。

こんなところに行かなくてはならないなら、間違いなく2年が限界だ。3年なんて絶対にヤダ。

 

既修に受かる実力が付くまではローに入らないという方針は、それはそれで正当な提案だと今でも思っています。しかし、こと私についてはそれは違います。私のような人間が「既修に受かる実力が付くまで」なんて言っていたら、冗談ではなく老人になるまで勉強しないでしょう。

 

一般論としては、既修のススメ① 既修のススメ② に書いたことは今でも正しいと考えています。

 

いくら自分を変えたいと願っても、自分の<内>に留まる限り、それは永遠に叶わない。

本当に自分を変えたいのなら、自分の<外>に出るしかない。

 

綿矢りさをきっかけにそのことに気づいた私は、ついに観念して未修への出願を決めたのです。

 

未修受験の話は何度か書きましたが、さすがに未修はほとんど何の対策もせずに受かりました。

それまでの人生でしてきた「無駄」が、ここでは思いっきり生きました。

入学してからは、順調にことが運びました。

あれだけ苦しんだ勉強という行為も、強制的な環境下では、意外なくらいに楽にできるものです。


さすがに根は怠け者なので1日10時間以上は無理ですが、7~8時間くらいなら大丈夫そうです。

ローに入る前は、自分なら1日3~4時間の勉強(努力)ができれば受かるだろうと踏んでいました。

そこから考えると、努力という点については、私の試みは十分に成功したようです。

 

私のエピソードは以上です。

 

ここまでの究極の怠け者は、司法試験受験生にはほとんどいないでしょう。

他資格の受験生などで、私の経験を参考にしていただける方がいたら嬉しいです。

 

 

 

 

司法試験論文 外せない判例で押さえる答案作成マニュアル本〈1〉公法系/辰已法律研究所
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判例や旧司過去問を下敷きにした事例問題で構成された新作問題集です。

 

公法系・刑事系の問題数が1科目50問と、一定の訓練をするには十分な量です。

一方、民事系の問題数が少ない(1科目30問台)のが少し残念なところです。

 

答案が非常に短く、超実践的なところがgoodです。

 

新司対策としては、過去問に加えてもうひとつ何か問題集をやりたいけれど、時間があまりなくてあまり大部なものはできない、という受験生には良いのではないでしょうか。

ひとつ注文をつけると、民事系(特に民法)にはもっと問題量が必要だと思います。

おすすめ度⇒B

 

 

 

本日は、司法試験の受験予備校で用いられている入門テキストの話をします。

現在、4大予備校が用いている入門講座用のテキストは以下の通りです。

 

①伊藤塾⇒入門講義テキスト

②LEC⇒セブンサミット

③Wセミナー(TAC)⇒デバイスネオ

④辰已⇒入門テキスト(名称よく知りません・・・)

 

名称はどうでもいいのですが、全てのテキストに共通の特徴は、とにかく無駄に分厚いことです。

民法などの大部な科目では、1000ページ前後になると思います。

 

こういった、テキストというより辞書といったほうがいいような何でもかんでも書いてある本を入門段階から使っている(使わされている)のが、現在の司法試験受験界の実態です。

 

私には、このような肥大化したテキストが、受験生の真の需要に応えているとは思えません。

 

実質的需要と形式的需要 というエントリーに書いた内容に繋げていえば、現在の入門テキストは、受験生の形式的需要にのみ応え、実質的需要に応えていません


なぜこのような事態に至ったのでしょうか。
 

今回は、司法試験受験業界における、入門テキスト肥大化の歴史を振り返ってみたいと思います。

 

 

【LECの講義録】

 

現在のほとんどの受験生は、入門テキストが分厚いのは当然と思っているかもしれません。

たしかに、どこの予備校に行っても足並み揃えて分厚いテキストで講義していますから、それ以外の選択肢がないと思ってしまうのも仕方ない面があります。

 

しかし、実は、10年以上前の司法試験受験界で、受験生の支持を最も集めていた入門テキストは、今よりもずっとペラペラで簡素なレジュメ型テキストだったのです。

 

当時のLECの入門講座で使われていた「講義録」がそれです。

 

私も実物を見たことはないのですが、当時の入門講座を受けていた人に聞いたところ、「講義録」は、テキストというよりはサブノートと呼んだほうがいいくらいの、極めて簡素な教材だったそうです。

文章は極力省略されており、場合によっては関係図しか書かれていない項目もあったようです。

 

このテキストは、当時の受験生に単に人気があっただけでなく、きちんと利用もされており、短答・論文の本試験会場にこの「講義録」を持ち込む受験生が当時は数多くいたそうです。

つまり、入門段階だけでなく、合格まで長く使われるテキストとして愛用されていたわけです。

今より平均的な受験期間が長かった時代の話ですから、このテキストの有用性の高さが分かります。

 

「講義録」は、まさに当時の受験生の実質的需要に応えていたわけです。

 

ということはつまり、現在の受験生の実質的需要は、当時とは変わってしまったのでしょうか。そうではないと私は思います。現在でも、受験生が最後に試験会場に持ち込む教材は、趣旨規範本 などのサブノート類であることが多いです。最終的にはこういった実践性の高いレジュメ型テキストに辿り着く受験生が現在でも主流なのです。受験生の実質的需要は、今でもサブノート型の教材を求めているのです。

 

現在の受験生は、ひょっとすればサブノート型テキストを使っていいのは中上級者になってからで、入門の段階では分厚いテキストを使わなければならないと思い込んでいるかもしれません。しかし、上述のとおり、昔の人気No.1の入門講座は、初めからサブノートで講義していたのです。それで何の問題もなかったのです。というより、それこそが、受験生の真の需要に応えるテキストだったのです。

 

このLECの入門講座は、当時の受験界のシェアを圧倒していました。

何を隠そう、このときLECの入門講座を担当していたのが、のちの伊藤塾塾長・伊藤真講師です。

 

受験界で彼が、自分の名前を予備校名にして独立できるほどの圧倒的名声を獲得するに至ったのは、この入門講座の圧倒的成功があってのことです。

 

ちなみに、この時期の伊藤塾長の講義が一番分かりやすかったと振り返る人は多いです。

年齢的にも一番脂ののった時期だったからかもしれませんが、たぶんそれだけが理由ではなくて、この「講義録」というテキストの優秀性に助けられていた部分もあったのではないかと想像します。

 

塾長のような話術に優れたタイプの講師にとって、文字がびっしり書かれた大部なテキストは、必ずしも講義しやすいものには思えません。塾長には、最低限の必要情報だけが書かれたレジュメ型テキストが最も向いていたのではないでしょうか。

 


【伊藤真の独立】

ところが、この「講義録」という、たしかに受験生たちの実質的需要に応えていたはずのテキストは、そのあと突然、受験界から消えていくことになります。

 

きっかけは、伊藤講師の独立でした。

 

伊藤講師がLECから独立、新たに伊藤塾を起ち上げ、オリジナルな講座を始めました。

 

労働法を勉強している方はご存知かもしれませんが、このときLECとの間に訴訟が起きています。

 

伊藤塾長の最大の売りは入門講座です。

入門講座の講義技術の優秀さゆえに、塾長は塾長になれたわけです。

当然、伊藤塾の最大の売りは、初心者に分かりやすく法を教える「基礎マスター」ということになります。

 

想像ですが、きっと塾長はこのとき、本音の本音では、長年使い慣れた「講義録」を基礎マスターのテキストとして用いたかったに違いありません。自分の最高のパフォーマンスを引き出すのに、「講義録」以上の素材はないと思っていたに違いありません。

 

しかし、当然それは無理なことです。

 

LECとの間に紛争が起きている中で、講義録や講義録と似たようなテキストを使うことは、状況的に絶対にできなかったに違いありません。

むしろ、LECと比べてどこも似ていないテキストを意図して使わなければならなかったはずです。

それが当時の伊藤塾が置かれた状況だったはずです。

そう考えると、伊藤塾の基礎マスターテキストが、現在の無駄に分厚い「入門講義テキスト」という、LECの「講義録」と似ても似つかないテキストになったのは、当然の帰結です。

 

塾長は、このような異様に分厚いテキストを、あえて使わざるを得なかったのでしょう。


【肥大化競争の始まり】

 

ともあれ、塾長は独立し、伊藤真という名声に引っ張られて、伊藤塾は多くの受講生を集めました。

講義の分かりやすさは低下したと言われながらも、そこはさすがに伊藤塾長、受験界No.1講師の座は、場所を変えても守られ続けました。

 

ここで問題なのはテキストです。


しつこいですが、あんな必要なことから不要なことまで何でもかんでも書いときゃいいと思っているような大部なテキストが、受験生の実質的需要に応えているとはどうしても思えません。

 

実際、「講義録」と比べれば、現在の「入門講義テキスト」を合格まで座右の書として愛用し続ける受験生は、ケタ違いに少なくなったはずです

 

だからこそ、受験界に大きなサブノート需要が生まれたのだと私は考えています。

 

ところが、ここは私の想像ですが、一見この網羅性しか取り柄がないように見える大部なテキストは、いたずらに知識ばかりを追い求める受験生の不安心理(形式的需要)にうまくマッチしました

 

受験界では、よりレベルの高いものや、より多いものを提供する限り、基本的に苦情は来ません。

どんなに不要な情報ばかりでも、情報を増やす方向で「改善」(ほんとは改悪)が行われる限り、受験生から文句が来ることはないのです。

 

とにかく何でもかんでもやりたがる受験生の不安心理がそうさせているのでしょう。

 

伊藤塾の「入門講義テキスト」も、特に絶賛されたわけではないものの、酷評はされませんでした。

 

私に言わせれば何の芸もないテキストであり、これならシケタイをテキストにしたほうがずっとマシだと言いたくなるテキストですが、受験生の中からは、知識が網羅的に整理されていて安心するという声さえ聞こえてくる始末です。

 

この「安心」というのがクセモノです。


ここで司法試験の入門テキストは、決定的な岐路に差し掛かります。

 

テキストのせいではなかったはずですが、伊藤講師の独立で大幅に受講生を減らしていたLECは、いまや受験界の先頭を走り始めた伊藤塾の勢力に、様々な形で対抗しなければならなくなりました。

 

改革の過程で、受験生の実質的需要に間違いなく応えていたはずの「講義録」はいとも容易に葬られ、新たに、「プロヴィデンステキスト」という、これまた受験生の実質的需要からは迷惑この上ない、パッと見だけが良くて実際には極めて使い勝手の悪いテキストを作り出しました。

 

現在は弁護士で、この「プロヴィデンステキスト」を合格まで大事に使い続けた友人がいました。

彼女は女性らしく、手を広げずに与えられた教材を大事に使い続けることができる珍しい人でした。

ところが、そんな彼女でさえ、最後の最後にはもう我慢の限界という感じで、

 

「もう、なんなの!この使いにくいテキストっ!」

 

・・・とマジ切れしていました。

「C-Bookをテキストにしてくれたほうがまだよかった」とも言っていました。

最後まで大事に使っていた合格者にさえ嫌われるテキスト。それがプロヴィデンスでした。

 

こうして、受験生の形式的需要の増大に応える形で、伊藤塾vs.LECの入門テキスト肥大化競争の幕が開きました。

ちなみに、「デバイス」という、もともと分厚いテキストを使用するのが売りだったWセミナーの存在も、受験界の入門テキスト肥大化競争の激化に一層拍車をかけたと思います。

 

遅れて辰已も、(聞くところではかつてはもっと薄いテキストを使っていたようですが)この肥大化競争に巻き込まれていき、現在では信じられないくらいに網羅性しか取り柄のない無味乾燥なテキストを使用するようになっています。

こうして、受験界は「四つどもえ」の入門テキスト肥大化競争に突入していったわけです。

 

LECは最近、「プロヴィデンステキスト」を廃止したのですが、せっかくやめたと思ったら、また性懲りもなく同じような(というより、中身はほとんど変わってない)新たなメタボテキストを開発したようです。

 

このテキストもまた、見た目だけが良く、使い勝手は極めて悪いテキストです。

入門後の受験生の使い勝手なんて、少しも考えられていません。

 

入門希望者は、見た目の印象に騙されることなく、その1000ページを超えるテキストを、これから実際に使っていく(めくる・探す・見直す・持ち運ぶ・しまう)苦労を、きちんと想像するようにしてください。

 

それにしても、LECは少しも反省していないようです。

 

 

【若干の反逆者たち】

この風潮に抵抗した講師も、若干ですが存在しています。

たとえば、LECの柴田講師と、同じくLECの工藤講師がそうです。

 

彼らは、受験界では珍しく、入門講座でレジュメ型テキストを使用しています。

私はこの姿勢を高く評価したいと思っていますが、受験界の反応はあまりよろしくないようです。

 

「より多い」ほうには文句を言わない受験生ですが、「より少ない」ほうにはすぐにケチをつけます。

そういうものは、いかなる意味でも彼らの不安心理(形式的需要)を慰めてくれないからです。

 

一度「肥大化」の味をしめた受験生たちを、元の実質的需要に戻すのは簡単ではないのです。

 

 

【実質的需要】

 

しかし、現在でも、真剣に合格を考える受験生、意識的に実践的な勉強をしている受験生の多くは、簡素なレジュメ型テキストを欲しがっています。

 

上述のように、サブノート型教材にいまなお大きな需要があるのは、その何よりの証拠です。

 

単に安心する(不安心理を紛らわす)ためではなく、真の意味で実践的な試験対策を行おうとすれば、このような実践性の高い教材が必要になってくるのは当然のことです。

 

今後も、サブノート型テキストへの需要は、4大予備校が受験生の実質的需要を無視すればするほど、ますます伸びていくことになるだろうと思います。

 

ちなみに、何でも書いてある教材は、辞書としては必要です。

しかし、それなら、シケタイ、C-Book、基本書etc…書籍の形でまとまった本があれば十分です。

あんなファイルで何冊組にもなる、嵩張りまくりのメタボ教材を無理に使う必要は全くありません。

 

入門テキストは、そろそろ初心に戻ったほうがいいようです。

受験生が真に使いやすいテキストを目指して、原点回帰を図るべきときです。


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受験生の実質的需要に応えるテキストとは、どのようなものでしょうか。

 

私の信念に基づいていえば、

 

①条文構造に則った逐条型であり、

②文章を書き連ねた基本書型ではなく、端的にポイントをまとめたサブノート型であり、

③短答・論文の過去問が解ける程度の、必要最小限の情報の網羅性があって、

論点の結論と理由が、そのまま答案に書ける実践的な表現で端的に整理されていて、

⑤それでいて極限まで薄い

 

こういうテキストです。

 

これこそが、受験生の真の意味での実質的需要に応えた理想のテキストだと思います。




【追記】


ようやく、私が理想と考える、上記①~⑤をすべて満たした逐条型サブノートが誕生しました。

詳しくはこちら をご覧ください。

 

受験界で上記①~⑤のすべてを満たした教材は、現時点ではこのテキストしかありません

 

~短答六法として~

趣旨・要件・効果などの形式面の整理は、あの完択 よりもはるかに行き届いています。

(完択の要件効果整理は文句なしに素晴らしいですが、そのさらに上をいっています)

特に完択と比べると、いちいち趣旨がきちんと記載されているところが素晴らしいです。

要件効果の整理が恐ろしく貧困な、辰已の条文判例本 などとは比べものになりません。

 

~論文用のサブノートとして~

条文がきちんと載っています。論点以外の制度(←これ大事)もきちんと掲載されています。

(この点が趣旨規範ハンドブック と全く違います)

論証(規範・理由)はシンプルで実践的で、直前期の記憶換気にも最適です。

 

以上ように、短答用としても、論文用としても、どちらからみても申し分のないテキストです。

※せっかくなので注文をつけておくと、このテキストは必ず市販するべきです。)