司法試験に受からないということ | 司法試験情報局(LAW-WAVE)

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司法試験・予備試験・ロースクール入試の情報サイトです。司法試験関係の情報がメインですが、広く勉強方法(方法論)一般についても書いています。※ブログは完全に終了しました。コメントなどは受け付けておりません。ご了承ください。

 注意 

 

司法試験まで半年を切っている方は、今はこの記事は 絶 対 に 読まないでください。

初めて読む方は、試験が終わってから(受かってからor落ちてから)読んでください。

 

なお、これから司法試験の受験を考えている方や、予備校の入門講座受講生予備試験受験生ロースクール受験生、そしてもちろんロースクール生には、むしろ積極的に読んで腹をくくっていただきたいです。

 

 

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以前、ロースクール進学のリスク というエントリーを書きました。

そこで、ロースクール進学の危険性、そして司法試験という試験自体の危険性を語りました。

 

今回は、その後の状況の変化を踏まえた、続編です。

 

最初に、エピソードを2つ書きます。

 

 

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昨年「三振」した友人の話です。

「三振」とは、ロースクールを卒業後、5年内に3回不合格になると受験資格を失う制度のことです。

既に過去の制度となってしまいましたが、ここではそのままの表記にしておきます。

彼とは結構仲が良かったですし、当然、ケータイの電話帳にも、未だに彼のアドレスが残っています。

何度も飲みましたし、食べましたし、普通ならば試験の結果報告があってもいいところです。

 

しかし、彼は連絡をくれませんでした。

私が知る限りのすべての友人に、結果報告をしていないようです。

 

完全に音信不通状態のまま、1年以上が過ぎました。事実上、縁は切れているのでしょう。

誰も、自分から連絡できる人はいません。私も無理です(なんと書けばいいか分かりません)。

 

彼が三振したことは、5年目の三振り目だったことと、合格者名簿に名前がなかったこと、この2つから確かなのですが、それ以上のことは何も分かりません。ブログも受験生の途中で中断したままです。

 

彼はいま、どうしているのでしょうか。

 

K大学の経済学部という世間的には超一流の大学をでて、そのまま就職せずに新旧司法試験にチャレンジし続け、ローに入り、三振し、すでに30歳を超えた彼は、いま何をしているのでしょうか。

 

いくつか可能性を考えてみます。

 

ごく稀に伝え聞くのは、三振のあと、「二打席目に入る人がいるということです。

 

でも、もし彼が「二打席目」に入るくらい司法試験に希望を残しているのだったら、きっと普通に連絡はしてくるはずです。たぶん、二打席目には入っていないのでしょう。

 

司法書士という選択肢もあります。

 

しかし、毎年何千人もの三振者が量産されていく中、司法書士に転進する三振者は毎年のように増え続けているらしく、書士に転向した友人に聞いたところでは、元からの純粋な書士受験生たちがあからさまに嫌悪感を表明するほどに、いまや司法書士試験は三振者の巣窟となりつつあるようです。司法書士試験の難度は、数年前とはもはや同じものではないはずです。「司法試験がだめなら司法書士」という甘いセオリーは、既に過去のものとなっています。

 

行政書士という選択肢もあります。

 

しかし、正確に何割かまでは言えませんが、行政書士試験の合格者のほとんど(8割以上?)は、実際には生活できていないはずです。行政書士は、ほとんど資格を取るための資格になっています。

 

彼は労働法選択だったので、社労士という選択肢もあります。

 

これも行政書士と同様、今のご時世で社労士で独立・開業→家族を養う程度にまで安定した収入を確保するのは、現実的にはかなり難しいと思います。少なくとも簡単でないのは確かです。

 

思い切って就活という手もあります。

 

大変です。なにしろ彼には職歴がありません。果たして、それで仕事は見つかるのでしょうか。

おそらくハローワークに行けば、何らかの仕事は見つかるだろうと思います。

しかしそれは、何の学歴も、取り柄もない、ただのぷー太郎が職探しをする場合の話です。

「K大学の経済学部の出身者」がその仕事をしなければならないのだと考えると、涙が出ます。

 

彼は、今どうしているのでしょうか。。。

 

 

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もう半年以上前のことですが、数年間会っていなかった昔の受験仲間に会う機会がありました。

 

どうしてそんなに昔の知り合いと今さら会うことになったのか、実はいろいろと事情があったのですが、細かい経緯はともかく、数年ぶりに彼と顔を合わせることになりました。

 

彼は三振者ではなく、旧司受験生だった人で、旧司が終わる前に司法試験から足を洗った人です(ちなみに、お金がなくてロースクールへは行けなかったそうです)。

 

W大学の法学部という世間的には超一流の大学をでて、そのまま就職せずに旧司法試験にチャレンジし続け、30歳を超えたあたりで断念したとのことでした。私が会ったときには、もう司法試験をやめて何年にもなっていたようです。

 

彼は、私ともう一人の友人に向かって、何度も何度も、司法試験を受験したことを、

 

「とてもいい経験だった」

 

と語りました。

 

焼き鳥を突きながら、将来は会社を起ち上げたい、と夢を語りました。

同じような夢を持っている仲間と定期的に飲んでいる、とも言っていました。

 

彼は現在、派遣です。

 

土日こそ休んでいるようですが、仕事はかなりキツイとのことです。早く辞めたいとも言っていました。

「いくら貰ってるのか」なんてとても聞けないのに、とっても前向きな彼は、聞かれてもいない収入を、その悲しいほど安い収入を、笑いながら告白しました。

 

帰りに、彼のマンションに立ち寄りました。

 

築30年以上、ワンルーム、家賃6万円のその部屋は、案外きれいに片付いていました。玄関からすぐのところに小さな本棚があって、その一番上には、有名な『7つの習慣』をはじめとする自己啓発系のインチキ本定番書が何冊も並んでいました。『お金持ちになるための○○』みたいなシリーズがいっぱいありました。

 

彼は、W大学の法学部を卒業して、現在30代後半、もうすぐ40です。

もちろん独身です。派遣です。月給○○万円です。少なくとも、結婚は難しいでしょう。

 

彼は、私たちに向かって、何度も何度も、

 

「いま充実している」

 

と言いました。

 

(うそをつけ)(うそをつけ)・・・心の中でそう思わなかったといえば、嘘になります。

もしあなたが、司法試験などやらずに、天下のW大法学部を卒業して、普通に就職して、30代後半になってたら、今どうなってた? あなただって本当はそう想像してるんだよね?

・・・そう思いました。

 

誤解のないように言っておきます。

私は彼を軽蔑しているわけではありません。

 

彼が、司法試験を「とてもいい経験だった」と語るのも、今の生活を「充実している」と語るのも、すべて、彼の中にあるギリギリの、最後の矜持なのです。

 

そんなことくらい、いくら甘ったれの私にだって分かります。切ないほどに分かります。

 

 

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以上です。


これが、司法試験に受からないということ です。

 

 

司法試験は、人生を破壊します。

 

単なるモラトリアムを満喫したいからというだけで、あるいは就職活動が億劫だというだけで、こんな世界に簡単に入ってきてはいけません。

 

法学部は、他の社会科学系学部の中で、際立って就職内定率が低いです。司法試験とか司法書士とか公務員試験とかを言い訳に、モラトリアムに突入してしまえるインセンティブが整備されまくっていることに最大の要因があります。本来はもっと就職率が高くていいはずの法学部が、この有様です。

 

◆法学部は、(文学部とは全然違う意味で)いまや地雷学部と化しています

 

◆ロースクールは、事実上、日本の頭脳優秀な若者(の一部)を、社会的に抹殺するための機関と成り果てています

 

学生さんは、この現実をよく見て、まずはちゃんと就職されるべきです。

もちろん、何らかのリスクヘッジがあるのなら構いませんが、それがないならまずは就職です。

司法試験がやりたければ、司法書士がやりたければ、働きながらやるべきです。

 

予備試験の合格者は、今年いきなり倍増(200人)しました。今後はもっと増えていくかもしれません。この状況変化を踏まえれば、法曹へのおすすめルートは今やはっきりしています。

逃げずに就職をして、働きながら予備試験を受け続ける。

↑これが、今も昔も、一番賢い司法試験の受験の仕方であることは、間違いありません。

 

もし、それで受からなくても、あなたは何も失いません。

↑このことが、どれだけとてつもないメリットであるのか。

ここまでお読みいただいた方には、十分すぎるほどご理解いただけたはずです。

 

きちんとリスク計算のできる、真に優秀な人間ならば、きっとそのように選択するはずです。

司法試験制度の数年の混乱期を経て、ようやくこのことは誰の目にもはっきりしてきたことだと思います。
特に今年の流れは、司法試験制度の主体がロースクールから予備試験に移っていきかねない、と思わせるほどのインパクトがありました。

今後は、ロースクール進学という選択肢が、絶対的なルートとはいえなくなる可能性がでてきました。

 

もちろん、ロースクールが存在する以上、予備試験ルートが本流となることはないでしょう。

それでも、現在の予備試験組の合格者数と合格率は、すでに予備試験ルートが特に大きな不利とは感じさせないほどの値になっていると私には思われます。

 

もし、法務省がロースクールvs予備試験の合格率が拮抗するまで予備試験合格者を増やしたら、ロースクール制度は間違いなく即消滅するはずです。そうなったら3年ももたないでしょう。

もっとも、おそらくロースクールは消滅することなく、大幅に数を減らすことで、(そうやって司法試験の合格率を上げることで)予備試験組の合格率に対抗していくことになるでしょう。

このような制度の混乱期に、人生を破壊されるリスクを負ってまでローに身を預ける選択をするのは、相当に危険な賭けだと思います。

いえ、ローに進学すること自体が、本当は最初から危険な賭けだったのです。しかし、かつてはその危険な賭けに出なければ、原則的に法曹にはなれないと思われていました。

ところが、これからは違うのです。

 

予備試験ルートを選べば、上記の危険は全て回避できます

・予備試験に受からなくても、何も失わない

・司法試験に三振しても、何も失わない

・ローに何百万もの無駄なお布施をしなくて済む

・ローの無駄な講義を受けなくても済む

・予備試験に受かるまで、その人のペースで自由に勉強し続けることができる

・予備試験に受かるまでは、司法試験受験の(5年枠の)カウントは始まらない

・予備試験を利用して、自分の司法試験への適性を見極めることができる


自らの社会的地位を築いたうえで予備試験を受ければ、すなわち、働きながら予備試験を受ければ、上記のメリットは、全て享受することができます。しかも、何も失なうことなくそれが可能なのです。

 

それに対して、ロースクールに進学したり、司法浪人を選択したりすれば、本当にしつこくてすみませんが、ダメだったときの痛手は、それはもう尋常なものではありません。

 

言っておきますが、本当に尋常なものではないのです。

 

悲惨な状況に直面する前に、どうかその現実をしっかりと認識してください。


司法試験は、知識や努力や勉強時間や勉強期間の試験ではなく、センスの試験です

大学在学中の若い学生たちが予備試験に大量に合格している事実からも、それは分かります。

司法試験を受ければ受けるほど合格率が急激に下がっていく事実からも、それは分かります。

もちろん一定の努力は絶対に必要ですが、それは学生が2・3年やれば済む程度の努力です。

それ以上の時間と努力を費やして、それでも合格の見通しが立たないのだとしたら、それはもう時間と努力の問題ではないと考えたほうがいいです。

 

ちなみに、専業受験生の合格率が、有職者受験生のそれよりも高いのは事実です。しかし、これは何よりも、判断資料となっている母集団の質と本気度に大きな違いがあることに最大の要因があります。たとえば日本人のTOEIC受験者のレベルが他国より著しく低いことはよく知られた事実ですが、これと似たような構図です。また、すでに合格可能性の消滅した(センスの欠如が当局によって認定された)大量の超長期受験生たちのほぼ全員が「有職者」にカウントされていることも、有職者受験生合格率の引き下げ要因のひとつになっていると思われます。

このように、専業受験生と有職者受験生とでは、その比較の前提条件自体に大きな違いがあるのです。受験生の環境が合否にどれだけの影響を与えるかは、本当は、その他の諸条件を全て合わせなければ判定できません。もし、専業と有職の条件(=質や本気度、超長期受験生含有率などの条件)を平準化させて改めて両者を比較することができれば、専業と有職の合格率に、現在の形式的統計結果が示すほどの差は生じないだろう・・・というのが私の見立てです。

 

司法試験は、専業受験生にならなければ受からない試験では必ずしもありません。

専業受験生になったところで、残酷ですが、受からない人はどう頑張っても受かりません。

繰り返しますが、それは知識量や環境や勉強時間や努力や根性のせいではありません。

(強いていえば、このブログに書かれているあたりまえのことから目を背けたせいです)

【社会人の方へ】

仕事を辞めて専業に移行するなら、ある程度合格の目処が立ってからにすべきです。

司法試験はセンスの試験であり、人によって明らかな向き不向きがあるからです。

向き不向きがある以上、仕事を辞めるのは自らの適性を確認してからでも遅くありません。

一定の勉強期間を経た後で、「自分はこの試験に向いている」「あと少しで合格できる」という主観・客観両面での確信・確認が得られれば、ラストスパートで専業に移るのは悪くないです。

そういう試用期間を設けずに、合格の見通しが立たないまま闇雲に専業に突っ込んで行くのは、社会人としてあるまじき、後先を考えない極めて愚かな行為だと申し上げておきます。

 

【大学生の方へ】

あなたが本気で司法試験を考えているなら、なるべく早い時期に勉強を始めてください。

在学中に、最低でも2年はかけて、滅茶苦茶勉強してください

その結果、優秀な友人のAさん(←知識&答案作成能力が2年で相当のレベルに到達した人)に比べて自分の能力が著しく劣るなぁと感じたら、その時点で司法試験をやめるのも一案です。

2年間滅茶苦茶勉強して一定のレベルに到達しない人が、そこから3年・5年と勉強を続けても、さして実力は向上しないのが普通です(←これはかなり精度の高い「司法試験あるある」)。

それでもどうしても続けたいというなら、できれば司法浪人ではなく、まずは就活して社会人になってください。その後のルートは、【社会人の方へ】に書いた通りです。

ここまで書かれてきたことを読んで、それでも、ローに行くというなら、司法浪人をするというなら、私から言えるのは↓この一言だけです。

 

それならば、絶対に落ちてはいけません。

 

それは、安全ルートを無視して司法試験をやる人間の、ほとんど絶対的な義務です。雪山登山をする人間の絶対的な義務が、「無事に生きて帰ってくる」というのと同じです。

これだけ危ないことを好き好んでする以上、生還への備えには万全を期さなければなりません。

 

あたりまえのことを、あたりまえにすれば、それは可能です。あたりまえのことをすれば、現在の司法試験なら99%合格できるはずです。その「あたりまえ」とは、別に難しいことではありません。このブログに書いた通りです。すなわち、○○先生の言うことを信じるのではなく、○○という教材や、○○勉強法を信じるのでもなく、あなたが、あなた自身の目で、目的とする試験を見て、必要な対策を立て、それを実行することです。

 

私は、このあたりまえのことをすることを、「過去問主義」と呼んでいます。

これは絶対に正しい方法です(その他の方法は、程度の差はあれすべて間違った方法です)。

このあたりまえのことをするかどうか。あとはあなたの気持ち次第です。

 

そうしなければ、本当に悲惨なことになります。

心から後悔することになります。

 

最も悲惨なことは、「悲惨だ」「後悔している」と言わざるを得ない環境に落ちることではありません。

最も悲惨なことは、「悲惨だ」「後悔している」といった本音を言うことすらできなくなることです。

 

無意味なプライドにこだわって人生を棒に振るほど愚かなことはありません。

 

意味のないこだわりは捨てましょう。

 

やるべきことをやりましょう。

 

 

 

 

 

 

 

【追記】 続・司法試験に受からないということ

このブログでは、今回のような司法試験に受からない話」を今までも何度か書いてきました。

 

たとえば、入門講座は誰にすべきか 【追記】司法試験バトルロワイヤルでは、司法試験を樹海にたとえて、司法試験に受からないことを「樹海で死ぬこと」と表現しました。
 

このように、司法試験に受からないという現実がいかに悲惨であるかについて、しつこく注意喚起してきました。

特に今回は、私の度重なる「おせっかい」に対して、たくさんの方々が(コメント欄を通じて)ほとんど悲鳴に近いほどの不快感を示された一方で、何人かの方々が(そういう方はなぜか全員メッセージを通じて)私の警鐘に賛意を示されました(コメント欄から賛意を示していただいた方も一部おられます)。

不快感を示した方は全員、まだ三振していない、これから三振する受験生たちでした。

「今から死ぬ可能性なんて考えたくない」という現実逃避願望をむき出しにした人たちでした。

「現実は、それが現実であるが故に、見たくないし聞きたくないし考えたくない」という人たちでした。

メッセージから賛意を示された方は全員、司法試験を三振→離脱した元受験生の方々でした。

悲惨な状況の中で、司法試験を今なお後悔し続けている生々しい現実がそこにはありました。

彼らは例外なく、「一人でも多くの受験生にこの事実を知ってほしい」と書いていました。

現実を見ないようにしている人と、現実を経験した人とでは、こうまで言うことが違ってくるのです。

だからたぶん、このブログの警鐘に対しほとんど悲鳴に近い拒絶反応を示した方々も、実際に自分が三振すれば、「あいつの言ってたことは正しかったな」と思ってもらえるのだと思います。

お節介を承知で言いますが、したがって皆さんに与えられた選択は、先に賛成(反省)するか、後で賛成(反省)するか、の二択しかないのです。

 

三振して悲惨な境遇に追い込まれてから賛成(反省)するくらいなら、三振する前に、先回りしてしっかりと賛成(反省)をしておいたほうがいいですよ

私が言いたいのはそれだけです。



















【補足】人生が終わってしまった人へ

 

ここから先は、人生が終わってしまった人だけ読んでください。

人生が終わっていない人には、ここから先は何の関係もない話です。

 

三振組の元受験生の一部に、当ブログのような悲観論を退けて、もっぱら自らの体験を根拠に、撤退組に対して楽観論・精神論を説いている方々がいるようです。三振後の最悪の事態を免れて、再び自らの社会的足場を築くことに成功した幸運な人たちに多いです。


言うまでもなく、そういう幸運は、撤退者にも十分に起こり得ます。

私でも誰でも、特定の撤退者がそうなれば「よかったね」と言ってあげたくなるのは当然です。

そういう幸運を希望する権利が、撤退者にもあることは言うまでもありません。

 

撤退組の全員がそうなることを希望していいし、そうなることを諦める必要もない

そう私も思います。

 

その人の幸運を先回りして否定する権利など誰にもありません。その意味では、絶望の淵にある撤退者に対して、些か無理にでも楽観論を説き、人生を諦めるなと精神論で励ます意義も多少はあるのでしょう。

しかし、私が強調したいのは(こんなことまで言わなければならないのは私だって憂鬱ですが)実際には、全員にそのような幸運が舞い込むわけではないという残酷な現実のほうです。目を背けたって仕方のない真実のほうです。

 

おそらく、上記のような楽観論・精神論を説いている人たちは、撤退者や撤退可能性のある受験生たちを励ますことで、彼らを不安から救済すると同時に、自らの人生をも救済(肯定)したいのだろうと思います。

しかし、私には、このような楽観論に、真の意味での救いがあるようには思えません。

なぜなら、こういう論は、現実に悲惨な人生を生きている人の心には全く届かないからです。

せいぜい、既に樹海を抜け出られた人と、抜け出られるかもしれない人にしか届きません。

つまり、いま現在悲惨な状況に陥っていない人にしか、このような楽観論は届かないのです。

 

完全に希望を絶たれた人にとって、このような楽観論・精神論ほど辛いものはありません。

すでに完全に希望を失ってしまった人に、「まだ希望はある」とか「希望を持て」とか言うことは、彼・彼女らをいたずらに追い詰めることにしかなりません

希望を失い、人生に絶望している人にとって、これほど辛い言葉はありません。

たしかに、樹海を抜け出られた人(幸運な人)と抜け出られるかもしれない人(希望のある人)には、実際に樹海から生還した人たちの楽観論・精神論は、心地よく響くことでしょう。

 

反対に、私が書いているような悲観的な現実論は、彼らには不快に聞こえるでしょう。

それはその通りだろうと思います。

 

私も、「幸運な人」と「希望のある人」が不快な思いをするのは仕方がないと考えて、これまでの記事を書いてきました。全員に伝わるはずはないし、伝わる必要もないと考えてきました。

なぜなら、メッセージを送ることが本当に必要なのは、本当に悲惨な状況にある人たち、本当に希望を失ってしまった人たちだけだからです。

それ以外の人たちは、本当はメッセージなんて必要としていないからです。

樹海から生還できた幸運な撤退者にとって、私の主張は耳障りなものでしかないでしょう。

しかし、それは単に耳障りで不快であるというだけで、逆に、これといった実害があるわけでもないはずです。

そういう幸せな方には、こんな記事は無視していただければいいだけです。

また、樹海から生還する可能性を残した撤退者(含受験生)についても同様です。

あなたの撤退後に幸運が訪れるかどうかは、私の悲観的現実論とは何の関係もありません。


そういう「縁起でもない話」が自分の人生に侵入してくるように思うのは、日本人特有の言霊信仰のせいです。

それは信仰であって現実ではありません。大丈夫です。このブログがあなたの人生に影響することはありません。

ここに書かれているのは、パソコンないしスマホの画面に表示された文字列にすぎません。

 

当然ですが、ここに書かれた文字列が、あなたを正社員にしたり、路上生活者にしたりするわけではありません。

あなたの希望が幸運にも叶うかどうかは、あなたの努力の問題が少々、あとは単に運の問題です。

楽観論を聞かされようが、悲観論を聞かされようが、今のあなたがすべきことは決まっています。

今のあなたにとっては、その「すべきこと」だけが真に必要なことであるはずです。

誰かの楽観論を聞いて安心したり、このブログの悲観論を読んで怒ったりしている場合ではありません。

こんな言葉(文字列)に過ぎないものに過剰反応している暇があったら、いま「すべきこと」をすべきです。

(あと、ちょっと不快なものを見たくらいでギャーギャー悲鳴をあげるのは勘弁してください)
 

このように、私の言葉が、樹海から生還した撤退者や、生還可能性を残した撤退者(含受験生)に対して、何か実害を及ぼしたり、逆に何かの役に立ったりすることは(少なくとも今のところは)ないのです。

私がメッセージを送っているのは、自らの人生の悲惨さを、悲惨だと正面から認めてもらう以外にもはや何の救いもなくなってしまった人たちです。

 

本当に人生が終わってしまった人たちです。

私は彼らにしか関心がありません。





 

最後に。


いつも思うのですが、人間には、何をしたってどうしようもないことがあります。

 

たとえば司法試験で、どんなに「正しい方法をとれ」と言ったところで、とれない人にはとれません。どれだけ事の重大さを理解していても、できる人にはできるし、できない人にはできないのです。

その選択を適切にできない人は、たしかにその限りでは全く愚かとしか言いようがありません。

 

しかし、それがその人の人生を丸ごと全部否定する論拠になるわけではありません

司法試験に合格した人も、本当はそれ以外の人生を選択できなかっただけなのかもしれません。

その程度には不自由であったのかもしれません。そんなことは誰にもわからないのです。

同様に、撤退者が他資格を取って活躍したり、正社員として社会復帰できる可能性についても、そうなる人はなるだろうし、ならない人は絶対にならないとしか言いようがありません。

 

そしてもし非情な運命が、不幸にもある人を「そうならない」ほうに振り分けたのだとしても、ここでもやはり、それがその人の人生を丸ごと全部否定する論拠になるわけではないのです。

皆それぞれに、それ以外の人生を選択できなかっただけかもしれないのです。

 

人間の世界には、幸か不幸か、「幸福」「不幸」という、2つの概念が存在しています。

この2つの概念が存在する以上、それに対応する幸福な人生と不幸な人生が、必ず存在します。

必ず、誰かが幸福になり、必ず、誰かが不幸になるのです。

これはすなわち、誰かがその「不幸」を引き受けなければならないということです。

その「役」が、他ならぬ<この私>に回ってくることは、たしかに不条理です。

それは、まさに不幸そのものです。

 

しかし、その不幸を生きることが、間違いなく、今のあなたに課せられた当面の役割なのです。

そうである以上、やはり、その人生を演じてみせるほかはないのだと私は思います。